第14話 日常
「迷宮都市〜光と闇のアヴェスター」本編の続きです。大変お待たせしました!
「そら、肩がふれている。水平を保て、ユウ」
そんなことを言われたって、と汗の滲む顔でユウが歯軋りする。
翌朝から始まった“双剣”による訓練は全くの素人であるユウには完全に手に余る内容だった。朝から町の中と言わず、外周と言わず走らされ、へとへとになったら次は同じ姿勢を取るように強要された。訳の分からないうちに余裕が削られて、今や一杯一杯の状況だった。
「ぬぐぅ……」
腕立て伏せの姿勢を取らされ、背中には重し代わりにガルフ自身が腰掛けている。何処かで見た修行光景だと少年は思ったが、現実が予断を許さないほど余裕がなかった。
腕と言わず背中と言わず、先程から限界に悲鳴をあげているのだ。
「お前は持久力が足りない」
「いや……」
基礎体力に注文を付けられるとは思わなかった少年は答えに詰まる。
(獣人族とは元々の身体能力が違ってるだろ⁈ くっ……)
気を抜けば即座に潰れそうなこの姿勢を維持するべく、ユウは目前の課題に集中する。
眼下の少年を見ながら指導する。
「万遍なく全身を鍛える。能力の底上げには必須の条件だ」
「は、い……」
なかなか頑張るユウの態度にガルフの口角が僅かに上がる。そんな訓練が朝から休みなく続いていた。
まるで両腕が生まれたての子鹿のようにプルプルしてくる。我慢の限界に達した少年が苦鳴を漏らした。
「立て。城壁沿いに走るぞ」
「くっ……! 分かって、る……!」
両腕の痺れに顔を顰めながら、少年はガルフの背中を追いかける。走り出す二人は、人々の活動が始まる町の朝の風景を尻目に訓練に勤しむ。それが至極当然のことのように、町の誰もが訝しがることも無い。
探索者達の日常が、この町では当たり前の光景となっていた。
店を開ける店主が頭を下げてくる。古着屋の女将さんは掃除の手を止めて、手を振ってくれた。奉公先に走っていく男の子が足を止めて声を上げる。町の門を守る守衛達が片手を上げて頑張れと口を動かしていた。
朝日が昇り、暖かい陽射しが差す。
この世界での新しい日々がまた始まる。昨夜、疲労から泥のように眠った自分が、今は探索者として生きていくために汗を流している。
その事実がユウに不思議なほど生きる気力を与えてくれるのだ。
煩わしい悩みに気を取られることなく、少年は黙々とトレーニングに励んでいた。それは、異世界に落とされたユウにとって救いとなっていた。
何かに打ち込む充実した時間ーー。
少年にとって、これまで体験した事のない日常が其処にあった。
「フム。まだ次の段階に進むには早いが、一度剣を振ってみるのもいいだろう」
師匠となったガルフが少年に告げる。仮初めの師弟関係だが、この場では絶対的な関係でもあった。
(本気かよ⁈ まだやるのかよ……)
苦鳴を漏らしながら立ち上がるユウの身体は、重しを付けられたように言うことを聞かなかった。
「それに、もうそろそろ来る頃だが……」
「?」
疑問を顔に浮かべるユウの背後で誰かが声を掛けてくる。
「来ているよ、ここに。ガルフ、相変わらず君はせっかちでいけない」
声と同時に、その存在感が増してくる。
少年が気付いた時には一人の成人男性らしき人物がユウの背後に立っていた。身長はガルフと同じほどだが、一見して細身である。纏っている黒いローブは何処か幽玄な雰囲気を醸し出していた。足元から覗く革靴の先は、しっとりとした艶のあるものだ。
僅かに見える手先からは、男としては白く細い指が見えており、華奢な印象を受けた。労働者階級の手ではない。何らかの知識階級にある者の手であった。
