第86話 決断
お待たせしましたー! 「迷宮都市〜光と闇のアヴェスター」本編の続きをご覧ください!!
ザナドゥの刺すような視線がユウに向けられていた。
空気が重くなるような緊迫感に少年は喉が渇くような錯覚に陥った。
(自重しなければ……!)
ユウは周囲に分からないように短く息を吐く。
(考えろ、俺! 何かあるはずだ、見落としてることが。追い詰められた者達に安易な説得は無力だ。逆に反感を招いて危険ですらある……)
ユウが受け止めた獣人族社会の問題。其れは、重大な選択を迫るものであった。
(既に反乱の火の手が上がっていると言っていた。つまり、この世界は確実に崩壊に向かってるってことだ……)
室内の緊迫した空気が重苦しさを増す。何一つ変わらないまま、其処にいる者達の心情だけが変わっていく。
期待に満ちた、あるいは其れを押し殺したような視線を感じる。
(この戦争は回避できないのか? 歴史の必然なのか……?)
ザナドゥの刺すような視線を正面から受け止めている少年に誰もが注目していた。
(考えろ! 考えろ、俺!)
其の一言だけで彼らは戦争への口火を切るだろう。
其の姿だけで彼らは戦場で勇ましく戦うだろう。
他の誰でもない、ユウのために。
光明神の使徒となった彼は異世界における神の代理人だ。この異世界における全ての権能を与えられた今、文字通り彼の決定が何よりも優先される。
「“御使い”殿、返答は如何に?」
ザナドゥの催促に皆の表情が動く。
アイリさえ、ユウを見つめる目に縋るような必死さが見て取れる。そして、其れを押し殺したような感情の色が見て取れる。
室内にいる全ての者達を眺め渡して、ユウは漸く、その重い口を開いた。
「ダルク、それでいいの?」
薄暗く締め切った部屋に姉セラフィの声が聞こえる。扉から入ってくる明かりに震えた背中が浮かび上がる。
帰るなり誰とも接触せず、部屋に引きこもっている弟を見かねて彼女は尋ねた。弟が引きこもってから、もう何日になるか。
様子のおかしい弟のため、セラフィは商会や探索者たちから情報を集めて、おおよその状況を把握していた。
元は皇宮に出仕していたほどの優秀な彼女だ。ひとつの仮定に辿り着くのは訳もなかった。ただ、その仮定が真実だったとして弟の去就を図りかねていた。
「ダルク、本当にそのままでいいの?」
繰り返される姉の問いに、ダルクハムは答えることが出来ない。
家族にさえ、今の自分は顔向け出来ないと彼の背中が語っていた。小さくなった弟の背中にセラフィは語り掛ける。
「引きこもっていても、きっと後で後悔してしまうわ」
長い茶髪を結い上げた花のような美貌の彼女。今はその顔が曇ってしまっている。
澄み切った色合いを魅せる不思議な茶色の瞳が、気遣わしげにダルクハムを見つめていた。
その優しさが、却ってダルクハムの心を抉るのだ。
期待に応えられない己を責める声が聞こえてくる気さえする。自分の事を案じて姉の顔を曇らせることを望んだ訳ではなかった。母親に心配ばかりをかけたい訳ではなかった。
実力が足りず、ままならない自分の境遇に嫌気がさしていく。
「貴方も分かってるでしょう?」
「……」
帰省してからと言うもの、ダルクハムは家族である姉セラフィや館の使用人を含めた誰とも話さず、部屋に引き篭もってしまっていた。
何とかして状況を変えたいセラフィ達が様々な手を尽くしたが状況は一向に変わらなかった。
セラフィは無理にダルクハムに口を開かせても良い結果にはならないと感じて弟が向き合ってくれるまで待とうとした。
その間に、彼女の元同僚達が迷宮に関連する情報を集め届けてくれたことで分からないと思っていた諸般の事情がひとつの線となって繋がっていた。
