プロローグ 前夜
今夜から掲載する「迷宮都市~光と闇のアヴェスター」、作品に関する感想やご意見などいただければ幸いです!!
夕闇を追い立てる宵の明星が、藍色の大空を引き連れてくる。
四季の彩りが稀薄な都会にしては、珍しく青や藍色、群青や蒼といった豊かな色彩が夜空を飾った。
夜半の静けさは、沈として街を包み込もうとしていた。
人口密度も高く、昼夜を問わず人通りの絶える事のない東京の街並み。大都会と呼ばれる首都の夜に、いつもとは違う冷たい風が吹いていた。季節外れの肌寒さに、人々が家路を急いだせいなのか、その日の夜は珍しく閑散とした光景が随所で見られた。
林立する高層ビルの影は夜空を暗く切り取り、夜空を見上げる視界を塞いでは人の気配を見事に消し去っていた。
建物に点る人工の灯りの数々は、地上に生きる人々の生活を照らすものの、どの光も一様に小さく見分けなどつかないものだった。
昼の暖かさが嘘のように、夜風は冷たく吹きすさんだ。ただ、そのビュウと鳴る音だけが街を駆け抜けていった。
冷たい風に載るように、得たいの知れない何かが街を駆けて逝く。目に見えない其れは、風の如く人々の間を通り抜け、車列が行き交う大通りを横断したかと思えば、ネオンに眩む不夜城を飛び越え、閑静な住宅街をふわりとすり抜けて何処までも駆け抜けていく。
何処から来たものか。其は何処へと向かうのか。
見えない其れは、密やかに、そして速やかに逝く。まるで相容れない異質な存在が、この世界に紛れ込んだかのようであった。
(…………! ……か!)
声にならない声をあげて、街行く人波の間を何かが通り過ぎていく。
不穏な空気を近付けまいと犬達が吠える。その吠え声もたちまち、小さくなってしまった。そう、まるで何かに怯えるかのようにだ。
(ど、う……! ……か!)
風鳴りに似た何かが、闇を背にして宛もなく流離う。声無き叫びをあげて、首都の夜を彷徨う。
それは、ただならぬ気配を宿した意思。何者かの強い意思が、狂おしいほどに何かを求め彷徨っているように見えた。
(……たもう! 助け……う……!)
その意思が、夜の風に煽られて拡散する。それは願いを映す言の葉のようであり、絶望に咽ぶ悲鳴のようでもあった。
(ど……か、救い……た……。我ら……の求める……者……よ!)
いや増してくる言の葉は、夜風に掠れて聞き取れなかった。夜に紛れた人々の群れは人熱れに酔うように、風のような幽かな気配に気付く様子などない。
彷徨える意思を汲み取る者など、この世界には存在するはずもなかった。
声無き声が、吹き抜けていく。
風鳴りが、再度ビュウと鳴る。
そして、その後には何の変化も無い街並みだけが残されていた。荒涼とした風が吹いた後には、深い藍色の空だけが広がっていた。
夜の帳が完全に降りてしまう頃、いつもなら聞こえていた雀や雲雀の声は聞こえなくなっており、野良猫や野良犬の類いも人の目につかなくなっていた。
東京圏の夜空から、月明かりが消えていた。
朔夜の空の下、高層建築のタワーマンションビルを含む街並みが特徴的な住宅地の一画には、暗闇が拡がりつつあった。何処にでもあるはずの街の並木通りには、閑散とした空気が広がっていた。
足早に家路を急ぐ人の姿が、風景の一部のように溶け込んでいる。
何かを目指す意思が、夜を駆け抜けて逝く。その目指す先に、何があるというのか。
古来、人と魔が邂逅する夕闇を過ぎてなお、その意思は彷徨い続ける。
飢えた嘱望を内包した意思が吠える。それは魂の叫び。
己の全てを掛けた叫びに、夜気が震えた。
そして、その意思は何処へともなく消えていった。
「ユウ、早く降りて来なさい! 晩御飯まだでしょう!?」
ある住宅街の一画に、その家はあった。ごく普通の二階建て住宅に、両親と二人の子ども達が住んでいた。
都内に住む家族としては、平均的な核家族。官庁の職員をしている父親と近くの大型食料品店にパートタイムとして働く母親。
二人の子ども達は、高校生になったばたりの兄と、中学生の妹の二人。
優しい両親のつくる温かい家庭に、健やかに育つ子ども達の姿があった。
先程から鼻腔をくすぐる匂いが、夕食の準備を知らせてくれる。きっと部活動で遅くなったのだろう。帰宅したばかりの父親と共に席につくように母親が急かしていた。
「奈々未、お兄ちゃんは?」
「たぶん、音楽聞いてるよ。ゼンハ……なんとかって新しいヘッドフォン買ったみたいだから」
十代前半くらいの瑞々しい少女が答える。母親への返答は素直な性根を表していたが、その顔は少々不満げだ。
もう、あとで呼んできてねと母親が告げて立ち去っていく。一般的な家族の団欒を前にした当たり前の風景は、こうして過ぎていった。
その家の二階には、子ども達の部屋があった。上階に続く階段の脇には二つの個室が並ぶ。その北側の部屋に、少年の個室があった。
部屋のなかには、ズラリと音楽関係の機材が並んでいる。小型ながら有名な音楽機材メーカーのものだ。中には少年の誕生日に父親が買って一緒に作った真空管アンプもある。古めかしいレコード用盤は、少年が昨年の夏に自分で都内のアウトレットショップを回って選んだ一品ものだ。
室内で頭にヘッドフォンを付け、音楽に身を任せている少年には母親の声は聞こえなかったのだろう。床に座り、手元にあるのはミニディスクの束。
部屋の片隅には使い込まれたクラシックギターのケースもあった。
そんな、少年の部屋の窓は開いたままであった。
藍色の闇を掻き分けて、一陣の風が少年の部屋の中へと吹いた。ザアと吹く風に、窓のカーテンは舞い上がっていた。少年の耳元からは音の洪水が零れる。目を閉じて感性の訴えるままに音楽に身を委ねている少年は気付かなかった。
(あぁ……! ついに……、この方……に間違い……! シガ・ニオの……よ!)
この時、少年が気が付いていればあるいは違った結末が待っていたのかもしれない。
しかし、少年は異変に気付くことなく、現れた意思の思惑を汲み取れなかった。
(どう……、勇者よ! ぜひ我ら……の願いを……! 聞……届け……たもう!)
青く薄い燐光が室内をゆっくりと満たしていく。足元から立ち上る燐光の形は、多重円状の見事な魔方陣を描き始めていた。
夜気がしっとりと朝露を運ぶように、窓から舞い降りた意思というべき其れは、少年を優しく背後から抱き締める。青い光のヴェールが正に完全な陣形を描いた時、静かに訪れた其れがこの世界に現れた。
少年が温かな抱擁に驚いた顔をした瞬間、異変は起きた。
トンッと音を立ててヘッドフォンが落ちた。
それ以外、何の変化も無い。
あるとすれば、先程まで音楽を聞いていた少年が居なくなっている事か。唐突に起こった現象は、一人の人間を捲き込んで始まりと同様に唐突に終息していた。
床に落ちたヘッドフォンからは、少年が好きだった音楽が小さく漏れ出している。
本当に、他に何もない。
少年が確かに其処にいたという痕跡として、其れはあまりにも軽い落下音だった。
同時投稿している第1話をどうぞ。