「腕は鈍っていないようだな」
「気付いていたくせによく言うよ。久しぶりの再会を祝して、今の暴言は忘れてあげるよ。僕は寛容だからね」
落ち着いた口調でそう告げる人物は、ガルフの知り合いらしい。その人物の目が、次は少年へと向けられる。
「へぇ、君がガルフの新しい玩具か……」
そう告げるフードの奥の視線は、何か妙な圧力を伴っていた。チリチリとした感覚が全身を襲うが、疲労感のせいか少年は上手く言い表せなかった。
「口の減らないことだな、まったく……」
「お互い様さ。それに貴重な友人だろう、ガルフ?」
互いの挨拶にガルフの口角も上がる。恐らくは、この人物もそうであろう。どうやら古い付き合いなのだとユウは思った。
事情はどうあれ、此方に危害を加える人物ではなさそうだった。
「確かに人族では貴重な友人だ」
「やれやれ、勇ましい戦士職は時に忘れっぽいのが玉に瑕だよ。僕等の誓いを忘れたのかねぇ」
戯けて魔法使いが両手を軽く広げる。その仕草でフードが揺れる。その裾が収まる前に、ユウは更に強い視線を感じた。
「それにさ……興味も出るよ」
急に強い視線を向けられて、少年が弾かれたように警戒感を露わにする。身構えるユウの身体に疲労感と筋肉痛が重なり、思うようには反応出来なかった。
「僕の“魔力圧”を受けても怯まないなんて……」
男の全身から立ち昇る幽玄な陽炎。理解し難い感覚が警鐘を鳴らす。その本能的な感情がユウに冷静さを強いた。
だというのに、全身の疲労感がユウの集中を邪魔する。寧ろ、少年の意識を刈り取ろうとさえする。
「ユウ、立て。この男を紹介しよう。俺の探索者仲間で名をフリッツバルト」
師匠であるガルフが、この場を取り仕切る。彼の紹介を受けるようにフードの人物もユウに向き直った。
「……そして、この町に数人しかいない希少な魔法使いでもある」
「魔法使い⁈」
思わず上げた声に、少年のほうが驚きを隠せなかった。
「よろしく」
「え⁈ あ、あの……よ、よろしく……お願い、します」
驚きを隠せない少年を品定めするように、フードの男がユウを見る。
少年の眼前で男がゆっくりとフードを後ろへ落とした。
現れたのは長い金色の髪を後ろで一つに纏め、青い瞳をした若い男性の姿。整った顔立ちは貴族と言っても通じる気品すら感じる。口元に笑みを浮かべる様は若い女性達の嬌声を誘うことは確実だ。細身と思っていた身体は筋肉の隆起があることが見て取れる。決して優男という訳ではないようだった。
探索者としてガルフの仲間と認められる実力を兼ね備えているのだろう。少年の目には、大人の男が持つ落ち着いた貫禄すら感じさせて映った。
「礼儀正しい子じゃないか? 噂じゃ、荒々しい若獅子のようだとか聞いていたよ」
「ほお。いつから噂を気にするようになったか知りたいものだな、フリッツバルト」
二人の大人に気後れしていたユウは、全身の痛みに顔を顰める。それでも彼が気になるのか、下から見上げるように注視していた。
「魔法使いが珍しいのかい?」
「!」
少年から向けられる好奇の目に、フリッツバルトと呼ばれた男が尋ねた。
注視していた事が咎められるかと思ったユウは自分を見つめ返す瞳に気付いた。
優しそうな視線が自分に向けられている。ユウの眼前に移動した男は、徐ろに手を翳すと何事かを呟いた。いや、正確には唱えたのだ。
「え?」
全身を覆う穏やかな気配。温かい感覚がユウの身体を癒していく。あれほど蓄積していた疲労感が、跡形も無く消えていく。消失していく疲労感に、少年の身体が戸惑っている。
これは回復系統の魔法なのかと、少年の顔が物言わずとも雄弁に語る。
「挨拶がわりだし、こんなものかな?」
