その九
九
天美はペースをだいぶ落として走っていた。そして、腕時計を見つめながら、
〈だいたい、この辺がギリギリかな。少し落としすぎたかな〉
と思いながら走っていたとき、
「かおりちゃーん」
と人の名前を呼ぶ声が耳に入った。ギャラリーの一人の声だ。その声援の対象者は、今、名前を呼ばれたかおりという選手である。
かおりは、天美の少し前を、苦しそうな表情をして走っていた。呼吸もあらくなり、限界近くの状態であった。そのかおりへの声援者は、大声で続けた。
「もう無理よ。今日はリタイヤよ!」
声を掛けられたかおりは、ふらふらであった。限界という状況か、よくある話だが、走行中にコンディション不良が起きたのだ。
今までは順調に走っていたのだが、ここにきてペースがガタンと落ちてしまった。こうなったからには、すぐにでも棄権をしないといけない状況である。だが、彼女は、
「あと少しだけ、せめて、ここのゲートまで」
か細い声で、つぶやいていた。
残り七百メートルぐらいか、普段の、かおりなら、三分あれば余裕で走れる距離なのだが、この状況では難しかった。
その状況を察した天美は、横に並ぶと、目と手ぶりで合図をした。〈付き合うから、一緒にゲートまで行こう〉と、
心強い仲間が増えたと感じたのか、かおりの顔に、かすかながら精気が戻った。
競羅はイライラしていた。ゲートでは係員が閉じる一歩手前だ。
その彼女の持っている携帯に振動が走った。取ると相手は数弥であった。いてもたってもおられなくなって様子を見に行ったのだ。
「今、天ちゃんの姿が見えました。どうも、女性と併走をしているみたいす」
「どのあたりなんだ?」
競羅は受話器に向かってそう言った。
「四百五十メートルぐらい前すか。すぐ横に、そのコーチらしき女性者もいます」
競羅は思わず、ゲートに取り付けられている時計を見た。二十八分五十二秒。
「けどね、あと、一分ちょいだよ」
「かもしれませんが、希望は充分あります」
「希望って、あんた、無茶を言うのじゃないよ。一分ちょいで四百五十メートル走りきるなんて、男子が全速力で、できるかどうかだよ」
「ですが、このペースで行けば僕は大丈夫だと思うんすよ」
「だから、もう何を言っているんだよ。途中で全速力に切り替えることなんて無理なの。そういうのはスタートから走らないと」
「とにかく、待っていてください。もう、まがり角ですから、大丈夫です」
そして、通話は切れた。
「まあ、数弥が大丈夫だというならそう思うしかないけど、でも、あの子なら行けるかもしれないね、底が知れないから。でも、あと二十秒かよ」
競羅がそうつぶやいたとき、前方の方から複数の人影が見えてきた。その距離は、だいたい三百メートルぐらいか、
「がんばれ、がんばれー、かおりちゃん。あと、もう少しよ」
という声も同時に、彼女の耳に入ってきた。髪の短い女性が、側道から道路の中央を走っている女性に声援を送っているのだ。
ドリンクのったテーブル、時計等、小道具を撤収しようとしていた係員たちの手が止まった。彼らは顔を見合わせるとにっこりと笑った。
その時計は、二十九分五十六秒を指していた。
競羅は目をつぶっていた。これ以上、時計が進むのを見たくはないのだ。
そして、カウンターは三十分を過ぎた。だが、係員たちは動かなかった。こちらに向かって走ってくる二人のランナーを凝視していた。
競羅も、よくわからないような顔をして、その光景を見ていた。
時計が三十一分四十三秒を回ったとき、天美が、その時計の横を走り抜けていった。かおりは時計を抜けると、コーチらしき女性に抱きかかえられるように倒れ込んだ。
〈どういうことなんだ。数弥が、こっちを脅かしただけなのか〉
競羅が首をかしげながらそう思っていたとき、
「ど、どうでした。姐さん、だ、大丈夫だったでしょう」
息をせきった数弥の声がした。
「あ、あんたかよ。どうなっているんだい?」
「もしかしたら姐さん、三十分ピッタシで切られると思ったんすか」
「そうじゃなかったのか」
