第38話 生命
おおう、また月日が変わって3月!
大変お待たせしました! 「迷宮都市〜光と闇のアヴェスター」本編の続きをご覧ください!
「……!」
眼前に広がる光景に、ユウの本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
自身に向けられた明確な殺意と無数の槍。松明の火に反射する穂先が鈍い光を返していた。暗い地下迷宮で見る男達の目は、まるで親の仇でも見ているようにギラついている。
十代の未完成な心を抉る光景に少年は後ずさる。
突きつけられる非情さに息を呑む。声が出ない乾いた喉が言葉を拒否している。そんな錯覚を感じてユウは何も言えなかった。
(なんで、聞く耳を持たないんだよ……?)
絶体絶命とも言える眼前の光景。相手は王国の正規兵達で間違いない。
迷宮都市に入ったばかりの頃に会った兵長はユウの身柄を狙っていた。少年を自分達の味方に引き込もうとしていた。
決して忘れた訳ではなかった。
宿では誰もが王国の刺客たちから少年を守ってくれた。あのガルフですら矢面に立ち、密偵らしい不審者を追い払ってくれていたのだ。
自分は、ただ大人達の好意に甘えていただけだったのだと痛切に感じてしまう。
まさか、もう殺しに来るとは思わなかったーー。
少年の心胆を寒からしめる現実に、“迷宮”に関わる王国の態度が透けて見えた気がした。最悪の予想が現実になった事に心が追いつかない。
いまだ受け入れられない現実に、ユウは息苦しさを感じていた。無意識に喉が嚥下する。ヒリつくような空気に、少年の感覚だけが研ぎ澄まされていく。
ユウを追い立てる兵士達。突き放たれる鋭い穂先。
左腕に傷を受けた少年では、もはや逃れる術は無いと思えた。
先程から体力をいいように削られていく。
生死をかけた非常事態は、死を逃れる度に少年からあらゆるものを奪っていく。無理矢理に張りつめられた緊張感がユウを限界まで追い詰めていく。
その時、異常に集中した少年の感覚が、脇道から聞こえる物音を捉えた。それは、確かに近づいて来る何者かの気配と足音だった。
カツン、と石が跳ねる音がする。
「憲兵隊、ハッ! 運がないな……」
ああ、とユウだけが反応する。掛けられた冷たく低い声に、少年の身体が緊張する。
「ヒッ! 仕方ない。見られたなら、殺すしかないよなぁ……」
その声に魔力が含まれていることを何人が気付いたか。
現れた長身の影は、右手に剣、左手に円盾を持っていた。鍛え抜かれ、無駄の無い身体を革製の軽鎧に包んでいる。あちこちに刻まれた傷跡が、ダナが歴戦の勇士であることを主張している。その雄姿が僅かにぶれる。
一瞬だが、霞むようにダナの輪郭がぼやけるのをユウの目は捉えていた。
(えっ? 今のは何だ……?)
少年が感じた疑問に理解が追いつく前に、剣士の殺気が大きく膨らむ。
「……油断するな! 奴も探索者崩れの仲間だ!」
「フッ! 馬鹿な連中だ。俺様とやり合うつもりかよ?」
「構え!」
地下迷宮の通路に殺伐とした気が溢れ、緊張が走った。
「突け‼︎」
舞う血飛沫は誰のものか。吹き上げられた血と臓物が、空気を一変させた。
「ハッ! アハハハハハハーーーっ‼︎」
激しい狂気が迷宮内を満たしていく。
阿鼻叫喚の叫び声が地下迷宮に響く。
其処にあるのは、狩る者と狩られる者とが織り成す地獄絵図。文字通りの殺戮であった。
ダナ・ピジンの剣が振るわれる度に国軍兵士の血が飛び散り、肉が弾ける。
濃厚な血の匂いが少年の鼻をついた。
「ヒッ! 避けないと、死んじまうぞ‼︎」
圧倒的な力で国軍兵士たちを切り裂いていくダナ。その剣速は少年の目では追えない。
轟く絶叫が地下迷宮内を蹂躙する。ツンと饐えた贓物の匂いにユウが嗚咽に咽ぶ。
「お、落ち着け! た、体勢を整えるのだ! 盾を構えよ‼︎」
指揮官の声に力がない。眼前に広がる光景に信じられない気持ちなのだろう。
誰もが納得する筈だ。鍛えられた国軍兵士たちを相手に、たった一人の探索者が斬り結び、あろうことか圧倒するなど。俄かには信じられない事態であった。
ダナの剣が、まるで生き物のようにしなる。剣速が上がり、風を巻いて血を払う。剣撃を受け、流し、ダナの持つ盾が耳障りな金属音を出し続ける。
響き渡る兵士たちの絶叫をユウは何処か冷めた気持ちで見つめていた。
(俺も殺られる、のか……?)
