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値打ちもの

作者: HK15

1.


 その客は、50過ぎの小柄な男で、地味な身なりをしていた。軽く片足を引きずっていた。

 「ええと──阪口サカグチさん。それで、ご用件というのは……」

 私は客──阪口に席をすすめながら尋ねた。冷たいウーロン茶をコップに注いで出す。

 「カバンを──」阪口はズボンのポケットから取り出したタオル地のハンカチで、広い額の汗を拭いながら答えた。平たい顔は明らかに焦慮に曇っている。「カバンを盗まれたんです。あれがないと、本当に商売に差し障るもんで……」

 「おう、なんとまあ。警察には届けられましたか……」

 「もちろんです」阪口はうなずいた。が、すぐに顔を曇らせて、「ですが、すぐには見つからないでしょう、と言われてしまって。それじゃ困ると言ったんですが……」

 そこまで言うと、阪口はコップを取り、ウーロン茶をぐいぐいと飲んだ。フーッとため息をつく。コップを置いて、また汗をぬぐった。汗をかいているのは、きっと暑さばかりが原因ではないのだろう。

 「まあ、最近は、警察も人手不足ですからね」私は空になったコップにウーロン茶を注いでやりながら言った。「それで、どうして私のところに来なさったんです……」

 「ええと、最初はK──事務所を紹介されたんです」阪口は都内大手の探偵事務所の名前を出した。以前、私もそこで働いていたことがある。「ですが、そこでも体よく断られてしまって。で、こちらを紹介されて」

 よくある話だ。最近は警察ばかりでなく、大手探偵事務所も仕事が増えまくっててんてこ舞いになっている。だから、こうやって私のような零細の私立探偵がその下請けでなんとか食っていけるというわけだ。治安悪化万歳というところではある。犯罪に巻き込まれる人たちにとっては気の毒なことだが。

 まあ、そんなことは今はどうでもいい。私は営業用の笑顔を浮かべ、メモパッドを手に取って言った。

 「では、事件前後の状況について話していただけますか」

 「はい」阪口はうなずき、「私は古物商を営んでおりまして、2日前にお客様に頼まれた品物を仕入れて、店に戻るところでした」

 「ふむふむ。それで……」

 「その日はちょうど、車を車検に出していたので、私は電車を利用したわけです。取引先と汐見運河沿いの倉庫で会って品物を引き取り、それから潮見駅に向かいました。ちょうど午後3時くらいでした」

 「で、その途中でカバンを盗まれたと」

 「はい」阪口は無念そうに顔を歪めた。「暁橋を越えて、交差点をひとつ越えてしばらくしたところで、──後ろからブーンとスクーターの音が近づいてくると思ったら、あっと言う間にカバンをひったくられたんです。私はそのときに転んでしまって、したたか身体を打ったもんですから、立ち上がるどころかすぐに声を出すこともできなくて、そうこうしてるあいだに、スクーターはどこかに行ってしまったんです」

 「ふむふむ。それはまたひどい目に遭いましたねえ……その犯人ですが、何か特徴は覚えていませんか……」

 「うーん」阪口は腕組みし、首をひねった。「顔はよく覚えていません。相手はヘルメットをかぶっていたので……体格もそんなに特徴があったわけでは……」

 「何か、服装でも何でもいいので、思い出せることはないですか……」

 「ううーん……そうだ、そういえば、犯人は青いスクーターに乗っていました。ちょっと変わったデザインだったと思います」

 「青いスクーターですか、なるほど」私はメモパッドから目を上げ、「それから、盗まれたカバンの特徴を教えていただけますか……」

 「ブリーフケースです。サイズはこれくらいで──」阪口は身振り手振りで大きさを示した。ごく標準的なサイズと考えてよさそうだ。「色は銀色をしています」

 「なるほど、承知しました」私はニコリと笑ってうなずき、流れるようにタブレットを取り出してテーブルの上に置いた。画面に契約書を表示させる。「では、こちらの方の説明を……」

 目の前にスッと茶封筒が差し出された。

 私は目をパチクリさせてから、阪口の平たい顔を見やって、言った。

 「ええと──これは……」

 「手付金です。もし無事に取り返して下さったら、さらに100万お支払いする用意があります」

 私は茶封筒を取り上げて中身をチェックした。少々くたびれた感じの、福沢諭吉が印刷された紙切れが30枚入っていた。

 このご時世、物理貨幣リアルマネーで支払いをする理由はそれほどない──その中で割合が最も多いのは、支払いの記録を残したくないから、というものだ。つまりこの御仁は、私に仕事を頼むのを、外部の人間に追跡されたくないのだ。

 トラブルの臭いがした。

 とはいえ、阪口の言を信じるなら、この仕事を首尾良く済ませれば、なんと130万ものカネが懐に転がり込むのだ。零細の私立探偵からすれば結構な大金である。特に、私はここ最近トラブル続きで、何かと出費が続いていたから、まさに干天の慈雨というところだ……。

 「お願いします、灰田ハイダさん」阪口は必死の形相で言った。そればかりか、こっちに身を乗り出してきた。「どうかカバンを取り戻してください。私の信用にも関わるのです。どうか……」

 とりすがらんばかりの勢いの阪口をなだめながら、私は、いったいそのカバンには、これほど必死にならねばならぬほどの、どんな値打ちものが入っているのだろうかと考えていた。



2.


 阪口が帰ってから、諸々の雑事を済ませ、勤め人風の服を着て事務所を出た。日は少し西に傾いていた。愛車──少々くたびれたダイハツの小型電気自動車(バッテリーカー)──を潮見のほうに走らせる。事務所からはざっと20分というところだ。

 この何年かで東京の景色もずいぶん変わったものだが、潮見再開発地域はまだ古びた雰囲気をいくらか残していた。手近なコインパーキングに車を停めて、くたびれた建物が立ち並ぶ中を歩き出す。午後とはいえ、いささかも衰える兆しのない日差しと、大量の湿気をはらんだ熱い風のせいで、汗がとめどなく溢れてくる。ショルダーバッグからタオルを取り出して汗を拭く。何分もしないうちにタオルはじっとり湿ってきた。

 夏の日差しに照らされる路上に、人影はさして見えなかった。私はとにかく手当たり次第に話を聞いて回るほかなかった。なかなかこれといった情報は出てこなかった。暑さで頭がボーッとしてるのか、単にめんどくさいのか知らないが、誰も彼も、よく覚えてない、わからないというばかりだった。まあ、これでめげていたら探偵なんか務まらないが。

