ただ一つの温かい場所
「やっぱりアリーシアだ。三年ぶりか? 大きく、なってはいないな」
笑おうとしたライナーは親しげにぽんと背を叩こうとしたが、アリーシアが身をすくめるのを見てその手を止めた。そして三年前と同じように小さい服から伸びている細い手に目をやり眉をひそめたが、穏やかな笑みを浮かべると建物のほうに顎をしゃくった。
「せっかく来たんだ。事務所に寄って行かないか」
ライナーはかすかに頷くアリーシアの一歩先を、まるで目を離したらいなくなるかのように何度も振り返りながら建物まで歩いてくれた。アリーシアは思わず口元に笑みを浮かべようとして、ぎこちなく口がゆがむのを感じた。もうどれくらい笑っていないだろう。顔も笑い方を忘れてしまったかのようだった。
「おーい、温かい茶をくれ。砂糖も入れてな」
建物の中はテーブルが並び、人が何人もいて、忙しそうに書類を作ったりその書類を持ってどこかに行ったりと賑やかなことこの上ない。アリーシアが示された椅子に、背中を当てないようにそっと座ると、すぐに湯気の立つ温かいお茶が運ばれてきた。
暖かいお茶など飲むのはいつぶりだろうか。そっと抱えたカップは熱く、一口すすったお茶は甘くて苦かった。
「ごめんな、おいしいお茶を入れられる奴がいなくて」
「ライナーさん、せっかく茶を入れたのにひどいっすよ」
お茶を持ってきてくれた青年が文句を言う。
「さっそくだがアリーシア。少し時間はあるかい」
「はい。お昼くらいまでなら」
何時に帰ってもどこに行ってきたかうるさく聞かれるのだから、屋敷に帰るのは夕方でもいいだろう。
「悪いんだが、これ」
出された紙には細かい文字がぎっしり書かれていた。
「アルトロフからの手紙、ですか」
「いちおう人手はあるんだが、毎日いてくれるわけじゃないんでな」
「でも私」
もう二年、勉強などしていない。自信がないアリーシアだったが、ちらりと目をやった手紙は、まったく問題なく読めた。毎日、母からもらった本を読んでいるからだろうか。
字が書けるアリーシアは使用人の間でも重宝されていた。代筆や代読などもこの時ばかりは都合よく頼んでくるので、セイクリッドの言葉も書けることは書けるはずだ。
「やり、ます」
暖かい場所とおいしいお茶のお礼に。アリーシアは、楽しい翻訳に時間を忘れ、気が付いたら昼近くになっていた。昼休憩で席を立つ人たちに気づき、アリーシアも席を立った。
「できました。あの、それともう帰ります」
「待ってくれ」
ライナーは翻訳された紙を取り上げると、さっと目を通した。
「きれいな字になったな。文法も正確だ。中身も問題ない。よし」
ライナーはポケットから銀貨を三枚出すとアリーシアに手渡した。アリーシアは両手で大事に受け取った。あの時以来、初めての自分のお金だ。ライナーは世間話でもするようにアリーシアに話しかけた。
「アリーシア。なんか用事があって来たんだろ」
言いたいことがあるとなぜわかったのか不思議だったが、アリーシアはありがたいと思う。
「あの。私あと半年で」
あと半年で16歳になる。そしたら保護者の許可がなくても働けるようになる。
「いいぜ」
続きを言う前に、ライナーが間髪入れずに返事をした。
「席は用意しといてやる。アルトロフ語ができる奴なんてめったにいない。何人いてもありがたいんだよ。アルトロフ語どころか、自分の国の言葉だってたいして書けない奴ばっかりなんだぞ」
「とばっちりがきたよ」
残っていた社員が笑って肩をすくめる。ライナーが真剣な顔になった。
「今すぐは無理なんだな」
「奥様の許可が、出ないと思うんです」
アリーシアはまたうつむいた。許可が出ないどころか、アリーシアにやりたいことがあると知ったら全力で邪魔をするだろう。絶対に話せなかった。
「奥様。なるほどな」
ライナーは目をすがめた。
「給料は、その、こっちよりいいのか」
「給料はもらってないんです。住む場所をもらって、食べさせてもらってるので」
「ほんとに食べさせてもらってるのか」
「……はい」
だいたいは食べられている。時々抜かれるだけだ。
「親の許可がなくても働けるようになったら、私きっとここに来ますから、だからその時はここで働かせてください!」
アリーシアは頭を下げた。席は用意してやると言われたけれど、自分の言葉でちゃんと頼まなければ気が済まなかった。
「ああ。待ってるから。待ってるし、それまでだって暇なときはいつでも手伝いにこい。三年前みたいにな」
「はい」
アリーシアは涙ぐんで顔が上げられなかった。
「急に来なくなって心配したんだぞ」
「はい」
「家を探したが、父親の元に引き取られたって聞いた。その通りなんだな」
アリーシアは今度は黙って頷いた。自分がいなくなっても心配してくれる人が、たった一人だけでもいたことが嬉しかった。
「よし。逃した魚は戻って来た! これでシングレア商会は安泰だな」
「女の子を魚扱いはひどいですよ」
魚と言われたことがなんだか嬉しくて、アリーシアは思わずニコッと微笑んだ。魚扱いするなと言った青年がそのアリーシアを見て思わず口ごもった。
「その、あんた。きれいな目だな」
何を言っているんだとバンバン背中を叩かれている青年を見て、アリーシアは久しぶりにクスクスと笑った。
その時ドアが静かに開いて、つかつか歩く足音と共に一瞬部屋が静かになった。そしてすぐに挨拶の声が飛び交う。その足音はアリーシアとライナーのところで止まった。
「楽しそうだな」
「若。ええ、新人が来てましてね」
若というのは、たしかあの日竜に乗っていた人だ。ということは竜はまた近くにいるのだろうか。アリーシアはそわそわし、竜がいないかと思わず背伸びをして窓の外を覗こうとした。
「竜は竜舎に置いてきた」
では外にはいないのか。アリーシアはその声にがっかりして伸ばしていた背を元に戻した。そして、何かを楽しみにしたり何かにがっかりしたのが久しぶりだということに気がついて、少し切ない気持ちになった。
「若。前に話してた、アルトロフ語のできる子です。見つけましたよ! 半年後に入ってくれる予定です」
アリーシアはライナーの突然の紹介に焦って若と呼ばれた人のほうを向いた。確か空のような瞳をした人だったなと思い出しながら。
そして一礼して顔を上げると、思わず目を見開いた。




