第1話 召喚
プロローグの続きです。
幻想的な青い光の線で描かれる精緻な紋様。
複雑にして繊細な模様が、その場を埋め尽くしていた。基底となる同心円を結ぶ特殊な文字は、夜空を見下ろす星々の如く煌めく。だが、そこに法則性は見出だせない。
まるで魔方陣のような形を成す其れは、この世界に入り口として顕現した。
ごく普通の住宅街の中に突如出現した其れは、現代日本から何処か異なる場所へと誘うために組み上げられた技能。
其れは、人類とは異なる文明によって紡ぎ出された仕組みであり、技であった。
その場所にいた少年は、何も分からないまま幻想の灯火に照らされ、青から白へと変異していく光の洪水に呑まれた。
純白の光は限り無く澄みわたり、高らかに歌われる聖歌のように。
力強く輝く光は際限が無く、勇ましい戦士の魂のように。
すべてを呑み込む濁流のような光の流れは、少年を包み込んだ後、一際大きく輝いた。
現代科学では何一つ説明のつかない現象が、首都圏の一画で発生していた。
天地が逆転したかのような浮遊感が、また落下現象に似た感覚が少年を襲った。
暗闇に視覚を奪われた少年が戸惑うより先に、重力の楔を失った感覚が発露する。長い長い時間、落ち続ける感覚が少年の意識を奪う。
昏い空間は、天も地もなく、ただ一切の光を赦さなかった。
少年が墜ちたのは空間に穿たれた竪穴。巨大な空間は何処までも続く奈落を思わせ、際限無く広がっている。その竪穴に、小さく光る星の欠片が見えていた。その星の欠片を少年の意識が信じられない速度で追い抜き、やがて遠ざかる先に別の星が見えてくる。
また追い抜き、次の星を見つけてを繰り返す。そうして、少年の後ろに見えてくる星々の列。何者かの願いを映して、先駆けのように瞬く星々の列を縫うように少年は墜ちて逝く。
その中で、常に青い光が少年を背後から守るように寄り添っていた。
暗闇に囚われないように、光輝く青い星。
堪らない不安を煽る闇を退けて、光は進む。闇は、わずか一刻の時を耐えきれず路を開く。
刹那の瞬間とも、永い永劫の時とも思われた時間、そうして少年は昏い竪穴を進んで行った。
冷たい感触が少年の意識を呼び起こした。頬に触れているヒンヤリとした感触が、少年の目を覚まさせる。
固く冷たいものに触れている感覚が、次第にはっきりと身体に感じられた。暗転していた意識を取り戻して、朧気ながらも少年は気が付いた。
(何が……起こった、ん……だ?)
横になった姿勢で目を開く。
気だるい意識に届いた外界の情報。視界に入ってくる見知らぬ天井。石造りの建物にある構造だな、と少年は気付いた。どうやらまだ自分は上手く目が覚めていないらしい、とも少年は思った。
少しだけ違和感を覚える気だるさに、寝惚けていると少年は納得しようとしていた。
しかし、その冴えきれない頭と耳朶に聞き覚えの無い声が届けられた。しかも、その声は彼にはっきりと告げた。思いがけない言葉を、だ。
「ようこそ、異世界人よ」
少年の耳に届いた声。壮年だが力強い声だった。その声の主を無意識に探して、少年は飛び起きるように起き上がり振り向いていた。
無理に身体を起こしたせいか、軽い頭痛が伴う。
少年が起き上がったことで目覚めたと判断したらしい何者かが更に続けた。
「異世界人よ、先ずは御名を聞かせて欲しい」
声のする方向に視線を走らせる。
少年が広い室内を見渡すと、声の主を中心に数人の男達がこちらを注視しているのが分かる。
全て只ならぬ雰囲気を持つ大人達だ。
其処から周囲にも目を走らせたところ、この部屋は非常に広く天井も高い造りになっている事が分かった。まるで、城か神殿、大聖堂のような場所を連想してしまう。
大きな石材を積み上げて組まれた支柱。磨き抜かれた表面は大理石や御影石のように滑らかだ。室内の装飾こそ少ないものの、まるで神殿内のような静粛で厳かな雰囲気を醸し出している。
外気温は屋内のせいか、寒くもなければ暑くもなかった。言葉は、先程から話し掛けられていることで通じる事が分かっている。
ゴクリと、少年の喉が鳴った。
ひとつ大きな問題があるとすれば、それは此処が何処なのかという問題だった。此処は少年が記憶している世界中のどの国とも違った文化、歴史を感じさせる気がしたからだ。
少年に話し掛けてきた者達もまた特徴的だ。
先ずは少年の名前を尋ねた人物だが、白いローブを纏う男性だった。声を聞くだけで威厳と規律を重んじる性格が窺える。風貌は力と覇気に満ちたある種のカリスマ性を備えており、彼が場の主導権を掌握していることを感じさせた。
灰色の瞳は油断無く少年を見つめていたし、白髪が混じり始めた髪も丁寧に櫛梳られ、身なりの良さと相まって一定以上の立場にある事を予想させた。左手に大振りの杖を持っている事が、少しだけ少年の違和感を掻き立てた。
彼が宰相という一国の重鎮だったとは、後で知った事実だ。
