その二
二
千里と別れて五時間後、競羅は気になったのか、その千里に電話をかけた。だが、相手は出なかった。
翌日、朝一番にかけたが、またも千里は出なかった。夕方も出なかった。翌々日もかけたが同様であった。三日で、延べ十回以上かけても相手は出なかった。
携帯電話を見つめながら、競羅は、
「あいつが、どこに住んでいるか、聞いておけばよかったねえ」
と思わず言葉を漏らしたが、やがて、別の相手の短縮ダイアルボタンを押した。
「もしもし、姐さんすか」
相手の声がした。真知新聞記者の野々中数弥だ。彼女は相手が出ると、
「ちょいと一つ聞くけど、加倉井という陸連の会長を知っているかい?」
と尋ねた。そして、その反応は、
「むろん、知っていますよ。陸上の神様でしょう」
「どうも、そうらしいね」
「その返事、本当に知らないんすか。三大会連続オリンピックの金メダリストすよ」
「三大会だって、そんな、すごい人物なのかよ」
「ええ、本当に知らなかったんすね。一万メートルで、銀と金、そして、マラソンで金メダルを取っています。その結果、国民栄誉賞も、もらっています。そのあとも、引退するまで、一万メートルやマラソンの日本記録を塗り替えていきました」
「参ったね、そんな奴だったのかよ」
「奴って、姐さん、敬意がない言い方すねえ。まあ、いつものことすけど」
「しかし、千里もそういうことを、何一つ言わないなんて」
競羅は思わずぼやいた。
「ちさとって」
「こっちの悪友だよ。ろくな人生を送っていないのだけど、なんか、春がきたみたいで」
「春、つまり結婚ということすね」
「そういえば、そうなのだけど、そのことで相談を受けてね」
「それで、その相手が加倉井会長すか!」
数弥のボルテージがあがった。マスコミ魂に火がついたのか。
「そんなわけないだろ。あいつは、じいさんなんて相手にしないよ」
「どうすかねえ、ものすごい金持ちすよ」
「あんた、何が言いたいのだい!」
競羅は語気をきつくした。
「ただ、そう言っただけすよ。でも、その女性の結婚相手が加倉井会長でないのなら、姐さんも、なぜ、会長のことを聞くんす?」
「なぜって、千里の婚約者に奴が関係しているからだよ」
「その婚約者というのは誰すか?」
「それは、相手が誰かなんて、さすがに話すわけにはいかないよ。千里の名前だって、最初は、あんたに言う気なんてなかったのだから」
「どうも、怪しいすねえ」
受話器の向こうの数弥は、まだ疑っているようであった。
「それはそうと、結婚ということで、あんたは千里と奴を結びつけようとしたのだけど、奴はまだ、独身なのかい」
「ええ、そうすよ。世間からは、嫁はスポーツそのものと言われてます」
「へえー、そうなのかい」
「ええ、禁欲的でストイックな人物す。現役から、かなり遠ざかりましたが、会長になった今でも、ほぼ毎日のように走り込みをしています。努力家すね」
「何かこっちが思っているのと印象が違うね」
「姐さんが、どんなイメージを持っているかわかりませんけど、そういう人物す」
「それで評判はどうなのだい?」
「悪くないすよ。選手たちの面倒見もよくて。言葉つかいも、大変丁寧な方すから」
「独裁的で、選手たちが、怖がっているということはないのかい」
「それはないすよ。筋が通っている、頼りになる、しっかりとした人物すよ」
「そうかよ。これは、もう一度、千里に確認をしないといけないね」
「その姐さんの友人、会長について、どういうことを話していたんすか?」
逆に数弥が尋ねてきた。
「だから、そのことはさすがに話せないよ。しかし、あいつも困ったものだね、久しぶりに会ったのはいいけど、相変わらずいい加減なことばかり言って」
「どうも、変なことを、吹き込まれたみたいすね」
「ああ、実際に変な子だよ。あれから、何度も連絡を取ろうとしたのだけど、電話に出てくれないしね」
「出てくれないんすか」
「ああ、十回ぐらいかけたけど、無視されたよ」
「それは、言いにくいんすけど」
「言いにくいってなんだい?」
「おそらく、姐さん、煙たがられているんすよ。余計なことを言ったんじゃないすか」
「まあ、おかしなことをしようとしていたから、バカとは言ったかな」
「そんなこと言ったんすか」
「ああ、バカなことを考えようとしていたから、思わず、『バカなことは考えるのではないよやめなよ』と注意をしたのだけど、それが、まずかったのかねえ」
「充分、まずいすよ。この際、言わせてもらいますけど、姐さんは、ずけずけと言い過ぎるんす。僕だって、我慢をしてるんすよ」
言葉通り、数弥は憤慨しているようであった。
「それは、悪かったね」
「本当に悪いと思っていたらいいんすけど、それより、その姐さんの友人は、もしかしたら、精神的に安定していないじゃないすか」
「どうしてだよ?」
「なんとなくそう思うんすよ」
数弥の返事を聞きながら、それは、当たっているよ。と思っていた。そして次の言葉を、
「確かにそうかもしれないね、精神安定剤を途中で飲み出したから」
「その人、まずいすよ」
数弥のトーンが変わった。そして、そのまま言葉を続けた。
「僕から言えることは、その女の人の言葉をあまり信用しない方がいいと思います。あと、残務が残っているすから、なんと言いますか」
「わかったよ、電話を切ればいいのだろ。仕事の邪魔をして悪かったね」
競羅はそう言って通話を終えた。そして、思っていた。
〈興奮して精神安定剤を飲み出す人間の言葉を信じたのは、どうだったのかねえ〉と
数弥と通話を終えた一時間後、
