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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼姉妹

作者: 楠羽毛

 玄関の戸をくぐる。姉のたのしげな声と、すこし緊張しているらしい男の相槌がきこえてくる。姉がまた男をつれてきたらしい。

 お勝手に買い物袋をおいて、なまものを冷蔵庫にしまっていると、姉によばれた。こちらにくる手間もかけず、きて、と味もそっけもない大声。男がいるときはいつもそうだ。

 姉が男をつれこむのはいつものことだ。だから私も、べつにおどろきもしなかった。

襖をあけて、男の顔をみるまでは。

 初老の男だった。私の様子をみて、ふと気付いたように男も目を丸くした。

 鏑木先生。

 男は私の恩師だった。


 ──こんやはとまっていかれるんですか。

 つとめて平静な声で、私はそういった。そのつもりだったんだけど、と先生は落ちつかなげに答えた。姉はそしらぬげに横をむいていた。

 私のいた霧島女子高等学校につとめていたころより、先生はだいぶ老けた。目元の皺はいちだんと深く、髪の量も半分ほどに減っている。やさしげな目はしょぼくれていた。

 姉はもうすこし若い男が好みだと思っていたのだけれど。

「三倉さん、……」

 先生はためらいがちに声をかけてきた。私は人参を切る手をとめて、返事をした。

「はい」

 うん、とかすかにつぶやく声がきこえて、それからしばらく先生は黙っていた。

「先生」

 私は聞いてみた。

「なにかお食事の好みはあります?……もう買い物はすませてしまったから、お応えできるかどうかわかりませんけど」

 いや、とちいさな声で先生はいった。

 好き嫌いはないんだ。なにも。

 そうですか、とだけ言って、私は料理を続けた。今日のメニューはもう決まっている。なすのしぎ焼きと、うすく切った人参とレタスのサラダ。いまさら変更したくなかった。

「……ここは不便なところだね」

 ええ、と私は答えた。先生はまた黙ってしまった。そっけなく聞こえたのかもしれない。まずい話題を持ちだしてしまった、とでも。

 仕方なく、私は続けた。

「父の気まぐれで、こんなところに引っ越すことになってしまって。……静かなのはいいんですけど、周りにはほんとうになにもないし。せめて、自転車で買い物にいけるくらいのところだったらよかったんですけど」

「うん、……」

 先生はどうも煮え切らない。

 ここには本当に何もないのだ。隣家さえも。廃屋と森があるばかりで、いちばん近い隣人の家まで車で十分もかかる。

「……お父さんは?」

「父は死にました。ここに越してきてすぐだから、四年前かな。姉から聞いてませんか」

 答えると、先生はまた黙りこくった。

 どうにも気づまりだ。

 私は話題をかえようと口をひらいたが、先生の声がさきに届いた。

「……いや、聞いているよ。……」

 きいたよ、君のことも。牧子さんから。

 先生はそれだけいって、また黙った。

 それっきり、私たちはなにも話さなかった。


 私が霧島女子高等学校を卒業したのは、四年前のことだ。先生はそれより一年前、他の学校に赴任していった。私たちは二年間、先生に国語をみてもらった。

 先生はいつもやさしくて、怒ったところは二、三回しか見たことがない。私はべつに先生のお気にいりというわけではなかったと思うが、最後の日には、なぜか緑色の原稿用紙帳をもらった。私が小説を書いているのを先生は知っていた。

 同級生から、ことづけとともに帳面をうけとったとき、私は先生を見送らなかったことを少しくやんだ。


 姉と私はいつも同じ部屋で寝ているが、姉に男がいるときには、私だけ二階で寝ることになっている。男といるときの姉は別人のようだ。甘えたり、やさしくしたり、ときにはどなりつけたりして、いつもゆだんなく隙をうかがっている。

 最初は、若い男だった。姉とは大学で知り合ったらしい。乱暴でがらのわるい男だった。

 二人目は、姉が町でみつけた男で、今の先生より年上。少し父さんに似ていた。

 三人目は若い男。少し頭の回転が遅いようなところはあったけど、気のいい人だった。

 先生が四人目。それが、姉がこの四年間でこの家につれこんだ男のすべてだ。どの男もどこか似ているような気もするし、そうでないようにも思う。とにかくこの四年間で、私は見知らぬ男と同居することに慣れた。