その後ろに、時代錯誤な二人の人物が立っている。どちらも二十代と若く、精悍な顔付きと鍛えられた意思と身体を持っていた。磨かれた鎧兜に身を固め、まるで中世のような出で立ちをしている。金髪に青い瞳という風貌は、外国人である事は疑いようが無い。白いローブの男性を護るように立つ姿には、無言の圧力があった。
そして、その腰に綺羅びやかだが長剣らしきものがある事が少年に不安材料を与えた。
他にも宰相の後方には、護衛の二人よりも大柄な人物が立っていた。前方で腕を組み、口には薄い笑みを浮かべている。
盛り上がった腕の筋肉が遠目からも分かる。少年は若い二人を見ていたせいか、直感的に彼は軍人だと感じていた。そう思えば、男の短く刈られた頭髪と酷薄そうな笑みが凄味を増してくるように思えた。
そして、彼もまた大振りの剣を掃いている。ただ、その剣は使い込まれたもののように汚れていた。男は歴戦の勇士にある独特な風格を持っていたが、少年の目には一種危険な匂いを感じさせた。
もう一人、軍人のような男の傍らに一番大柄な人物が立っていた。身長は二メートル近くあり、体格も立派なものだ。もし目の前に立たれたら、威圧感しか感じないだろう。
無口な男は物言わぬ巌のような印象を与えたが、その双眸はじっと彼を見つめている。その目を見返したせいで、少年の身が竦んだ。
「言葉は通じていると思ったが……。どうだ、異世界人よ?」
カツンと杖が床を鳴らした。宰相が少年に返答を急かす。まだ混乱していた少年にとって、なぜなのかと問う間隙すら与えられなかったと感じたかもしれない。
「俺の、名前……?」
困惑した声は震えていた。その事を悟られまいと、少年は下を向いて気丈に口を結ぶ。
「うむ。そなたを呼ぼうにも名を知らねばならぬであろう?」
「ユ、……ユウ……だけど……」
少年は宰相を見て、それだけ返答する事が出来た。
だが、少年が状況を把握するより早く、二人の護衛らしき騎士達が動いていた。
そう、騎士なのだ。瞬きをする間に踏み込んで来た二人。厳めしい甲冑姿の男達が眼前に迫り、風が鳴った。少年を、見下ろす瞳は笑っていない。
少年の両肩に置かれるように抜き放たれた刀身が鈍く光る。視線を追うように輝く抜き身の刃が、少年の心臓を鷲掴みにする。
二人の護衛が見せた抜き打ちに、少年は動けなかった。
「止めぬか、控えよ!」
壮年の宰相が止めなければ、どうなっていたか。少年は、喉が鳴る音を初めて意識した。
「さて、立てますかな?」
剣を戻す護衛達を手で制しながら、白いローブの男は言った。護衛達が剣を引き、その際に聞こえた細い金属が擦れる音が少年の肝を冷やした。
「先ずは落ち着くことが肝要。詳しい話しはそれからとしよう」
宰相の言葉に理解が追い付かない。いや、正確には理解した事実を理性が認めたがらなかった。
ユウは思った。これは現実なのだと。
ドクンドクンと荒い鼓動が響き、心臓が早鐘を打つ。不思議と冷静に考える事が出来たのは、余りにも此処が少年のいた世界とかけ離れていたからだろう。
彼が出会った者達。彼等が、この世界における代表的な支配者層の典型だとしたら、此処の文明は彼の知る中世程度のもの。いまだに剣で武装した人間がいることが、世情不安定な世界の一端を示してさえいる。彼の知らない文化知識人がいたとして、目の前にいる彼等の中世程度の衣装に見える出で立ちからは、期待すべくもない。
早々と少年は詰んだかも知れないな、と思っていた。
石壁に照らされる原始的な光。ランプのような炎が、少年の目に何故か印象的に映った。
(……これは、もしかすると本当に? 本当にそうなのか?)
そう問わずにはいられなかった。少年の心に思い浮かぶ文字。
異世界転移ーー。
そうとしか思えない状況に、ユウの心は震えていた。
「……ったく、本気かよ」
小さく呟いた言葉は、少年の見る世界の前に空虚にさえ思えた。
彼は召喚されたのだ。何処とも知らぬ異世界の住人から。
それが、少年にとって冒険の日々の始まりを告げる最初の出来事だった。
後世の歴史家達から理想郷と呼ばれることになる異世界。そこには、大海に浮かぶひとつの大きな大陸があった。
その大陸中央に位置する人間至上主義を謳う王国は、その年、本来なら絶対的権威を誇る宮中祭祀を無視して或る儀式魔法を強行した。
当日、王国に召喚されたのは何の力も持たない一人の少年だったと言われている。しかし、王国の公式記録には一切の記述がなく、其れを証明する術は無い。
もはや伝承に縋るしかない少年の最初期の逸話は、国内に口伝としても残されていない。
当時の人々にとっては、一人の少年が世界に変革を齎すことになるなど、まったく予想だにしえなかったのである。
突如、異世界へと召喚され困惑するユウ。次第に明らかになる周囲の状況に、少年は表情を固くする。絶対的な支配者が存在する世界に飛ばされた少年に、宰相ボノが提案するものとは?
次回、第2話「王国」でお会いしましょう!