希望を胸に
明るい青空のようだと思っていた瞳は冬の空のように凍てついた光を放っていた。何より顔の左上側は斜めに仮面で覆われており、左目は隠されていた。頬には仮面の下に続いているであろう一本の傷跡が見える。
おそらく何かの事故で怪我をしたのだろう。アリーシアはその痛みを想像すると苦しくなる気がして、右手で胸をそっと抑え、こちらでも頭を下げた。
「まだ先ですが、よろしくお願いします」
返事はなかったが頷いたような気配がしたので、アリーシアはほっと息を吐いた。
「ライナーさん。今日はありがとうございました」
「アリーシア。半年後と言わず、いつでも来ていいんだぞ。なんなら今このままでもいい。下宿先も探してやるから」
「いえ。いいえ。そんなことをしたら、ご迷惑がかかりますから」
アリーシアは改めて礼をすると、事務所を出ようとした。
本当はあの家から逃げ出そうということは何度も考えた。だが、保護者のいない若い女の子に、食べていけるだけの仕事がないことは理解していた。
この事務所を頼ればなんとかなるかもしれないという考えも、お守りのように心の中に大切に持っていた。バーノン家は子爵家といえど貴族であり、しかも周りの話を聞くと商売をしてそれなりに力のある家でもあるらしい。義母の性格を考えると、アリーシアがここで働くのを許すはずがなく、もし無理に家を出てここで雇われたとしても、子爵家の力を使って商売に圧力をかけるに違いなかった。
小さい頃のアリーシアを支えてくれた事務所にそんな迷惑をかけるわけにはいかない。あと半年、なんとか半年耐えれば、成人したということで家の圧力をはねのけることができるかもしれないのだ。
「相変わらず気持ちいいほど私には興味がないんだな」
「若、覚えてましたか」
「海の瞳。南の海だ」
アリーシアの後ろで何か言っていたような気がしたが、アリーシアは事務所の扉を開けると、静かに外に滑り出てそっと閉めた。物音を立てないように動く癖がこんなところでも出てしまった。
冬の寒い風にぶるっと身を震わせると、夢中で仕事をして忘れていた背中の痛みを思い出す。それからもらった銀貨がポケットで音をたてないように、ハンカチでしっかりと包んだ。
万が一にでも持っていることがばれたら、取り上げられてしまうのはわかっている。その銀貨一枚がどれほどの価値があるかもわからないほどぜいたくな暮らしをしているのに、アリーシアが何かを持っているということだけで不愉快になる人たちなのだ。
今のアリーシアにあるのは、大事にしている北の国の本と、この銀貨合わせて五枚、そして数枚の着替えだけ。
「よく考えたら、お屋敷に来た時から、銀貨三枚分増えているとも言えるんだわ」
思い返してみると、母が生きていた時も、一見仲のいい家族のようにも見えたかもしれないけれど、もともと父の愛情などなかったのだ。
夕方近くに帰りそっと屋敷の裏口から入ろうとしたが、誰にも何も言われなかったのは、義母と義姉はどこかに出かけていたかららしい。先に16歳になろうとしている義姉は社交界へのデビューが控えており、その準備に余念がないのが救いだった。
そのおかげで夕食にもありつくことができ、アリーシアにとっては背中の痛みの他はとてもよい一日になった。
「あの人たちが早く社交で忙しくなればいいのに」
働くのは嫌いではない。母親のために働きに出るもっと前には、ソファで母に身を寄せて大好きな本を読みふけった、そんな日々もあった。だが母がいなくなった今、そんな夢をみるくらいなら、体を動かしていたほうがましなのだから。
社交界のデビューを控え、義姉も義母もアリーシアの願い通り忙しくなっていった。
だがそれに合わせてアリーシアはもっと忙しくなった。
「私の侍女として付いてくるなら、侍女としての仕事も覚えてもらわないと困るわ」
オリバーのところに嫁ぐ時に連れていくという話なら、義姉のジェニファー自身があんなに嫌がっていたはずではないか。何とか理由をつけて、この家に置いて行かれるものだと思っていた、いや願っていたアリーシアは戸惑ってしまった。何より一緒に過ごす時間が増えるのは、アリーシアにとってもジェニファーにとっても不愉快なことだというのに。
だがその理由はすぐに分かった。
「いたっ」
ジェニファーの扇がアリーシアの腕に振り下ろされる。
「痛いのはこちらだわ。なんなの、そのブラシの通し方は。わざわざ練習台になってあげているのに、いつまでたっても上達しないのね」
「申しわけありません」
アリーシアの腕はあざだらけになった。
なんのことはない。屋敷の中をアリーシアを探さなくて済むように、自分のそばに置いておきたいというそれだけのことだった。もちろん、侍女としての研修のためなどではない。難癖をつけていびるための相手がほしいだけなのだ。ことオリバーのことになると、ジェニファーはハリエットよりしつこいから嫌になる。
ジェニファーの侍女はアリーシアの他に二人いる。
「まったく、できが悪いわ。そうは思わない?」
主人にそう言われたらその二人の侍女も追従するしかない。とはいえ、ジェニファーと一緒になって喜々として意地悪する様子を見ている限り、いやいや従っているとは思えなかったから、類は友を呼ぶというのは本当だなと思うアリーシアである。
今まで水仕事が多かったアリーシアにとっては、侍女の仕事そのものはそう大変なものではない。一番大変なのは髪を結ったり、服を選ぶ手伝いをしたりなど、今まで経験のなかったことをすることだ。しかし、他の侍女は教えてくれようとはしない。見よう見まねでやると失敗する。失敗するとここぞとばかりに責められる。
時折振り下ろされる扇の痛み以外、体はいくらか楽になったはずなのに、意味もなく嫌われ責められる毎日はアリーシアの心をすり減らしていった。
七日に一度もらえていたはずのお休みも、ジェニファーの都合でないものにされる。お休みになったら行けるかもしれないと思っていた飛竜便の事務所には、あれから一度も顔を出せたことがなかった。
父親はといえば相変わらず家のことには興味がないうえに忙しく、母が生きていた時のように、いや、生きていた時よりももっと頻繁に商売で家をあけがちだ。
アリーシアが父親を見かけることはめったにないが、たまに見かけるときはいつも厳しい顔をしているように思う。
「ハリーの太陽のように暖かい笑顔が好きよ」
お母様がよく言っていた言葉は、アリーシアがこの屋敷で見かける、皮肉な口元をした険しい男にはふさわしいとは思えない。もっとも形だけは家族のように暮らしていた時でさえ、ハロルドを横からしか見たことのなかったアリーシアは、その暖かさを実感したことはない。アリーシアにとってはただ母親だけが太陽だった。




