幕間 地上人・鷹司鶴兎の独白
「地球の悪魔があんたを丈夫にしてくれたのよ」
私は幼い頃から、母にそう言い聞かされてたわ。
「あんたは生まれつき体が虚弱でね、お医者さんにも、この子はすぐ死ぬだろうって言われたわ。だけど、自分の血の繋がった子を失うわけにはいかないじゃない。だからね、地球の悪魔と契約したのよ。……大切なものを代償にして、ね……」
「カーチャンうるさいよ! 私もう小学5年生なんだから、神とか悪魔とか信じないって!」
「でも、願いが効きすぎたみたいだわ。だって、あんた、とっても……」
いっそのこと、はっきり言えばいいじゃないの。
ムッキムキでバッキバキでゴッリゴリって言いたいんでしょ!?
事実だけどさ。
子供の頃はこの肉体が嫌で嫌で堪んなかったわぁ。
からかわれるし、モテないし、友達すらできなかったわよ。
私、小さい頃は物静かだった。
* * *
もう一つコンプレックスがあったの。
母の容姿が異常に老けてること。
「あの人、鶴兎ちゃんのおばあちゃん?」
授業参観の日には必ずこれを言われるの。
母は40代。
だけど肌年齢は80代で、髪は真っ白、杖がなきゃ歩けない。
確かに、これじゃおばあちゃんだわ。
元の顔立ちがいいから、美しくはあるんだけど。
本人曰く、
「若さを代償に、子供を丈夫にするって契約だったのよ」
まさか。
* * *
オカルト趣味。
老けた外見。
そして、バツイチ。
母は夫に捨てられた女。
ろくでもない親よね。
でも憎めない。
女手ひとつで家事と育児をこなし、いつでもどこでも困ってる人を見かけたら手を差し伸べる人だった。
私は母のようになりたかった。
* * *
放課後はひとりぼっち。
家に帰っても一人。
お絵描きは飽きた。
たまには散歩でもしよう。
拾った枝を剣に見立てて、知らない道を冒険して、住宅地から田畑の広がる場所に出て、ああ、空はこんなに大きかったんだと感動した。
踏切を待つ。
電車に乗るのは私には贅沢だから、ちょっと眺めるだけ。
もしこの電車に乗ることができたなら、私はどんなに自由だろう。
「てめぇなんか生まれて来なきゃよかったんだ!!」
大人の男の人に、私より小さな子供が蹴飛ばされた。
子供は線路を転がる。
私は怖くなって逃げた。
* * *
母は他人を助ける。
でも、他人は母を助けない。
ご近所さんにも親戚にも疎んじられ、蔑まされ、経済的な援助も精神的な支えもありゃしない。
それでも、母はいつも笑顔でこう言うの。
「生きてれば、必ず報われるわ。だって、ほら、私にはこーんな可愛い子が生まれてくれたんだもの」
それは大人の理屈ね。
わたしは子供だった。
私は何にも悪いことをしちゃいない。
ただ生まれてきただけなのに、ただ体がムッキムキでバッキバキでゴッリゴリなだけなのに、世間様からの罵倒に耐えなきゃいけない。
大体、母が報われてるようには見えないわ。
「こんな人生なら、いっそ……」
* * *
たまには、わがままを言ってもいいわよね?
「音楽教室に通いたい!」
「あんたが音楽ぅ?」
「クラスの子がね、そこの教室に通ってて、アコーディオンとか、チェロとか、エレクトーンとか、龍笛とか、珍しい楽器を習えるって楽しそうにお話ししてるんだよ」
「う~ん……」
家計が苦しいのは百も承知だけど、一歩も引くつもりはなかったわ。
別に音楽なんて興味なかったの。
ただ、母に対する憂さ晴らしというか、何というか、ちょっとカッコつけた言い方をすると、愛情を確かめたいって狙いがあったのね。
「しょうがないわねぇ。ま、あんたにも体力以外の長所があった方がいいでしょうし」
善は急げと、早速、次の日に見学に行くこととなった。
老いた母と並んで歩くのは恥ずかしかったから、少し離れて歩いて、杖をつきよたよた歩く母を時々叱って、速く速くと急かした。
到着したのは、レッスンが始まる直前の時間帯だった。
もう皆とっくに教室の中に入ってるんだろうな。
外にはもう人気がないもの。
と、そこへ一人の女の子が駆けてくる。
脇目もふらず、教室めがけて、道路を横断……。
「あっ」
ちょうど車が……。
体力ありあまるムキムキの私でさえ、突然のことに体が動かない。
いや、動いたとして、間に合ったかどうか。
まして、体力ザコのヒョロガリ母ではなおさら……
「っらぁ!!!!!!」
急に怒声をあげた母。
「何!?」
「っっっおぉい!!!!」
杖を放り投げる。
「狂ったの!?」
「っっっのぉぉお!!!」
消えた。
どこに……えっ!?