チャンチャラチャラ
携帯の着信音がした。相手は待ちに待った千里だ。彼女は思わず声を上げた。
「もしもし、千里か。大丈夫だったか」
だが、相手の声は、
「なるほど、女性だったか。それで、おたくは、彼女の友だちかね」
その、おたく、という言葉の言い回しに競羅は、ある既視感を感じた。刑事だ。
競羅は相手の出方を見るために、次の言葉を、
「あんたこそ、誰だい。彼女の電話を勝手に使うなんて。もしかして、お父さんですか」
「父親ではないな。それより、おたく、いやお嬢さんだったかな。今、大丈夫って、叫んでいたけど、何か思い当たることあるのかな」
その言葉で、千里に最悪なことが起きたと悟った。危篤か死か! だが、動揺するわけにはいかない、彼女は言葉に注意しながら応答を続けた。
「そうなのだよ。だから、心配でかけたのだよ。きっと、着信履歴を見たのだね」
「それは、十回近くかけてくれば、わたしたちも不審がるよ」
「それより、千里に代わってもらえないかい」
「それは・・」
相手の言葉がつまった。素直に答えていいのか困っているのだ。すぐに、その男が、背後の連中と、ぼそぼそと話し合っている声がした。そして、
「彼女は、残念ながら電話口に出ることはできないよ」
「それって、どういう意味だよ!」
競羅はかなりの大声で怒鳴った。これは演技である。その爆裂した声に、相手は、
「もう、この世にはいないのだよ」
「いないって、死んだのか!」
「そうだよ。今から、彼女のアパートに来てもらえるかい」
「場所を知っていたらね、何度も電話をかけずに押しかけていくよ」
競羅の返事に、またも、背後で話し合う声がした。そして声が、
「申し訳ないけど、今は現場検証途中だから、あとから、綾瀬署に来てくれ」
「あんた、刑事だったのか、足立区の」
「そういうことだ。それより、おたくの名前、住所を今、教えてもらえないか」
相手の声に競羅はためらったが、番号を調べられれば同じこと、素直に答えた。
「それで、どのくらい仲がよかったのかな」
「そんなに、しょっちゅうは会っていないね。三日前にあったぐらいだよ」
「そこでは、どういう話をしていたかな?」
刑事の質問に、さあ、来たね、と競羅は思いながら、
「その話の前に、一つ聞きたいのだよ。自殺か、殺されたのか」
「なんで、教えなければならないのだい」
「隠したって、どうせわかることだろ。今、言ってくれるとありがたいのだけど」
「自殺だよ」
その刑事の言葉で、競羅の話す言葉は決まった。感情深く、
「そうか、なーんか、そんなようなことになりそうな感じがしたのだよ。だから、しつこく電話をしたのだけどね」
「どういうことがあったんだ?」
競羅はどこまで話していいか、頭の中で考えていたが、結局、捜査の様子をみるために、数弥に話したところまでは話すことにした。
説明後、刑事の補足質問が始まった。
「なるほど、それで、話に出てきた彼氏の名前は?」
「有名人だから、ちょいと言えないよ。あと、悪口を言っていた人物の名前も、同じような理由で、今は言えないよ」
「わかった。それで、彼女が、生活がやっていけない、と言っていたのだね」
「そういうことなのだけどね」
「あと、君が否定をしたとき、怒りだして、精神安定剤を飲んだのだね」
「まあ、そういうことなのだけどね」
「そうか、ありがとう。手間が省けて、助かったよ」
刑事はそう答え。通話を終えた。
普通だったら、これぐらいで引き下がらないはずである。彼氏は誰か? 悪口を言っていた相手は誰か? と隠してもためにならないよと言って、しつこく聞いてくるのだが、
競羅は妙な気持ちで、その受話器をにらんでいた。
その後、競羅は思わず数弥に連絡しようとした。だが、思いとどまったのだ。
〈わざわざ、知らせることはないか。どうせ、あいつのことだから、事件を知ったら向こうから慌ててかけてくるよ。それまで待ったほうがいいね〉と
その電話は、夕方、五時過ぎにかかってきた。
数弥の声は、幾分震えていた。
「確か姐さん、昼間に、千里さんという人の話をしてましたよね」
「ああ、そうだけどね、それが、どうしたのだい?」
競羅は、とぼけたように答えた。次のセリフを考えながら、
「もしかして、桂木千里とか」
「やはり、何かあったのだね」
「ええ、自宅のアパートで心中死体で見つかりました」
〈刑事め、心中ということを隠していたのか、だから、彼氏が誰か聞いてこなかったんだ〉
と心の中では思っていたが、
「結局、そうなってしまったのだね」
「昨日の話から見て、仲のいい友だちだったんすよね」
「ああ、このところ、会っていなかったけどね。それより、心中ってどういう意味だよ。二人が自殺をしたということだよ」
「そうす、有名な陸上選手と一緒に発見されました」
「沖元か」
「ええ、そうす、さすがに千里さんからは名前を聞いていますね」
「そいつが婚約者だったからね。それよりも、心中と決めつけたのは、どうしてだよ?」
「それはもう、明確な遺書が発見されましたから」
「遺書、そんなのがあったのかよ。それで、内容は?」
「僕はまだ、詳しく知りません。いずれ、発表があると思います」
その言葉を聞き、競羅は思っていた。
〈まだ、そんな段階かよ。けどね、これが、刑事が、こっちに厳しく追及してこなかった本当の理由だったのだね〉
「こっちも、あんたと色々と話したいことがあるのだけど、会うのは、その遺書の内容の発表後ということで、いつものところでね」
「スクープすね。わかりました」
と言って、競羅は通話を終えた。