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chapter-8

 8


 遊び疲れ、帰り道の胸中で礼佳との思い出を反芻していた途中。

 智仁のスマートフォンにメッセージが届いた。

 周囲に誰もいないことを確認してから、道端に寄って、画面をタッチする。

 街は夕暮れ時。透けるような橙色と、燃えるような赤のコントラストが空に満ちる。

 カラスが三羽、上を追い越していった。

 ――今日の二一時。セーフハウス。ビズ(仕事)の話。

 文面はそれだけの素っ気ないメッセージ。

 智仁は一度苦笑すると、肩をぐるりと回し、腰に手を添えて捻った。

「ま、今日はいいか」

 自然と口から言葉が出る。なぜか気分がよかった。

 死ぬかもしれない、という緊張感が適度に薄れ、生きて帰るという使命感に変わる。

 まだ月倉礼佳とたくさん話していない。彼女をもっと知りたかった。

 不思議な感覚だった。智仁はこんなものを、今まで一度たりとも覚えたことはない。

 しかし、悪くない気分なのは間違いなかった。


 * *


「最後に確認させてくれ。“奴”がいるのは間違いないんだな?」

『数々の兆候からして、信用できる情報ではあります』

「信頼できるかは別ってことか」

 ため息を付くと、後部ドアの窓から真っ暗闇に包まれた外を見やる。

 今はもう三時だ。人気は一切なく、明かりが付いている建築物も殆どない。

 専用に改造されたバンが、市の外郭にある廃工場を目指して移動している。

 智仁は、手始めに軍用の一二ゲージ散弾銃の動作を確認すると、さらに装備のチェックを行う。

 愛用しているアサルトベストに、腰に巻いたショットシェルの弾帯。

 太腿には四五口径が収まったホルスターが巻かれ、背中には特殊処理を受けたマチェットと鞘。

 件の散弾銃はライトが内蔵されているタイプで、光量も大きかった。

 ただ、万が一のためにナイトビジョンも頭に付けている。

「到着三分前。準備はできたか?」

 運転席から声がかかる。智仁は視線を向けて答えた。

「ああ、たぶん大丈夫だ」

「たぶん? たぶんなんて甘いこと口にするな。大丈夫か、否か、だ」

「大丈夫だよ。シェンク」

 運転席の男――大柄な体格の黒人は肩を竦めて頷いた。

 ハーヴィー・シェンクは経験を積んだスイーパーで、智仁にとっては頼りになる戦友でもある。

「本来なら、お前みたいな若いやつは行かせねえんだけどよ」

「これは大事なことなんだ。俺がケリをつけるべきことだ」

「そうまで言われちゃ、俺の立つ瀬がねえ」

 シェンクは豪快に笑う。

「俺も長いこと、このジョブを続けてきたが、今回の獲物はデカい」

「タイクーン(首領)って呼ばれてるんだろ」

「そうだ。やつは北米にも出張してきたことがある。そのときは悲惨だった」

 バックミラーから見えるシェンクの顔が、歪んだ。

「911を知ってるか?」

「俺がまだ、本当に小さい頃だ。テレビでやってたけど……」

「貿易センタービルに、ハイジャックされた航空機が突っ込んだのさ」

「あれがひとつの節目だった、とかなんとか言われてるな。今だと」

「学者先生は小難しい話を捻り出すもんさ。大事なのは、そこにやつがいたことだ」

 智仁は眉を上げた。

「やつ? もしかして、タイクーンか?」

「それ以外の何があるってんだ。タイクーンはあの旅客機に乗ってた」

「だからって、関係性があるとは」

「お前は仮にもスイーパーだろう? ダスクが何をするかは知ってる筈だがな」

 シェンクはバックミラーを見る。智仁と視線が交差し、かれは言った。

「……あいつはそれだけのタマさ。油断するなよ」

「やつは親父を殺した。隙なんか見せない。絶対に」

「それでいい」

 少しして、バンは廃工場の前へと到着した。

 敷地はブロック塀で囲まれており、正面入り口は南京錠の鍵がかけられている。

 バンの後部ドアを開いて路上へ降りると、智仁は施錠された入り口に近づいた。

 ――南京錠は新しい。

 後ろを振り向くと、シェンクが専用の工具を持って近づいてくる。

「壁を登るか?」

「そうする。帰路は確保しておいてくれ」