 どうせ、長いことは続かない。

 私は布団のなかで、先生がいなくなるときのことを考えた。いつそうなるのかは姉が決めることだが、やがてその日は確実にやってくる。

 明日か、三日後か、一カ月後、それとももしかして半年くらいは続くのか。


 翌日になって、先生は帰るといった。あら、と私がつぶやくと、姉はにこにこと笑いながら説明した。いったん荷物をとりに帰るの。またすぐ戻ってきて、それからここにずっとすむの。私たちといっしょに。

 そういうことになったみたいだ、と先生は照れながらいった。先生にはもう家族もないし、今は仕事もしていないから、引っ越しは簡単らしい。私は少し胸が痛んだ。

 先生を助手席にのせて車にのりこむとき、姉は私の耳元に唇をよせて、夕飯はコロッケがいいな、とささやいた。私はうなずいた。二人は笑いながらでていった。

 私は洗濯物をほしおえてから、バイクにのって買い物にでた。

 陽はもう真南にある。今から駅まで送るということは、どうせ姉は夕方まで帰らないのだろう。昼食は適当にすませればいい。

 今日がスーパーの定休日でなくてよかった。食事のリクエストに応えられないと、姉はひどく悲しそうな顔をする。人里までは、バイクで山道を十五分。町まではさらに三十分。駅のあるところまではもっと時間がかかる。ほんとうにここは不便なところだ。

 きのう買い物をしたから、実はたいして要るものもない。コロッケをつくるためのじゃがいもと挽き肉だけ。買い物はあとまわしにして図書館にでも寄ろうかな、と思っているうちに、スーパーに着いてしまった。私はいつもぼんやりしていて決断がおそい。

 野菜と肉をかうだけなら、もう少し家に近いところにある商店街でもよかったのだけど、私はこの大きなスーパーが好きだった。いろんなものが売っているし、人が多い。きれいに並べられた色とりどりの棚をながめて歩いているだけで嬉しくなってくる。そのせいで、余計なものまでつい買ってしまうこともあるけれど。

 じゃがいもと、肉と、それから切らしていた原稿用紙を買って店を出たとき、知り合いに声をかけられた。高橋さんだった。

 高橋さんは中年の夫婦で、子どもはいない。いつもは奥さんがひとりで買い物をしている。今日は旦那さんの休日らしい。

「久しぶりね! ねえ、お元気?」

 はい、おかげさまで。……姉も元気です、とつけ加えると、旦那さんが首をかしげた。

お姉さんとふたり暮らしなのよ、ほらこの間もいったでしょう、と奥さんがいう。

 ああ、そうだったな、と旦那さん。そういえば彼と姉は面識がないのだった。

 お茶でもどう、と奥さんにさそわれて、私たちはスーパーのとなりにある喫茶店にはいった。旦那さんはブレンド、奥さんはレモンティーと苺のショートケーキ、私はカフェオレ。頼むものはいつも決まっているので、私たちが口を開く前に奥さんがてきぱきと注文してしまう。お前、そんなにせっかちじゃ、と旦那さんがゆったりした声でいいかけるが、いいじゃない、と奥さんは意に介さない。紀子ちゃんだってたまには他のものが飲みたいかもしれないじゃないか、あらそんなことないわよねェ。私がうなずくと、二人とも自分に同意したと思ったらしく、にっこりと笑ってお開きになった。

 あいかわらずあそこに住んでるの、とレモンティーに口をつけて奥さんがいった。

「ええ」

 私はうなずいた。

「あんな不便なところ──。せまくったって町にアパートでも借りれば、ずっといいのに」

 奥さんはいつもそういうのだった。私の返事もいつも同じだった。

「父が選んだ家ですから。それに、姉があそこを気に入っているし」

「そんなの気にしなくたって。」

「いいんです」

 きっぱりとそう言うと、奥さんはそれ以上なにも言ってこない。ひとにはひとの事情があるんだから、と旦那さんが小さくつぶやいた。

「それにしたって、──そのために大学もさ」

 奥さんはめずらしくいいよどんだ。旦那さんが助け船をだすように仕事の話をはじめて、私と奥さんは聞き役になった。旦那さんは昇進が近いらしかった。でもまた転勤することになるかもしれない、と小さな声でいうと、奥さんが大きな声で笑って背中をたたいた。そんなこと! どこにだってついてくわよ。身軽なんだもの。

 せっかく家をたてたんだが、と続けると、奥さんはまた笑った。気にしないで、なんならあたし一人ででも住むし。──そうだ、紀ちゃんに借りてもらえばいいじゃない? どう格安よ、駅には遠いけど便利だし、そこそこに広いし。