一瞬にして、母は音楽教室の前に移動してた。
腕の中には、轢かれそうになってた子供。
「なっ……なんで? どうして、そうなったの? カーチャン、よぼよぼなのに! もしかして……それが地球の悪魔の力なの……?」
停止もせず走り去る自動車。
呆然とする子供。
不敵な笑みを浮かべる母。
そして、教室の中から現れた大人……おそらく先生だわ。
「不協和音が響いてましたけど、一体どんなひどいコンサートが……」
「先生、助けてぇ!!!」
母に解放された少女がギャン泣きする。
「こいつに殺されそうになったぁ!!!」
はぁ!!?
「この平和な地域でそんな物騒なことの起こるはず……あっ!!」
「どうも、齊藤と申します」
「一夜にして老人になったって噂の……」
「こちらは娘の鶴兎です」
「生後数日で筋肉の塊になったって噂の……」
有名すぎる母子家庭だった。
先生は泣きじゃくる子供を庇うようにして、
「帰ってください! うちの生徒に近づかないでください! さあ早く!」
「……あのね、先生、うちの子がこちらで音楽を習いたいと言っておりましt━━」
「何か悪いものが感染でもしたら困りますから! お断りします!」
「……」
人を見る目じゃない。
音楽教室の先生は、汚い物を見るような目で、私達を睨んでる。
「鶴兎、帰ろっか」
しわしわの手が、私のごつごつした手を包んだ。
帰宅途中、母はねだってもいないアイスを買ってくれた。
公園のベンチに並んで座ると、母は俯いたまま、
「ごめんね、音楽を習わせてあげられなくって」
ヤバかった。
涙が溢れそうだった。
泣くのは負けって気がするから泣きたくない。
私達、間違ったことなんてしてないし、むしろカーチャンは正しいことをしたんだし、だから負けてなんかないもん。
カーチャン、謝らないでよ。
「あのね、この世に神様なんていないの」
「……は?」
「でも、悪魔は存在するのよ。地球の悪魔が私達に力をくれる」
「……てよ……」
「この体、この血、このs━━」
「やめてよ!!!!!」
心の壁が決壊して、感情が溢れ出てきた。
「神様とか悪魔とか、ほんっっっっとにうんざり!! どうしてカーチャンは普通にできないの!? 見た目もおかしいし、言ってることも無茶苦茶だよ!!!」
「鶴兎、聞いて。最期にこれだけは━━」
「嫌!!! 無理!!!! 私、カーチャンが老けてるの恥ずかしいの!!!! こんなムッキムキのバッキバキのゴッリゴリの体に生まれてきたのも恥ずかしいの!!!!」
「……あのね、」
「こんなことなら、私、生まれてきたくなかった!!!!!」
心臓が苦しい。
上手く呼吸ができない。
ああ、私はとんでもないことを言ってしまった。
母のこんな悲しそうな顔、初めて見る。
どんなに辛い時でも、それを見せまいと強がる人だったのに。
「……っ!!」
いたたまれなくて、全力疾走。
今だけはありがとう、私の筋肉。
あなたのおかげで、現実から目を背けることができる。
* * *
母が帰宅することはなかった。
母は、私が離れてすぐに、心不全で死亡した。
警察は原因不明と説明したけど、私には、悪魔に力の代償を請求された結果じゃないかって気がしてならなかったわ。
物言わぬ親を抱き締めた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
どうして優しくできなかったのかしら。
母が苦労してる姿を一番近くで見てきたのに。
たくさんある思い出のうち、脳裏に甦るのは、まだ赤ん坊だった頃に母から抱き締められてる記憶。
まだ若くて髪が黒々としてた母は、私に願いを込めた。
「命を思いやる子供に育てますから、どうかこの子に丈夫な体をお与えください」
私は戦わなければならない。
この世に生を受け、強靭な肉体を享受するものとして、務めを果たさなければならない。
命は何よりも尊いのだから。
* * *
「よぉく覚えておきなさい。地球の悪魔との契約方法はね、まず、心臓を逆さまにするの。次に、なるべく具体的に願い事をするの。そうすれば悪魔が願いを叶えてくれるわ。……大切な物と引き換えに」