なにもかもなくした日
カリカリという生真面目なペンの音が事務所の中に響く。
「冬の初めの雪嵐が吹きすさぶ中でも、皆様が暖炉の前で温かい香草茶を楽しめますように、と。できた!」
アリーシアは、12歳の少女には少しばかり高すぎる大人用のテーブルの上に、使っていたペンをことりと置き、足をぶらぶらさせながら奥のドアの向こうに大きな声で呼びかけた。
「ライナーさん! 終わりました!」
「終わったか! ありがたい」
奥のドアから事務員らしき格好の男が急いで出てくると、アリーシアの書いた紙を取り上げた。茶色の髪と、髪より少し明るい茶色の瞳のライナーはおそらく20代だと思うのだが、よほど優秀らしくまだ若いのにこの事務所の所長を任されている。
「なになに、こちらでは秋の終わりに鮮やかに色づいた木の葉も落ち? あー、もう、なんでこの国はこう説明が長いんだよ……」
二枚にわたる紙は、アリーシアが翻訳したアルトロフという国からの注文書だ。ライナーはざっと紙に目を通すと、テーブルに静かに紙を置いてうなだれた。
「で、結局これ、こんなに長くても11月いっぱいまでにオレンジを二箱分の注文ってだけなんだよな? 今、11月の半ばなんだけど」
「そうみたいです」
アリーシアはクスリと笑った。その注文の他はすべて時候の挨拶で、簡素を旨とするこの国の習慣とは相性が悪い。しかも、馬車で二か月かかるアルトロフとは言葉も文字も大きく異なる。そこで、まだ幼いながらも母親がアルトロフ出身で翻訳ができるアリーシアが重宝されているというわけである。
「そりゃあ確かに飛竜便の出番だよなあ」
馬車では二カ月かかるが、飛竜なら二日で到着する。11月半ばの今なら、定期の飛竜便を使えば月末には余裕で間に合うというわけだ。もっとも運賃は非常に高価である。
ここは、その竜を使った飛竜便の事務所なのだ。外ではタイミングよく悲鳴が上がり、ばっさばっさと風を煽る音とともに、ドシンという着地音がした。アリーシアは目をきらめかせた。
「もしかして、竜?」
「楽しみなのか? 竜は怖いってのがたいていの女の子なんだがな。近くには寄るなよ。ほら、今日のお駄賃」
ライナーはアリーシアの手のひらに銀貨を二枚置いた。
「お母さんの具合はどうだい?」
「あんまりよくないの。とにかくご飯を食べてくれなくて」
アリーシアの顔が曇る。
母子二人暮らしのアリーシアの家は、少し変わっている。父はたまにしか顔を出さない。もとはと言えば、アルトロフに商売に来た父と出会った母が恋に落ちたが家族に反対され、駆け落ちをしてきたということらしい。
「それは嵐のような恋だったの」
母のセシリアは今でも夢見るように話すが、アリーシアには恋というものはよくわからなかった。町のはずれの庭付きの一軒家に住み込みのばあやが一人。一カ月に一度ほどしか来ない父を待って暮らす母は、寂しそうではあったが確かにいつも幸せそうにしていた。
アリーシアから見てもあまり得意ではなさそうな家事をそれでも楽しそうにこなし、たまに来る父に手料理を振る舞っては父と微笑み合う母は、父ととても仲がよさそうだった。
だが商売をしているらしい父は、長い行商にも出る。そんな時には三カ月から半年も帰ってこないこともよくあった。だが今回ばかりは不在が長すぎた。
今から二年前のことだ。
「セシリア。今度の旅は長くて、一年ほどかかる。この旅が終わったら、もう少し一緒にいられるようになると思うから、待っていてくれるか」
そう言った父は、涙を浮かべる母の緑の瞳を覗き込み、その金の髪に愛しそうに触れた。黒や茶色の髪が多いこの国では、母のような淡い金髪や緑の瞳はとても珍しい。父もこの国の人らしく、まっすぐな黒髪に青い瞳だ。アリーシアはおさげにした自分の髪を眺めた。父に似たまっすぐな黒髪は、三つ編みにしてもすぐにさらさらとほどけてしまう。母のような明るい色の柔らかい髪がよかったのにと口をとがらせそうになるが、我慢する。
アリーシアの黒髪は、父にそっくりだからと母がとても大切にしているのだから。
「アリーシアと一緒にちゃんと待っているから、体を大事にね」
「ああ。アリーシアも、お母様を大切に守っておくれ」
アリーシアは大きく頷いた。おっとりとした母は娘から見ても心配で、言われなくても守るつもりだった。