 私は旦那さんと一緒に笑って、冗談にまぎらしてしまった。奥さんはなかば本気らしかったし、私も少しは心ひかれるものがないではなかったのだが。とはいえ、あの家を離れることは考えられない。

 それから、奥さんの実家のことや選挙のこと、スーパーの品揃えのことなんかを話して、喫茶店をでたときには、もう陽はだいぶ西へとうつっていた。

 喫茶店でなにか食べればよかった、と私はおもった。奥さんのペースにのまれて、昼食を食べていないのを忘れていた。やっぱり私はぼんやりしている。

 いまさら外食するのもおっくうだった。家に帰ればもう夕方近くだ。姉はもう帰っているかもしれない。とにかく戻ることにした。


「おかえり!」

 玄関の戸をあける音をききつけて、姉はほがらかに叫んでかけ寄ってきた。

「早かったんだね」

 私はそういうと、姉のわきをぬけて台所へむかった。どうせすぐ使うのだが、買ってきたものはすぐ冷蔵庫に入れるのが習慣になっている。

 洗濯もの、と姉が少し小さな声でいった。え、と聞き返してから、気がついた。

「いれといてくれたんだ?」

 そういうと、姉はうれしそうに、ほんの少し目を伏せながら頷いた。私は姉に礼をいって、じゃがいもとお肉を冷蔵庫にしまった。

 コロッケね、と姉はほおえんだ。それから、「手伝うよ」、と。機嫌がいいらしい。

「まだ少し時間が早いから 」私は時計をみて、「六時ごろになったら、ね」

 うん。ねぇ一緒にいていい?、姉はそういって私についてきた。私はかまわずに奥の部屋にいって、書きもの机のところに座る。つみあげた原稿用紙の束をつんとそろえて、新しいのにペンを走らせる。あまりすらすらとはいかないけれど。