 やっと、11人目か12人目かで、私は有力な証言を得ることができた。

 「そうですねえ」いかにも買い物帰りの主婦という感じの、40絡みのその女性は、うーんと首をひねってからうなずき、「2日前の午後3時過ぎって言いましたよね」

 「はい」

 「じゃあ、あれかな……青いスクーター、でしたっけ……それに乗った男の人、確かに見ました。銀色のカバンを持ってましたよ」

 「男。どうして男だと分かったんです……」

 「その人ね、自販機の前でスクーター止めて、ジュースを買ってたんですよ。喉が渇いてたのかな、その場でヘルメット脱いで、飲みはじめたんです。その時に顔を見たんですよ」

 「どんな顔でしたか……」

 「そうですねえ、ちょっと骨張った感じで……髪の毛はちょっともじゃもじゃしてて、あとそうだ、右の頬にちょっと傷跡がありました」

 「傷跡ですか、なるほど……」

 もう少し話を聞いてみたが、彼女は、その男が潮見運動公園方面に向かったところまでしか見ていない、と言った。それでも十分すぎるほどの情報だった。私はもう少し聞き込みを続けたが、これ以上に有力な手がかりを得ることはできなかった。


 事務所に帰ってから、最寄りの警察署の地域課の知り合い、岡本オカモト巡査部長に電話をかけた。

 「灰田か」岡本は少々疲れのにじんだ声で言った。「何の用だ。今ちょっと忙しいんだが……」

 「そこを何とか」私は愛想良い口調で言った。「そんなに手間のかかる仕事じゃないので」

 かくかくこれこれしかじかと話すと、岡本は回線の向こうで鼻を鳴らし、

 「ちぇっ。俺は探偵の小間使いじゃないぜ」

 「そう言わずに。今度うまい店を紹介しますよ」

 「分かったよ。ちょっと待ってな……」

 しばらく間があった。

 「オーケイ、それらしい野郎が見つかった。名前は田中タナカヒロム、25歳。窃盗で2回、傷害で1回逮捕歴あり。右頬の傷は、2年前につまらん喧嘩でこしらえたものらしいな」

 「なるほど。ねぐらはどこか分かりますか……」

 「うん、ええと──辰巳だな。あそこの団地に住んでるようだ。今からデータを送る。いいか、読み終わったら必ず消しとけよ……」

 礼を言って電話を切った。早くに調べがついてありがたかった。持つべきものはカネとコネだ。


 翌日、私は辰巳に向かった。昨日とは違い、ジャンパーとカーゴパンツ、スニーカーという装いだ。

 少し離れたところの、守衛つきの有料駐車場に車を置いてから歩いて団地に入った。団地内にも駐車スペースはあるが、そんなところに車を置いておいたら、あっという間に鍵をこじ開けられて盗まれかねない。

 団地の近くには警備会社の哨戒ドローンがふわふわと浮いていた。都市整備局と契約して、ここの監視を行っているのだ。だが、哨戒ドローンごときで、ここの連中が萎縮するはずもない。当局としては、ここを丸ごと潰して再開発でもやりたいところだろうが、そんなことをしたらかつての西成暴動そこのけの騒乱が巻き起こるに決まっているから、こうやってお茶を濁しているのだ。

 団地に入るとすぐ、ドラム缶で焚き火を焚いて、肉か何かを焼いている連中に出くわした。傍らにラジカセを置いて、騒がしい曲をかけている。ラップらしい。それにしても、このクソ暑いさなかに野外バーベキューとは、酔狂なことだ。私が近づくと、彼らは胡乱な目つきでこちらをにらみつけた。

 「何だテメエ。どこから来やがった」

 一番年かさらしいタンクトップに短パン姿の男が、自分では凄味が効いていると思っているらしい口調で言った。色黒で、髪は縮れており、山羊ヒゲを伸ばしていた。肩をいからせるが、どうにも筋肉が足りてないと一目で分かる。おまけに歯が何本か抜けていた。

 「怪しいもんじゃない。あんたらの食事の邪魔をしようとも思ってない」私は落ち着いた口調で言ってやった。こういう手合いを相手にするには、とにかく怯えをおもてに表さないことだ。「実は、この男を捜していてね。名前はヒロムというんだが──」

 田中の顔写真を取り出して見せてやる。山羊ヒゲ男はそれをしげしげと眺めてから、「知らねえな」と言った。

 「そうかい。他のみんなはどうだね……見たことあるかい……」

 男たちはジーッと写真を見ていたが、ややあって一人が口を開いた。まだ10代くらいと思しき、東南アジア系の顔つきの若者だ。もうずいぶん昔に死んだロックスターの顔をプリントしたTシャツを着ていたが、彼がそのロックスターを知っているどうかは怪しいところだった。

 「うん、こいつ、見たことあるよ」

 「そうかい。で、こいつがどこに住んでるか、覚えてるかね……」

 「えーっとね……うーん……どこだったかな……」

 彼はわざとらしく首をひねりながら、私の方をチラッと見た。私は苦笑しながら言った。

 「いくら欲しいんだ」

 「1000円」

 「そりゃあボッタクリだぜ。100円がいいとこだ」

 「うっわー、ケチだなおっさん。じゃあ800円でどうよ……」 

 結局私たちは500円で手を打った。彼はコインを受け取ると、まわりの奴らに「ワリいな」と言ってから、

 「こいつなら、35号棟に住んでるよ。確か5階だったかな……」

 「ありがとよ」

 私はひらひらと手を振ってその場を立ち去り、足早に35号棟に向かった。

 35号棟は他の団地の建物と大差なく、薄汚れ、くたびれていた。人間の目の高さのところまでの壁には至るところにスプレーで色とりどりの落書きが描かれ、それどころかひどい焦げ跡すら目についた。どうやら誰かが火炎ビンの実験か何かやらかしたらしい。

 建物前の空き地には自転車やスクーターなどが乱雑に停められていた。その中に、青いスクーターが1台あった。丸いヘッドランプがついた、古いヴェスパを模した電動式のやつだ。間違いなく、ここに田中ヒロムのねぐらがあるに違いない。

 建物の中に入った。ロビーは散らかり放題で、床は汚れきって、もとの色が何だったか分からぬ有様になっていた。きつい臭いが漂っている。エレベーターを試してみたが、案の定故障していた。ぶっ壊れてからもうずっと放置されたっきりなのだろう。都の緊縮財政ぶりは相変わらずだ。私は肩をすくめて階段を上りはじめた。