「任せろ、坊主。だから無事に帰って来い」

 智仁が頷くと、シェンクが工具を置き、ブロック塀の前にしゃがみ込んだ。

 両手を組み合わせる。智仁はそこに足をかけて、一気に跳ぶ。

 塀を乗り越え、手を離した。一瞬の衝撃と装具が揺れる音。

 すぐにスリングを回して、散弾銃を構える。敷地にダスクの姿はない。

 但し、どこからか視線をやっているのかもしれなかった。

 眼前には漆黒に塗れた建造物がある。放棄された鉄筋工場だ。

「お前のすぐ近くまで来たぞ」

 智仁はぼそりと呟いた。


 * *


 ナイトビジョンが暗闇を見通す。

 敵影は一切ない。だがじっとりとした感触が肌に纏わりつき、消えなかった。

 智仁の手が小さく震える。いつ、どこで、どうやって来るのか。追跡者には分からない。

 それがたまらなく怖かった。もしかしたら、自分の背後にいるのかもしれないのだ。

 あるいは、遠くからこちらを視界に捉えているのやも。

 冷や汗がシャツに滲む。額から水滴が滴り落ちた。

 右方向から、何かが落ちる音がする。智仁は素早く照準を向けた。

 どうやら金属素材が落下したようだ。周囲を警戒しながら、落下した品に近寄る。

 瞬間、影から鋭利な輝きが向かってきた。

「ッ!?」

 慌ててよろめく。ナイトビジョンに四つ足の異形が映った。

 ――ダスク。

 散弾銃の引き金をひく前に、相手が飛びかかってくる。

 横へ避ける。爪らしきものがベストを抉った。発砲。散弾が撒き散らされる。

 そしてまた静寂が訪れた。

 あたりをナイトビジョンで偵察する。神経が研ぎ澄まされるのを感じる。

 ――上。

 微かな物音を感知し、上空へ照準を向ける。そこには飛び降りようとするダスクの顔。

 閃光が暗闇を照らし、同時に一二ゲージ散弾がダスクの顔を粉砕した。

 胴体が地面へと転がり、動かなくなる。

 近づいて、もう一発撃ち込んだ。それでも動かない。

 フォアエンドをスライドする。ショットシェルが排莢され、からりという音を立てた。

「お前だけじゃない筈だ……」

 灰と化したダスク。流砂の山を苦々しく見やった。

 その瞬間、何か重たいものが降りるような音がして、ナイトビジョンの視界が真っ白に染まった。

 数秒だけパニックになる。強烈な光源が眼を焼いて、脳までドギツイ色を叩き込んだ。

「クソッ、クソッ、クソッ!?」

 慌ててナイトビジョンを外し、地面へ投げる。片手で眼を塞ぎながら、背後へよろめいた。

 耳朶を震わせるのは拍手の音。それも、ひとつやふたつではない。もっと大勢の拍手だった。

 気合を入れて、眼を開ける。眩しげな輝きがあたりに満ち、状況を把握するのは辛かった。

 しかし辛うじて辺りに視線をやれば、工場の照明が不意に灯されたのだと気付く。

 眼も徐々に慣れてきた。

 拍手の音を辿る。少なくとも一〇人以上の人間が、二階の足場から智仁を眺めていた。

「おめでとう。若いスイーパーくん」

 五〇代ぐらいと思われる男が声を発した。髪には白いものが混じり、柔和そうな顔に皺が幾つかある。

 上質な茶色のスーツを着て、上からトレンチコートを羽織っていた。

「君は素晴らしい嗅覚により、この場所を発見し、我々を追い詰め、そして」

 男は芝居がかった仕草で、灰の山を指す。

「ひとりのダスクを冥府へ追いやった」

「死にたいんだろ? 降りてくればいい。同じようにしてやるよ」

「若者は性急でいけない。物事はゆっくりと進むものだ。見たまえ」

 中年男は、足場からこちらを見下ろす大勢の老若男女――擬態しているダスク――に視線を向ける。

「君の勇敢さには敬意を表するが、この数相手では分が悪いというものだ」

「ご心配どうも」

 銃口を上げて、中年男のいる辺りに発砲する。散弾が火花となって壁を穿った。

 中年男は頬に手をやる。弾が頬を掠った。血液がつうっと垂れのを、指ですくう。

「乱暴なやり方だねぇ。紳士的ではない。いずれにせよ、眼がまだ眩んでいるんだろう?」

 智仁が黙るのを見て、愉快そうに口角を釣りあげる。

「やはりな。人間というのは不便なものだ。脆く、弱く、儚く……」

「三流司会者みたいな長話は止めたらどうだ? つまらんし、飽きてくる」