スローモーションのような空気感の中で、ユウの思考だけが回り続ける。
圧倒的なダナの技量。歴戦の勇士であることは疑う余地も無い。目の前に広がる惨状が全てを物語っていた。飛び散る血飛沫を浴びて、喜色に叫ぶ獣が其処にいた。
あれを誰が止められるというのか。
いつのまにか、隠れていたらしい小鬼達が国軍兵士たちの後方に現れていた。
「なっ⁈ 向こうからだと?」
「よそ見してっと、死んじまうだろうが!」
小鬼など意に介さないとばかりにダナが強襲する。盾をぶつけ合い、怯んだ奴を次々と段平の餌食にしていく。強引に国軍兵士の隊列を割って入って来る。
ひとり、またひとりと兵士たちが斬られ倒れていく。辺りは血の海に沈み、血風が吹き荒ぶ。少年は過酷な戦場を目にしていた。
「あ、あぁ……」
上手く声に出来ないが、ユウにも状況は判断できた。
此処にいては死ぬ。それだけは理解できた。少年は痛む左腕を庇ったままの体で敵のいない箇所と走った。
気づいたら走り出していた。そう言えるほど少年は咄嗟に行動していた。地下通路の奥が何処に繋がっているかなど、この時のユウにはどうでもよかった。
「しまった、何処だ⁈ 奴が見えない!」
剣士が戦闘の合間に少年を目敏く探していた。視線が不自然に動く。その相貌が、一瞬だが酷く不健康な肌の色をしているように変化した。錯覚であろうか。
もっとも戦っている国軍兵士たちですら気付くか気付かない程度のものであったが。
だが、不穏な魔力の高まりを感じた兵士たちが盾を構えながらもたたらを踏む。何かしらの圧力が、彼らに攻める事を躊躇わせていた。
そこへ、新たな敵が近づいてきた。
「Gya! Gya、Gyayaaa!」
小鬼の群れが兵士たちを迂回するように集まりだす。
群れとなった魔物が統制の取れた集団となって行動する。
その中心に剣士がいた。小鬼の群れに囲まれながら、悠然とした態度を崩さない。その様子を見た兵士たちが絶句する。
やがて集まった魔物たちにダナは命じた。
「行け! 光の戦士を探せ‼︎」
ダナの声に小鬼たちが色めき立つ。明確な統率者の声を聞いたかのように戦意も高く駆け出していく。
その悪夢のような様を見ながら、国軍兵士の指揮官が唸った。
「ば、馬鹿な! 魔物を使役するなど、あり得んっ‼︎」
その声にダナ・ピジンが応えた。
「はん? なんでそう言い切れる?」
「魔物は強い個体に従うが、それは上位者の場合だ! 魔術師といえ、おいそれと人族に従うなどあり得ん‼︎」
妖術の類いか、等と指揮官が唸る。
俯く剣士の方から魔力の流れが起こる。周囲の気温が急激に下がっていく。
「まったく……、どいつもこいつもよぉ」
ゆっくりと顔を上げた男の目が黒い靄に覆われる。不気味な魔力を纏ってダナは告げた。
酷薄な笑みを浮かべた男を前に、国軍兵士達は滝のような汗をかいていた。全員の顔が引き攣ったように萎縮していく。
「等しく無価値なくせに、俺に逆らいやがって!」
暗い双眸が闇より黒く染まる。
「後悔シテモ遅イゾ! 暗黒ヨリ暗イ闇ガアルコトヲ身ヲモッテ知レ‼︎」
「どっちだ? 分かるか?」
グレッグの問いにダルクハムが応える。その真剣な表情は親友を助けるためのものだ。
「……こっちだ!」
獣人族の特徴である嗅覚を最大限に活かし、鼻をヒクつかせる。
グレッグ達の一行は仲間を助けるべく急行していた。獣人族の特性を活かして匂いを辿り、足跡を辿って少年を追いかける。
時間との勝負にダルクハムも必死だ。皆、周囲に警戒しながらも一刻を争うことを分かっていた。普段は軽口を叩く彼も黙したままだ。