優しい瞳を向けるフリッツバルトが笑っていた。
ユウの視線だけが、自分の身体と魔法使いとを忙しなく往復する。
「すまんな。ユウが意外と飲み込みが早くてな。鍛錬に熱が入っていたところだ」
悪怯れないガルフが友人に礼を言う。友人も手馴れたもので飄々と受け流す。
その脇で、ユウだけが興奮を隠し切れないといった態度で自分の両手を見つめていた。
「この世界の魔法使いは……、こんな事が出来るのか? こんな……、信じられない……」
驚く少年を見てフリッツバルトが笑った。
「魔法使い冥利に尽きるねぇ。そんなに大層なことはしていないんだが……」
「魔法って、誰でも……、その、使えるようになるのか? あ、なるんですか?」
思わず少年は魔法使いに尋ねていた。それ程までに少年にとって刺激的な体験だった。
興味深いと言いたげな視線を向けて、フリッツバルトがユウを見た。両手を組み、暫く黙考する。
魔法は、少なからず使う者との適性という相性がある。 なかでも回復系統は、割と適性を持つ者が少ない代物だ。
フリッツバルトが考えをまとめている間に、それを聞いていたガルフが横から口を挟んだ。
「この町で使える奴は少ないぞ」
「ガルフ、それは誤解を招くよ。君が言うのは君の要求する馬鹿みたいな基準に手が届く奴のことだろう?」
フリッツバルトが呆れ顔で友人を窘める。小さく嘆息した彼はそのまま少年のほうを向いた話した。
「そうだね。僕以外だと少ないかな。あと一人、いや二人かな?」
答える二人の大人に、少年は更に食い付いていた。
「でも……本当に、こんなの……奇跡としか言いようが……」
困惑していることが自身にも分かるほど、ユウは魔法という体験に感動していた。
その姿が微笑ましいと言うようにローブを着た魔法使いは少年の様子を見つめる。後進を育てる老齢の賢者の如く、その笑みは穏やかで深い。
「まあ、最初だとそういうものかな。探索には必須と言われる技能だからね。“回復”は僕もまだまだ修行中さ」
少年と話すフリッツバルトは穏やかな笑顔を浮かべて饒舌に告げた。
「この町にいる僕以外の魔法使いで、回復系統を使えるあとの二人は、現役を退いた僕の師と、その娘さんなんだよ」
そう告げる魔法使いの顔は、優しい笑みに包まれていた。
その頃、ダルクハムは町に出掛けていた。セスや姉には野暮用だと告げた。
探索用の装備品を付けて、歩き慣れた通りを足早に行く。風が砂埃を巻き上げるが、構わず歩く。まるで大事な仕事があるとでもいうようにダルクハムは進んでいく。その表情は真剣であり、何処か誇らしげで自信に満ち溢れていた。
通りを進む彼の前には、いつもの賑わいを見せる町があった。
この世界でも多くの人口を抱える都市アンガウル。南北に伸びる町は王国内でも屈指の賑わいを見せ、王都として相応しい拡張を続けている。
人族に限らず複数の獣人族を見る事ができるそこは、探索者のための町であるといえた。迷宮の入り口に程近い町の南部は、昼夜を分かたず多くの人々が入り乱れる。それは一攫千金を狙って地方から出て来た荒くれ者たちや腕に覚えのある武芸者、また一角の者になろうと夢見て集まる若者たちを呑み込んでいた。
自らの野望を隠そうとせず、ギラギラとした目付きをした者が多い事は、この町の特徴かもしれない。
それは探索者しかり、また商人しかりであった。
迷宮討伐に必要な武具や装備品。迷宮に入るために必要な水や食料品。仮眠用の様々な必需品など、この町には軒並み通りに面した場所に店が構えられていた。
また、探索者達の拠点となる宿屋が隣接するように集まっていた。