「……聞いたかね。この節操の無さこそ、人間の全てだ」

 肩を竦める中音男に反応し、周囲のダスクが笑い声をあげる。

「君には伝言もあるのだがね。まあ、いい。お望みの戦を始めよう」

 中年男が指を鳴らした。それと同時に、二階にいたダスクが続々と階下へと飛び降りる。

 空中でかれらは異形の怪物へと変異していき、やがて智仁の周囲はおぞましい怪物で埋め尽くされた。

 唸り声、嘲り声、舌を舐める音、罵声に嬌声。

 智仁は一度深呼吸をした。吸って、吐く。眼を強く瞑り、柔らかく開ける。

 腰ベルトからショットシェルを摘み上げ、素早く給弾口に押し込む。

「お待ちかねの諸君。ショーの始まりだ。筋書きを演じたまえ!」

 そして、智仁のもとに大勢のダスクが群がった。

 ――六時方向。四つ足。

 しゃがみ込み、背後を見ないままで引き金をひく。

 ――二時方向。二つ足。ジャンプ。

 悲鳴を認識する間もなく、スライドして排莢。右斜上へ発砲。

 ――前転。

 背後へ群がった数体。腰だめで撃つ。

 一二ゲージの特別儀礼処理を受けたバックショット弾が肉を蹂躙する。

 ――三時方向。六つ足。這い回る。

 よろめくように後退して、前方の空間を通り過ぎるデカい針を逃れる。

 照準を向け、発砲。相手は後退。そのまま接近し、引き金をひく。

 ――九時方向。二つ足。コンビ。

 閃光と共に片割れが吹き飛ぶ。生き残った片方が突進。反転して、これを避ける。

 右手でフォアエンドを掴み、引く。スライドでショットシェルが給弾され、射撃準備を終える。

 視界を向けずに撃った。

 ――残弾僅か。

 散弾銃を廃棄設備の影に投げ、腰から四五口径拳銃を抜く。

 その瞬間、身体を掴まれて、持ち上げられた。

「ギギギギ」

 捕まえたぞとばかりに笑う二つ足のダスク。大きく開いた口に銃身を突っ込み、何度も引き金をひく。

 崩れ落ちる時に前へ跳んだ。

 視界に逃げようとするダスクを認める。下半身を安定させ、身体の力を抜く。照準が合わさった。

 三回の銃声と共に、それはもう動かなくなった。

「おい、なんだよ。この弱体な連中は」

 二階で観戦していた中年男に、うんざりしたような声を投げる。

 先ず中年男は拍手し、つぎに肩を竦めて苦笑した。

「人間から“転化”した連中だよ。君が殺した者たちとは違う」

「……使い潰したのか?」

「君が最初に殺したレハト、例の隠れ家で殺したブッチャー。二人とも良き部下で、私の友人だった」

「そりゃお気の毒様。だからこんな“養殖”した連中を扱ってるわけだ」

「可哀想、だったかな? 人間の言葉で言うと。まあ、それでも無駄死させる気はなかった」

「結果はそうなってる」

 智仁は、辺りで積み上がる灰の山に視線をやる。

「あとはお前だけだ」

「やはり純血じゃないと駄目だな。弾散らしぐらいにしかならないか」

 至極残念そうに告げると、中年男は足場に手をやる。

 床から持ち上げたのは、刀身が一メートルくらいはある西洋剣だった。

 足場から跳び上がる。

 勢い良く階下へと着地し、首をこきりと鳴らした。

「それなりに上質な背広でね。あまり無駄にしたくないんだが……」

「人間のままでやり合うか? そっちの方が俺は楽でいい」

「よしたまえ。大人をからかうものじゃない」

 中年男が苦笑した。

「さて」

 突如として骨格が盛り上がり、筋肉は張り詰め、顔の造形が変貌していく。

 身体中が蒼い金属のような質感を帯び、身長は二メートル半まで膨れあがった。

 頭蓋から角が生え、着ていた洋服はあたりに飛び散り、今そこにいるのは――。

 純然たる巨人だった。

「ギギ。これが私の姿だ。本来のね。ご満足いただけたかな」

「あの連中よりかは、歯応えがありそうだ」

「さすがに男の子だな。意地を張る」

 巨人はその顔に笑みのようなものを浮かべた。

「さあ、やろうか」

 その言葉と共に、巨人はその体躯に似合わない速度を見せる。

 瞬時に智仁へ接近し、片手に持った西洋剣を振り回した。

「!」

 眼を剥く暇もない。背後へと飛び退る。素早く照準を合わせ、引き金をひく。

 硝煙と共に吐き出された弾丸が、巨人の胴体を射抜いた。