 階を上がるごとに、散らばるゴミの量が増え、よくわからない落書きが増えた。どこからか子供の泣き声が聞こえてくる。日本語ではない複数の言語によるざわめきも。バカな政治家と頭でっかちの官僚と、欲深の資本家どもが10年ほど前に推し進めた移民政策がクラッシュしたその結果の、ここは鮮やかな一断面だった。

 そんな益体もないことを考えながら歩いていると、上から誰かが降りてくる足音が聞こえた。私はカーゴパンツの背中側に手をやった。そこに固定したホルスターから三段伸縮式のスチール製特殊警棒を抜き出し、ジャンパーの袖に隠すようにして持つ。さりげなく壁を背にするようにして待った。

 しばらくして降りてきたのは、小柄な男だった。ダブダブしたパーカーに色あせたジーンズ。フードをかぶっていて、顔つきはよくわからない。その男は、私の方をチラッと見たが、すぐに階下に降りていってしまった。私は緊張を解き、特殊警棒をホルスターに戻すと、再び階段を上りだした。

 5階に到着した私は、一番近くの部屋のドアをノックした。しばらくして出てきたのは、やけに派手な目鼻立ちの女だった。その女は私を見るなり、訳の分からない言葉で何かまくしたてた。中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 「えーと、すまないんだが、言ってることがわからない。わかるのは日本語と英語、それに中国語が少々なんだ。なああんた、聞いてるか……アイキャントアンダスタンユア……」

 「あ──あんた誰か。何の用。ワタシ貧乏、おカネない」

 女はまずいアクセントの日本語で言った。私はヒロムの写真を取り出し、この男を捜してるんだが知らないか、と尋ねた。

 「あー……このヒト、あそこの部屋にいる。でも今いるカ知らないヨ」

 女は3つ向こうのドアを指さして言った。

 「そうかい、ありがとさん」

 私が軽く頭を下げるのと、ドアがバタンと閉じられるのは同時だった。私は肩をすくめて、教えられた部屋まで行った。ノックしてみた。返事はなかった。私はちょっと考えてから、

 「すいません、田中ヒロムさん。いらっしゃいますか。お届け物です……」

 と言ってみた。やはり返事はなかった。留守なのだろうか。私はドアの鍵を試してみた。

 ドアは開いていた。

 イヤな予感がした。

 部屋の中に入った。ひどく散らかっていた。空になったカップ麺の容器、清涼飲料水のボトル、缶ビールの空き缶、潰れたタバコの空き箱、漫画雑誌などがそこら中に散らばっていた。ゴミ溜めのようになった流しからひどい臭いが漂っていた。

 ヒロムは窓際の、発泡スチロール(スタイロフォーム)製の安いベッドの上に横たわっていた。パンツ一丁だった。近づくまでもなく、死んでいるとわかった。眉間に小さな風穴が開いていた。見開かれた目は軽く飛び出していた。頭の後ろには射出孔は開いてないようだった。射入孔から考えて、小口径のピストルで撃たれたのだろう。まだ臭いはしなかった。撃たれてからそれほど時間は経っていないに違いない。

 その傍らに銀色のブリーフケースが置かれてあった。蓋は開いていた。私はため息をつき、ポケットから出した手袋をつけてブリーフケースを調べてみた。どうやら鍵をこじ開けられたらしい。中には、私には価値がよくわからないガラクタがいくつか入っていた。何かしら盗まれている可能性はあるが、今は判断がつかない。幸い、ケースの留め金は壊されてなかったので、それで蓋をロックしてから取り上げた。

 素早くその場を立ち去った私は、駐車場の近くで、警察に電話を入れた。匿名で、35号棟の5階に死体がある旨を告げた。相手が誰何する前に電話を切り、車のトランクにブリーフケースを放り込んで、大急ぎで事務所に戻った。



3.


 翌日、私は阪口を呼び出し、ヒロム殺しのあたりは省いて経緯を説明し、ブリーフケースを見せた。

 「あ、あの」ブリーフケースの中身を一通りあらためた阪口は、紙のような顔色になって、震え声で言った。「ゾウはありませんでしたか。小さなゾウです」

 「ゾウというと、鼻の長い……」

 「違いますっ」阪口は素っ頓狂な声でわめいた。「仏像の像です。つまらない冗談を言わないでくださいっ」

 「申し訳ありません、つい」私はしれっと言った。「それで、その像というのは、どんな像なのですか……」

 「ええと、これくらいの大きさで」息を整えつつ、阪口は身振り手振りで大きさを示した。それほど大きくない。手のひらサイズとはいかないが。「寝そべった猫の形をしています。ブロンズ製で、七宝の象嵌が施してあります」

 それから阪口は、何やら能書きを並べ立てはじめたが、私にはその一割も理解できなかった。ただ、その口調と、悲壮そのものの表情から、どうやらその猫のブロンズ像がかなりの値打ちものであるらしいことだけは何となくわかった。なので、阪口がようやく黙り込んでから、私はこう言った。

 「ふむふむ。私はあいにく、美術には詳しくないのですが、それはきっととても価値があるものなのでしょうね」

 「価値があるどころではありません」阪口はまだ震えている声で言った。「出すところに出せば、いったいどれほどの値がつくか、想像もつきません。あの像を手に入れるために、私がいったいどれほど苦労を。ああ。それがこんな」阪口は応接セットのソファにへたりこむと、頭を抱え、ばりばりと薄い髪をかきむしった。ハムレットとまではいかないが、大した苦悩ぶりではあった。

 阪口はしばらく頭をかきむしっていたが、ややあって手を止め、私の方を向くと、鬼気迫る形相で言った。

 「灰田さん。お願いします。どうか像を。像を取り返してください。あれが取り戻せなければ私は破滅です。どうかお願いいたします」

 ハラキリの覚悟を固めたサムライはこんな感じだったのだろう、と思わせる死相と気迫がその顔には満ち満ちていた。

 「はい。わかりました。わかりましたからそんな顔でにらまないでください。怖いです」私はそう答えるしかなかった。


 確実と思えることが1つ。猫のブロンズ像を盗んだのは、田中ヒロムを殺した奴に違いない。この線を追うほかに、ブロンズ像を取り戻す手だてはなさそうだったが、それが甚だしい困難を伴うであろうことは間違いなかった。いくら警察がだらしなくなったと言っても、未だに殺人が絡む案件は彼らの領分だ。被害者が一介のチンピラであろうとそれは変わりない。要するに縄張り意識のなせるわざだ。私もかつて桜の代紋を背負って仕事をしていたから、そのことは身にしみてわかっている。とはいえ、ここで尻尾をまいて撤退したら、130万の稼ぎはパアだ。

