レナータの朝
夜遅くまでマウリツィオと話し込んでいたので、梨音は朝から眠かった。
それでも普通に起きて支度をする。
「梨音・・・今日は起こさなくても起きたのね」
ママがびっくりしたように梨音を見ていた。
「時間に追われるというのは、なかなかにストレスを感じますね、ママ」
「そ、そうね。朝ご飯、食べる?」
梨音は記憶を参照した。
「いつもは食べてないようだけど・・・食べていいのなら、食べます」
「も、もちろん、いいわよ。トーストと卵でいい?」
「ええ、充分です」
ママが朝食を用意してくれる間にバスルームに向かう。
洗顔フォームを泡立てる。
梨音はその泡立ちの良さに感激した。
「ふわふわ・・・使うのがもったいない・・・」
洗顔し、櫛を通す。
梨音の記憶にあることとはいえ、全てが目新しかった。
そう、例えて言うならば映画やドラマで見たことがある、という感覚に近い。梨音12年の映像記録を任意に高速で参照できる、と言った感触だ。
次にドライヤーに手を伸ばしたが、躊躇い戻した。
これは今度時間のある時に試そう。
朝食の席に着く。
父親はいない。
出勤時間が違うので朝に一緒に食事をする習慣になっていないようだ。
「いただきます」
そうつぶやくのが二ホンの礼儀のようなので、梨音はそうした。
いただきます、とは一体どう意味なのか、と疑問に思ったが梨音の記憶の中に回答は無かった。
これも機会があれば調べよう。
「り、梨音。なんだか昨日の夜から変だけど、どうかしたの?」
梨音は持ち上げたトーストを皿に戻すと答えた。
「いえ・・・今は説明出来ません。ごめんなさい」
目を伏せる。
梨音の記憶の中にママに対する感情があった。
勉強をしろとばかり言うガミガミうるさいBBA。
今の梨音にはBBAがなんの略なのかはわからない。
たぶん、バッドなんとかなんじゃないかな?
いや、それはともかく、梨音の記憶の中にはママに対する愛情はかなり薄かった。
好きなことはすぐに禁止してくる過干渉の保護者というイメージ。
だけれどもレナータは19歳の向こうの世界では一人前の大人だった。
母親の気持ちもわからなくもない。
13歳の少女を見つめる母親。でもその中身は既にいないのだ。
自分はレナータであって梨音ではない。騙しているような罪悪感。
ママがため息をつく。
梨音はさらにうつむいてしまった。
「わかったわ。梨音が話したくなったら話しましょ。さあ、食べちゃって」
「ありがとうございます。いただきます」
梨音は少し涙が出そうになった。
トーストを齧る。
表面は香ばしくバターの香りが鼻をくすぐる。やはり二ホンの豊かさは凄まじいものがある。こんな上質なパンが庶民用だとは。
「ところで今日は土曜日ね。何かやりたいことがあって早起きしたんじゃないの?」
「え?」
梨音はトーストを齧ったまま顔を上げた。
「学校、行かなくていい日?」
ママは大きく目を見開いた。
「梨音、本当に大丈夫?熱、無いわよね?あなたが休みの日を忘れているなんて・・・」
学校に行かなくても良い、と言われたものの何もせずに家にいるのも無意味な気がして梨音は出かけることにした。
外へ出ると大通りへ向かう。
「ねえ、マウリツィオ。いろいろ知りたいことがあるのだけど知識を学べるような場所ってないかしら」
梨音の前を歩く黒猫マウリツィオが振り向いて答えた。
「ライブラリーという施設があります。大量の書物が収蔵された建物です」
「へえ、それはいいわね。けれど書物と言えば貴重なもの、一般庶民に閲覧許可など下りるものなのかしら?」
「レナータ様、こちらの世界では書物はありふれたものです。図書館はすべての人に門が開かれており、自由に閲覧出来ます」
「本当?それは素晴らしいわね。さっそく行きましょう」
「ええ、レナータ様。ただし、行動は細心の注意を。車道には決して出ず、頭上からの落下物に常に気をつけてください」
異世界転生者の死亡理由第一位。交通事故。
日本における異世界転生の物語においても、トラックに轢かれて転生した、という事例が非常に多い。むしろトラックに轢かれることが転生するための必須条件なのかもしれない。
しかしこれについては昨晩、マウリツィオとレナータは魔法師同士、お互いの知識でもって話し合った結果、判定はグレー。
確かに異世界転生においては交通事故は多い。
理不尽に命を奪われることによって魔法力が発生することで異世界転生が為される可能性はある。 この場合、日本から転生した意識と入れ替わりでこちらへ来る意識が存在したとしたら・・・来た瞬間に死ぬことになるのではないだろうか。
そうではない場合においても、こちらへ転生、転移してきたものが交通事故に遭うのは、単に不慣れだからなのではないか、とレナータは考えた。
あちらの世界には、こんな高速で移動する乗り物はほとんどない。
それが街中に溢れているこの世界が異常なのだ。
転生直後の半覚醒状態で街を歩けば不用意に車道に出てしまったりで命を落とすのではないだろうか。殺人鉄箱が目の回るような速度で動き回っている世界なんて、レナータは昨日まで想像すら出来なかったのだ。
2つの記憶が存在することによる混乱が落ち着いてくると、レナータとしての意識が徐々に強まっていた。一応、順番的にはレナータ19年分の後に梨音12年分の記憶があるのだが、人格の完成度の面ではレナータの方が圧倒的に高かったのだ。
「向こうのレナータはどうなってるんだろう」
つぶやいてため息をつく。
「レナータ様、そう気落ちなされるな。私の実験結果からすれば、彼の地の人格は元の人格寄りでありました」
「そう言ってもねえ・・・」
「重要なのはどっちの意識なのか、ではなく、より高位の人格が優勢になるということです。つまり、二つの記憶を混ぜた結果が人格として残るというわけですから、レナータ様の今の状態と同じと言って良いでしょう。ただ、魂としての意識が違うだけで、ほとんど同じ人格です」
「そうなのか・・・」
そうであれば、レナータ・ディ・スカファーティーとして自分の体を取り戻す意義はあるのだろうか。侯爵家令嬢として期待されるべき結果は既に・・・
梨音は頭を振った。
「今は、とにかく生き抜くことが先決。そのためにもこちらの世界の知識を少しでも多く、早く手に入れねば」