「おや、お土産かね?」

「クソッ」

 からりと、貫通した筈の弾丸が落ちる。

 巨人はかぶりを振った。

「駄目だな。もうちょっと頑張りたまえ」

 這うような低位置で巨人が迫る。智仁が遮蔽物の影へ逃げようとして、巨人が跳んだ。

 神経にドライアイスをぶち撒けられたかのような悪寒が走る。

 智仁は咄嗟にジャンプして、廃棄設備の上へよじ登る。背後を振り向いた。

 遮蔽物にしようと思った金属製の装置が、縦に割れていた。

「い、いくらなんでもメチャクチャだろ、これ」

 斬り下ろした西洋剣を持ちあげると、巨人が嗤う。

「逃げ回るばかりでは、戦いには勝てんぞ?」

「……考え中だ、クソ野郎」

 返答と共に鉛弾を撃ちこむと、智仁は設備の上から地面へとジャンプする。

 同時に設備が西洋剣によって斬り崩され、衝撃音があたりに響き渡った。

 智仁が汗を拭く。ふと、視界の端に散弾銃を見つける。

「一か八かで頼るほかないか」

 銃へ飛び付くと、ベルトからショットシェルを掴みとった。

 一発、二発、三発。給弾口に差し入れようとするところで、周囲を影が覆った。

 言葉がうまく、発せなくなる。額から流れる汗が、ぽたりと床へ落ちた。

「前か、後ろか、左か、右か。あるいは上でもいい」

 奇妙に張り詰めた声が、背後から智仁の耳に響く。

「さあ、どうする?」

 心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。頭のなかで時計針の音が反響した。

 どうする。どうすればいい。奴は希望を提示している。そして与えた希望を容易に打ち砕くだろう。

 智仁は顔を歪めると、給弾口にシェルを押し入れ、フォアエンドをスライドした。

「こうする」

 背後へ振り向き、相手の顔面を見やる。傍らには散弾銃の銃口。

 それが閃光を発した。

 大きな罵声が響き渡り、顔を押えたまま、巨人は剣を振り下ろす。

 咄嗟に巨人の股の下を潜り、背中にもう一発発射した。

「ウガアアアア!?」

「ざまあみろ!」

 すぐに立ちあがり、シェルをとにかく給弾口へ押し込む。

 どうやら散弾銃なら効果があるようだった。智仁は勝機を感じ取りながら、奥歯を噛みしめる。

 急いで装填作業を――。

「満足したかね?」

「は」

 デカい鉄球を腹にぶつけられたようだった。

 智仁は反応する間もなく吹き飛ばされ、壁際へ身体を打ち付ける。

 全身が悲鳴をあげた。衝撃が身体中を走り回り、皮膚と骨を殴りつけてくる。

「ひ……!」

 叫んだつもりだったが、智仁の声はかぼそい喘鳴にしかならない。

 眼の焦点が合わず、自分がなにを見ているのかも分からなくなった。

「安心していい。剣は使ってない。腹を蹴り上げただけだ」

 巨人は肩を竦め、ゆっくりと近付いてくる。

「やはり人間というのは脆いな。転化した奴らにしても同じだ」

 智仁は痛みを必死で抑えつけながら、両手を地面へと着き、足を持ち上げようとする。

 さながら生まれたばかりの子鹿だった。

 冷や汗がひっきりなしに地面へと垂れ、内臓の幾つかは既に駄目になっていのではないか、とも思う。

 ――ああ、畜生。

 死のイメージが鮮明に浮かびあがる。頭上に輝く西洋剣。振り下ろされ、首が飛び、辺りを血の噴水が覆う。

 肉体的な苦痛とは別に、智仁の精神はそれを容易く受け入れることができた。

 どうせ、いつか死ぬのだ。こんな仕事をしていれば、父親と同じような末路を辿ることもある。

 自然の摂理だ。殺すものは誰かに殺され、その誰かも同じように殺される。

 死を逃れることはできない。そんなことを考えて、気が幾分か楽になった。

「でも」

 ふと父親の死に様が思い出される。拷問され、泣き叫び、実の息子へ哀れっぽく助けを求める声。

 あの時、智仁は無力だった。拘束され、武器も使えず、ただ眼前で人間の尊厳が剥ぎ取られていく様を見せつけられる。

 ずっと忘れようとしてきた。世の中にはどうにもできないことがあって、それは耐えることしかできないのだ、と。

 だが、機会が与えられた。

 迷い、苦しみ、それでも道が出来た。

 ――どうせ終わるなら、納得して死にたい。お前はどうなんだ?