弟が抱える問題に、腑に落ちない点があると感じていたセラフィは動くことを決めた。そして彼女は扉を開いていた。
「きっと、あいつは許しちゃくれねェ……」
か細いが、絞り出されるような声が漏れる。弟の声にセラフィは耳を傾ける。
「俺が悪いんだ……」
其れは罪の意識に苛まれる者特有の苦悩に満ちていた。
明るい性格のダルクハムが、ある日突然帰省したと思ったら部屋に閉じ籠り、誰とも会おうとしなくなった。あれ程行きたがっていた迷宮に関することにも関心を示さず、彼は外界から心を閉ざしてしまっている。まるで何かに怯えるように、だ。
今こそ聞かねばならないとセラフィは思った。
「ダルク。貴方のパーティーは、どうして解散したの?」
「!」
反応はすぐにあった。
「し、知らねぇ……。俺は何も……」
「嘘。怪我人を出したみたいだけど、迷宮探索に怪我はつきものよ? あの娘にも知らせないのはどうして?」
姉の追及にダルクハムの顔色が悪くなる。それに、とセラフィは続ける。
「貴方のパーティーで行方が分からない人がいるわね」
セラフィの目が弟の様子をくまなく観察している。
「ユウが迷宮に入ったまま、この数日連絡が取れなくなっているのは知ってる?」
「ユウ、が!?」
知らなかった事実を示されてダルクハムは振り返って姉を見る。その表情は困惑していた。
「氏族会議から連絡が来ているの。迷宮で起きた“魔力災害”に巻き込まれたかもしれないって」
貴方が塞ぎ込んでいたから今まで話さなかったけれどと言い、彼女は目を伏せた。
それにね、と彼女は言伝る。
「“双剣”からも同様のことを言われたわ」
「うぅっ……!」
一瞬、立ち上がりかけたダルクハムが拳を握っていた。
探索者として上位の実力者。一時は共に迷宮に入ったことすらあるガルフの名前にダルクハムは狼狽えていた。
「貴方、何を怖がっているの?」
「そ、それは……」
ダルクハムの濃い色の体毛がざわりと逆立つ気がした。弟の目に浮かぶ戸惑いと恐怖とがないまぜになった色にセラフィは気付いていた。
(迷いがあるな、ダルクハム? お前に残された時間は多くないと言ったはずだ)
暗がりに浮かび上がる男の顔。貼り付けた恫喝と支配の表情が重苦しさを助長していた。
(もしお前が逃げればどうなるか? 二度と家族には会えないだろうな)
知らず震えていた手をもう片方の手で抑えつける。
自分の心も抑え付けようとしていたダルクハムの脳裏に黒髪の少年が一瞬の間だけ現れて、消えた。
「あんなに仲が良かったのに心配じゃないの?」
返答を言い淀む弟に姉が質問を畳み込むように投げかける。
「確かに、いま迷宮は封鎖されてるけれど他にも何か出来ることはあるはずでしょう?」
「……」
姉の表情は弟を気遣う優しさに溢れている。ただ、彼女の明るい茶色の瞳が嘘や誤魔化しを許さないだけだ。
ダルクハムにも分かっていた。自分は姉の追及に抗うことが出来ないのだと。
「俺、は……」
「何をやってしまったの?」
もはや正面から覗く姉に抗える気がしなかった。
「仕方なかったんだ! 俺には、他に……」
「何が仕方なかったの、ユウを見捨てたこと?」
姉の言葉にダルクハムは心臓が凍るような衝撃を受けた。
「違う……、違う! 俺はユウを守……」
「ユウを何?」
穏やかに聞き返された姉の質問に、ダルクハムが避け続けてきた現実を見せられる。
守りたかったという気持ちさえ、言葉にならなかった。
あいつらが、と半ばパニックになったダルクハムが言った。
「ユウを迷宮で始末しろと言われたんだ……、出来る訳がねぇって、断ったんだ! それなのに、あいつらが……」
絞り出すような声が後悔と悲壮感を増す。