緊張感と焦燥感に囚われた一行が向かうのは迷宮の奥深くだった。
「ねえ、どうしてカレブロみたいな怪物が上層階に来たの?」
アイラがグレッグに問う。
「最近、迷宮で騒動があったろう?」
「この間の大蛇……。いえ、蛇神の使いのこと⁈」
走りながらグレッグが肯定する。
「多分な。っと、危ねぇ!」
松明の火を頼りに走る彼らも怪我の心配があった。それでも危険をおして奥へ進む。次第に道幅が広くなり、足場も凹凸が酷くなる。作られた通路から自然の洞窟に似た姿に変貌を遂げていく様が垣間見えた。
「下層で蛇神の使いに追われた魔物達と一緒に怪物も上がって来たんだろうさ。もしくは餌となる魔物を追って来たか、だ」
急ぐ途上で魔物の死体も見つけた。
明らかな戦闘の痕跡を見つけた時は、もしやと思い少年の姿を探してしまった。
心臓に悪い探索だ。ひりつくような焦りを感じながら走り、何かを見つける度にヒヤヒヤしながら確認する。そんな追跡が続く。
だが、もう近い筈だ。
(ユウ、待ってろ!)
ダルクハムの手に汗が滲む。首の後ろの毛も逆立ちっぱなしだ。
一秒を惜しむ追跡行に、終わりが見えない。突き上げてくる感情を抑え込み、悲観的な想像を否定する。そんな焦りが再び込み上げてきた時、前方に広い空間を見つけていた。
「通路から出るぞ! 注意しろ!」
「ムース!」
「分かってるだぁ!」
言葉少なに男達が意識の疎通を行う。短い一言で連携が図れるくらいには、一行の練度は上がっていた。
広い空間に出た一行は周囲に目を配り、気配を探した。
最初に異変に気づいたのはムースであった。
「き、来てくれ!」
普段は大人しい男の呼びかけに全員が瞬時に応じた。駆けつけた者は皆武装を解かぬまま、彼の呼びかけの真意を問うた。
「これ、小鬼との戦闘のあとだあ。特徴のある足跡だから間違いないだ」
そう言って彼の指差す方向を見た途端、全てを理解できた。乱戦の跡に残された人族より小型の足跡。無数にある足跡が姿のない襲撃者が誰かを物語っている。
其処は襲撃者たちの狩場であった。
累々と横たわる死体にドリスなどは顔を背けた。無理からぬ光景だが、ダルクハムやグレッグは真剣な表情で見遣る。全ての死体と切り傷とを見て、グレッグが発言した。
「間違いないな。少し前に此処で戦闘があったんだ。まだ血が温かい。それに、ダナらしき大剣の切り傷がある」
神妙な顔付きでグレッグが小鬼の身体に刻まれた剣戟の痕をなぞるように指差す。
(しかし、小鬼だけじゃなく、同じような傷痕が兵士にもあるのが妙だが……)
迂闊な事は言えないと彼は沈黙する。そして、そのまま此処であった戦闘の真相を推し量るように黙考していた。
「国軍兵士達が全滅かよ……」
呟くような声はダルクハムのものだ。彼も戦闘の激しさを理解できるうえ、全滅している国軍兵士の数に驚いている。この数の兵士を殺せるほどの小鬼の群れとは、いかなる集団だというのか。
「ねえ、ユウは何処なのか分かるの?」
アイラの声が虚しくさえ聞こえる。荒れた地面に視線を落としていたダルクハムやムースが顔色を悪くする。
「探すんだ。時間も無い。きっと俺たちの助けを待ってるはずだ!」
「ああ、そうだぜ! 落胆してる暇はねえ!」
気を引き締め直したダルクハムが叫ぶ。親友のため、できることはやらねばならぬ。
「手分けして探そう。足跡が残ってる場所があるはずだ」
一行の全員が黙って頷いた。彼らの目的である少年は生きている。そう信じて残された痕跡を見つけ出すのだ。
(待っててくれ、ユウ! 俺が行くまで絶対に死ぬなよ!)
