chapter-5
5
寂れた地区の一角に、頑丈な造りをした教会がある。
祥雲市にはその性質上、大勢の外国人も来訪するために、個人の信仰に対する配慮もなされていた。
この教会はそうした流れの中で建設されたものだ。今は管理する人間がたまに来るばかりで、神への祈りは久しく唱えられていなかった。
考える時はここへ来ると落ち着く。智仁は教会の身廊を歩きながら、周囲に視線をやった。
装飾が施されたアーチ状の柱に、陽光によって模様を浮かび上がらせるステンドグラス。
一番奥には祭壇があって、十字架に拘束されたイエス・キリストの銅像がある。
――荘厳な空気だ。埃っぽいのが玉に瑕だが。
智仁は信徒のために用意された長椅子のひとつに腰を下ろす。
こんなところへ来るのは自分だけだろうと思っていたが、人は懺悔したいものらしい。
座っている長椅子に、小さな折鶴が置いてあった。作りは丁寧だが、教会にあるべきものではない。
イエス・キリストは項垂れていた。かれは磔にされ、ただ刑を待つのみだ。
「ただのおっさんにしか見えないよな、ホント」
一部の層から顰蹙をもらいそうな台詞を放ったあと、折鶴を掴み上げる。
完璧、に見えた。少なくとも素人からはそう見える。美しい形にまとまっていて、余計な折り目ひとつない。
面白みはなかった。苦心惨憺したあとがなく、マニュアル通りに作られている感じを覚える。
「お前のママはだれなんだ?」
折鶴を置く。そして大きく息を吐き出した。肩の力を抜こうとするが、うまくいかない。
「俺はヒーローじゃない。強くもない。死ぬのが怖い」
ただ当たり前のことをつぶやく。多少の技術は持っている。だがそれは仕事のためだった。
智仁は右手を持ち上げ、人差し指を伸ばし、親指を立てる。銃の形だ。
出来た“銃口”を喉に突き立てる。柔らかい感触と仄かに血管が脈動する音。
「痛いのは嫌いだ。ふたつのことを同時にするなんて無茶だ」
眼を瞑る。親指で“撃鉄”を下ろす。
「俺は、臆病なんだ。親父が死んで、がむしゃらにやってきただけだ」
“引き金”はそこにある。引けば、全てが楽になれる気がした。
このようなカオスから抜け出て、静寂と追憶が眠る場所に往けるような筈だ。
それは“過去”と呼ばれている。
イエス・キリストを想像した。智仁はかれに弱さを背負ってもらいたかった。自分のせいではないと言ってもらいたかった。
一切合切の荷物を下ろしたら、どんな気持ちなんだ? イエスのおっさん。
「ロクなもんじゃないと思うけどな」
靴音が聞こえる。それは段々と近付いてきて、智仁が座る長椅子で立ち止まった。
声の主は分かっている。眼を開けた。“銃”を下ろし、言葉を紡ぐ。
「声、出てたんだな」
「ああ、そりゃもう。ダダ漏れだった」
声の主はとなりの席へと尻を落ち着けると、両手の指を重ねた。
智仁が視線をそちらへ向ける。爽やかな風貌に人を和ませる微笑が浮かんでいた。
「お前でも、こんなところへ来るんだ? 楠木将人くん?」
「嫌味な言い方だなぁ、オイ。俺って案外敬虔深い性格なんだぜ」
「成る程。敬虔深いくせして、許可もなく無人の教会へ不法侵入しちゃうわけだな」
「神様と会える場所だぞ? 信徒ならだれでも受け入れてくれるんじゃないの。俺は信じてないが」
軽快に笑う将人に、智仁は毒気を抜かれたような感じになる。気持ちが落ち着いたが、それを言うには気恥ずかしい。
将人はふと折鶴に視線を向けた。無造作に掴む。
「なんだ。すぐに見つけちゃったな」
「そいつを探しに来た? ってことはお前のか。折鶴」
智仁は大袈裟に驚いた表情を作る。将人が肩を竦め、流暢な口笛を吹いた。
「ま、そんなところだ。手先が器用なのは知ってるだろ。趣味だよ、趣味」
「相当うまく出来てるよ、その鶴。今時に折り紙なんて、けっこう驚いたけど」
「スマホにSNS、ネット、次世代ゲーム、アニメやらなにやらが荒れ狂う中で、俺は日本の伝統芸術に貢献してるわけ」
「そんな基準なら、俺が寿司の出前頼んだって一二〇点とれそうだ」
将人はチッチッチッと指を振ると、折鶴をジャケットの懐へ入れる。
「ところで、お前はどうしてこんなところへ? ウジウジするタイプだったか?」
「お互いに知らないものが多すぎるってことだろ」
智仁は何か言葉を続けようとして、なにも出てこないことに気付く。
楠木将人は親友だ。だけど、話すことができないものは沢山あるのだ。所詮他人なのだから。