「それはいつの話? 貴方が逃げ帰って来る日のこと?」
「ああ……」
ユウが迷宮で行方不明になったのは弟が帰って来た後の話だ。何か腑に落ちない。まだ欠けているピースがあるはずだとセラフィは弟を問い詰めた。
「それで何したの? 怒らないから言ってみなさい」
「迷宮の中で失敗したら、次は王国軍がいる出口まで連れて来いって……」
そこで直接やるって言ってきたんだ、と白状する。
「あいつは手柄を欲しがってた……」
項垂れるダルクハムを優しく見つめながら、セラフィはまだ欠けたピースを探していく。
「あいつって誰? 誰に言われたの?」
「……ローランド卿だよ」
それを聞いた途端、セラフィの眦が上がる。
「貴方、なんでそんな奴の言うことを!?」
「ち、違う。姉ちゃん……、逃げられなかったんだ!」
吐き出されるような感情が溢れた。
「もう一人、連中の仲間がいた! 俺だけなら、ユウを連れて逃げてた……!」
魔法剣を使う王国騎士ローランドは獣人族の間でも其の冷酷さで有名な男だった。何人もの同朋達が魔法剣の犠牲となっている。
「ユウは貴方の友達でしょう? どうして王国に手を貸すような真似をしたの!」
「仕方なかったんだ! あいつら……脅してきて、どうしていいか分からなかった……」
何かに怯えて目が泳ぐ弟に、セラフィは顔を覗き込む。
「何を言われたの? 貴方には私たちがついて……」
「お袋と姉ちゃんを殺すって脅されたんだ!」
堰を切ったように心情を吐露する弟に、セラフィが質問し、確認を取る。
「俺が迷宮に潜ってる時に姉ちゃん達を殺すって……。気が気じゃなかった!」
「ローランド卿に言われたの? いえ、違うわね……、そう、王国三将ね」
セラフィの明晰な頭脳がこれまでの弟の行動全てを振り返る。
これまでになく厳しい顔付きになった姉にダルクハムは言葉をかけられなかった。僅かな緊張の後、セラフィは話し出す。
「貴方、お父様のことでずっと連中に何か言われてたんじゃない?」
「ね、姉ちゃん……」
気を付けていたのに、とセラフィが独白する。思い詰めていた自分より深刻な顔色の姉にダルクハムは理解が及ばなかった。
私達にも責任があるわ、とセラフィは告げた。
「貴方、家がずっと王国の不法な手出しから守られてきたことは分かってる?」
明るく真っ直ぐに育った弟にセラフィは向き合っていた。
「氏族の仲間たちが私たち家族を守るためにずっと陰日向から協力してくれていたの」
お父様の名誉のためにね、とセラフィは言った。
「え?」
「今は詳しく話せないわ。でもね、お父様のことで王国に狙われていたのよ、貴方が」
自分の預かり知らぬ事実にダルクハムは動揺を隠せなかった。
「王国は消したかったのよ。王国が認め難い事実を知った生き証人を」
震える声でダルクハムが姉に尋ねた。
「いったい、何の話だよ? 親父と何の関係が……」
尋ねてくる弟に見せる姉の顔は優しく、その瞳には慈愛が溢れていた。
「お父様は立派な探索者よ、貴方にも分かる日がくるわ」
親父のことになると誰もが口を閉ざしてきた。誰も教えてくれないことに苛ついて反発した。
其の原因を姉は知っているのか。
「姉ちゃん、何か知ってるなら教えてくれよ! 俺はずっと……」
弟の心からの叫びが上がる前に其れを姉が手で制していた。
「ダルク、貴方には今は他にやるべきことがあるんじゃない?」
貴方を信じて待ってる人がたくさんいるわ、とセラフィは言う。
「貴方がやるべきことはなに?」
「俺がやるべきこと……?」
浮かび上がる仲間たちの顔。ドリスが、ムースが自分に向けてくれていた信頼と友情。それが今重しとなってのしかかる。
「……無理だよ」