 というわけで、私は再び辰巳団地に向かった。とはいえ、35号棟にうかうか近づくわけにもいかない。さて、いったいどうしたらよいか。

 ちょっと考え込んでいたら、急に声をかけられた。

 「や、おっさん。どしたの」

 あのロックスターTシャツの少年だった。カバンを担いでいた。今日は別のシャツを着ていた。そのシャツにはキリル文字で何か文句が連ねてあったが、私には読めなかった。

 「よう」私は軽く手を挙げて挨拶した。「仕事だよ」

 「ふーん、そうなの。そいや、昨日はヒロムに会えた……」

 「会えたよ。眉間に穴が開いてた」

 「あー、知ってる。昨日の昼過ぎに機捜キソウのマッポと装甲服アーマー着込んだ雇われポリ公(レンタコップ)が押しかけてきてさあ、ちょっとした騒ぎになってたよ。オレは見てねーけど」

 「そうかい」私は立ち去りかけ、そこでちょっと考えを変えて少年に向き直った。「なあ、お前さん、ヒロムのこと、何か知らないか。できれば教えて欲しいんだ」

 「えー」少年はダルそうな口調で言った。「いーけどさあ、オレ今からダチと会う約束してんだよね。時間にキビシー奴でさ、遅れるとうるっせーんだ」

 「そこを曲げて、頼まれてくれないかな」

 私が頭を下げると、少年は奇妙な顔つきをしていたが、ややあってニヤッと笑って言った。

 「1000円払ってくれたら考えてやるよ」

 私はその通りにした。これで130万への糸口が掴めるなら安いものだ。

 少年は野口英世が描かれたその紙切れを素早くポケットに押し込むと、手短にテキパキと話し始めた。

 少年──グエンという名前だそうだ──によれば、ヒロムは彼の兄貴分の友人だとのことだった。ヒロムはこの団地を根城とする職業犯罪者で、高校を中退した10代の頃から様々な悪事に手を染めていた。詐欺ゴンベン恐喝カツアゲ、ときには強盗タタキ。さらに、もっとヤバい仕事をやったこともあったという。

 「詳しいことは何も言わなかったけどね。人ハジいたことはないだろうけど、あったにしてもホントのことは言わないだろーね」

 そんな典型的な悪党だったヒロムだが、いつも懐はピーピーしていたという。まあ、ありがちな話で、酒と女とバクチですぐに使ってしまうのだった。グエンの兄貴分に酒代をたかっているのを見たことがあるという。

 「それがさ、1週間くらい前だったかな」

 いつもはケチケチしているヒロムが、やけに気前よかったという。どういう風の吹き回しか、グエンにコーラをおごってくれたのだった。そんなことはかつてなかった。

 「でさ、何か気になって、兄貴に聞いてみたんだ。そうしたら、あいつは誰かに雇われたらしいぜ、というんだ。その誰かっては、やけに気前がいいらしい……ってね」

 グエンはそこでこちらをじっと見た。

 「なあ、探偵さん。ヒロムはさ、手許に十分カネがあるのに、縄張りの外でタタキやるほど仕事熱心な奴じゃなかったんだよ。何かおかしいって思わねー……」

 私はピクリと眉を動かした。「もしかして──ヒロムはその誰かさんに雇われて、ブリーフケースを強奪して──そして殺されたって、そう言いたいのか。お前さんは」

 「もちろん、全然違うかもしんねーよ。けど、そう考えりゃスジは通る、そうじゃね……」

 「なるほど、なるほど……な」私はうなずいた。「情報提供、感謝するよ」

 「ん、じゃあオレはそろそろ行くよ」グエンは立ち去りかけたが、ちょっと立ち止まって、それからこちらを振り向いた。

 「なあおっさん」

 「何だい」

 「何だったっけ、何かのコトワザでさ……深淵を覗くとき、お前もまた深淵に覗きかえされてる、っていうだろ」

 「……何が言いたい」

 「気をつけなってことさ。あんた、結構気前よかったから。サービスだよ」

 そう言い残してグエンは去っていった。


 とは言われても、今さら引き返すという選択肢は私にはなかった。私はあちこちに首を突っ込み、話を聞き回った。線はなかなかハッキリしなかった。しかし、どうやらヒロムに仕事を持ち込んだ人間は外部のヤクザの伝手を利用したらしいことはわかった。私はそのヤクザ連中にも話を聞きに行ってみたものの、すげなく追い返され、今度ノコノコ来やがったら簀巻きにして東京湾に沈めるぞゴラァと脅された。

 だが、私はどうにも手を引くつもりがなくなっていた。報酬は無論のことだが、それ以上に事件の背景が気になって仕方なかった。今回の案件は、阪口が手に入れた猫のブロンズ像を狙う何者が仕組んだ計画的犯行に間違いない。ヒロムはそのために雇われ、そして恐らくは、用済みになったので殺されたのだ。もしかしたら、報酬の割り増しでも要求したのかもしれない。いずれにせよ、かなりデカいヤマだ。うまくすればこれでさらにひと稼ぎできるかもしれない……。

 経験上、こうやって欲をかくとろくなことにならないのだが、私はうっかりそのことを忘れてしまっていたのだった。


 調査開始から13日目。その日も私は実り少ない捜査を終え、情報を整理するために一旦事務所に帰ろうとしていた。その前日、不幸な行き違いからチンピラに車の窓ガラスをぶち破られ(お返しに、そのチンピラの腕をへし折ってやった)、やむなく今日は電車を使っていた。

 地下鉄に揺られ、あと二駅で事務所の最寄り駅に到着するというところで、隣に誰かが座った。やけにピタリと密着してくる。何だこいつと思ったとき、脇腹に何か固いものが押しつけられた。

 私は硬直した。

 「動くなよ」

 隣の奴が言った。錆を含んだ暗い声だった。

 「妙な真似をしたら撃つ。お前もあのチンピラみたいになりたくないだろ……」

 「えーと」私はあくまで軽い調子で言った。「どこで会ったかな」

 「あの団地でさ。階段ですれ違っただろ……」

 なんとまあ。

 「次の駅で一緒に降りてもらう。撃てないなんて思うなよ。大抵の消音銃はけっこううるさいが、世の中には本当に静かな消音銃もあるんだぜ……」

 私は言われたとおりにした。階段を上り、駅を出ると、すぐに薄暗い路地に連れ込まれた。そこには軽のワンボックスが静かにたたずんでいた。男はドアを開けてから言った。

 「乗れ」

 従うほかなかった。車に乗り込んだ瞬間、男が腕を振り上げる気配がし、そして脳天にすごい衝撃がきて、目の前に白い星が散り、私はたちまち闇の底に落ちていった。



4.