奥歯を噛み締めてダルクハムが決意を新たにしていた。すぐにでも飛び出そうとする彼を手で制した者がいた。
「ちょっと……、待ってもらえねぇかな?」
屈んだ姿勢のままでムースが地下通路の奥に目を向けていた。
「どうしたんだ、ムース? 今は手分けして……」
「臭うだ」
怪訝な表情で彼を見るグレッグは、仕方なくムースと向かい合った。
「何がだい?」
「わずかだども、臭ってくるだよ。ほら?」
分からないといった顔でグレッグは周囲を見回す。其処には、迷宮の地下通路が広がる暗い闇があった。その暗闇の奥の方から風が吹いている。
光すら届かぬ場所に何があるのか。誰にも分からぬ問いに、彼は闇の奥を見つめるしかなかった。
「……ああ、確かに臭うな。ありがとうよ、ムース。言われなきゃ気づかなかったぜ」
「だな」
ダルクハムの肯定的な返事にムースが頷く。ヒクつかせる鼻は獣人族の特徴だ。
「なあ、二人とも。それはユウなのか?」
グレッグが尋ねる。だが、返答は違った。
「いや……、なんていうか血の匂いだ」
「奥で戦闘があったかもしれないだ。だとしたら、ユウはあっちで間違いないだあ」
大柄なムースが膝をついた体勢で通路の奥を指し示す。小型の足跡が、その通路へと幾つも続いている。
其れが、奇しくも自らが見つめた迷宮の奥へと続く通路だと知ってグレッグは悟った。
かつて無い程の危険な探索行の予感がする。彼の本能は、そう語っていた。
「ユウが其処にいるのなら、迷うことは無い。助けに行くぞ」
自らを奮い立たせるようにグレッグが言う。誰より早く、それにダルクハムが応えた。
「行こうぜ! 行かなきゃならねぇんだ‼︎」
顔を見合わせた彼らが行動に移すのに時間はかからなかった。
駆け出すダルクハムを追うように全員がついて行く。暗闇の中、ダルクハムは獣人族の特性を活かして昼間と同じような速度で走る。ムースやドリスも同様だ。
彼らをまとめるグレッグのほうこそ、慣れない迷宮の中で松明の火を頼りにしていた。
駆け続ける彼らの鼻先に確かな異臭がしてくる。それがはっきりとしてくるにつれ、グレッグは嫌な予感が拭えなかった。
「よっしゃ、広くなってきた!」
先頭を走るダルクハムの声に、視界に入る迷宮の通路が広がってくる。自然の中でも見かける洞窟のように壁や天井には段差や亀裂が見える。更に奥へと進めば、天井から石の柱のようなものがぶら下がっているのが見えた。
ただ、異臭が終わらない。むしろ、臭いが強くなってきているようだった。
(この生命の危機を嗅ぎ取る時の嫌な感じ、慣れないな……)
自ら危険へと近づく時に感じる感覚に、グレッグは戸惑う。背中がヒリつくような感覚だ。無意識のうちに松明を持つ手に力が入った。
やがて見えてきた景色に、彼の本能は揺さぶられた。
それは、森の中などで稀に見られた。
特定の鳥類などが、獲物を捕らえた後に見せる行為だっただろうか。広がる通路の其処彼処に何かがぶら下がっている。
いち早くそれが何かを見て、グレッグは込み上げてくるものを堪えた。
「……アイラ、いつでも逃げられるようにしておいてくれ」
長年の相方が漏らす言葉に、アイラは怪訝な表情で彼を振り返った。