尻尾が垂れ下がり、力無く揺れた。
「俺は、取り返しがつかないことをしちまった……」
優しげな黒い瞳。屈託なく笑う表情は人族にありがちな差別意識など見せない。
何度も助けられた迷宮入りへの挑戦。そして探索行。彼がいなければ成し得なかった成果が次々と浮かぶ。
「合わせる顔がねぇよ」
あの日、変わらぬ友誼を誓った黒髪の少年に、ダルクハムは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ユウに聞いたの?」
「え?」
姉の意外な言葉にダルクハムが詰まった。
「合わせる顔がないなんて誰が言ったの? ユウがそう言った?」
いや、そんなことじゃとダルクハムが抗弁しようとする。其れを意に介さずセラフィは説き伏せた。
「貴方、ユウの何を見ていたの? ユウがそんな小さな事で会ってくれないと思ってるの? 勘違いするにしてももっとまともな事をいいなさい」
「姉ちゃん……?」
姉が真剣な表情で見つめてくる。多分、過去に一度しか見たことがない姉の本気にダルクハムは息を飲んだ。
「ユウは、この“迷宮都市”で獣人族である私たちに対等な立場で接してくれた数少ない人族よ」
明るい茶色の瞳に力強さを感じてダルクハムは黙って聞いた。
「生命の危険も顧みずに“奈落”に飛び込んでくれる人が何人いると思ってるの? いないわよ、そんな人!」
其の瞳が正面から自分を見据えてくる。
「いまユウを探しに行かないなら、貴方は一生後悔するわ」
それは確かなことよ、とセラフィが告げる。
「駆けなさい、ダルク。今なら間に合う、アンガウルに急いで!」
「……姉ちゃん」
本気の言葉が持つ迫力に胸が詰まる。
問題から目を背けようとしていた自分が、いつの間にか過去の出来事だったように思えてくる。
それが単なる思い込みや勘違いであったとしても今のダルクハムには身体を動かせる理由に成り得た。姉の言葉に胸の内が軽くなるような見えなかった何かが見えた気さえした。
こんなところで引きこもっているのは俺のやるべきことじゃない。自分自身の中でそう結論付けた。
「分かったよ、姉ちゃん……」
意気地のない自分に何が出来るか分からない。それでも己を突き動かす衝動に本能が応じた。
立ち上がる弟の姿を見てセラフィは何故か在りし日の父親を思い浮かべる。
「……確かめてくるよ」
弟の目が或る方向を睨んでいた。其れが迷宮を目指しているのだと彼女には本能的に理解できた。
「ユウに会って、ぜんぶ話してくる……。それでダメなら、それはきっと俺のせいでしかないんだ」
決意を固めた弟に姉は餞別の言葉を告げる。
「貴方の装備はいつもの場所に揃えてるわ。早く行ってきなさい!」
「決着を付けてくるよ」
ありがとう姉ちゃん、と言い残したダルクハムが部屋を後に駆け出して行く。
「赤煉瓦亭に行きなさい! 其処ならきっと何か分かるはずよ!」
返事ではなく、手を挙げて応える弟にセラフィは胸が詰まった。昔から泣き虫で、ずっと自分が守ってやらなければと思っていた弟が父親の背中を追いかけ、知らぬ間に大きくなっていたことに素直に驚きがあった。
ダルクハムの姿が見えなくなってなお、セラフィは彼の受ける試練に思いを馳せていた。
“御使い”とともにある事の意味。齎されるものへの言い知れぬ畏れが周囲の目となって弟に向けられるだろう。
その時、弟は耐えられるだろうか。試される時が近い気がして彼女は弟の身を案じていた。
迫る戦乱の火の手。燻り、火がつくような獣人族達の不満。時代のうねりに巻き込まれる少年が見出した希望。其れはこの異世界に何を齎すのか。
次回、第86話「活路」でお会いしましょう!