「俺は」

 巨人の足音が止まる。

「まだ」

 巨人が剣を振り上げた。

 智仁は、礼佳と握り合った手の感触を想う。暖かな手だった。

「やるべきことがある……!」

 鋼塊が大気を裂いて飛来する。足に力を入れ、横へ跳ねた。

 衝撃派が伝播し、コンクリの床に亀裂ができる。

 背中からマチェットを抜いた。効くかどうかは分からない。だが、それでも。

「最後まで足掻く!」

 巨人の横腹に刃が通る。刀身はそのまま内部を粘土のように切り裂いた。

 巨人が、初めて驚愕の表情を浮かべる。

「な……貴様……!」

 もはや余計なことは考えていない。有るのは、ただ生き残りたいという意思だけだった。

 巨人は足を軸にして反転し、振り向きざまに西洋剣で薙ぎ払う。

 当たれば命を刈り取られる一撃。それを咄嗟にしゃがみ込んで避けた。

 そのまま勢いに任せ、マチェットを傷口に挿し込む。

 半ば断末魔のような悲鳴が、巨人の口から廃工場に響いた。

 さらに押し込んで、捻る。肉が焼ける音が聞こえた。

 特殊処理を受けたチタン鋼は、ダスクを構成する物質と科学反応を起こす。

 巨人が膝から崩れ落ちた。どしん、と周囲が振動する。

 痛みに顔を歪めながら、巨人は智仁の顔を見た。

「刺すものには強いのだがね……斬るものには耐性がない」

「お前は強かった。俺は、運が良かったんだ」

「謙虚な態度をとるものだな、若人。まだ動けるぞ?」

「いいや、動けないよ。お前はもうすぐ死ぬ。分かってる筈だ」

 智仁が巨人の足を指さす。既にその部分は灰になろうとしていた。

 巨人は笑みのようなものを作って、首を横に振る。

「ギギギ……成る程。運があるとはいえ、眼をつける理由も分かる」

「どういうことだ?」

「タイクーンは君に興味をもっているのだよ」

 智仁は眉をあげ、何か言おうとして、口を閉じる。

 巨人は言った。

「私はタイクーンではない。君は知っている筈だ」

「お、俺は……奴を見たことなんか、ない」

「本当に? タイクーンは……ギギ……君と顔見知りのようだぞ」

 不意に、数年前の光景がフラッシュバックする。

 暗闇に満ちた地下室。突然、中央が明るくなって、拘束された父の姿が露わになる。

 上半身を剥き出しにされ、父はゾッとするような憎しみを込めて、誰かを睨んでいた。

 場に溶けるような黒いドレスを着た女が、父に近寄り、頬を撫でる。

 父が唾を飛ばした。女は邪気のない笑いを零すと、父の指を掴んで、ゆっくりと捻っていく。

 その内、指が捩じ切られて、肉がぶちゅ、という音を立てた。

 痛みに呻く声を背景に、女は智仁へと近寄っていって、眼前に捩じ切った指をもってくる。

「食べてみて」

 最初、智仁はなんと言っているのかよく分からなかった。

 この女が口にしていることは、理解の範疇を超えていたし、恐怖で身が竦んでいた。

 反応がないと見るや、女は艶やかな唇に笑みを浮かべる。

「指が食べられないなら、耳にする? 目玉でもいいけど」

 頭が真っ白になって、ガタガタと震える顎をかろうじて開ける。

 自分が食べなければ父親がもっと酷い目に遭うのは明らかだった。

 女は智仁の頭をゆっくりと撫でてから、摘んだ指を赤い腔内へと押し込み――。

「あの、女か」

 ――過去から引き戻される。

「思い出したようだな」

 フラッシュバックの余韻で、胃からこみ上げてくるものがあった。

 片手を口に当て、小さく呼吸をする。