 気がつくと、私は暗い部屋にいた。

 頭がガンガン痛む。吐き気がする。体の感じからして、どうやら椅子に座らされているようだ。腕は後ろ手に縛り上げられ、脚も椅子にくくりつけられている。

 それにしてもここはどこだ。周囲を見回してみたが、手がかりになりそうなものは何もなかった。窓も何もなく、明かりといったら薄暗いシーリングライトひとつきりで、調度品は私が座らされている椅子だけ。そして足下には──青いキャンバスシートが敷いてある。

 血の気が引いた。

 「お目覚めかね」

 声がした。ギョッとして声のした方に首をねじ曲げると、いつの間にあらわれたのか、黒い服を着た長身痩躯の男が立っていた。顔はわからない。目出し帽(パラグラヴァ)をつけているからだ。その傍らには、私をここに連れてきた、例の殺し屋がひかえていた。

 「ずいぶんあちこち嗅ぎ回っていたようじゃないか、きみ。何を捜していたんだい……」

 目出し帽の男が言った。声は軽かったが、目は少しも笑ってなかった。

 「人に頼まれましてね」私は何気ない調子を意識して言った。「猫のブロンズ像を捜していたんです。そしたら、そちらにいる御仁に頭をどやしつけられて、ここに連れてこられたんですよ」

 「ほう、そうかね。で、きみにその捜し物を依頼したのは誰なのかな……」

 「それはですね、守秘義務が──」

 殺し屋氏がつかつか近づいてきて、腹にパンチを見舞った。凄まじい一撃だった。胃がねじれた。私は激しく胃の中身を床にぶちまけた。

 「つまらない冗談は聞きたくないんだよ」目出し帽氏が言った。苛つきが声の端ににじんでいた。苦痛にかすんだ頭の片隅で、いつかどこかで同じような文句を聞いたことがあるな、と私はぼんやり考えていた。

 「質問を変えよう。きみは何者だね……警察官ではないようだが……」

 「灰田亮ハイダ・リョウ──私立探偵」私はようよう言った。「モグリじゃない。ライセンスはちゃんと取得してる」

 「知っている。パスケースを確認させてもらったよ。財布もね。ずいぶん懐具合がおさびしいようじゃないか、ええ……」

 「こういう目によく遭うんでね。出費がかさんで仕方ないのさ」私は笑った。「あんた、何か調べて欲しいことはないかい。たとえば奥さんの浮気とか──」

 今度は横面を殴られた。脳みそが揺さぶられ、意識が一瞬白くなった。奥歯とアゴの骨が悲鳴を上げる。

 「……乱暴、だな。あんまり、頭をどやし、つけると、何もしゃべれなく、なるぜ……」

 「それはそれで一向構わん。つまらん洒落を聞かずに済む。ところで、私立探偵なんてのは本当はウソだろう……どこの誰に雇われたんだ」

 「何のことだか……さっぱり……だな」

 続けざまに鉄拳が食い込んだ。あばらが軋み、内臓がねじれ、鼻がつぶれて血が噴き出した。

 「ほざくな」目出し帽氏の声が聞こえた。ずいぶんご立腹のようだ。デカい声。頭にガンガン響く。吐き気がこみあげてくる。「ネオン菊か、それとも中国人か……それとも、桜田門の連中かね、バックにいるのは……」

 「俺は……一匹、狼だ」私は歯を食いしばり、ニヤッと笑ってみせた。今の私のコンディションからすると、たいへんな重労働だった。「雇われりゃ……大概の仕事は、やる……殺し以外、ならな……」

 「もう一度聞く。お前を雇ったのは何者だ」

 何か言おうとしたが、声が出なかった。私は必死に顔を動かし、とびっきりの表情を見せつけてやった。

 あかんべえだった。

 目出し帽氏の舌打ちが聞こえた。

 殺し屋氏が飛びかかってきて、痛烈なアッパーを打ち込んだ。衝撃が下アゴから一気に脳天まで突き抜け、そして脳みそをパンクさせた。私は再び気絶した。


 ひどい悪夢を見ていた。昔、警官だった頃の、ろくでもない記憶の追体験。暴力とウソにまみれ、首まで汚泥に浸かって這いずり回り、それでも守るべき何かがあると思って、でも結局それは──。

 そこで私の意識は闇の底から浮上した。全身がズキズキと痛み、熱を帯びている。頬に生ぬるく固い何かを感じる。これは──コンクリートだろうか。私はコンクリートの床に横たわっているのだ。

 必死に身体を起こした。痛めつけられた骨が、肉が、やめてくれ、もっと休ませてくれと泣き叫ぶ。頼む、今だけはワガママを聞いてくれ。私は鉛のように重い脚を引きずるようにして歩き出した。

 なぜ奴らが私を始末しなかったのか、うっすら想像はついていた。私が何者なのか探るために、あえて泳がそうというのだ。恐らく、どこかで奴らは私を見張っている……だが、今は、そんなことを気にしている場合じゃない。とにかく、形勢を立て直さねばならない。反撃のために力を蓄えねば。

 ポケットを探った。思わず舌打ちが出た。バスケースとキーリングは無事だったが、財布もスマホもなかった。あいつら、ただでさえ乏しい俺の財産を……許せん。腹の底から暗い怒りが沸き上がってきた。必ず、必ず復讐してやる。ただでは済ましてやるものか。

 しかし、それにしても、ここはどこだ。何だか見覚えがあるのだが、よくわからない。あの最後の一撃で、脳みその調子が狂ったのかもしれない。だとしたらますますマズい。復讐の前に、医者にかからねばならない。だが、どうしたら……。

 「あれ、おっさんじゃん。どーしたのさ」

 聞き覚えのある声に振り向くと、グエンがそこに立っていた。

 「何で……ここ……に」

 「何でって……バイトの帰りだよ。近所のコンビニで働いてんだ。これでもオレ、けっこうマジメにやってんだぜ。通信制だけど、高校だって通ってるし」グエンは呆れたように言った。「それよりおっさん、ひっでーカッコじゃん。何やらかしたの。喧嘩か何か……てか、何でこんなとこにいんの……今何時だか分かってる……」

 空を見上げた。夜だった。

 「ここは……辰巳団地、なのか」

 「そうだよ。ねえ、おっさん、マジで大丈夫かい……」

 「グエン」私は必死に言った。「ひとつ、頼まれてくれ」

 「何を……」

 「金、貸してくれ。1000円。必ず返すから」

 「はぁ?」グエンは唖然とした顔で私を見た。「マジで言ってんの、あんた……」

 「マジだ。大マジ。あと、それから、もうひとつ頼まれてくれ……」

 私はそう言うと、やっとの思いで頭を下げた……。



5.


