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自白屋娘 箱根路を走る  作者: 蓮時
6/13

その六


 土曜に行われた一万メートルの試験を無事に終え、マラソン大会への参加資格を得た天美は、翌日、加倉井陸連会長の講演を聴くため、競羅と一緒に角興ビルを訪れた。

「思ったよりも人が多いね。これは、後の反響が楽しみだよ」

 前日、御雪から事件のデータの得た競羅は、シニカルな笑みをしながらつぶやいていた。 収容人数、五百人の角興ホールには、ほぼ満員の聴衆者が詰めかけていた。御雪が中に入っていなければ、その入場も難しかったであろう。

 そして、【走るとは、生き抜くこと!】という題幕を背景に、加倉井の講演が始まった。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上のことから申しましても、私たちアスリートというものは、常にストイックと申しますか、求道者でなければなりません。求道者、つまりそれは、言葉通り、いつも、何かを求めて行動をする人です。禁欲など、己を厳しい環境において、がむしゃらになって自分を高めることです。大昔の人たちは、それを修行、修練と呼んでいました。軍隊では鍛錬、訓練。職人の世界では、修業、研磨。私たちスポーツに身をおくものは、トレーニング、練習、稽古という言葉で、それを行うのです。それは、受ければ受けるほど、成長するものなのです。

 その日々のトレーニングで成長するのは、先ほども申し上げました通りに、体力だけではありません、反射神経、カン、それらも同時に鍛えられるのです。そして、もう一度言いますが、大切なことは、知力つまり頭、精神力つまり心も鍛えられるのです。もし、体力だけ成長したら、人間はどうなるのでしょうか。すぐにかっとなって手が出る。つまり、物事を考えるより先に行動が動く、本能だけで生きる野蛮な人間になってしまいます。頭脳だけ成長をしたらどうなるでしょう。知識だけが一人前ですが、肝心なそれをいかすことができない、融通がきかない頭でっかちな人間となってしまいます。

 体力、頭脳が一人前でも、心がともなわない人もいます。サイコパスは論外ですが、自己中心主義、人の痛みがわからないというような人たちですか。良い人というのは、体力、頭、心のバランスがとれている人を言うのです。運動は、そのために必要なものなのです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて、ここで、マラソンについてお話をしましょう。このマラソンという言葉の語源は、ギリシアの地、マラトンの丘から来ています。古代ギリシアがペルシャ王国と戦争をしていたとき、マラトンの戦いというのがありました。当時のギリシアは一つの国ではなく、いくつかのポリスと呼ばれた都市国家が存在していました。中でもアテナイとスパルタという二つが突出して、お互いにしのぎをけずっていました。 アテナイが知力と精神学の一種、瞑想、哲学の都市。スパルタが体力と精神の都市と言いますか。さて、皆さんスパルタという言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?』

「スパルタ教育」

 ギャラリーからそう声が上がった。加倉井は、その返答ににっこりすると、

『そうです。スパルタ教育という言葉です。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という格言がありますね。これは、ローマ帝国の詩人ユウェナリスの言葉です。一見、身体を鍛えれば精神も自然に鍛えられる、という意味に取れますが、実はユウェナリスは、世情を風刺していた言葉なのです。原典の「風刺詩集」には、「人は大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るよう、神に祈るべきだ」と書かれていたのです。何を風刺していたかと言えば、やはり、スパルタ的な考え方で強くなっていったローマ軍にでしょうね。実際、戦前はともかく、今でも軍隊とかフリースクールの古くさい考えの教官たちは、その言葉を、金科玉条として、スパルタ教育が正しいものだと思い込み、「精神がたるんどる」とか言って、厳しい訓練を強要したり、体罰をあたえているという現実もありますが。

さて、マラソンの話に戻りましょう。都市国家の一つアテナイは、当時無敵のペルシャ軍に攻め込まれます。有名なペルシア戦争ですね。アテナイは同盟国スパルタに援軍を要求します。そのとき、ヘトドロスの著書「歴史」によると、フィリッピデス、文献によってはエウレクスとも言われています、その一人の若者が、伝令としてスパルタまでの距離、二百キロ以上を一昼夜で走ったと伝えられています。伝令は無事にスパルタに到着し、スパルタは援軍として、マラトンという場所でペルシャ軍を迎え撃つことになり、連合軍は見事に勝利を得ました。エウレクスはその喜びを伝えるため、マラトンからアテナイまでの約四十キロを走り、町の門前でギリシア側の勝利を伝えると息を引き取りました。

 二日でスパルタ軍はマラトンに到着したと伝えられていますから、エウレクスは三日の間に、約四百五十キロの距離を足だけで移動したということです。さすがに身体が持たなかったのでしょう。ときの人たちは、この彼の功績をたたえ、マラトンからアテナイまでの四十キロ弱の距離を、オリンピアの街で走る競技大会を始めたのです。これが、オリンピックの始まりでもあります。その後、何度も修正され、第八回目のパリオリンピックでマラソンは正式に四十二・一九五キロと決められ、現在に至っているのです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 長い話になりましたが、走るというのは人生、そのものなのです。すべては走ることが基本なのです。では、ここで、休憩を入れさせていただきます』


