第8話 罠
迷宮都市〜光と闇のアヴェスター。久しぶりの更新となります。お待たせしました!
「くそっ!」
舌打ちしたくなる気持ちを抑え、少年は巨体から跳ね飛ばされた木々の破片を避ける。頭を手で庇い、降りかかる木屑や葉っぱに顔をしかめた。思いもよらぬ攻撃に、少年の鼓動が苦しいほど早まる。
危険を避けようにも高木林の樹冠に等しい高所にいるのだ。右手に握った手斧の重みさえ、少年の不安を煽った。次の攻撃を受ければ、戦闘に慣れていないユウなど一溜まりも無いだろう。
(あぶねぇな! まったく、マジかよ!?)
不安定にしなる枝葉の足場に気を取られて魔獣の姿を確認することもできない。冷や汗をかくユウの足下から、巨大な敵が近づいていた。
木の上に足止めされた少年を巨体が生み出す振動が揺らす。密生する木々の根元を踏みつけた振動が、樹冠に近い高所を揺さぶり嬲る。
つい少年の右手に力が籠る。振り落とされまいと、ユウは歯を食い縛って姿勢を保った。その視界に、魔獣の姿が入る。
怒りに我を忘れた大猪の背が左右に揺れる。レイザーバックとも呼ばれる大型獣の全身に、例えようがない威圧感が溢れていた。
煤けた茶褐色の体毛が、皮下脂肪の層を突き動かす筋肉の動きに合わせて揺れている。大質量の筋肉が信じがたい瞬発力と持久力を併せ持っているのだろう。大型動物によく見られる動きの緩慢さなど微塵も無い。
獰猛な肉食獣が獲物を狩る前に見せる息を潜めるような雰囲気があった。そして、その状態で粛々と近づいて来るのだ。
(落ちたら死ぬ!)
ユウがいる木々の根元を押し倒さんとする勢いで大猪が体当りをする。周囲に土煙が舞い、人の背丈程もある巨大な二本の牙が獲物を狙う。象牙を遥かに凌ぐ牙が猛威を奮う。突進を受けた数本の木がまとめて双牙の餌食となった。
大木が、粉々に幹を砕かれて傾斜していく。ミシミシと音をたてて倒れていく立派な樹木に、少年の顔がいっきに青ざめる。
「ユウ! しっかり捕まってろ!!」
ダルクハムの声が遠くに聞こえる。彼が樹冠の枝葉を揺らして跳ぶ音をユウの耳が捉えていた。
眼下に広がる低木と蔓草の絡む木々。落ちればただでは済まない状況に、ユウの心音が跳ね上がった。
左手で、太い蔦を握り直して打開策を探す。少年の鼓動がドクドクと高鳴る。右手には唯一の武器である手斧を握っていた。
「Buuuuoooooooo!」
大猪の咆哮と足音が聞こえてくる。眼前に捉えた獲物に突進するつもりか、邪魔な木々を踏み越えて来る。周囲の音が嫌にハッキリと聞こえてくる。そんな事実に少年は驚く。
迫る魔獣。倒れていく森の樹木。風前の灯にも似た自らの危機に、ユウの意識は冴えていた。
(……!)
無意識下の想いが少年の行動を支配する。恐怖や感傷に左右されない強い男になれとの想いが、彼の行動に影響した。
跳べそうな木々の配置を知らない筈の少年の左手が、蔦の一本を選び取る。
「ユウ! こっちだ!!」
ダルクハムの声が少年に素早い決意を促す。タフな男になりたいとの想いが、生命の危機にある現実が、その一歩を踏み出すための助けとなった。
虚空へと蹴り出した脚。不意に訪れる浮遊感。風に乗るような疾走感が心を奮い起たせる。
「ダルク!」
伸ばした手が空を掴むように伸ばされる。頼り無い蔦に命を預け、少年は宙を舞う。
林立する高木林の上方から友の声がする。二人が手を握り合うまで時間はかからなかった。倒れていく樹木が、少年の背後で音をたてて崩壊する。
魔獣から離れる二人に、大猪の視線が食い下がる。自らを傷付けた相手を許すまじとの殺意に光る眼が少年達の背中を追っていた。
「ユウ! なに、無茶してやがる!?」
「サンキュー、ダルク!」
「サ、サンキューじゃねぇ! 意味が分からんし!」
空中でお互いを掴んだ二人は未だ慣性の法則に従ったままだ。
ダルクハムの心配を余所に、少年の顔は楽しげだ。何かをやり遂げた達成感と高揚感に溢れている。間違いなく、脳内麻薬が出まくっている。
「ダルク! 予定通りか?」
少年が訊く。大声でなければ聞こえなかった。風が弱い森の中だが、その風を切って進んでいる最中なのだ。だから、ダルクハムもまた短めに応える。
「ああ、そうだ!」
僅かな時間の空中遊泳を終えて、二人の戦士が森の木々に姿を隠した。
魔獣を出し抜き、距離を取った。何とか太い樹木の幹にしがみつき、大猪の死角へと回り込んだ。
「なら、あとは時間との勝負か……」
「ああ、最初の一矢は麻痺毒の矢だ。大型魔獣の討伐に使われる強力なやつだからな」
手早く蔓草のロープを手繰り、枝葉の一つに括る。
「奴の動きが鈍り始めるまでが勝負だ。それまでに奴の足を止めないようにするんだ」
ダルクハムが大猪を警戒する。少年も同様に魔獣の足音に耳を澄ませた。あまり時間があるようには思えない危機的状況に、ユウは右手を強く握り締めた。
「ユウ、ひとつ下の足場まで移動しよう。俺の背におぶされるか? 主は鼻が利く。こっちは風上側だ。直ぐに移動するぞ」
「分かった」
背中を向けるダルクハムの首に手を回しておぶさるように身体を預けた。邪魔にならないよう手斧は一度手渡してから、再び受け取る。ダルクハムの胸の前で手斧を把持する感覚だ。