 グエンから借りた1000円で電車に乗り、ようやく事務所までたどり着いた私は、まずそこでぶっ倒れ、一寝入りした。目覚めると、戸棚から薬箱を出して鎮痛剤を出がらしのコーヒーで流し込み、その後で自分しか知らない秘密の物資隠匿所から、このような事態に備え、とある筋を通じ以前入手しておいたブツを取り出した。それらをボストンバッグに詰め込み、身支度を整えてから事務所を出た。すぐ近くでタクシーを捕まえ、辰巳団地に向かわせた。すでに東の空の底が白みかけていた。

 グエンは言われたとおりに、私が指定した場所に待っていた。顔がかすかに引きつっていた。私が1000円を出すと、恐る恐るそれを受け取った。

 「おっさん」私の身なりを見たグエンは、慎重な口調で言った。「そのバッグの中身、何……」

 「話してもいいけど」私はうっすら笑った。相当ヤバい笑みに見えるだろうと思った。「知らない方がいいと思うぜ」

 グエンはうなずき、ついてくるように私に言った。

 「あんたが歩いてきたのは11号棟の方だ」グエンは歩きながら話した。「あの棟には『黒い部屋(ブラックルーム)』があるって噂だ」

 「なんだそれ」

 「オレも詳しいことは知らねーよ。ただ、あの棟を仕切ってる連中が外部の奴らに貸し出してる部屋があるんだと。そこでは、拷問やら何やら、とにかくありとあらゆるろくでもないことを好き放題にやれるそうだ。利用者は引きも切らない、とさ」

 「ほう」

 「オレも、一度だけ、妙な連中があの棟に出入りしてるのを見たことがある。青いエプロンをつけて、マスクをかぶってた。テレビで見た外科医みたいだった。だから、その噂を信じることにしたんだよ」

 「なるほどな」

 「なあ、おっさん。あんた、何やらかすつもりか知らないけどさ、やめたほうがいいぜ」グエンは私に向き直って言った。「冗談抜きで、死ぬぞ」

 「なあ、グエン」私はニヤリと笑って言った。「こちとら、もっとヤバい事態も切り抜けたことが何度もあるのさ。そのせいで、万年金欠状態なんだがね……さて、ここらでお別れだ。ところで、例のやつの準備はしといてくれたか……」

 「ああ、うん。しといたよ。いつ始めたらいい……」

 「騒がしくなり始めたらすぐにさ」


 グエンと別れた私は、一旦物影でボストンバッグから取り出したブツを身につけてから、素早く11号棟に近づいた。

 11号棟も、見た目は他の団地の建物と大差なかったが、よく見るとあちこちに監視カメラが仕掛けられていた。まさかブービートラップはなかろうが、動体検知器モーションセンサーくらいはあるかもしれない。

 私は正面から入ることにした。コソコソやるのは性にあわないからだ。

 薄汚れた玄関ホールから階段へ。一段ずつゆっくりと上っていく。どこからかこちらを見ているはずの目を意識する。さあ、こい。どこからやってくるつもりだ──。

 上でビシッと小さな音がして、私の頭上を何かがかすめ、壁に穴を開けた。

 素早く伏せる。例の殺し屋氏の銃撃に違いない。コソコソしやがって。私はせせら笑いを浮かべ、いきなり懐から取り出したブツをひょいと音のした方に投げつけた。素早く身を伏せ、目を閉じ、耳をふさぎ、口を大きく開いた。

 防御態勢をとってなお、ものすごい閃光と轟音は、傷だらけの身にはなかなかこたえた。とはいえ、相手がくらったダメージはこんなもんではあるまい。至近距離で、防御態勢をとるいとまもなく、閃光音響手榴弾フラッシュバンの炸裂をくらったのだ。純正品ではなく、ある物好きのオタクが手ずからこしらえたものを以前ある事件を解決した際に手に入れたのだが、その効果はすでに実験して確認済みだ。私はジャンパーの内懐から、今ひとつのブツを取り出し、階上に上がった。

 殺し屋氏が顔を押さえ、唸り声を上げて苦しんでいた。そのかたわらに、スマートな形のピストルが落ちていた。サイズから見て22口径のスポーツ用だろう。スライドのすぐ前から太く長い消音器サイレンサーが伸びていた。

 「おいこら」私は冷酷な口調で言ってやった。両手に抱えるようにした、ソウドオフのレミントン12番径ゲージを腰だめに構える。「このクソ野郎。こっちを見ろ」

 呻きながら、よろよろと顔を覆った手を降ろした殺し屋氏は、愕然として目を見開いた。当然だろう。デカい散弾銃ショットガンの銃口が自分をにらみつけているのだから。ポカンとして口を開いた殺し屋氏に向かい、私は立てと命じた。

 「待て──待ってくれ。まだ目が」

 「鹿弾バックショット食らってミンチになりてえか!」

 私は一喝した。わざとらしく音を立ててクロス・ボルト式安全装置を動かす。殺し屋氏の顔面はたちまち蒼白となった。まんざら散弾銃の威力は知らぬわけでもないらしい。話が早く済みそうで何よりだ。

 殺し屋氏はよろよろと立ち上がりかけた。私はそれを制止し、

 「そのハジキを拾って、こっちによこせ。ゆっくりとだ。ヘタなマネしくさったら地獄にぶっ飛ばす」

 と命じた。殺し屋氏は言われたとおりにした。私はその拳銃を受け取って、素早く確かめた。ワルサーP22と知れた。どうやらスライド・ロックをつけているらしい。こいつをかけると、自動装填がなされなくなり、手動式となるので、消音器の効果が増すのだ。ずいぶん凝ったことをするものだ。田中を射殺するのに用いたのも、このピストルに違いあるまい。