「今は何をかいているの」

 しばらくしてから姉がそう尋ねてきた。姉は私が書きものをしている間じゅう、横に座っている。これはよほど機嫌がいいか、ひと恋しいときの仕種だ。今日はどちらだろう。

「恋のお話」

「恋の?」

「そう」

 見る? と言ってみたが、姉は首を横にふった。これまでにも姉には何度かみせたことがあるが、まともに読んでいたためしはない。気が向けば読んだふりはするけれど。

 してみると、今はそういう気分でもないらしい。

 ねえ、と一段落ついてから、私は声をかけた。姉は体育座りの格好をして、じぃっとこちらを上目づかいに見ている。寂しかったのね、と私は口のなかでつぶやいた。

「そろそろご飯の用意しようか」

 そう言って私は立ち上がった。正座のせいで、かすかな痺れがくるぶしに淀んでいる。この家に引っ越して四年。椅子のない生活にもだいぶ慣れたはずだけど。

 姉はじゃがいもをつぶすのを手伝ってくれた。

 夕食の後、私たちは一緒に入浴した。お風呂が広いのだけがこの家のいいところだ。二人して浴槽のなかで思い切り身体を伸ばしても、まだ余裕がある。

 ふと気づいて、私は姉に聞いてみた。

「先生ともお風呂に入ったの?」

 えぇ、と短く息をついて、姉は目をつむった。

「しりたいの?」

 やけに深刻な声音でそう言われたので、私は困った。なんの気なしにきいただけなのだ。

 姉は一人で浴場を出ていってしまった。


 姉はふてくされたようにかけ布団のうえに寝転がって本を読んでいた。

 めったに活字など目を通さないくせに。ぱたぱたと退屈そうにばた足を動かして、片肘をついて眉根を寄せている。

 私は姉にかるく声をかけて、となりの布団に入りこんだ。ゆうべは姉と先生が使った部屋だ。先生はどちらに寝たのだろう。ふとそんなことを思う。

「紀子」

 姉が少し沈んだような声でいった。

「あの人と知り合いだったって言わなかったね」

「先生のこと?」

 私は上体を起こして聞き返した。姉はうなずいて、

「四郎さんのこと」

 そうだね、と私はいって、姉の顔をみた。姉はいつのまにか本をよむのをやめて、仰向けに寝転がっていた。

「紀ちゃん」

 ほんの少し甘ったるいものが混じった低い声で、姉はまた私を呼んだ。

「四郎さんのこと、すきなの?」

 いいえ、と私がいうと、姉はふうっと大きく息をついた。

 それから、また、

「紀ちゃん。私のこと好き?」

 いいえ、と私がいうと、姉はすこしのあいだ息をとめた。電気消すよ、と声をかけて私は立ち上がった。部屋が暗くなると、足首に何かが触れた。

 姉の手だった。

 横になると、金縛りのように身体の上に重みがかかった。姉の体温がじかに胸に触れた。汗ばんだ手が、私の首にかかって、押し殺したような声が、

「うそつき」

 部屋は真っ暗だった。姉の顔をみたいと私は思った。


 朝になって、私は寝乱れた服をととのえて布団からでた。

 みそしると玉子焼きの朝食をつくっていると姉が起きだしてきた。とりあえず、ご飯と汁だけを食卓にだして、姉にたべさせた。

 少しして、姉がぽつりといった。

「私は、鬼だね」

 私はふりむかなかった。


 その日は掃除をして、庭の草むしりをして一日を終えた。姉は出かけていた。

 先生は三日後にやってくるということだった。


 こともなく三日がすぎて、黒いワゴン車にのって先生がやってきた。先生はくたびれたグレーの背広をきて、いささか恥ずかしそうに車をおりて私に会釈した。姉は意味ありげな視線を私によこして、先生のわきにねりつくように歩いた。

 家具なんかはみんな処分してきたらしく、荷物は少なかった。ダンボール箱に七つほど、三人で運び込むのに二十分もかからなかった。そのあと家に入ってお茶にしたが、先生はどこまでも遠慮がちで、身のおきどころがないみたいだった。

 姉が目で促したので私は出かけた。ちょうど不燃ごみの日だったので、ごみ出しのついでに街にでて午前中をそこですごした。図書館で二冊の本をかりて、昼になるころをみはからって家にもどると、姉は先生と部屋にとじこもっていた。

 玄関から一声かけたけれども返事がなかったので、私は一人でお昼ごはんをたべて、二人のぶんを食卓におき、洗濯機をまわして二階で書きものをはじめた。

 ほしおえた汚れものが乾くころに、からりと襖があいて、先生が入ってきた。

 ノックしたんだけど、と先生はいった。襖にノックというのもどうかと思うけれど。原稿用紙にちらりと目をやって、書いてるの、とつぶやくようにいった。

「ええ」

 そういって私はふりむいた。先生はなんだか目のやりばに困っているようにみえた。

 姉は、ときいてみた。下に、と小さくいっただけだった。

「そうですか 」

 会話が途切れた。

 私は気まずさを破ろうと話題をかえた。「どうして姉と?」

 それは、と先生は曖昧に頷いて、口をつぐんだ。それから話題をかえて、

「……何を書いてるのかな」

「小説です」

「そうか、」と先生は、左眉を軽くあげて頷いた。そういえば君は。

 なつかしい仕種だった。

「そろそろ行きますね。夕飯の支度もしないといけないし」

 私は立ち上がって、先生のわきをぬけて部屋をでた。

 重たげな足音が少しあとからついてきた。


 夕飯どき、姉はずっと上機嫌だった。先生のとなりにすわって、最初からさいごまでぺちゃくちゃと内容のないおしゃべりを続けていた。

 先生はなぜか嬉しそうだった。


 はやめの夕食をおえて、私たちは外にでた。このあたりは本当に山深くて、ふつうに歩いていける範囲には誰もすんでいない。けものならいるかもしれないが。

 姉が急に星を見ようといいだしたのだ。

 こういう気まぐれは男がいるときに限られている。いつもなら二人でいかせるのだが、今日は私にもついてきてほしいらしい。先生とうまくいっていないのかもしれない。

 空はきれいだった。私たちには見慣れているのでどうということもないが、先生は感嘆したようだった。姉は先生と腕をからませて一緒に歩いていたが、そのうちふいと離れてこっちに寄ってきた。