僅かな休息時間を終えて、二人の戦士が森の中に紛れる。木々の凹凸や絡まる蔓草、枝葉の足場を利用して、ダルクハムは移動を始めた。
まるで少年の体重など無いかの如く木を降りていく。獣人特有の驚くべき身体能力を見せて、ダルクハムはするすると降りていった。
ユウも地に足が着かない状態であったが、獣人の身体能力の高さに舌を巻いた。まったく、重さを気にした感が無いのだ。非常に滑らかな動作で降りていくダルクハムは、一流の登山家やロッククライマーもかくやといわんばかりの安定感があった。時に蔓草を利用し、また鋭い爪を木々の表面に食い込ませて、人間一人分の体重などお構い無しに降りていくのだ。
申し訳ないと思いながらも少年は、今の状況について再考していた。
(あの大猪……。俺達の襲撃で怒りに我を忘れているはずだ。ダルクも鼻が利くと言ってた。あの図体に、あの突進を支える体力があるとしたら……。この狭い”奈落“で逃げ切れるとは思えない。どうする? いっそ攻撃に転じるか? しかし、使える罠の数は少ないぞ。いったい、どうするのが最善なんだ……)
少年の心を占める不安と葛藤。其れは、これまで戦闘とは無縁に過ごしてきたユウの心に、黒い影を落としていた。
(こんな足場が悪い状況で……、ん? 足場?)
何を思いついたのか、少年の目に強い光が宿る。その光が意思の力に裏付けられる。
少年の目が足下の地面に注がれる。
「ダルク!」
「少し待ってくれ、ユウ! よっと!!」
見事に下の足場までたどり着いた男達に時間は無い。すぐさま魔獣への対策をきめなけれお互いの生命に直結する状況にある。
「どうしたんだ、ユウ?」
向き直り、尋ねるダルクハムは真剣な表情だ。
彼もこの一戦に全てを賭けているといっていい。その身体からは威圧するような覇気が迸っている。
「俺を地上に下ろしてくれ」
「おい、ふざけてる場合か!? 主は“奈落”の王だぞ!? 見ただろう、あの体躯を!?」
思わず熱くなるダルクハムに、ユウは努めて冷静な声で説明した。
「分かってる。それでも不慣れな俺が、樹上で戦うのは足手まといだ。それより、俺も地上で戦う」
少年の提案に獣人が猛然と抗議し出した。
「なに言ってやがる!? お前も危うく死にかけたんだぞ? 奴はお前が思う以上に鼻が利くんだ! ナワバリを犯した探索者達を執拗に追い掛けて、何度も返り討ちにしてるんだぞ!!」
過去の惨劇を知っているダルクハムだからこそ、ユウが呈示する案の危険性を指摘する。戦友の危機など見過ごす訳にはいかないと言外に熱弁をふるっていた。
「だからさ。俺達は二人だ」
「だから、なんだよ?」
少年は真剣な表情だ。その顔に迷いは無い。
「連携するんだ。上下に別れて一人が引き付け、もう一人が攻撃する。あの図体に正面から構えられたら手斧なんかじゃ歯が立たない」
無言で聞き入るダルクハムの顔に険しい色が浮かぶ。そして、同時に不安の色もだ。
だからこそ、彼も少年の言い分を否定できないでいるのだ。いつまでも逃げられるとは限らない。それはダルクハム自身も解っていた事だ。
少年の示す方策について、考えを巡らす。その可能性を模索し、生き残る確率を頭の中で精査する。今の状況が導く結果と比較して、どちらか一方の最適解へと辿り着く。
その結果は、眉間に皺を寄せ悩ましいと顔を歪ませるダルクハム自身に現れていた。
「普通なら、とても賛同できねぇ。俺も狩人のはしくれだ。これがどれほど無謀な策か、分かってるつもりだ。だが……、今の状況じゃ、お前の勇気を蔑ろにはできねぇ」
思い悩む彼に、ユウはおどけて応える。彼のやる気を削ぐ訳にはいかない。
「”策“はあるさ。連携プレーってさ、頼れる相手がいてこそ決まるんだよ。ぶっつけ本番だけどな!」
「分かったよ。俺も覚悟を決める。決めりゃあいいんだろ!」
苦笑いを返すダルクハムに、少年は笑顔で応じるのみだ。
「お前、まったく新人らしくねぇぞ!? 分かってるか?」
笑う少年に、いつしかダルクハムも相好を崩していた。
地上に降りた少年は右手を挙げて樹上のダルクハムに応えた。いよいよ始まる戦いの第二ラウンドに、緊張感が走る。
「やっぱり、足場が有るのはいいな」
トントンと地面を足で確かめながら、ユウは一人呟いていた。これからは地上で魔獣を相手取るのだ。大猪の巨体を視界に納めながら、慎重に歩を進める。
風向きは上々。朝日もいよいよ眩しく輝き出してきている。夜の森は、白み始めた空と陽の光に照らされて趣を変えつつある。
手に持った手斧を確かめ、それを振るう自分を想像する。使い慣れぬ得物だが、決して重量オーバーではない。充分に魔獣を屠るだけの威力を秘めていると言えた。
少年の思案する様子を遮るように、夜明けの森林地帯に魔獣の咆哮が木霊する。突如轟く雄叫びは、件の大猪だ。少年を探しているのか、苛立たしい響きが風に乗って聞こえてくる。
少年は自分の気持ちを奮い起たせるため両手で頬を叩く。
(虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ! やってやらァ!!)
