chapter-6
6
退屈で、変わりのない昼休み。
学校生活という日常に埋没しながら、そこに安らぎを見い出せずにいる少年。
夜はスリルと恐怖に浸り、身を持ち崩して死んでいくんだろう。
弧山智仁は取り留めのない考えを持て余しながら、コンビニで買ったパンを千切った。
口に入れる。もしゃもしゃと噛みながら、階段をゆっくりと昇っていく。
どこもかしこも騒がしい。授業の間こそ落ち着いた雰囲気が流れてはいるが、今はこうだった。
――たぶん、馴染めたなら心地好いと思うんだろう。
生徒たちを羨ましく思う反面、こっちのほうがある意味で自立はしている、とおかしな自負心を持つ。
金だって稼いでいる。ただし不定期で、どさりと入っても、生活費に消えていくわけだが。
「税金で取られないだけ、うまい収入だな」
階段の踊り場。そこでひとりごちて、智仁は頭上に視線をやる。
その先には素っ気のないアルミ製の扉があって、窓からは青空と雲の切れ端が見えた。
教室棟のほうでこそ、屋上は人気スポットだが、こちら特殊教科棟の屋上は距離ゆえに使われることが少ない。
智仁はだれもいないことを祈ると、階段を駆け上がり、ドアノブを捻って、開けた。
さあっ、と頬を撫でる風。思わず目を細める。サッシを跨ぐと、屋上へ足を踏み入れた。
大きく伸びをする。
「やっぱ、人がいないところってのはいい」
こういうところがまさしく社会不適合者なのだな、と感じ、智仁は苦笑する。
けれども、ひとりでいたほうが気楽なのは確かであり、夜の苦しみから来る後遺症を引きずらないでも済んだ。
――毎日、毎日。命の取り合いなんぞしたくないのにな。
屋上からは末梅高の敷地のみならず、外側にある住宅地が睥睨できる。
立地に特別なところもなく、校風はほかよりのんびりとしてはいるが、だいたい平常な学校だ。
だから選んだのだ、と呟いて……智仁はフェンスの近くにだれか佇んでいるのに気付いた。
よく見ようとして、息を呑む。
非現実感とは襲い来るものではなくて、知らぬ間に満たされるものだ。
智仁はその言葉をいま実感していた。“彼女”は、それほどに幻想的だったのだ。
陽光が映える黒髪に包まれた、たまご形の完成された造形。
アーモンド形の整った双眸が、すらりと通った優雅な鼻の上に鎮座している。
唇は少し頼りないほどに綺麗で、智仁は不思議と邪な感情を抱くことができなかった。
今朝出会った筈の少女とは思えないほど、そこには隔たりがある。
彼女の身体に当たる風までもが雰囲気を作っているようだ。
何故だろうと、彼女――月倉を観察している内、やっと原因に気付いた。
眼だ。何の変哲もない青空に向けた眼が、やけに透明でハッとさせられるほど美しい。
あのとき、智仁は決して眼に注目することはなかった。
「わたし、夢を見てたの」
「え?」
最初、智仁は声をかけられていることに気が付かなかった。いつの間にか、少女はこちらを向いている。
「風になる夢。地球を覆う大気になって、またずっと下に沈んでいく夢」
表情を緩ませて彼女は語る。
「心地いいんだよ。みんなひとつだから。痛いことはないし」
「あー……その、いきなり覗いてゴメン。月倉、だったか?」
「? わたしの名前だね、うん」
「俺は弧山智仁。C組だ。ええと、宜しく……な」
「あなたって臆病なのね。今朝も言ったかな?」
先制パンチを喰らった気分になった。冒頭の発言をうまく躱そうとしたら、今度は違う方向から不思議系ジャブである。
彼女の美しさは本物だ、と智仁は思う。だけれど、確かにこれは厄介だぞ、とも感じた。
「そ、そういう一面はあるかもしれない、な」
「灰色と蒼と茶。あなたの色。わたしは好きだけど、苦しい色だね」
眼前の少女――月倉はきれいな眉を動かし、どことなく寂しげな表情を作る。
「んー、君は確か、その、色が見えるんだったけか」
「みんな色は見えないって言うよ」
――そりゃ、見えないに決まってる。
と言いたいのを喉で抑えて、智仁は苦笑を浮かべた。
昼休みに飯を食いに来たら、おかしな少女と色について話をしているのだから。
「その、俺にも見えないけどね」
「そう……」
彼女が悲しげな表情になったので、智仁は慌てて言葉を継ぐ。
「いや! でも、俺はスピリチュアル系のアレとか否定しないタチだよ! うん」
「すぴりちゅある?」
「夏にやってるUFO特番とか嫌いじゃないしな!」
なにやら言葉をまくし立てる少年を、少女はじっと見つめて、くすりと微笑んだ。
智仁はそこで口を止め、きまり悪げな笑みを漏らす。
「だから、その……君の信条を否定するつもりじゃないんだ」
「ありがとう」
「へ?」
「わたしのために、沢山言葉を使ってくれたでしょう?」
それが当然とでも言うように、彼女は礼を言う。
智仁からすれば、なにやら宇宙の住人と語らっているようだった。
不思議星雲、不思議星の善良でかわいいツキクラ星人。
なんだか毒気を抜かれて、智仁はため息を付いた。穏やかな感覚だった。
「色ってどんなものなんだい」