 天美はわき起こる興奮を抑えながら話を聞いていた。一つ一つが勉強となるというか、そして、話が終わると、その興奮のまま競羅に向かって言った。

「何か、すごい、もっともなこと話してるよね! 勉強にもなったし」

「さあ、どうだか、まあ哲学的で汗臭い話だったね。ああいう人間は、詐欺師の資格を持っているというか、口だけはうまいからね。あんたも、煙に巻かれてはいけないよ」

「まったく、ざく姉ったら」

「とにかくね、御雪からの証拠も集まったし、奴の話が最後まで終わったら決行するよ」

そして、加倉井の後半の講話が始まった。

『後半は、私の身近に起きた不幸から話させていただきます。皆様、ご存じの通り、私は警察の調べを受けました。そうドーピングがもととなった悲しき事件ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このようなことで、今回は私も、事件のもととなったドーピングを防げなかったことに猛省をしております。しかし、なぜドーピング行為は禁止なのでしょうか。それは、もう議論の余地はありません。一番の理由は公平感を失うからです。それでも、最初のうちは昔のスポーツ協会は動かなかったのですね。薬を用いることもシューズやユニフォームの改良、と同様に戦法の一つだとされていました。栄養剤、筋肉増強、疲労回復、精神持続、痛み止め等、ありとあらゆる薬が認められており、服用量も自由だったのです。

 これは、大変に危険なことだと皆様方もおわかりでしょう。過度の摂取により、選手たちの身体は気づいたときにはボロボロになっていました。必然というか、競技中の失神、卒倒事件が相次ぎました。その場でなくなられた選手もいました。回復もままならず、廃人状態となった選手たちも大勢いました。若き選手たちの将来がつぶれ、ようやく、これは大変なことだと協議会の人たちも気づき始めたのですね。 そして、禁止のルールが決められ、様々な変更を繰り返しながら現代に至っているのです。

 さて、このドーピングですが、大きく分けると二種類に分けられます。一つ目は普段から決して使ってはいけない薬です。代表的な物は、筋肉を変質させるホルモン系ステロイド薬です。身体のピークは作られますが、それが過ぎると先ほども話しましたように副作用で廃人に一直線です。ですから、これらの服用については永久追放など、厳しい罰則が待っています。そして、もう一種類は競技にだけ服用してはいけないという薬です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 コーチに逆らえなかった、というのは、まったくもって言い訳になりません。話があったら自分の意思ではっきり断らないと、このような場合は組織的犯行とされ、コーチ共々特に厳しい処分を受けます。最悪な場合は、所属クラブはもとより国ぐるみで、ドーピング違反にされることも覚悟された方がいいでしょう。

 さて、ドーピングのおおかたの説明は終わりました。ここで、皆様にテストというか、簡単な質問をさせていただきます。まず、最初の質問ですが、

 ある選手Aが、医者または薬剤師に、「これはドーピング成分が入っていないから大丈夫です」と言われて薬を渡され、服用をしていました。しかし、彼らの知識不足で、その薬にはドーピング成分が入っていたのです。そのA選手は違反になるのでしょうか?』

「ならないでしょう。医者が悪いのだから」

 ホールのところどころから、そのような声が帰ってきた。しかし、加倉井は、

『残念ながらなるのです。先ほども説明したとおり、陽性反応が出ると、A選手は違反期間を終えるまで出場禁止となります。その間、当然、賠償費は医者や薬剤師の方にかかるのですが、そちらの話は、あくまでも裁判ということで。

 さて、次の質問です。ある選手Bが競技後、検査で陽性と判明しました。しかし、実はB選手は、ライバル選手Xの仕掛けにかかり、ドーピング成分の入った飲み物を摂取させられていたのです。X選手は選手をはめた罪で、警察に逮捕されて永久追放になりました。さて、B選手はドーピング違反になるのでしょうか?』

「さすがに、今度はならないでしょう」

「いや、なるかもしれない」

 二つの意見が聴衆者たちからした。加倉井はその反応を再び確かめると、

『そうです、なります。B選手は身体から薬物が抜けると推定される期間、どのようなことがあっても公式大会に出場することはできません。理不尽と思われますが、これが世界のルールなのです。その間の保証は関係機関が行うとは思いますが、そのあたりのことは国の事情によってかわってくるので、なんとも言えません。さて、以上の話からドーピングについての厳しさは、よくわかってもらえたと思うのですが』