「それはそうでしょう。目の前にランナーの姿が見えるのに、打ち切るような非情なことはしませんよ、いやな思い出になりますから。あくまでも目安ですし、大会の記録には影響しませんからね。実はこのことも、天ちゃんには伝えてあったんすよ」
「そうだったのかよ。まったく、心配して損をしたよ」
「でも、前方からランナーの姿が、途切れて見えなくなったら閉めると思いますよ」
二人の会話中、横では、
「よく走った。がんばったね!」
コーチらしき女性が、かおりの背中にタオルを掛けながら声をあげていた。その様子を横目に見ながら、競羅は口を開いた。
「さあ、次に行くよ」
「えっ、どこに行くんす?」
「決まっているだろう。あの子を追いかけるのだよ」
「ええ、今も相すけど、だいたい、追いかける必要があるんすか」
数弥は訴えるような顔をして言った。これ以上、動くのがいやなのだ。
「それはまあ、ないといったらないけど、せっかく、ここまで来たのだしね」
「それだけの理由すか」
「それに、今までの経験から見ても、こういうことは、できるだけ見届けた方がいいのだよ。どこで、どういうことが起きるかわからないしね。それで、次の関門は、どこだい?」
「小涌谷すけど」
「小涌谷か、そこも聞いたことがある地名だね。それで、また三十分後かい」
「七キロ先すから、四十分す」
「それなら、余裕で間に合うね。では行くよ」
二人は、再び登山鉄道に乗るため、箱根湯本駅に向かった。
熱海の実況ブースでは菅沼アナが、
「今、先頭集団が、小涌谷の登山踏切を越えました。減りましたね、九人ですか。ここは、昔、大学生駅伝のとき、選手が電車通行のため、止められたこともあったんですね」
『はい、そうでした。懐かしい話ですけど』
「ご自分の時はどうでしたか?」
菅沼アナは加倉井会長に尋ねた。
『むろん、ありました。ここと、以前存在した京浜蒲田踏切は、レースの重要なポイントでしたから、踏切を使って順位をあげるとか、監督も色々と考えていましたよ』
「そういえば、会長は五区で区間新記録をだしていますね」
『きっと、山の神の機嫌がよかったのでしょう。実際、走ったときは、列車が通りませんでしたから。でも、その記録も、色あせてしまいました。現在では、練習方法が変わり、完全にスピード時代に入りましたからね』
「確かに、今は各大学が、年を追うごとに力を入れていますから」
そして、その十分数分後
「先頭集団は、また一人減り八人となりました。大きく、曲がりくねった坂道を登っていきます。どうです、加倉井さん、選手たちのここまでの走りは」
『問題はないですね。選手の走り方も、先ほどとはかわりないみたいで。このペースで、よく登り切りました。これは、かなり坂道を登る練習をしていますね』
「美咲さんの方はどうでした。先ほども、説明されていました通り、このコースを何度も走られたでしょう」
「はい、本当にこのコース特殊ですので、挑戦するときは、何度も坂道を駆け上がったり降りたりの練習をしました。あまり、結果は出なかったみたいですけど」
美咲俊子は自嘲するように答えた。
「確か美咲選手の、ここ、伊豆箱根の最高タイムは、二時間二十五分十四秒ですか、そのときは優勝をしていますね。成果が出ていたと思います」
再び、菅沼アナの目の前にメモ用紙が、
「今、先頭集団の十キロから十五キロ間のタイムが出ました。十七分五十七秒です。うーん、先ほどより、また四十秒近く落ちましたか」
菅沼アナはそう答えた。五キロから十キロへのラップタイムは十七分十八秒であった。
『ほおー、十八分を切りましたか、たしか、この五キロを十八分を切ったことは過去には一度もなかったですよ。これは、素晴らしい』
「私もすごいことだと思います。ここで二度、優勝をさせてもらいましたが、どちらも切ることができませんでしたから」
美咲も加倉井に続きそう答えた。
「そんなに、すごいことなのですか?」
「はい、あと一キロぐらいで、国道一号線の最高標高である八七四メートル地点です。十キロ地点近くの宮ノ下交差点の標高は四三五メートルですから、四百メートル以上を駆け上がったことになります。五キロ地点近くにある湯本駅の標高は九三メートルですから、先ほど宮ノ下交差点の標高を引きますと、えーと」