「どうしたの? 確かに危険な感じはするけど……」
「もう遅い。ここは奴の領域だ」
ぎょっとして目を向けたアイラにグレッグは頷いて返す。緊張感に喉が渇いてくる。
立ち込める腐臭と、木の枝に見立てた岩肌に掛けられた獲物の肉。腐った血肉が滴り落ち、乾いたものが黒くこびりついている。
暗闇の中で視界は効かない。
更に強烈な異臭が獣人族の鼻すら潰す。
まずいな、と呟いてグレッグが周囲を警戒する。ぼそり、と呟く彼の言葉にアイラは背筋が寒くなる錯覚を覚えた。
「間違いない。この奥にいるのは怪物だ」
(もう体力が、ない……。血が流れ過ぎ、だろ……)
足取りも覚束ない体で、少年は迷宮の奥へと進む。
足が痛み、心臓が悲鳴を上げている。装備は傷つき、盾は何処かに落としてしまった。唯一、右手に持つ剣さえ、先端が折れている。
ユウは左腕を抑えながら、全身を襲う疲労と激痛に抗っていた。
追いかけてきた小鬼たちと死闘を演じ、なんとか切り抜けたユウは満身創痍の状態だった。
数が多く、小柄な小鬼を壁際の段差がある場所等を利用して迎え撃った。だが、無傷とはいかなかったのだ。
少年も手傷を負い、左腕に加えて右脇腹に切り傷を受けたのだ。
(痛ぇ……)
今にも飛びそうになる意識を繋ぎとめてユウは歯を食いしばる。痛み続ける傷痕を押さえ、苦痛に顔を歪めた。だから、気付かなかったのだ。危険が其処まで忍び寄っていることに。
奥へと進んでいる少年にも自覚は無かった。自らが死地に向かっていることに。
ユウの鼻腔が何か嗅ぎ慣れない匂いを拾う。朦朧としてくる意識の中で、何故か忌避感を感じて少年は立ち止まった。
(なんだ、これ? 変な……匂いが、ずっと……)
漂う嫌な香り。鼻をつく異臭に、ユウが顔を顰める。
少年の手にある松明の火が僅かに揺れた。何処からか風が吹いてくる。
フウッ、と獣の息を吐く呼吸音がする。暗がりに蠢く巨体が、大きな質量が近づいて来る気配がする。
ユウの全身が硬直する。明らかな強者の気配に、少年は総毛立つ。何も見通せない暗闇の中から、何かが近づいて来る。それは圧倒的な恐怖を感じさせる何かだった。
「あ、あぁっ……!」
動かない身体がもどかしい。恐怖に叫びたいのに叫べない。ユウの全身が危険を感じて逃げる事を望んでいた。
フウッ、フウッ、と近づいて来る其れの息遣いが聞こえる。少年より大きな体躯を持つ何か。暗闇に光る凶暴な目だけが、此方をじっと見つめてくる。
一定の距離を置いて見つめてくる緑色の目。
その目は紛れもなく魔獣のそれだ。
ユウの喉が鳴る。この異世界に来てから何度目かの生命の危機。大猪や巨鳥に匹敵する何かが其処に居る。
肌は泡立ち、背筋に冷や汗が流れる。
硬直したユウの背後から、小さな足音が聞こえてきた。同時に魔獣の気配がすっと消えていた。
そう認識した瞬間、ユウは右肩に強い衝撃を受け、倒れた。
「ぐっ!」
突然、肩を背後から強打されたような衝撃と突き抜けるような激痛にユウは倒れる。
地下迷宮で初めて昏倒した少年は、痛みに意識を持っていかれそうになった。
訳が分からない痛みに、理解が追いつかない。ただ、近づいてくる追手の影が少年の心臓を鷲掴みにした。
(追いつかれ、た……!)