加倉井の説明を天美は食い入るように聞いていた。ドーピングの話は、なおも続いた。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 やらかしドーピングで一番多いのは市販薬の勘違いです。当たり前のことですが、すべての市販薬がドーピングに引っかかることはありえません。ただし、要注意な薬は結構。存在するのです。風邪薬だと、有名メーカーの感冒薬の九十%以上はアウトですね』

 そして、葛根湯をかわきりに、誰でも知っている有名メーカーの看板風邪薬の名前を次々とあげた。その製品名に、聴衆者たちからは驚きの声が上がった。話は続いた。

『なぜ、これらの薬がだめかと申しますと、エフェドリン類が入っているからです。これは端的に申しますと気管支を広くする薬です。それが広がることによって喉の痛みは和らげられ、鼻づまりを防ぐことができます。メチルエフェドリンが喉で、プソイドエフェドリンが鼻ですかね。そのあたりのことは薬の成分を見ると、きちんと明記されております。

 さて、このエフェドリンの成分であるエフェドラは日本名では麻黄と言います。麻黄は植物で、麻薬の麻がついているように、大麻の親戚のようなものです。この麻黄が葛根湯にも含まれております。では、ここで、ちょっとお待ち願えますか』

 加倉井はそう言いながら、白板に四つの化学式を書いた。そのあと、。

『左側が上から、メチルエフェドリンとプソイドエフェドリンの構造式です。右側の方の二つは、何の構造式かわかるでしょうか?」

と聴衆たちを見回した。そのあと、微笑をしつつ次の言葉を、

『実は覚醒剤であるアンフェタミン、メタンフェタミンの構造式なのです。これらは非常によく似てますね、つまり、覚醒剤は、この麻黄から抽出して作られているのです』

再び聴衆から驚き声が上がった。その手応えを感じた加倉井は、芝居じみた声で、

『ですからこそ、エフェドリンは陸上界では禁止されているのです。学生スポーツ、プロ野球、サッカーでは、まだそこまでは厳しくないでしょう。市販の風邪薬を飲んで、出場停止になったとは、一度も聞いたことはありませんから。ですが、私たちの世界では、決して許されることではないのです。過去に、この麻黄エキスやエフェドリンの入った市販薬を競技の前日に服用して失格になった選手は幾人もいました。

 では発熱をした選手はどうすればいいのでしょうか? 普通に考えますと、競技を控えるということになるのですが、それでは、「何のために、今日まで来たのかわからない。今回のレースのために、厳しい練習を絶えずしてきたのだ。こんなことぐらいで辞退をするわけにはいかない!」ということで、まずは、医者の診察を受けることになります。そこで、ドクターストップがかけられることもありますが。おそらく、医者は熱冷ましとして、解熱鎮痛剤であるアスピリン、アセトアミノフェン、イブプロフェンを中心とした処方薬を出してくると思われます。なぜなら、これら中枢神経を治癒する薬は、ドーピングには引っかかるものではないからです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

加倉井はなおも講話を続けていたが、天美としては、このアセトアミノフェンと言う単語が気になった。それは、今回、桂木千里が心中事件を起こした薬なのだ。

天美は競羅の顔をちらっと見たが、彼女も気づいていないようであった。退屈なのか、生あくびをしているような始末である。だが、そのとき、

「あっ」

 という声にならないような、つぶやきがあった。天美と同様にアセトアミノフェンが事件に使われていたことを覚えていた人物であろう。

急いで彼女は、あたりを見渡した。だが、広い会場多人数、ほんの一瞬の出来事であったので、反応した人物を見つけるのはできなかった。

 そして、加倉井の話は締めに入った。

 ・・・・・・・・・・・・・・以上のことで、皆様方も健康に気をつけながらも、日々身体を鍛練してください。私も皆様方の努力を影ながらも見守りつつ、陸連会長の職を続けさせていただきます。長い話ですが聴衆まことにもって、ありがとう御座いました』

 話が終わると同時に、割れんばかりの拍手が会場内に鳴り響いた。

 競羅が声を掛けてきた。

「さあ、行くよ!」

 そして、二人は席を立ち壇上に向かおうとした。だが、競羅の認識は甘かった。こういう講演会で起こりうるべきことを理解していなかったのだ。

加倉井のファンらしき人物が、あちこちから群がり彼に近づいていき、あっというまにその姿は人垣にさえぎられ視界から消えた。

実際、天美は弱善疏を使えば、加倉井のもとにたどりつけるのだが、それをするということは、何も罪のない一般の人たちに能力を使うということなのだ。

 競羅は天美をせかしたが、結局、天美は能力を使うことができず、その加倉井が聴衆者たちに囲まれながら、ホールを去るのを見ているしかなかった。

 そして、もう一人、一番手前の席から、その一部始終を見ている女性がいた。灰色のワンピースをつけた加倉井と同年配の地味な女性である。彼女は何か含みがあるのか、刺すような目つきで、先ほどまで加倉井が立っていた壇上を見つめていた。



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