 「おい」私は低い声で言った。「あのいけ好かねえ目出し帽かぶったノッポ野郎はどこにいる。答えろ」

 「5階だ。最上階」殺し屋氏は素早く言った。「奥の部屋にいる」

 「じゃあそこに案内しろ」

 「頼む、勘弁してくれ」

 「ほう、逆らうのか」私は意図して血に飢えたような口調をこしらえて言った。「なるほど、こいつには消音器なんてけっこうなものはついてない。ずいぶん騒々しい音がするだろうな。だが、だからって俺がぶっ放すのをためらうなんて思うなよ。今日の俺は気が立ってるんだ」

 殺し屋氏はあきらめたようにうなだれた。

 「両手を挙げろ。俺の前に立って歩け」

 私は散弾銃を突きつけたまま命じた。殺し屋氏は素直に従った。

 

 5階にあともうちょっとでたどり着くというところで、あの目出し帽氏の声がした。

 「カトウ。カトウか」

 私は散弾銃で、今はカトウという名前だとわかった殺し屋氏の腰のあたりを小突いた。カトウはちょっと喉が詰まったような声で、

 「は──はい。私です」

 「奴はどうなった」

 「重傷を負ったようだ、と言え」私は目出し帽氏に聞こえぬよう小声で命じた。「それから、ちょっと一緒に下まで来て欲しい、と言うんだ」

 カトウは言われたとおりにしゃべった。目出し帽氏はちょっと考えているようだったが、ややあって、

 「ちょっと待て。話したい。こっちに来てくれないか」

 と言った。

 「よし、行け。だが、妙なマネをするなよ」

 私はカトウの腰をもう一度小突いて言った。カトウが上っていくのを確認しながら、私自身は下に下がり、待ち伏せの準備を整えようとした。

 そのとき、パパパパッと押し殺したようなひとつながりの破裂音が聞こえた。続けて、断末魔の呻き。ドサッと何か重いものが倒れる音。

 私が固まっていると、目出し帽氏の声が聞こえてきた。

 「やあ、灰田くん。ずいぶん小賢しいマネをしてくれるじゃないか……それにしても、きみはずいぶんこの手のことに手慣れているようだねえ。やっぱり、本当は探偵なんかじゃないだろ」

 私は黙っていた。目出し帽氏はしゃべり続けていた。

 「きみらの様子はちゃんとモニターしていたのさ。きみの得物が何なのかも分かっている。近づかれなけりゃ大した脅威にはならん。それに、うかつにぶっ放せば、危なくなるのはきみのほうだということもね」

 「……モニターしてた割には、ずいぶんあっさりカトウを殺ったじゃないか。なぜだ」

 私は尋ねてみた。目出し帽氏は毒々しく笑い、

 「私を裏切ったんだぞ。殺すのが当たり前じゃないか。まったく、きみと刺し違えてくたばってくれりゃ、私がこうやって手を汚すこともなかったのに」目出し帽氏はまた笑った。「さて、いつまでそうやって隠れているつもりだね。だったらこっちから狩り出しにいくぞ。きみの得物はせいぜい3連発、しかも手動式だが、私の方はフルオートマチックの30連発だからな──」

 私はひっそり笑った。下らん能書きを並べ立てやがって。まあいい。私はひょいと散弾銃を上に向けて、1発ぶっ放した。

 轟音。

 私はほとんど無意識に先台フォアエンドをスライドさせ、次弾を薬室に送り込んだ。弾き出された赤い空薬莢が、くるくる回転しながら足下に落ちていく。

 空薬莢が床に転げた瞬間、外から物凄まじく騒々しいわめき声が鳴り響きはじめた。同時に、パパパパパパンと破裂音が響く。

 「なんだっ」

 目出し帽氏のうろたえた声。私はニンマリ笑う──でかした、グエン。今度は万札くれてやる。

 騒音はますます大きくなった。海の向こうのラッパーが、電子的に増幅されたドデカい声でオウイエーマザファッカメーンとわめいている。コンビニで売られている花火がパチパチポンポン弾けてお囃子の代わりをしている。その音を聞きながら、私は散弾銃を肩にかけ、猛然と階段を駆け上がった。

 カトウが血の池の中にぶっ倒れている。それを素早く抱え上げた。前を見た。いきなり現れた私を見て、完全に動転した目出し帽氏──今は目出し帽はかぶっておらず、頬のこけた陰惨な顔つきが露わになっていた──が、こぢんまりした黒い電動ドリルめいた形の銃をこちらに向けようとあがいていた。

 私はカトウの死体を盾がわりとして突進した。

 パパパパパッと銃声。カトウの身体に弾が食い込んで鈍い音をたてる。だが、貫通はしない。予想通り短機関銃サブマシンガンだ。それも、消音器との併用を考えて、亜音速サブソニック弾でも使っているのだろう。だから貫通力が落ちている。これが自動ライフルだったら、私は今頃蜂の巣になっているだろう。一応防弾チョッキもつけてはいるが、拳銃弾対応だから高速ライフル弾に対しては無力なのだ。だが、今回はそうではなかった。

 「おらあっ」

 私はカトウもろとも目出し帽氏にぶつかっていった。いくら小柄とはいえカトウは男だ。身体は重くて固い。成人男性2人分の質量をまともに食らった目出し帽氏は勢いよく突き飛ばされ、その場に転げた。その手から短機関銃が外れて床を滑っていく。カトウの死体を放り出した私は、目出し帽氏に馬乗りになった。顔面を中心に鉄拳の嵐を浴びせた。見る間に目出し帽氏の顔面はデコボコになり、つぶれた鼻から血が噴出し、唇が裂け前歯がへし折れた。

 「ぶっ……や……やべ……やべでぐれ」血を吐きながら目出し帽氏は必死にわめいた。「殴ら……ないで……ぐれ」

 私はもう1発、目出し帽氏の顔面に鉄拳を食い込ませてから、胸倉をつかんで立ち上がらせた。

 「さて、質問だ。猫のブロンズ像をどこへやった」

 「し──知ら」

 私はバックハンドで目出し帽氏の頬桁を殴った。血しぶきが飛んだ。

 「ふざけた口をききやがるともっと痛い目にあわせるぜ」私は肩にかけた散弾銃をちょっと動かしてやった。「こいつは何もぶっ放すだけが能じゃないからな。クルミ材の銃把で殴られるとメチャクチャ痛いんだぜ、知ってるかい」

 目出し帽氏はふらふら首を横に振った。

 「今から実演してやってもいいが──」

 「まっ、待て、待ってくれ。わかった。渡す。渡すからっ。だけど、今ここには、ないんだ……」

 「よしわかった。じゃあ、ありかに案内してもらおうか」私はそこでちょっと考えて、「ところで、その猫のブロンズ像だがね、あんたらここまでするからにゃ、きっとすげえ値打ちものなんだろうな。何か知ってることがあったら教えてくれよ」

 目出し帽氏はしゃべった。それは、まったくずいぶんと興味深い内容だった。



6.