 ──あの星! きれいでしょう。

 そうね、と私はこたえて先生のほうをちらりとみた。退屈そうにしている。

 あれはオリオン。海神の皇子。

 ねえ、と私は小声で姉にきいてみた。

「先生とどこで知り合ったの?」

「道で!」

「道で?」

「そう、A市の繁華街でね、ひとりで歩いてたから声をかけてみたの。二カ月くらい前かな、それで知り合って。すぐよ、すぐ!」

 姉は楽しそうにいった。

 A市、と私は小さくつぶやいた。そんな遠くまで出ていたとは知らなかった。

「ねえ」

 先生がこっちへ来た。

「そろそろ戻らないか? 寒くなってきた」

「そうね」

 姉が同意した。私と話すときよりワンテンポ早く。

 じゃ、といって姉は私に手をふった。一人で残っていろということらしい。

 先生が何かいいたげにしていたが、かまわなかった。


 それから、ひとりで星をながめてすごした。

 月が明るいので、寂しくはない。姉がいるときにはあまり一人にはなれないので、こういう機会は貴重でもある。まして、今は同居人がいるのだし。

 そういえば先生は結婚していたはずだが、奥さんはどうしたのだろうか。

 姉のために捨てたのか。それとも死別でも。いずれにせよ、たった二カ月で何もかもひきはらってやってくるとは尋常ではない。


 尋常でないのは先生だろうか? それとも姉?

