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自白屋娘 箱根路を走る  作者: 蓮時
8/13

その八


 そして、レース当日となった。小田原に設定された、国道一号線上のスタートライン周辺では、参加選手たちが談笑やウォーミングアップをしていた。

 フルマラソンを三時間半、最低でも一万メートルを四〇分で走りきった選手だけしか参加できないということで、四百名ぐらいか。その中には天美も混じっており、喜色満面の顔をしてストレッチ運動をしていた。

 はたでは、数弥と競羅が会話をしていた。その競羅は半ば呆れた口調で、

「おいおい、国道一号線を貸しきりかよ」

「ええ、毎年こうすよ。姐さんが知らなかっただけで」

数弥が自慢げな口調で答えていた。

「そうかい、確かに今までは見ていなかったからね。しかし、新聞社というのはこういうことでも、金を使っているのだね」

「むろん、スポンサーを募りますけど、主催はあくまでもうちすから」

「あのゼッケンに書いてある会社か」

「ええ、邦和海上火災と邦和生命すね。彼らも選手を十数人、送り込んでいます」

「選手着の方に書かれているのは?」

競羅はユニフォームのことを選手着と言っていた。彼女は江戸っ子の典型で、ユニフォームという言葉を発音するだけで、舌をかみそうになるのだ。だから、そのようなカタカナ文字は極力、使わないようにしているのであった。そして、数弥の返事は、

「選手たちが所属をしている会社の名前す。彼女たちが活躍すると、会社の宣伝にもなりますからね。ああやって、会社名をプリントしてデザインを合わせているんすよ」

「だから、あの子は何にもなしか」

「といっても、個人的に趣味で出てる人たちも結構いますからね、そんなに、恥ずかしいことでもありませんよ」

「そうなのかい、それで、この道路がスタート地点になってるのだけど、やはり、ここが駅伝のたすきを受け取る場所なのかい?」

 競羅はそう尋ねた。彼女も、その辺の知識までは知っているのだ。

「残念だけど違います。ここから、ちようど、熱海のゴール地点の距離が、四二、一九五キロなんすよ。芦ノ湖までは、箱根駅伝のコースで約二十二キロ、そこから熱海のゴール地点までの最短距離を二十キロと計算をすると、この場所になるんす」

「そうなのかい」

「ええ、もともと、この箱根上がりの五区の区間は、何度も距離が変わっていますから、ここぞという地点がないんす。過去の中間あたりすか。それに、今、僕たちがいる場所すけど、大きなスーパーの駐車場なんすよ。みんな、ここで、打ち合わせをしていますね」

「ああ、そうだね。あの子は、それを嫌がって一人でいるのだけど」

「ええ、一人で集中したいということでしたね。そういう選手も結構いますよ」

「そうだけどね、きちんと指示はしておいたのかい」

「ええ、プロセスについては、バッチリすよ。設定された関門に引っかからないように、最下位付近を走りながら、ゴールをするように丁寧に説明をしておきました」

 数弥はそう答えた。道路の規制解除を速やかにできるように、数カ所の関門が用意されていた。つまり、その関門を抜けきれない選手はレースから脱落することになっていた。

「それならいいけどね、あとは、ゴール地点か」

「ええ、TVの実況は、そこで行っています。熱海にある、お宮公園すけど」

「熱海でお宮か」

「ええ、貫一・お宮で有名なお宮公園す。熱海にはそういうものがありまして」

「知ってるよ。やっぱりそうか! 尾崎紅葉の金色夜叉だね!」

「えっ、姐さん。知ってるんすか!」

数弥が驚いたような声を出した。

「当たり前だよ。『熱海の海岸散歩する~ 貫一・お宮の二人連れ~』とね」

 と競羅はメロディチックに答えた。

「いやあ、知っているとは思いませんでした。ぼくも、最初聞いたとき、まったくピンときませんでしたか。その尾崎という人が作曲家なんすか」

「だから、金色夜叉を書いた小説家だよ。あんた、知らないのかい」

「知りませんでした。しかし、なぜ、姐さんが?」

「昔、母さんが、よく子守歌で聞かせてくれたからね」

「母さんって、姐さんが三才の時になくなったかたですか」

「そうだよ、その母さんだよ。それで、中学になってから調べたのだよ。そして、その小説を読んだというか。確か、お宮は、お金や宝石につられて、おさななじみの貫吉を捨てたのだったかな。昔は大事だったのだろうね。今では、よくある話だけど」