 その後、出向いた先でも大立ち回りをやらかした私は、4日ばかり穴蔵にもぐってホトボリをさました。それからおもむろに穴蔵から這い出すと、あちこちに電話をかけた。警察はそれほど騒いでなかった。「善良な一般市民」に被害が及ばないところでの騒ぎだったからだろう。私はホッと一安心し、それからもう少し様子を見た上で阪口に連絡を入れた。

 「ああ、灰田さん」やってきた阪口は、今にも泣き出しそうな顔で言った。「本当に取り戻してくださるとは。ありがとうございます。お頼みした甲斐がありました」

 「どういたしまして」私は頭を下げ、それから猫のブロンズ像を取り出してテーブルの上に置いた。「こちらで間違いありませんか……」

 「ええ。ええ。間違いありません。まったく夢のようです。これで私も、首の皮がつながります……」

 阪口はその像を慎重に取り上げると、上等そうなつやつやした布に包み、足下の革のカバンの中にそっとしまった。

 「さて、では、これで」阪口はニコリと笑って立ち上がりかけた。「報酬はまた後日口座にお振り込みいたしますから」

 「さようですか。ありがとうございます」私はうっすら笑った。「そういえば、阪口さん。この像を盗ませた奴がですね、面白いことをしゃべってましたよ」

 阪口は動きを止めた。「ふむ。どういうことでしょう」

 「いやあね。その像は、実のところ、骨董品でも何でもないっていうんです。それらしく見かけを整えただけのガラクタだってね」

 「ほほう。それは──興味深いですな」

 「その男はこういうことも言ってました」私は阪口の顔を見ずに続けた。「その像が作られた本当の目的は、密輸のためなんだそうです」

 阪口は黙っていた。

 「こんなに小さいのに、何を密輸するんだろうとお思いでしょう。これがね、面白い話ですが、データなんです。電子データ。正確には、それを記憶させたメモリデバイスですかね。そのデバイスを、像の中の隠しポケットにしまって運ぶ。大量のデータを回線を通じて送るのは、時間がかかる上に危険ですから、それを考えるとずいぶん理にかなったやり方ですよね」

 私はポケットから小さくて黒い、すべすべした平たい直方体を取り出した。

 「こいつが入ってなけりゃ、その像は無価値ですよ。阪口さん」

 阪口はちょっとのあいだ固まっていた。ややあって、薄気味悪い笑い声をあげはじめた。

 「まいったね。こいつは一本取られたな」言うなり、その手には魔法のようにちっぽけなピストルが姿を現していた。阪口はそれを私に突きつけた。

 「灰田さん。悪いことは言わん。それをよこすんだ」

 「渡すのは構いませんよ。どうせ私が持っていてもしょうがない」私は笑った。「ただ、これが何なのかについて、興味はありますがね。自分のパソコンにつないで中身を見てみたいところですが、どうにも厄介なことが降りかかりそうでね」

 「そうしなくて正解だよ、灰田さん。その中身を覗き見したら、あんたはこの世界のどこにも行き場がなくなる」阪口は笑った。気弱そうな古物商の仮面は剥がれ、薄暗い素顔が剥き出しになっていた。「まあ、私も詳しいことは知らないがね。だがその中のデータを出すところに出せば、大勢の人間が破滅し、いくつかの大企業が倒産し、小さな国の政府が転覆する──かもしれない、とは言っておこう。どうだね、大した値打ちだろ……」

 「ははあ、それはそれは。大したものですな。そんなことを聞かされたら、100万ごときと引き替えるのがますますバカらしくなってきましたよ」

 カチッと音がした。阪口がピストルの安全装置を解除したのだ。

 「あんまり欲をかくとろくなことにならんぜ」阪口は押し殺したような低い声で言った。「カネの代わりに鉛弾をもらいたくはないだろ。報酬については必ず払うから心配するな……」

 「さようですか」私はニヤリと顔を歪めて笑った。「ところで、阪口さん。あなたがくれた30万、あれでけっこう助かりましたよ。危機を脱するのにずいぶん役立ってくれましてね」

 「へえ、そうかい。そりゃあ何よりだね」

 「それでね。まだまだあまりがあるんですよ。そうですね、一人くらい臨時の助手を雇えるくらいには、ね」

 ガチャリとドアが開いた。デカいピストルを腰だめにしたグエンが入ってきた。

 「よー、おっさん──えーと、阪口さん、だっけか。悪いことは言わね-。おとなしくそのオモチャを捨てな」

 「な──」

 阪口が固まっている隙に、私はソファの背後に隠しておいたソウドオフを抜き出して構えた。先台をスライドさせ、薬室に初弾を送り込む。ガシャン、と獰猛な金属音。

 阪口の手からピストルが転げ落ちた。

 私はそれをソファの下に蹴り込んだ。

 「さてと、阪口さん。座ってください。報酬の再交渉と参りましょう」私は落ち着いた口調で言った。「このデータを狙ってる奴らはけっこう多いらしいんですよ。まだ引き取り手が来るには時間がかかる、そのあいだにまた盗られたらイヤでしょう。私を雇っておけば、まあ大抵のトラブルはさばいて差し上げます。今なら特別にお安くしときましょう」

 私はそこで、とびっきりの悪い笑みを浮かべた。

 「どうです、なかなかお値打ちな話だと思いませんか」


最後まで読んでくださってありがとうございます。久々に書いた小説ですが、お楽しみいただけたら幸いです。

あと、辰巳団地にお住まいの方へ。なんかメチャクチャなこと書いてすみません……。

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[良い点] 地に足の着いた捜査パート、猥雑なスラムの様子、生々しい暴力描写からなる落ち着いた雰囲気。 [一言] 職業柄、悪党を相手するだけあって、一筋縄ではいかない主人公の人柄と「金欠の理由ってそうい…
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