 それとも。


 月が雲にかくれてだいぶ暗くなった。街燈でもあればいいのに、と思う。

 これでも四年前までは大都市にすんでいたので、この不便な場所に慣れるまではだいぶかかった。出ていこうと思ったこともある。

 今はもうそんなことは考えないけれど。


 父はなぜこの土地にくることを決めたのだろう。


 姉はことのほか気に入っているらしい。しょっちゅう遊びにでているわりには、帰ってくると嬉しそうにしている。私には何がいいのかわからない。


 静かだし、書きものをするには悪くないかもしれないが。

 それにしたって、──


 なにひとつ考えのまとまらないまま、三時間後に家にもどった。

 ただいま、と声をかけて家にはいったが返事はなかった。あかりも消えていたが、眠っているわけではないようだった。

 私はひとりで入浴して、一時間ほど書きものをして寝た。


 翌日はずっとひとりですごした。姉も先生も家のなかにいたが、ほとんど顔をあわせなかった。書きものがはかどって嬉しかった。一度だけ郵便がきたようだ。


 さらに翌日、姉はどこかに出かけてしまった。

 先生を残して突然家をあけられても困るのだが、ついでの買い物を頼んでしまった手前もあって、そうそう愚痴もこぼせない。なにか急用らしくもあった。

 出掛けに先生とキスをしていた。


 居間でのことだった。

 二人になってすぐ、先生は、少し無理のある笑みをうかべて話しかけてきた。

「三倉さん、」

「はい」私はよどみなくそうこたえる。

 またすこし黙りこんでいたが、

「とつぜん一緒に住むことになっちゃって──」

 もごもごと続けていたが、あとはよく聞こえなかった。

「いいえ。……別に」

 初めてではありませんから、とは言わなかった。口止めされているわけではないが。

「驚いたろ? いきなり……」

「そうですね。まさか先生が。」

 うん……。と曖昧につぶやいて、先生はまた黙ってしまった。

 私はおもいきって、

「あの、失礼かもしれませんが」

「何?」

「奥さんは、……どうなさったんですか」

 先生は少し眉をくもらせて、口もとだけで笑った。

「別れたよ」

「それは……」

「いや、捨てられたのかな」

 先生はすばやくいった。私は口をはさむひまをみつけられなかった。

「ちょっとしたことがあって。妻は出ていった。だから独身なんだ、今は」

 私はちょっとめんくらったが、すうと息をついたのにあわせて、

「そうですか、」と相槌をうった。

「うん……」

 また沈黙がやってきた。私は失礼しますね、といってたちあがった。そのとき、先生が口をひらいた。

「三倉さん。……お願いがあるんだけど」

「はい、……なんですか?」

「君のかいたものをみせてくれないか?」

 べつだん断る理由もなかった。


 先生は、真剣な目つきで原稿用紙をめくった。十年ちかく書きためたダンボール箱一杯の原稿を、まさか全部読んでしまうつもりかと、私は少し心配した。

 途中で少し手をとめた先生に、ふと思いだして私はいった。

「そうでした、……先生。」

「なに?」

「あの、……五年前にくださった原稿用紙帳。どこかにやってしまって」

「ああ……」

 先生は顔もあげず、そうか、といった。

 私は立ち上がって、食事をつくるために部屋をでた。


 昼食の用意をができても、先生は書きもの部屋をでてこなかった。


 夕方になってやっと出てきて、ありあわせのお茶漬けをたべながら、先生はいった。

「あれは、……」

 思案げに、というよりもどこか迷っているような。

「なんというんだろう、……ぼくも、昔は小説家をめざしていたけれど」

 ぼくも、といわれるのは少し心外だった。私はもの書きを職業にしたいわけではないのだから。

 ただ書いているだけだ。息をするのと同じように。

「君は、……そういうつもりはないのかな」

 私の表情でわかったのか、先生は尻すぼみにそういった。私は、はい、と頷いた。

「そうか。……もったいないな」

 先生は、ゆっくりとそう言った。

 それは賛辞だった。

 この家にきてからはじめて私の目をまっすぐに見て、先生は。


 夜になっても姉は帰ってこなかった。

 この家には電話がないから、連絡がないのはあたりまえだが、つれこんだ男をほったらかして外泊したことは今までになかったので、少し心配した。


 少し話をしないか、と先生が言った。

 私はもう寝るばかりだったので少しためらったが、とにかく階下におりて、ふだん姉と使っている寝室に入った。

 障子があけはなたれていた。

 先生は縁側にすわって空をみていた。月光と星のあかりがまぶしかったので、私は電気を消した。先生はおや、という顔をしてこちらを見た。

「お話って?」

 私はそういって先生のとなりにすわった。風が出てきたようだ。髪が耳に巻きついてうっとうしい。

「別にたいしたことじゃないんだ」

 ひどくリラックスした声で、先生はそういった。

「いろいろと考えを整理したくて……」

「姉のことですか?」

「それもあるけど」

 先生は空をみていた。私のほうではなく。

「昼間、君の小説を読ませてもらったろ」

「…ええ」

「ぼくは……」

 先生は何かいいかけてやめた。

「いや、やめとこう。口に出して言うようなことじゃない」

「……今日はおしゃべりなんですね」

 私はおもわずそういった。先生はすこし目を大きくした。皮肉を言ったつもりはなかったのだが。

「……そう、少し気が大きくなってるのかもしれない」

「そうですか、」

 私は戸惑った。かるく息をついてから、

「すこし……意外だっただけです。昔とずいぶん違うから」

 昔と、と先生はおうむ返しにつぶやいた。私は続けた。

「五年前と。霧島女子にいた頃。」

「ああ……」

 先生は月からほんの少し目をそらした。直後、雲が動いて星あかりがかげった。

「君はずいぶん印象が違うな」

 先生はそういって、今度はまっすぐ私のほうをみた。

「なんというか、その。……だいぶ変わってみえる」

「そうですね」

 私はうなずいた。

「変わったかもしれません」

 ここにきてからの四年間で、私は確かに変わったのだと思う。街にいたころのことは、今では遠い思い出にすぎない。