「そんな、話なんすか」

「ああ、そんな話だったね。その後、捨てられた貫吉の方が高利貸しになって復讐を始めるのだけどね。さて、それよりも、そのお宮公園がゴール地点なのだね」

「ええ、そうす。前も話したように、芦ノ湖ゴール地点から、箱根峠、熱海峠を越えて、熱海の街に入ります、そして、市街地を抜けてお宮公園に到着します」

「なるほどね、さて、今九時五十分。レース開始まであと十分か。長かったけど、いよいよ今日、奴の化けの皮がはがされるね」


そのころ、競羅に奴と呼ばれている加倉井会長は、熱海ゴール地点に設置された真知新聞ブースの実況席に座っていた。その横には、女子マラソンオリンピック金メダリストの美咲俊子が、アナウンサーの菅沼と一緒に座っていた。

 そして、十分後、小田原の現場が中継されている大きなモニターを見ながら、菅沼アナの実況が、スポーツアナ独特のイントネーションで始まった。

「さあ、今、スタートの合図がでました。おっと、一人の小柄な選手が最初から猛ダッシュで飛び出した。ゼッケン三二一番です。慌てたように、中藤を筆頭に、川北、島岡、ノーマン、シーラと有力選手たちが、彼女のあとを追う展開に」


 その様子を見て、競羅も怒ったように声を上げた。

「あの子、いったい、何を考えているのだよ。目立たないようにすることぐらいはわかっているだろ、それをいきなり!」

「天ちゃん、やっちゃいましたねえ」

数弥も困ったような顔をして答えた。

「ああ、どうするのだよ」

「どうするって言われても、僕だって困りますよ。でも、やはり、スポーツ選手の本能すか。真っ先に足が出ちゃったんすよね。直進で走りやすそうでしたから」

「そういう問題ではないだろ。あの子が、このまま一番になったら、どうなるのだよ?」

「どうなるって、タイムによりますけど、大変なことになりますよね」

「そうだよ。もう、今みたいな生活はできないよ。あんたらみたいなマスコミに目をつけられて、身動きがとれなくなるよ」

「天ちゃんだって、それは、わかっていると思うんすけどね」

「まったくわかっていないよ!」


熱海の実況ブースでは、大きなモニター画面を見つめながら、

『毎秒七メートルのペースですね。さすがに、これでは、まもなく息切れするでしょう』

加倉井がそう答えていた。瞬時に秒速を割り出すとは、さすがというか。

「息切れですか」

『そうです。もし、このペースで走り続けることになると、ゴールタイムは約一時間四十分二十八秒ですか。ありえない数字でしょう』

「それは無理ですね。しかし、加倉井会長、相変わらず計算は速いですね」

『それほどでもありませんが、しかし、三二一番の選手、データにはありません。おそらく指導者がいなくて、我流で走っているではないでしょうか』

「我流ですか」

『そうです。指導者がいたら、こんなことは絶対にさせません。レースになれてないがゆえに、ペースがわからずに飛び出したということでしょう』

「わたしも同様に思います。初心者らしい飛び出しといいますか」

 美咲俊子も同調するように答えた。

「でも、初心者でも、それぐらい早く走れるのでしょうか」

『最初は走れますよ。菅沼さんもスポーツ経験者ということですけど、百メートルは十三秒を切れたでしょうか?』

「もうちょっとよかったです。十二秒台後半でしたか」

『それなら話がしやすいですね。百メートルが十二秒台後半ということは、秒速は八メートルということになります。七メートルはそれより一メートル少ないということですから、たいていのスポーツ選手なら、可能な数字です』