だが、一年を過ぎたころ、生活費が届かなくなった。いくらばあやが親切でも、給料がなくては暮らしてはいけない。それから三か月、ばあやは引退し、息子のところに去っていった。
そこからはどう生活していいかわからない母のために、アリーシアが頑張らざるをえなかった。もともと母は、滅多に家を出ない。そして年をとったばあやの代わりに、アリーシアが買い物にも出ていたのだ。
まず、小さな家で売れるものは何でも売った。
セシリアが大切にとってあったアリーシアの小さい頃の洋服も、古着屋に持っていけばそれなりの値段で売れた。子どもだからと買い叩かれた時もあったが、信頼できる店を見つけてからは少しは高く売れた。
だが、それでしのげるのはほんのわずかな時間だ。
一年と半年たって、戻ってこない父を心配する母は元気がなくなり、寝込むことも多くなった。寒い北にあるアルトロフの国で育った母には、特に暑かったこのセイクタッドの夏はかなりこたえたらしい。
アリーシアがなんとか工面したお金で医者を呼んでも、病気ではなく衰弱しているだけなので、とにかく栄養のあるものを食べさせろというばかり。
しかし、運はアリーシアを見捨ててはいなかった。売るものもなくなった頃、仕事を求めて町をさまよっていた時に見つけたのが翻訳の仕事である。
風に吹かれて飛んできた紙を思わずつかむと、そこには、母に教わっていたアルトロフの言葉が書いてあった。
「日持ちするブドウを箱に半分」
思わず読み上げたアリーシアの肩をがつっとつかんだのが、飛竜便の事務所のライナーだったのだ。
「お前、その手紙、読めるのか?」
短い髪をぼさぼさにした背の高い青年に驚きながらもこくりと頷いたアリーシアは、その日数通の手紙を翻訳し、一通につき銀貨を二枚もらうことができた。銀貨一枚で、節約すれば二人で三日はしのげる。母に果物も買って帰れる。
駄賃をもらって嬉しそうなアリーシアを上から下までじっと観察していたライナーは、しゃがみこんでアリーシアの目を覗き込んだ。アリーシアの二年近く買い変えていない服は、袖も丈も短い割に、やせたせいでぶかぶかしており、母の代わりに家事をしている手はガサガサだ。
「手紙はいつもあるとは限らないが、雑用はいつでもある。手紙の翻訳以外は駄賃はたくさんは出せないが、この事務所に来たら手伝いに雇ってやるから、いつでもこい」
「ありがとうございます」
それから半年。飛竜便の事務所で働きながらも本物の竜を見たことがなかったアリーシアに、初めて竜を見る機会が訪れたのだ。
ライナーについて事務所の外に出たアリーシアの目の前には、大きな竜がでんと座り込んでおり、その背中からひらりと誰かが飛び降りるのが見えた。
「竜だ!」
感動で思わず両手を広げたアリーシアの手から、銀貨がちゃりんと落ちた。
「わわ、大変!」
慌ててお金を拾ったアリーシアの耳に明るい笑い声が響いた。
「まず竜で、次にお金か。私はこれでも結構女の子には人気なんだけど、自信がなくなってしまうな」
その声のほうを向くと、竜から下りたらしい男の人が腕を組んで立っていた。成人したかしないかくらいの若い人だ。
にこりと笑みを浮かべているその青年は、柔らかな薄茶の髪を短く整え、細身ながらも長身でたくましい。生き生きと力があふれてくるような青い目をしていた。その人の後ろに目をやると、確かにいつの間にか、竜を遠巻きにしつつも町のお姉さんたちが集まっている。
「若。馬鹿なこと言ってないで、さっさと荷下ろししてくださいよ。その子は大きくなったらうちの事務所に勤めるんですから、からかわないでください」
「へえ、優秀なんだね」
若、とはつまり、ライナーの主筋にあたる人ということなのだろう。今ライナーは、上の立場の人の前で、アリーシアにずっと働きに来ていいよと言ってくれたのだ。アリーシアはその親切をありがたく思いながら、ぺこりと頭を下げた。
若と呼ばれた人はつかつかと歩いてくると、アリーシアの前で足を止めた。それから胸ポケットをごそごそすると、何かをつかみだした。
「手を出してごらん」
アリーシアは何も考えず銀貨を握ったほうの手を差しだした。
「はい。竜を怖がらなかったご褒美だよ」
「わあ」
それは色とりどりの包み紙に包まれた飴だった。銀貨の上にそっと重ねて置かれた飴に満面の笑みで顔を上げたアリーシアと目を合わせたその人は、驚いたように目を見開いた。
だがアリーシアも驚いた。
「お空の目?」