『三四二メートル、一分十九秒』
加倉井がカメラに見えない位置でメモ用紙に書いた。美咲は計算が苦手なようである。
「そうです。その三四二メートルの勾配を一分十九秒かかっていたことになります。今回は四十秒ぐらい落ちただけですので、これはもう立派なことです」
『それに、十八分を切ったということは大きな意味があるのです』
加倉井会長がそう口を開き、つられるように菅沼アナが、
「どういう意味でしょうか?」
『ここは、皆様承知の通り箱根マラソンの五区のコースと同じです。箱根五区の距離は、何度も変わっております。記憶に新しいところでは、二十、九キロから二三、四キロ、二三、二キロ、現在は二〇、八キロに戻っています。そして、二〇、八キロでは一時間十分台。二三、二キロでは一時間十八分台が、上位選手のゴールタイムとなっております。今の距離は、その中間あたりですから、一時間十四分台と計算しましょう。その区間の一キロラップタイムは三分二十二秒から三分二十三秒ぐらいですね。これに、十五キロ分の十五をかけるとします。そうすると、五十分三十秒から四十五秒のタイムになります』
「ここで、出ましたね! 加倉井会長十八番の電卓解説」
菅沼アナウンサー声がはずんだ。美咲俊子も笑顔である。
『では、ここまで十五キロのタイムを見てみましょう。五キロまでが十五分五十九秒、十キロまでが十七分十八秒、そして、十五キロまでが十七分五十七秒です。計算しますと、五十一分十四秒ですか。ですが、箱根を走る彼らはハーフマラソンの距離ですみますが、伊豆箱根はフルマラソンですから、その倍の距離があります。そのため、その分の余力を残しておかなければなりません。ぶっ倒れるほどの全速力でかけぬける早さと比べると、その一時間弱の間の三〇秒から四五秒の差を、どう見るかということになりますが』
「うわあ、本当に加倉井先生の解説は、いつもながら、ほれぼれします!」
美咲が思わず声を上げた。彼女は感動していた。もともと男子と女子と比べたら、タイムは男子が断然、上である。だが比較する相手は男子大学生、自分たちは、国際的専門コーチの指導を受けている自負がある。どちらが上かと議論をすると、双方、自分たちが上だと主張をすることはあきらかであった。今回の加倉井の解説は、その争点をぼやかして、あくまでもハーフマラソンの余力の方に重点を持っていったのだ。
「相変わらずの計算の早さですね。視聴者の皆様方も、この加倉井会長の電卓解説を聞くのを、毎回楽しみにしてますからねえ。今や、この電卓解説はマラソン中継になくてはならないものですから」
菅沼アナはそう声を上げた。
『それが、解説の仕事だと思っていますから』
「しかし、こんなに早くの計算は、なかなか、できませんよ。加倉井会長だからこそですよ。どう思います。美咲さんは?」
「もう言うことがありません。私も含めて真似をしようと思っているですけど、未だに、会長の足下には及びません。さすが、やはり現役時代、精密機械と呼ばれた人ですね」
と彼女は最大の賛辞を送りながらコメントをしていた。
小涌谷のゲートでは、競羅がラジオを聞きながら天美が来るのを待っていた。
「奴めが、また、もっともらしいことを言っているね。怖い裏の顔があるくせにね」
とつぶやきながら。
十一時十分、ゲート締め切りの時間になったが、今回は数人のランナーが、入れ替わりに入ってくるので、閉めるに閉められなかった。やはり、急な登り道になっているので、ペースを予定以上に落としたランナーが数名いるのだ。そして、一分をすぎた。
「あの子、まだ、来ないよ。まあ列が途切れる前に来てもらわないと困るけどね」
「そ、そ、そうすね」
そう答える数弥の顔色は真っ青である。今度こそ失敗かと思っているのか、
だが、それは思い過ごしであった。まもなくして、天美が一人のランナーと併走してゲートに向かってきたのだ。彼女たちが時計の横を通り過ぎると、係員たちは時計の電源を切り、撤去の準備をしはじめた。もう、後続に続くランナーはいないからである。
競羅はその様子を普通に見つめていたが、数弥の顔は、天美が無事に関門を抜けたのにかかわらず青いままであった。