「あのころから書いていたのかな。……その、ああいうものを」

「いえ、……」

 先生の言葉にこめられたニュアンスをはかりかねて、私はいいよどんだ。

「……もっとずっと前から。ものごころついたころにはもう始めていました」

「そう、」

 先生は曖昧に笑ってうなずいた。

「君みたいなのを、──というんだろうな」

 なかば一人ごとのような口調だった。私にはよくききとれなかった。

 私は話題をかえることにした。

「ねえ、……どうしてこんなところに来る気になったんですか?」

「こんなところ?」

「だって……」

 そこまで言って、私は違うことを考えていたことに気がついた。

 小さく息をついて、私は言いなおした。

「……父がどうしてここを選んだのか、ずっと気になっていたんです」

「お父さんが?」

「父はここにきてすぐ死んだので、結局わかりませんでした。仕事をやめて、強引に私たち二人をここに連れてきたんです。何か考えがあったのだとは思うんですけれど」

 そう、と先生はいって、庭のほうに目をやった。私はどきりとした。

「ここはいいところだと思うよ」

 なにか別のことを考えているような口調で、先生はいった。

「都会人の感傷かもしれないけど、おちついていて……」

「そうですね」

 私は先生の言葉をさえぎった。

「ほんとうのことをいうと、私もここは嫌いではないんです」

 そう言いながら立ち上がると、なぜか自然に笑みがこぼれた。

「静かだし、書きものをするのに邪魔が入りませんから。……それだけあれば、後のことはどうだっていいんです」

「よほど書くことが好きなんだね」

「そうでもないです」

 私は首をふった。

「そうじゃなくて、……別になんということもないんです。息をするのと同じことで、していないと苦しくなるだけなんです。書いていれば他のことは気にならないし」

「やっぱり君は本物だな」

 先生は笑った。私はなんだか楽しくなって、くるりとその場で回った。


 姉は次の日の早朝に帰ってきた。ひどく不機嫌な様子で、家に入るなり私が寝ている部屋にとびこんできた。

 どうしたの、と問うひまもなく。

「紀子」

 姉は声を押し殺して私にささやいた。

「典久の身内がいぶかってる」

 のりひさ。

 私は口のなかで繰り返した。その名前を思いだすのに時間がかかった。

 姉がこの家に最初につれこんだ男だ。

「……どうするの」

 私はあおむけに寝たまま、間近にある姉の顔をみあげていった。

「どうもするもんか」

 姉は震えながら歯をむいた。叩きつけるような声音で、

「どうもしない。都会の人間はこんなところまで来ないよ」

 そう、と答えた私を憎むように。

「紀子あんた、」

 姉の爪が肌にくいこんだ。

 体温が高くなっている。ここまで走ってきたわけでもあるまいに、ひどく汗ばんで。

「私は、」

 しぼりだすようにそうつぶやいて、姉はことばを失った。

 あとは泣き声だけだった。


 朝食のあいだじゅう姉はうわの空だった。先生は逆に饒舌で、機嫌よく姉に話しかけたりしていたが、すれちがうばかりだった。

 たべおわると姉は二階の書きもの部屋にいってとじこもってしまった。先生の姿もなくなっていた。何度か怒鳴り声がきこえた。

 私がひととおりの家事をおえるころ、姉がやってきて言った。

「午後はでかけてもらえる?」

 私はうなずいた。それだけで済むものだと思っていたが、姉は後ろから私の首に手をまわして、甘えるように囁いてきた。

「……べつに文句はないでしょう? 紀ちゃん」

「なんにも。でも今回はどうして?」

 そう聞いてみたのは、べつに深い意味があってのことではない。ただの興味だった。

「べつに……」

 姉は怒っているようだった。耳たぶを噛まれて少し血が出た。

「いつもとおんなじ。あなたの話ばっかりするんだ。こんなときに」

「そう、」

 いつもとおんなじ、か。毎回そうだったわけではないのだが。

「紀ちゃん、あの人はねえ」

 姉は私を懐柔しようとでもしているようだった。

「奥さんにすてられたのよ。女の子に手をだして」

 私はおもわずききかえした。 女の子に?

「生徒にね。だからくびになって、何もかんも失ったの。そこをあたしが拾ったってわけ。やってないって言ってたけど、どおだか」

 姉は早口にそういって、私の機嫌をうかがうように目をあわせた。

 私はとりあわなかった。


 昼食のとき、姉は妙に機嫌がよかった。

 先生も嬉しそうだった。


 家を出るとき、先生とすれちがった。

 何か言おうと思ったが、何も思い浮かばなかった。


 私は家を出た。


 足が少し震えていた。はじめてのことでもないのに、動揺しているのが自分ではっきりとわかった。バイクにまたがろうとして二度転んだ。


 最後に見た姉の笑顔が脳裏に染みついていた。


 山道で鼬を見た。こっちを見て笑っている気がした。


 いろんなことが脳裏に浮かんできた。父と姉と母、家のこと、男たちのこと。


 先生で五人目だ。

 一人目は父。姉は、父のことは知られていないと思っているのだろうが。


 途中で気分が悪くなって単車をとめた。

 脇道の杉の木に寄り掛かって休んだ。呼吸が荒くなっていた。


 貧血で倒れそうだ。

 まさか私も、と馬鹿なことが頭をよぎった。もちろん、そんなはずはない。


 街についた。私はどこにも行く気をなくしてしばらく公園にいたが、やがて寒さを感じて立ち上がった。体調がよくない。

 何も考えたくなかった。

 喫茶店に入ってアメリカンコーヒーをたのんだ。いつもの喫茶店の、つい何日か前に座った席にまた来ていることに気がついた。注文はちがっていたけれど。

 なぜか目の前に、同じ顔があった。

 紀ちゃん、と呼ばれた。姉の声かと思った。

 気がつくと高橋さんが隣にいた。どうしたの、と問われて、とっさに何も言えなかった。

 どうしたの、顔がまっしろ! ちょっとちょっとねえ──大丈夫、なんでもありません。やっとの思いでそう答えて、私はからだをまっすぐに立て直した。

 今日は一人で、旦那さんはいないようだった。高橋さんはウェイトレスを呼んで私のとなりに席をかえ、しきりに肩をたたいて声をかけてきた。ありがとう、大丈夫ですから、と言ってもきかなかった。しばらくして血の気が少し戻ってきた。