「いろんな人が聞いてくれたよ。だからあなたにも教えてあげる」
向かいの校舎から、歓談する女子生徒たちの声が聞こえてくる。
楽しい場所なのだろうな、と思った。それでもこちらにいるほうがいい、智仁は思った。
「色はね。みんなが持ってるの。ずっと昔から、見えたよ。たぶん、生まれた時から」
「オーラ、みたいなものかな。ちょっと前、それ専門の霊能者がいたけど」
「どうだろ。わたしはそのおーら? が見えないから。でもね、色は宇宙なんだよ」
「う、宇宙か。壮大な話になりそうだ」
「大きなキャンパスを舞台に、色が煌めいたり、うねったりするの。わたしはそれが好き」
「……それって、俺にもあるんだろ」
「うん。灰色と蒼と茶。灰色が一番多いかな。蒼はきっと待ってる。茶は、やさしい感じ」
「きっと待ってる、ねぇ。一体なにを待ってるんだろうな」
「わからない。でも、あなたの何かを待ってるよ」
確かによく分からない、というのが智仁の正直な感想だったが、彼女の言葉には偽りがないように思えた。
じっと顔を見つめてみる。彼女はなにを気にする風でもなく、見つめ返してきた。
「そういえば、なんでここにいるんだ? あまり面白い場所じゃないと思うけど」
「わたしは、特別だから」
その瞬間、少女の顔に翳りが走った。
なんとなく察することができて、智仁の瞳が揺れ動く。
そうなのだ。彼女はまともではない。そして自分自身も枠から外された存在だった。
少年は妙な共感を覚える。哀れみ、同情、あるいは共鳴。
「特別、か。それなら俺も特別かもな。君と同じか、似たようなもんだよ」
「でも、あなたは色が見えないわ。代わりに何が見えるの?」
「みんなが知らないことを知ってる。眼を背けた路地裏に潜むものや、悪夢がどうして生まれるかを知ってる。純粋な悪意を」
ふと智仁は自分の右腕に柔らかい感触を覚える。
そこにあったのは、抜けるような白色の手だった。小さくて、繊細な指が制服の袖を握りしめている。
彼女の顔を見た。痛みを堪えるかのような表情だった。
「だいじょうぶ?」
「え」
「すごくこわい顔をしてたよ」
「あ、ああ。ちょっと考えすぎただけ」
片手を広げて、顔を強く擦る。そこにあった感情を壊して、捨ててしまうように。
「……礼佳って言うの。下の名前」
少年は相槌を打った。
「わたし、変な子だって知ってるよ。周りと比べて、きっとおかしな子なんだろうな、って」
「それはけっこう当たってるかもな」
「ふふ。でもね。わたしは人が嫌だったり、痛い時は分かるんだ。だからこう考えてる」
一息ついて、少女――月倉礼佳は口を開いた。
「これはきっと、神様からの贈り物なんだろうって」
彼女の顔には何の疑いもなかった。それが自分に求められた使命とでも言うように。
智仁は神様なんぞクソ食らえだ、と思い、つぎの瞬間、彼女の表情を見て、仄かな苦笑を浮かべる。
普段は落ち着けない自分が、彼女の側だと気を張らなくてもよかった。
神様を信じるつもりはなくても、彼女の性根が純真であることを信じないつもりはない。
それが、月倉礼佳という少女の魅力なのだと気付いた時には、もう心地よくなっている。
「信じるよ、たぶん、それは神様からの贈り物かもな」
「あなたって臆病だけど、辛抱強い人なんだね」
「そう、かな。自分ではさほどそうは思わないけど」
「わたしの話なんかを、こんなに聞いてくれる人だよ? 我慢強いと思うな」
「臆病なのは認めるけどさ。それに、俺じゃなくても、君ほどの器量なら話し相手は捕まるだろ」
「ふふ。かわいそうな子を相手にしてるつもりの人や、容姿狙いの人はすぐに分かるよ」
「俺がそうじゃないとは言い切れないよ。君が体重一二〇キログラムの巨漢だったら、直ぐ逃げた」
「灰色と蒼と茶の人。あなたは今、真剣に聞いてくれてる。それが嬉しいんだ」
恥ずかしげな微笑みは、奥ゆかしい魅力があった。智仁は自然と笑顔を差し出せることに気付いて、少し驚く。
自分がリラックスしていることは、なんとなく理解していた。それでも素直になれるとは思わなかったのだ。
「……君は、なんというか、面白いよな」
「いろんな人に面白いって言われたけど、その言葉は嫌いじゃないかな」
「ならよかった。俺も臆病って言われることはあるけど、別に嫌いじゃない」
自然と笑みが溢れる。お互いにくすくすと笑いを交わし合った。
鐘の音が聞こえる。録音されたデジタル音で、昼休みの終了を告げていた。
「もう終わりみたいだね」
「そうみたいだな。早く帰ったほうがいいんじゃないか」
礼佳は一度首肯し、名残惜しげに屋上を見て、最後に智仁の顔を眺めた。
出入口のほうまで歩いていくと、彼女はさっと振り返る。
「また会おうね、智仁くん」
なにか返事をする間もなく、少女は階段の先へ消えてしまう。
智仁は手をあげそうになって、力なく下ろし、小さな苦笑を漏らした。
「また会おうね、か……」
不思議な少女だった。
智仁はまったく緊張しなかった自分を再発見して、なぜか彼女は妖精だとすら感じた。