 巨人は既に、腰まで灰に浸かっていた。

「タイクーンは、君を有るべき場所へ誘う、と言っていた……」

「有るべき場所とはなんだ。なぜ、俺がそこに行く?」

「君は……ギギギ」

 巨人が、どこか面白がっているような視線を向ける。

「彼女と対峙せずにはいられないだろう。君の背負う過去は、いずれ君を押し潰す」

 かれは首を傾げた。

「さて? 生き残るにはどうすればいいのだ?」

「クソッ……! なぜ俺をどこまでも引っ張り回す! ここで決着をつければいいだろ!」

「彼女の目的を教えてやろうか、若人」

 巨人が顔を歪めた。それは明らかに破顔と呼ばれるものだった。

「――楽しむことだ。君たちは彼女が楽しむために弄ばれるのだよ」

 巨人の嗤い声が廃工場に響き渡る。

 智仁は腹に収まったマチェットを抜き、巨人の頸部を断った。

 首が飛び、やがてその身体は全てが灰になる。

 四五口径をホルスターに入れ、散弾銃を拾うと、ゴミを払った。

 小さくつぶやく。

「上等だ。全員ぶっ殺してやる」


 * *


「坊主!」

 表へ出ると、周囲はまだ深夜の闇に包まれ、不気味な静けさが辺りを支配していた。

 正面ゲートを開けて待機していたシェンクが、カービン銃を手にしてこちらへ走ってくる。

 かれは智仁の様子を見ると、廃工場に素早く視線を向けて言った。

「確実に仕留めただろうな?」

「待ち伏せてやがったよ。ああ、腹が……」

「腹痛か?」

「違うよ。思い切り蹴飛ばされた」

 冗談を吐くシェンクに、智仁はかぶりを振る。

「一〇体前後。全員灰にした」

「いいガッツだ! タイクーンをやったなら、ちょっとした金持ちになれるぞ」

「悪いけど、そうは行かないみたいだ」

 智仁が顔を俯いたのを見て、シェンクは顎を擦る。

「……いなかったんだな」

「アイツら、待ち伏せしてたよ。情報は故意に漏らしたのかもしれない」

「そんなこともある。早い内にここから離れよう。あとで――」

 シェンクはふと智仁の眼を見つめる。視線に気付いて、智仁は怪訝そうに言った。

「どうしたんだ? シェンク」

「お前、自分の顔を鏡で見たことはあるか」

「いきなりなにを……」

「ひどい面してるぜ。何かあったんだろ?」

「話すことじゃない」

 シェンクはため息を付く。

「おい。年長者のアドバイスは聞いとくもんだぜ」

「親父のことだよ」

「レイジの話か。ダスクがなにを言っていたにせよ、まともに受け取るな」

 通りに駐車してあるバンへ向かいながら、シェンクが言葉を続ける。

「お前の親父は勇敢だった。戦友は見捨てなかったし、歴戦のスイーパーだ」

「確かに親父は凄いのかもしれないが、俺にとって親父は……」

 そこで言葉に詰まる。智仁にとって、弧山礼史という男は畏怖と憧憬の対象だった。

「それでいいじゃねえか。考えることはない。どうせ敵の言うことだ」

「……そうだな。今日の俺はどうかしてる」

「いつものことだろ、若造」

 シェンクが豪快に笑って、バンへ乗り込む。

 智仁も装備一式を後部席へ放り込むと、後ろへ乗った。

 まだ腹が痛む。ふと、あのダスクの声が脳裏に浮かびあがる。

 ――生き残るにはどうすればいいのだ?

「戦うしか、ないだろ」

 その言葉はだれの耳にも入ることはなく、バンは都市の暗闇へ消えていった。


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