自分がしていることは、信じられるものじゃない。智仁は自嘲の笑みを作る。
「また変なこと考えてるんだろうなぁ。話せないか? ウジウジくん」
「下手な挑発はやめるんだな。お前のやってることなんて、お見通しだ」
「そりゃどうかな。辛気臭い顔してるよ、お前」
将人が身体の向きを変える。智仁を正面から見据えた。
ハンサムな優男といった風貌だ。加えて思慮深さと秀逸さがある。智久はいつも感じていた。こいつは優れている、と。
「俺はお前のことを友達だと思ってる。お前がどう思おうが関係ない。だから話す」
「なにを? なにを話すっていうんだ」
将人は視線をキリスト像へ向ける。眩しさを避けるように目を細めた。
「一方的な取引だよ。だれかのかわいそうな話を聞いて、お前のかわいそうな話もする」
「話せよ。話してみりゃいいじゃないか。面白そうだ」
「ではお聞き願いましょう。題目は『とある少年のこれまで』」
おどけた素振りを見せて、将人がくすくす笑う。智仁も思わず苦笑した。
笑みが引いていき、場に静けさが満ちる。
「……教養に恵まれ、金が有り、見目麗しい男女がふたりおりました」
将人が一瞬逡巡する様子を見せる。
「世間一般から見れば、成功者であるふたりは、互いの恋から結びつき、愛によって子供を産みました。男の子でした」
「ふたりは喜びました。そして、自分たちのような優れた人間に育てようと考え、多くのものを男の子に与えました」
「勉学に秀でていること。運動に通じていること。魅力的であること。リーダーであること」
「さまざまな宝物が少年を完璧に育て上げました。両親は幸せでした。ええ、とても幸せに見えました」
智仁は自分が不安になっていることに気付いた。ふと将人のほうを見ると、かれは微笑んでいた。
しかしだれかに向けているのではなかった。それは自らに、あるいは自身の歩いてきた道程へと向けているようだった。
「素晴らしい鎧だ、と両親は考えたに違いありません。無敵の鎧です。名前は完璧。これさえあれば、だれに負けることはない」
「少年はこれを着こなすことが当たり前だと教えられました。だけど、次第に息が詰まり、視界は狭くなって、暗闇が忍び寄りました」
「……なあ、智仁」
話を続けようとして、かれはふと眼前の友人へと声をかけた。
「なんだ?」
「陸で溺れた経験はあるか」
智仁は不意を突かれ、まごついた様子を見せた。将人は微笑んでいる。変化はない。
その問いかけをよく考えて、ふと腑に落ちるものを思い出した。そうだ、俺はよく知っている筈だ。
「数年前から、俺はずっとそんな感じかもしれないな」
「そんな気がしてたよ。なんだろうな、アレ。心因性の何かだと思うんだけどな」
「寄り道が好きなのは知ってる。いくらでも待つさ」
「辛抱を覚えろよ、智仁。短気なのは好かれないぞ。女の子からは特に」
「……最近、悪くない出来事だってあったんだぞ」
「転校生だろ? あれ社交辞令だぞ。本気にしてるなら、かなりイタい――」
「小学生じゃないんだから分かってるっての! さっさと話を続けろよ、このアホ!」
「くっくっく」
ひとしきり笑ったあと、将人は言葉を紡いだ。
「さて、少年の目の前は真っ暗になりました。両親が右に進め、と言えば右に進みます。これを食べろ、と言われれば食べます」
「その内、自分自身が何者か分からなくなりました。自由がないのは奴隷です。奴隷であることは死と同じです。死は、自分が何者か分からないことです」
「少年は納得しました。街を流れる川へ行き、橋の上から水面を眺めます。自分が有るべき場所へ還るのです。それは素晴らしいことです」
「……迎え入れられる瞬間、少年はとある男性へ声をかけられました。きれいな笑顔を浮かべている男性でした」
「かれは少年の話を聞いてくれました。兜を外し、少年が息をできるようにしてくれたのです」
将人はそこで言葉を躊躇う。智仁も急かさなかった。少し時間が経ち、将人はやっと口を開く。
「その内、少年は男性の住むアパートへ入り浸るようになりました。自分の家ほど広くもありませんし、豪華でもありませんでしたが、少年にとっては一番快適な場所でした」
「男性は少年に鎧を纏わなくてもいいことを教えました。自分自身を見つけてもよいことも。それは自由でした。驚異的なことだと少年は驚きました」
「少年は男性を慕い、男性は少年に世界の広大さを諭す。ふたりは最高の師弟であり、少年はかれこそが本当の父親ではないか、と考えるほどになります」