青いと思った目は、少し淡くて、晴れた日の空の色をしていた。あまり見たことのない色だ。
「空? そんな風に言われたのは初めてだ」
その人はくしゃりと笑顔を見せた。
「俺の目が空の色なら、君の目は、南の海の色だね」
「南の、海?」
海は青だろうと首を傾げたアリーシアにその人は続けた。
「ああ。白い砂浜に映える、それは鮮やかな海の緑。きれいだね」
アリーシアはぽかんと口を開けた。きれいなんて言われたのは初めてだ。
「ブッフン」
「きゃあ!」
突然少し生臭い風が吹きつけられたかと思うと、いつの間にか竜が近づいてきていて、アリーシアに鼻息を吹きかけたところだった。そしてアリーシアのお腹に大きな頭を押し付けた。
きゃーっという恐怖の悲鳴が遠巻きにしていた女の子から上がったが、アリーシアは嬉しくてたまらなかった。なでてもいいだろうかと、飴を握っていないほうの手を宙にさ迷わせる。
「珍しいな。竜が竜使以外に懐くなんて」
ライナーの声に、驚いて止まっていた若と呼ばれた青年がおかしそうに笑いだした。
「ははは! 確かに珍しいね。でもその飴、こいつの好物なんだよ。さ、竜にとられないうちにおかえり」
「はい! ありがとう。さようなら!」
アリーシアはまたぺこりと頭を下げると、銀貨と飴を握りしめて駆け出した。
「お母様は甘いものが好きだもの、この飴なら食べてくれるかもしれない」
そうしたら少しは元気になってくれるかな。
だが、アリーシアが希望を持って笑みを浮かべられたのは、この日が最後だった。
アリーシアが家の前まで走ってくると、そこには見覚えのない馬車が停まっていた。
「誰だろう」
なんにせよ、家には母しかいない。アリーシアが門から見るとドアは開きっぱなしだ。急いで家に入ると、母の部屋に急ぐ。
「セシリア! 元気を出すんだ!」
久しぶりに聞いてもすぐに思い出せた。この声はお父様だ。アリーシアはやはり開けっ放しの母の部屋に入った。記憶にあるのと同じままの父が、母のベッドの横にひざまずいている。
「ハリー、最後に顔を見られてよかった」
母は何を言っているのだろう。ふと横を見ると、いつも来てもらっているお医者様が部屋の隅に立っていた。アリーシアと目が合うと、かすかに首を横に振った。
「アリーシアを頼むわね」
その言葉を最後に、父の手に握られていた母の手がぱたりと落ちた。動けない父の代わりに、医者は母を見て何かを確認すると、もう一度首を横に振る。
「お亡くなりになりました」
「うわー!」
父が泣き叫んでいたが、アリーシアの耳には入ってこなかった。亡くなったってなんだ。今朝だって少しお水を飲んだし、これからもらってきた飴を一緒に食べるのだ。それから、それから。
「あ、あ。お母様」
母に伸ばした手は、強い力で払いのけられた。
勢い余って尻餅をついたアリーシアの手から、ちゃりんと音を立てて銀貨が飛び、色とりどりの飴は部屋のあちこちに飛び散った。
「お前は! セシリアが苦しんでいた時! なんでそばにいなかった!」
父が何かを言っていたが、アリーシアの耳を滑りぬけていった。とにかく飴を拾わなければ。
「飴を。お母様に」
「セシリアは、もうどんな食べ物も、口に入れることはできないんだ」
飴を拾った手は、また父に叩かれる。せっかく拾った飴はまた部屋に飛び散った。
「こんなものを買いに出ていたのか。こんな贅沢な外国の飴を買う金があったのなら、なんでセシリアに食事をとらせなかった! こんなもの!」
グシャリと。
父は部屋に散らばった飴を踏みつけた。
グシャリ、グシャリ。
「バーノンさん! やめなさい!」
医者が父を止めるが、父は止まらない。
「アリーシアが! 自分で稼いでセシリアさんを食べさせていたんですよ! あなたがいない間、贅沢なんてこれぽっちもせずに!」
「うわー! セシリア!」
この飴を食べさせたかった人はもういない。アリーシアは呆然と床から顔を上げた。
そこには、よく知っていたはずの父が医者に羽交い締めにされて暴れていた。まるで知らない人のようだった。
この日おそらく。
アリーシアは、母親だけでなく、父親をも失ったのだった。
コミカライズの原作として書いたお話ですが、掲載先の許可を得て、「小説家になろうに」連載させてもらえることになりました。
5月中は毎日更新の予定です。
筆者の別作品である『転生幼女はあきらめない』も連載再開しております。
詳しくは活動報告をごらんください。