ユウの本能が危険を察知して警告してくる。小鬼たちの集団が追い付いてきたに違いなかった。
「ハッ! ここにいたなぁ?」
だが、聞こえた声は剣士ダナ・ピジンのもの。それに小鬼たちの複数の足音と騒がしい濁声が混じる。ユウは困惑したまま、現状を把握しようとする。
しかし、少年は立ち上がろうとして出来ないことに気づく。右手は、もう握力がない。脇腹から下は痺れたように麻痺していた。
「ううぅ……!」
立ち上がれない自分を少しでもダナから遠ざけようと、ユウは足掻く。地面を這うように手足を動かす。
「Gya! Gya、Gyayaaa!」
聞こえてきた小鬼達の叫び声。死をもたらす魔物の声に少年の身体が震え上がる。
遅々として動かない自分の身体に、ユウは焦りばかりが募っていた。
「礼を言うぜ。小鬼どもに殺されてなくてよ。ヒッ! こいつら考え無しだから心配したんだ」
少年の耳にザッ、ザッと近づく足音が聞こえる。その音にユウは鳥肌が立った。冷たい手に心臓を鷲掴みにされたような危機感が少年の脳を翻弄する。
うつ伏せに倒れたユウからは彼らの姿は見えない。それが、かえって不安と焦りを増長させるとは。
見えない方向から聞こえてくる声が少年に恐怖を植え付ける。
「すぐ楽にしてやる」
恐怖を与えた声の主がユウの視界に現れる。革鎧に円盾、長剣を携えた背の高い男の姿が露わになった。
(なんだ、こいつ……⁈)
ユウの落とした松明の火が、ボウッと揺れる。その薄い光に照らされたダナ・ピジンの姿は、異様な狂気を体現していた。
薄汚れた装備は国軍兵士達との戦い故か。張りのある健康的だった肌は艶を失い、くすんだ色味を帯びている。服装も何故か襤褸を纏っているような感じだ。手の指は細く節くれだち、肉が落ちていた。
その様は、まるで病人か死人だ。
幽鬼のような姿を見せて、ダナは追ってきたのだ。
その身体からは得体の知れない魔力が漏れ出し、両目には黒い靄のようなものが見えていた。
(動け、よ……! いま逃げないと、殺される‼︎)
握力の無い手で、少年は倒れた身体を前進させようと藻搔く。一向に進まない自身の身体は、とうに限界を超えていた。それでも生きる希望を掴もうと足掻き続ける。
地面に走る幾筋もの爪痕が、いたずらに増え続けていく。
「悪く思うな。戦士たる者、生き死には自分じゃ選べないのが世の常だ」
背後から聞こえた声に、ユウは全身に走る衝撃を予想し、硬直する。
死を受け入れろ、とダナの声が誘う。
「戦士として逝かせてやる。神の園で会おうぜ」
短い宣告。恐怖がユウの心を支配した。
叫びだした途端、ユウは叫べない事に気づく。空気だけが喉から溢れる。
フウッと空気が動く。パシャッと湿った音が迷宮に響いた。
「あっ? なんだ、どうした?」
手間ばかりかける小鬼どもを叱責するようにダナが問い掛けた。
その返事は無い。代わりに、充満する血の匂いが届いた。
「おい、どうした?」
小鬼達の行動に苛立つダナが問い質す。ムワッとした濃い血の匂いが迷宮内を満たしていく。ポタリ、ポタリと滴り落ちる生温い感触に、ダナが怪訝な表情を見せた。
「なんで血が流れて……?」
フウッと風の音が聞こえた瞬間、凄まじい暴力がダナを背後から打ち付けた。
ゴギリと骨が砕け、血飛沫が舞う。
黒い疾風が通り抜けた跡のように、居並ぶ者達は地面に叩きつけられていた。
緑色の双眸が闇を照らす。流れるような滑らかな動きで長い尻尾が振り抜かれる。太い四肢が暗い背景を切り取り、巨大な牙が僅かに光った。
「がっ! なっ、何が……⁈」
悪態を吐くダナが声を上げた。だが、既に魔獣の一撃で背骨を叩き折られたのか、伏したまま起き上がれずにいる。
暗い地下通路の奥から何かが襲撃してきたのだ。魔獣の息遣いが聞こえるたびに小鬼達の絶叫が上がった。
短い断末魔を響かせて次々と死んで逝く。
全てに等しく死をもたらす魔獣によって、あまりに簡単に少年を追い詰めた魔物達が殺されていた。
「あがっ! なん、だってんだ⁈ 魔獣か⁈」
両腕で上体を起こしたダナは剣を構えながら闇を凝視している。
闇の奥に潜む魔獣の姿は見えない。
「なんだ⁈ 何がいやがる?」
素早く起きがった彼が見たものは、折れ曲がり、あらぬ方向を向いた自分の腕だった。
「……えっ⁈ おい、なんで俺の腕が? 痛くない、ぞ?」
自分の左腕を見つめるダナが驚愕に目を見開く。彼の目は、自らの身体を凝視している。左腕の関節からは骨と筋の一部が覗いていた。
「なんで、血が出ねぇんだよ? それに腕も萎えて、どうしちまってる? いったい、俺の身体に何があったんだよ⁈」
どろり、とした黒ずんだ血を見たダナは更に狼狽する。
どうなっちまってるんだ、と口にした途端、ダナ・ピジンの身体は再び横殴りの暴力に吹き飛ばされていた。
目の前を横切る黒い体躯。巨大な獣の全身は濃い灰色の体毛に覆われていた。
音も無く、一瞬で彼我の距離を詰める強靭な脚力。濃密な魔力を纏う姿は野性そのものだ。
暗闇の中で光る緑色の双眸。それこそが、闇の中で獲物の動きをいとも簡単に捉える。
上顎から生える二本の巨大な牙。それこそが、この魔獣を象徴する最大の特徴であった。
「うわぁっ! や、やめろぉっ‼︎」
太腿に喰いつかれたダナ・ピジンが絶叫する。
恐慌状態に陥った彼を助ける者はいない。連れてきた小鬼達は既に魔獣によって全滅していた。
手下を失った彼を待つものは、圧倒的な暴力による死だ。
「あ、あがががっ!」
前脚の一撃でダナの下顎が簡単に消し飛ぶ。脚を噛まれ、身体ごと振り回される彼の姿は見る間に襤褸屑となる。
獰猛な唸り声が地下通路に響きわたり、獲物の声を搔き消す。
それは、もはや逃れられない末路であった。
(あれは……? 灰色の……、剣歯虎……?)