「……ある日の夕方です。空は橙色に染まり、暗闇が影となって世界を刺す頃。少年は両親と喧嘩をして、家を出ました」
「切欠は些細なことでしたが、それは自由意志を行使できた始めての瞬間でもあります」
「少年はその感動を伝えたくて、男性の家へ走りました。アパートの階段を駆け上がり、勢い余ってドアノブを捻ります」
「開きました。普段は施錠しているのに。部屋の中からは、埃っぽい臭いと僅かな水音が聞こえます」
智仁は将人の唇から血が滲んでいることに気が付いた。かれは唇を強すぎるほど噛んでいる。
それを伝えようとして、将人が無表情であることを発見する。強い驚きと僅かな不安。
智仁は将人のこんな姿を見たことはなかった。
「――最初、それが何であるかは分からなかった。部屋の暗さに浮かび上がるひとつのシルエット」
「馬であるようにも見えたが、そうじゃない。そうじゃなかった」
「もう少し近づいてみて、やっと気付いたよ。小柄なほうを、大柄なほうが押し倒していたんだな」
「はっきり見えたから、分かる。性は同じだった。その瞬間、卒倒した。理解できた瞬間に」
「起きたら、もう悪夢はなかった。電気が点いていて、あの人が俺のことを心配そうに眺めていた」
「あれはすべて嘘だったんだ、と思ったよ。悪い夢だと。だって小柄な男はいないものな」
「あの人がサラダとカレーを作ってくれた。うまかったよ。それで、聞いてみたんだ」
「“馬”の話をさ」
紡いできた言葉が、ポケットに落ちるように。智仁はそこですべてが終わった気がした。
論理的に理解するというよりも、その地点から逃れられないものが始まるような感覚。
ユダが裏切り、イエス・キリストが磔にさせられるのは必然だ。ならば、これもそうなのだ。
「あの瞬間を心の底から後悔してる。気付くべきじゃなかった。行くべきじゃなかった」
「やり直したい。何度失敗したってやり直したいんだ。触れるべきじゃなかったんだ」
奇妙なほど声に感情がなかった。
「眼前であの優しかった人が、化け物になった。水が一瞬で沸騰するような感じだ」
「すさまじかったよ。あの人の顔は鬼そのものだった。声調もがらりと変わった」
「テーブルがひっくり返った。俺は状況が理解できなくてさ。その場にいた」
「あの人、ヤクザみたいな怒声をあげて、気が狂った人間みたく大声で叫ぶんだよ」
「ボコボコに殴られた。その内、俺も大声で泣き喚いたんだけど、もう感情がお互いに爆発してたな」
「……殴られたあとは口にボロ布突っ込まれて、いろいろされたよ。例えば――」
「言うな」
智仁が将人の腕を握る。かれは真剣な表情だった。
「言わなくていい。そこは」
将人は幾度も何か言おうとして、ただ一言捻り出すことしかできなかった。
「わるいな」
また静けさが戻ってきたが、今度は緊張感も伴っていた。
「……昔の新聞に、載ってるんじゃないか。児童に対する性的暴行、監禁事件。ともかく俺は助けてもらった。そういうことだ」
「こんなもの晒す必要なんか、なかったんだ。俺に言ってどうなるんだ。俺は、俺はなにもできないだろ」
「なあ、智仁。言ったろ、これは取引なんだよ。俺は話した。お前の苦しみはどうなんだ?」
小さく悪態をついて、智仁は舌を噛んだ。怒りとやるせなさがとぐろを巻いている。
「それを話したら、俺が引けなくなると思わなかったのか。将人」
「不躾なのは知ってる。勝手に推し量って、勝手に押し付け、勝手に引き出す」
「へえ、分かってるのか。根本的に理解できてないのかと思ったよ」
「独善的ではあるな。だけど、放っておけないんだ。俺は自分の望むことに従いたいんだよ」
「くたばれ、バカ野郎」
「はっはっは」
顔を両手で覆う智仁を尻目に、将人は何とも無いように笑っていた。
それでも、智仁はかれが自らの傷を晒してしまったことに罪悪感を覚えている。
普段から親切にしてくれる親友が、思い出すのも辛い話を語ってくれたのだ。
たとえ責められると分かっていても、こちらの痛みを分ち合うためならば、と。
拒絶することなどできなかった。それほど度胸はなく、無神経でもなかった。
智仁は自分の手が震えていることに気が付く。緊張からだった。
――成る程、俺の肝っ玉は小さいな。
「……お前は過去にどうやって立ち向かう? もし、目の前に現れたなら」
乾き始めた腔内を感じつつ、唾液を飲み込む。智仁は続けた。
「過ぎ去って、もう帰って来ないんじゃないかと淡い期待を抱いていたのに、そいつは帰ってきたんだ」