「すみません、ご迷惑を」

 ともかくもそう言って、私は深呼吸をした。ふしぎに気持ちは落ち着いていた。

「大丈夫なの?」

 しんそこ心配そうに高橋さんはそう言ってくれた。私はうなずいた。身体が熱かった。


 一時間ほどして、私は店をでた。高橋さんは、自分の家にきて休むようにと言ってくれたが、断った。

 しばらく近所をうろうろしたけれども、結局いきどころもなくて帰ることにした。もう山道をバイクで走る自信はなかったので、歩くことにきめた。今からゆけば帰りつくのは夜中近くになる。かえって丁度いいかもしれない。

 スーパーの駐輪場にくるまをとめて、街をでた。

 人通りのだんだん少なくなる道をぬけて農道にはいり、山へとぬけていく。ずいぶんな距離を歩いたはずだが、ふしぎに疲れは感じなかった。

 山道のなかばをぬけたあたりで、はじめて足の痛みを意識した。荷物がなくてよかった。

 それから三十分ほど歩いて、少し休んだ。


 おなかがすいた。


 ふいに、典久さんのことを思いだした。

 典久さんは、姉よりひとまわり大きな人で、よく暴力をふるっていた。

 姉は彼といるときにはまるで下僕のようだった。

 私は気に入られていた。彼は私のまえで姉をさげすむことを楽しんでいるようだった。

 やがて彼が姉をすてて私と関係をもとうとしたので、姉は彼を殺した。


 次にこの家にやってきたのは大井さんといって、初老の男性だった。身寄りはなくて、お金をたくさん持っていた。先生と同じように姉に声をかけられて家にやってきた。

 一カ月後に死んだ。姉は最初から計画していたらしい。


 良幸さんははたち前後の青年で、姉とはインターネットで知り合ったらしい。

 彼は、ここに住むようになる前に一カ月ほど姉と交際していて、何度か遊びにきたこともある。気は弱いけれどもとても優しい、いつもにこにこと笑っているような人だった。

 姉は本気で彼を愛しているのだと思っていたが、結局、三日しか続かなかった。

 彼を殺した理由は私に色目を使ったからだというが、私には身に覚えがない。

 もっとも、私はたしかに彼のことが好きだった。姉はそれに気づいていたのかもしれない。しょせん片思いにすぎなかったけれども。


 姉がいつからそんなふうになったのかは私にはよくわからない。

 典久さんと暮らしているうちか、その前、父の死のときか、もっとずっと前からか。


 少なくとも父の死については、姉に責任があるはずなのだが。


 家につくころにはさすがに疲れきっていた。居間の電気がついていたので、玄関から入ってすぐそちらに向かった。ただいまをいう気力もなかった。

 居間と台所のあいだに血がこぼれていた。

 私は異常を感じて、居間へとむかった。卓袱台の上に、倒れたコーヒーカップと湯飲みがあった。血痕は居間から台所へと続いているようだった。

 台所で、先生と姉がもつれあうようにして倒れていた。死んでからかなりの時間が経っているようだった。先生の口もとからは血が流れていた。

 姉の胴には傷があった。先生の体の下から刃物のようなものが覗いていた。

 姉は失敗したらしかった。


 私は深呼吸をした。頭が真っ白になって、そのかわりにひどく落ち着いていた。


 台所の流し台の横に、姉がいつも使う薬の瓶があった。

 私はまずそれを始末して、姉と先生の遺体を、姉がいつもするとおりに処理した。

 姉は典久さんのとなりに。先生は、月がよくみえる縁側のすぐ脇に。

 畳を拭いて裏返し、目についたかぎりの血をすべてきれいにした。すべての作業を終えるのに、翌日の昼までかかった。私は街で線香を買ってきて、二人を埋めた場所に一本ずつそなえた。姉はそんなことはしていなかったけれど。

 それをやり終えたとたんに力が抜けた。

 これからどうなるのだろう。ふとそんなことを思う。

 ともかくも、何か食べなくては。

 私は昼食をつくりに台所へとむかった。昼食をたべたら洗濯をして、ほしおえたら小説をかこう。時間はたっぷりある。まだまだ書かねばならないこともたくさんあるのだから。


 ──鬼は私のほうだ。


 私はそう口のなかでつぶやいた。先のことはもう何もわからなかった。



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