手斧を握り直して死地への道程を睨む。樹上では気を付けていた足音など無視して少年は走り出した。まだ距離が縮まらなかったが、そんな事は言ってられない。一気に戦いの流れを此方に引き込まなければならない。そして、趨勢を決するのだ。
「こっちだ! デカブツ!!」
大声で大猪を挑発する。巨体の側面から接近するのは、相手が急な方向変換が苦手と踏んだ上でのこと。地上から走って接敵するユウをダルクハムも確認していた。
「行くぜ! もう怖いもの無しだ!!」
樹上で弓を握るダルクハムも狙撃ポイントとなる場所を探すべく周囲に目を走らせる。すぐに太い蔦の一本を手に取り、移動を開始した。
こうして、二人の戦いの第二ラウンドが始まった。
「だーっ! 急げ、ダルク!!」
ユウの本気の声が森の中に木霊する。悲鳴に似た声で相方の行動を促す。
「くっ、狙いが……!」
木々の間隔が比較的広い場所で、戦闘が行われていた。大猪の足音が土煙を巻き上げて響く。
その大猪の目元や鼻先を狙ってダルクハムが矢を放つ。現在、絶賛追われているユウを助けるためだ。
しかし、敵もさるもの。頭部を低く姿勢を変えて頭上からの攻撃を避わしていた。ダルクが舌打ちする。先程から満足に牽制役を果たせていなかったからだ。
(不味い! もう何回も同じ事は通じない。“主”の反応が予想以上だ!!)
直ぐに弓を背負って移動準備にはいる。その頭脳は、この戦の終結までをもう幾度となく繰り返している。
太い蔦に身を任せ、ダルクハムは林立する群生林を移動する。打ち合わせどおり、少年を援護するためだ。
空中を颯爽と駆ける彼の胸中は穏やかではなかった。漠然とした不安が顔を覗かせ、脳内で危険信号を発しているのだ。
(どうする? あいつの勇気を無駄になんかできねぇぞ!)
ダルクハムは林立する木々の間を器用に抜けて先回りしていく。少年が左へ左へと逃げているためにできる芸当だ。人は閉鎖された空間等で逃げる場合、無意識に左へと進むことがあるという。今回は単に混戦にならないようにと二人で打ち合わせた結果だ。
だが、ダルクハムが考える僅か数分の間に、事態が大きく進展していた。
猛然と踏み込んで来る魔獣は、ここぞとばかりに少年を仕留めにかかった。土煙を巻き上げ、立ちはだかるもの全てを撥ね飛ばしている。
「Booooooooooooaaaaaaaaaa!」
悩む暇を与えない魔獣の猛追に、少年は本気の走りで距離を取った。だがそれも時間稼ぎにしかすぎない。振り向かないユウの耳に、魔獣が踏み潰したであろう全てのものが粉砕される音が響く。
何度か風切り音が聞こえていたが、それも背後に迫る魔獣の迫力に掻き消されていた。少年が走って息をあげた時、其処に予兆が示されていた。
逃げた先には、見覚えのある景色があった。
「なっ!? こっちは……」
ユウの背中に冷や汗が流れる。全力で走り抜けてきたというのに冷たいものが背筋を伝った。
眼前には魔獣が踏み潰して開けた道があり、背後からは猛追する大猪の咆哮が木霊していた。踏み荒らされた道を同じ速度で駆け抜ける事は不可能だった。まして、疲労が蓄積した少年には到底出来ない。
それが罠だと気付いた時、少年は無意識に背後を振り返ってしまったのだ。
迫る魔獣が、息を吹き返したように速度を上げた。大地を踏み割らんばかりの突進は、死神の息吹もかくやとの迫力であった。
想像を超える“奈落”の主。幾多の戦士を返り討ちにした牙がユウに襲いかかる。少年はこの危機を抜け出せるのか?
次回、「魔獣」でお会いしましょう!