「でもさすがに、それでは最後まで無理でしょう」

『だから、息切れをすると言ったのです。ご覧なさい、もうペースは落ちています。無茶をしすぎましたからね』

加倉井の言葉通り、天美は息切れしたのか後退していった。

 そして、菅沼アナの実況は続いた。

「これは、ちょっとしたことになりましたね。最初の一キロが三分を切りましたか」

『ええ、かなりのハイペースです。最初に飛び出した選手が引っ張ったのが原因でしょうね。もう、その姿は見えませんが』

その加倉井会長の言葉に美咲俊子も、

「そうですね。やはり、初心者には一キロを合わせるのも厳しかったですね。でも、彼女には、いい経験にはなったと思いますよ」

「美咲さんは、どうでしたか? やはり、最初のときは飛び出したとか」

 菅沼アナはそう尋ねた。

「わたしはなかったです。コーチに、きつく止められていましたから。でも、コーチがしっかりしていないと、何人かの選手は勝手に足が動いちゃうんですよね」

「コーチがですか。どうして、止めるのですか?」

「それは、自分のペースがわからないうちに、がむしゃらに走ったら、まずは、身体がこわれますよ。だから、レースを経験してペースをつかむのです。今、加倉井さんも、やはり、と言っていましたでしょう。初心者はそこで息切れしてしまうのです」


「あの子、先頭集団から消えたよ」

競羅のホッとした声に数弥は、

「そうすね、自重をしてくれたみたいすね」

「ああ、まったく、肝を冷やしてくれたよ。これで後は、下の方に沈んでくれれば」

「ええ、そうすね。そうしてもらわないと困りますね」

「さて、では、あの子の様子を直接に見に行くか」

「えっ、行くんすか」

「ああ、どこを走っているか興味があるからね」

「でも、見ての通り、道路は規制されていますから、追いかけることはできませんよ」

「そうなのかよ、ほかに道はないのかい?」

「道ではありませんけど、箱根鉄道がありますけど」

「箱根鉄道か、このすぐ上を走っている電車だね。それで、どこで降りればいいのだい?」

「まずは、箱根湯本すかね、最初のゲートが用意されていますし」

「湯本? 温泉の名前か」

「ええ、箱根の入口として有名な温泉地す。最初のゲートですけど、そこに用意されています。五キロ地点にもなりますし」

「足切り場所か」

「そうなんすけど、何か姐さんの言い方って、いやすよね」

「何にしても、そこに行くよ」


 中藤、シーラを筆頭に十二人のランナーが、先頭グループを引っ張っていた。

「今、五キロ時点のラップタイムが出ました。十五分五十九秒です。ギリギリ十六分を切りましたね。加倉井さん。このタイム、どう見ますか」

 実況席では菅沼アナが加倉井会長に尋ねていた。

『速いですよ。ここでは、初めてじゃないですかね。これも、最初のペースが、ここまで引っ張っているというか。大きく期待が持てます』

「美咲さんはどうです。最初のペース、十六分を切ることはありましたか」

「一度か二度は、あったような感じがしますね」

「二時間十八分台で、日本人最高記録を出したベルリンのときはどうでしたか?」

「あのときのことですか、よく覚えていないです。ただ、先頭に引っ張られたことは覚えていますね。何とかしなければならないと思ってついて行ったら、結果的にそうなったということで、でも、三位でしたから、いい思い出ではありません。今回のペースですが、会長の言葉通り、わたしも立派な記録だと思います」


 競羅たちは湯本駅に到着すると、そのまま一号線を温泉街の方に向かった。大勢の選手たちが、その両側に旅館が並んだ道路を西の方に向かって走っていた。

しばらく行くと、ドリンクがテーブルに乗っているブースがあった。それを見て競羅は、

「ここが、そうだね。さて、ここで待っていれば、あの子が来るのだね」

「ええ、そうなんすけど」

「では、そうするか。今は始まってから二十二分か。あと八分だね」

 と最初のうちは余裕であったが、だんだん不安になってきた。五分たっても、天美の姿がいっこうに見えないからだ。たまらず競羅は口を開いた。

「あと三分だけど、本当に、あんた、このことを、あの子に話しておいたのかい」

「ええ、大事なことだから、きちんと話しましたけど。それに、三分もありますし」

「だといいけどね。どうも、今回も、すんなりといかないような気がしてきたよ」

 思わず競羅はそうつぶやいていた。



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