ユウの心に浮かぶ感情。驚くでもなく、感情の波に囚われるでもない彼の心中は、むしろ穏やかであった。
身も心も傷つき、ボロボロになっていたユウにとって眼前の光景は絵空事のようだった。その光景をただ見遣る。
何の感慨もなく、助かった事実に感謝している自分がいた。それが、ユウには不思議に思えた。
強い者が勝ち、弱い者が負ける。
弱肉強食の自然界の掟。ユウの眼前で、当たり前の光景が繰り広げられていた。
現代日本では良しとされなかったルール。少年もそう教えられてきた。
しかし、それを美しくシンプルなルールだと思う自分がいることにユウは内心では驚いていた。
「チクショウ! 呪ワレロ‼︎」
息も絶え絶えとなった筈のダナが奇怪な声で叫んだ。
黒い靄が彼の全身を覆う。その黒いものがすうっと、彼の身体から噴き出し、離れていく。
剣士ダナ・ピジンが天井を見上げている。その目には黒いものが蠢き、瞳以外の部分を塗り潰していた。
「貴様ノ差シ金ダナ! 呪ワレロ‼︎」
暗い地下通路の片隅から天を睨む。
「呪ッテヤル! 暗黒ヨリ、ナオ暗イ穴蔵ノ底デ貴様ヲ呪ッテヤルゾ! カナラズダ!」
力の限り叫ぶダナであった者の声に、ユウは身震いする。
その脚を噛み砕く剣歯虎は何度も何度も前脚でダナを押さえ、叩く。
少年は知らない。剣士ダナ・ピジンが既に数日前には死んでいたことを。目の前にいる剣歯虎が腐肉を好む習性を持つことを。
腐肉の匂いをさせながら生者のように活動しているダナは、剣歯虎にとって非常に興味をそそる獲物であった。その証拠に、先程から実に念入りにダナの死体を噛み裂き、バラバラにしている。
その興味が尽きぬうちに投げ出せれば、少年にも万に一つの生きる機会があったかもしれない。しかし、現実はそんなはIfを許さなかった。
(こいつが、俺の死か……?)
フウッという息遣いとともに剣歯虎が近寄ってくる。
少年の瞳を覗き込む緑色の双眸。
次第に大きくなっていく獣の荒々しい息遣いが聞こえた。
急速に遠退いていく意識の中で、ユウは近づいて来るその姿を見つめ続けていた。
自然界の掟に自らも従う純粋な在り方。その神々しいまでの生き様に、ユウは生命の根源を教えられた気がした。
この時の心境をユウは後々にも上手く言い表せない。
絶対的な食物連鎖の上位者。それを前にして己の生命の終焉を悟った瞬間の感情。それは、現代日本で暮らしている者には決して理解できないものであったからだ。
本能が教えてくれた生命の煌めき。
己の生命が消えゆく様を理解すること無く、少年は暗い迷宮の奥深くで意識を手放していた。
九死に一生を得たユウ。迷宮での危険な探索に今度こそ己の至らなさを感じる。そんな彼に友人達は何かを伝えようとするが少年の耳には届かなかった。それが意味するものとは。
次回、第39話「火審」でお会いしましょう!