「まだ傷痕から立ち直ってすらいない。立ち向かうだけの力なんぞあるもんか」
「なあ、どうする? 俺なら亀みたいに隠れて、やつが通り過ぎるのを待つよ。お前は? お前はどうする」
「もし――“馬”がまた戻ってきたならば?」
将人は微笑みを浮かべている。そして、数秒考えたあと、言った。
「絶好のチャンスだな」
「なんだと?」
「相手がいるってことは、すごく幸せだ。そいつともう一度対決できるってことも」
違う、と言いたかった。智仁はそれが命に関わるのだ、と続けたかった。
銃や刀なんか目じゃない相手なんだ、と。
「地獄に落とされた。もう二度と這い上がれないと思っていたのに天国への門が現れる」
将人が語る。
「しかし眼前には空恐ろしい怪物がいる。そいつを倒さなきゃ、門は通れない」
「単純な見方だな」
「時にはそれが正しいこともあるさ、智仁。そして門は二度と現れないんだ。今、動かなきゃな」
「戦え、ってことか。痛みと屈辱と、恐怖。すべてがもう一度振りかかるかもしれないのに?」
「お前が地獄にいるなら、そうだ。いいか、智仁」
将人の微笑みが止む。
「そこは安住の地じゃないぞ。ドンドン足場が腐っていく。いずれ、もっとひどい場所になる」
「俺の人生だぞ。それを賭け金に使えと言いたいのか? また負けるために」
「どうせ挑まなくても終わりだ。そうだろ? どうせ終わるなら、納得して死にたい。お前はどうなんだ?」
「俺は……」
言葉に詰まる。何と答えてよいか、分からなかった。
将人は単純に物を知らないだけだ、と断ずることもできた。話は終わりだと打ち切ることも。
智仁は未だ怯えている。けれど、将人の言うことを否定することはできなかった。
「智仁。楠木将人ってやつは、まだその地獄にいるんだよ。分かるんだ」
将人が、心から感情を込めるように、言った。
「俺は、その機会を切望してる。お前が羨ましいよ」
それっきり将人はなにも語らなかった。しかし、視線だけは自分を見つめている。
智仁には理解できた。ただ、答えを待っていることを。そして心配されていることも。
顔をあげて、唇をへの字に動かす。
「お前は、俺の母親か何かか?」
「そうなってほしいのか? 俺はお断りさせてもらうけど」
「これが男同士の会話だとは思えないだけだ」
「なんだそりゃ。ただの照れだろ」
「気持ち悪いんだよ。お前は、いい奴すぎるんだ」
「素直に厚意を受け取れよ、相棒。それとも河原で殴り合ったりするか?」
「それなら仕方ない。前者を選ぶ」
「ははあ、これがツンデレってやつだろ。やっと理解できた」
「ああ、寒気がしてきたぞ。こりゃ鳥肌だ。マジで勘弁しろよ」
静まり返る。少しして、お互いに笑いが漏れた。それは大きくなり、やがて治まる。
「はぁ……なんでこんな羽目になってんだろうな、俺たち」
「さあ? でもいいんじゃないの。青春らしいだろ」
「青春ねぇ。どこぞの誰かさんが、迂闊な人で助かったよ。じゃなきゃ、お互いにこんな話はしなかった」
「管理人は近くに住んでるおばちゃんだよ。いつも植木鉢の下に鍵を置いておくから、入りたくなっちゃうんだよな」
「優等生のマサトくんもそれに気付いてたわけだ」
皮肉っぽく言葉を投げかけると、智仁はため息を付く。
恐怖が消えたわけではない。不安は今も胸中に渦巻いている。
けれど、親友からここまで言われて、黙っていられるほど意気地なしではない。
対峙しようと思った。敵は近い。ならば決別できるチャンスだ。呪われた記憶を切り離せる。
「……ま、やるだけやってみるよ」
「前向きにやっていかないと、どうにもならない話だからな。お互いにさ」
「今でも騙された気分だけど?」
「はっはっは」
「笑って誤魔化すな、このヤロー」
将人はキリスト像を数秒ほど見つめると、おもむろにポケットを探った。
完璧な形の折り鶴がある。そっと摘み上げ、智仁のほうへ投げた。
「お、おい。これを取りに来たんじゃなかったのか?」
「あー……ウソ」
「ウソ? いったいそれはどういう――」
「本当はさ。祈りに来たんだ」
長椅子から立ち上がり、身廊へ出る。
扉へ向かって歩いていく途中で、将人はふと足を止めた。
「お前にやるよ、その折り鶴」
智仁は戸惑いながら、折り鶴を見た。変わったところはない。
将人のほうに視線をやると、かれは右手をぷらぷらと動かしながら、屋外へ出るところだった。
「くれるものなら、貰っておくさ」
感謝と労りを込めて、ぽつりと呟いた。