今も建築中の新しい建物を見ることが出来るし、逆に取り壊される古い建物も目にすることもある。ダルクハムが歩く間にも建材を手に威勢のいい声が其処彼処で聞かれた。
日々変わりつつある町並み。それでも初期に造られた家屋は、ダルクの記憶にある通りの風景を彼に見せてくれた。
足を運ぶダルクハムの顔は期待に胸を膨らませるようになった。
これから会う人物に彼が告げることが益になると知っているかのようにダルクハムの駆ける足が早くなった。寧ろ彼のほうが早く行きたいのだろう。昔からある町の一角に向けて大きな足取りで進んでいた。
通りの角を曲がった時、その人物と彼は出会った。
「ダルク?」
「ド、ドリス⁈」
驚くダルクハムは、探していた二人のうちの一人と期せずして出会った。予期せず出会ったためだろうか、何か気恥ずかしさにダルクハムの顔が赤くなる。
それでも狼狽えながら、ダルクハムは本来の用件を切り出すことで平静さを保った。
「……い、今からちょうど行くところだったんだ。おっちゃん、いるかな?」
ダルクハムの問いかけに、ドリスと呼ばれた獣人族の女性が彼を見た。
小柄な獣人族の女性。背丈はダルクハムとは頭一つ違うほどだ。まだ少女と言える年頃は、ダルクハムと変わらないか、少し歳下だろう。先祖返りである彼と違い、人族と変わらぬその可愛いらしい笑顔は周囲の癒しとなる、そんな少女だった。
町娘が着る薄い赤色を基調とした民族衣装風の服装に、手に細い枝が編み込まれた籠を持っている。買い物の途中だったのか、少女の表情も穏やかで愛くるしい。
ただ、ダルクハムに会った途端、愛らしい顔にわずかな怒気が混じった。
「……何日も連絡も無しで何処に行ってたの! ダルクの馬鹿! 今から行くじゃないでしょ⁈ セラさんから聞いて、私心臓が止まるかと思ったんだから!」
手に持つ籠をブンブンと振り回して、少女が声を荒げていた。
「うおっ! ド、ドリス、やめろ! 危ねぇだろ⁈」
少女の手元に視認できる程の魔力が集まる。その塊が放つ威圧に似た感覚を避けてダルクハムが飛び退く。
「うおっ!」
「なんで黙って行ったの? どれだけ心配したと思ってるの?」
「待てっ! 魔力塊はヤメろ! 痺れるだろっ!」
「勝手に行かないって約束した!」
少女の身のこなしも武芸を納めた者にある動きのキレがあった。ダルクハムと戯れる様は探索者同士の会話のようでもあった。
「分かった! 分かったからヤメろ、それ! 尻尾が痺れる!」
少女の放つ魔力の塊が、まるで少女の手の延長であるかのようにダルクハム目掛けて飛んでいく。
周囲に風を起こしながらドリスと呼ばれた少女が暴れる。その手が次第に力無く落ちていた。
「……約束、してくれたよね? 私も連れてってくれるって!」
少女の目に涙の粒があった。だからこそ、ダルクハムの顔が曇った。
「ドリス、お前には“奈落”は無理なんだよ。連れて行くには危険すぎた」
イヤイヤと顔を横に振って少女が続ける。彼の言葉を聞いてしまうと、自分の言いたいことが言えないというように、だ。
「でも、誘ってくれると思ってた……」
「ああ、そういう約束だった。覚えてるよ。だから、おっちゃんの仇を討ってきた」
少女はダルクハムの服を掴んで俯く。
「……分かってる」
そう答える少女の声が涙に震えていた。
「すまねぇ、ドリス」
自分の服の裾を掴んで離さない幼馴染をダルクハムは静かに見守る。それしか、不器用な彼にはできなかった。
異世界での生活は、少年に刺激と変化を促す。その奔流に戸惑うより早く、ユウの元に新たな依頼話が舞い込む。それはやはり危険と背中合わせのものだった。
次回、第15話「脅威」でお会いしましょう!




