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chapter-10

 10


 上機嫌であるのは理解していた。浮ついていた、と言ってもよい。

 まだ、あの瑞々しい唇の感触が残り、彼女の残り香が全身に漂っている。

 屋上のことがあった後、智仁は彼女を昇降口で待つべく、階を降りている最中だった。

 いくつかの部活はまだ校内に残ってこそいるが、生徒の姿はあまり見かけない。

 音だけが遠雷のように聞こえ、まるで自分だけが夢の世界にいるような心持ちがする。

 智仁があたりを見渡す。周辺は夕焼けの火に包まれ、影が色濃く浸透していた。

 少年は放課後の風景が好きだった。ほろ苦いノスタルジーに、自分自身を重ねることができたから。

 小さくかぶりを振って、階段を降りる。

 踊り場に差し掛かる前になって、智仁の視線が影になっている場所へと向けられた。

 ――誰かいる。

 眉をひそめる。この時間帯で、たったひとり。階段の踊り場に背を預けているというのは不思議だった。

 それでも、気にすることじゃないと通り過ぎようとした時、背中に声がかけられる。

「やあ」

 足が無意識に止まった。気づいたのは、それからだった。

 首をゆっくりと回す。表情は張り詰めたような真剣さに支配されていた。

 影から出てきたのは、別の少年だった。

 学校指定のブレザーを多少着崩しており、身長は高く、その容貌は整っている。

「将人……」

「変な顔してるな? そんなに意外だったか」

 少年――楠木将人は顔を苦笑で歪めた。

「聞きたいことがありそうだな」

「いや、その」

「俺がどうしてここにいるのか、とか」

 将人は首を傾げると、眼を細める。ポケットに入れていた両手をひらりと出した。

「とある親切な女の子に教えてもらったんだ。ここに親友が来てるってね」

「へえ、そうなのか。まだ親友だと思ってもらえてたわけだ」

 智仁は内心の動揺を隠すために、皮肉を語る。

 将人が微笑んだ。

「おいおい。俺のこと、どんな人間だと思ってるんだよ。あんなのは些細な行き違いだろ」

「そうだといいな」

 智仁の内面に不安が差し込む。

 将人がここにいたということは、こちらがなぜ屋上へ行ったか、理解できているのかもしれない。

 あるいは仲の良い人物から目撃情報を得ただけということもある。

 迷いが渦のように煮込まれ、思考を鈍らせた。

「……俺になにか用か?」

「用? そうか。確かに用件がなくちゃいけないよな」

 考え込むそぶりを見せて、肩を竦める。

「なんだと思う?」

「超能力者じゃないんだから、分かるわけない」

「いやあ、分かるんじゃないか? 簡単だ。少し考えてみろよ」

 智仁は息苦しさを感じる。呼吸が浅くなり、吸う回数が早くなる。

「どうでもいい。ちょっと急がなきゃいけないんだ。また話そう」

「そう焦るなよ」

 すっと智仁の前へ立ち塞がる。相変わらず笑みを浮かべていた。

 智仁の表情が少し険しくなる。口元は穏やかであるよう務めていたが、眼は笑っていない。

「そこをどいてくれると、マジで助かるんだが」

「なあ、考えてみろって」

「なんだこれ。タチの悪いドッキリか何かか? センスないね」

 雰囲気が剣呑さを帯びてくる。場の空気が一気に冷めたように感じ取れた。

「分かるはずだよ。分からなきゃおかしいんだ」

「なにが分かるって言うんだよ」

「俺とお前は親友だろ? 事実を言えないのか。嘘をつくのか」

「向こうへ行けよ。関わりたくない」

 突然、将人がヒステリックに笑った。そんな声を聞くのは、智仁にとって初めてだった。

 驚きが波のようにやってきて引く前に、将人は言った。

「おいおい。こんなに舐められてるとは思いも寄らなかったよ」

「何のことか分からないんだ。本当だ」

「殺すぞ」

 ぼそりと呟いた。憎悪のこもった声だった。

 智仁の総毛が逆立ち、背筋がぴんと伸びる。

 誰が言ったのかと思って、周囲を見渡したが、そこにはふたりしかいない。

 智仁と将人だけだ。自分は言っていない。ならば――。

「な、なんだって?」

「俺を裏切ったあげく、嘘を突き通したな。信頼してないってわけだ」

「お前のことはいい奴だと……」

「それが釈明か? お粗末だなあ、おい」

 将人が踊り場を歩きまわる。笑みの仮面は未だに張り付いていた。

 智仁の側まで来る。顔を近づけた。智仁は怯えを隠すために視線をそらす。

「俺は――俺は、完璧じゃないと駄目なんだ。お前も協力してくれると思ってた」

 半ば狂気のこもった声調だった。

 智仁にはなにも分からず、ただ脳裏を駆け巡る混乱に終止符を打とうと努力していた。

「完璧じゃないと、期待もされない。存在価値がない。なあ、お前は親友だろ」

「落ち着けよ。きちんと話は聞くから。お前らしくない」

「お前らしくない? 俺が、らしくない?」

 鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔をして、将人は言った。

「なあ、相棒。お前は、俺のことなんか、なにも分かっちゃいないんだな」

 もう限界だった。何かがぷつんと途切れる音が聞こえ、智仁は怒鳴り散らす。

「お前の正体なんざ知るかよ! ああ、嘘は止めにしてやるさ!」

 言っては駄目だと思いながらも、口は正直にものを語る。

「彼女とキスした! 恋人になった! お前ができないことをたくさんしたぜ!?」

 止められなかった。ただ奔流が流れ出るだけだ。

「いつもいつも俺の前にいやがって! 添え物だと思ってたんだろ! ええ!」

 右手を痛いほど握りしめる。

「俺が脇役で、お前は主役だもんな!? そりゃありがたく思ってたさ! だけどこればかりは譲れない!」

 大きく息を吸って、吐く。

「――彼女は俺と一緒にいる」

 沈黙がふたりの中に横たわった。

 智仁は血の気を冷ます傍らで、自分が重大なことを言ってしまったことに気付き、顔面を蒼白にさせた。

 そしてお互いがおかしくなっていることも理解する。これ以上はやるべきではないと思った。

 智仁が慌てて謝罪の言葉を述べようとすると、将人が笑顔のままで拍手した。

「なるほど、よく分かった」

「それは――」

 途端に背中へ衝撃が走った。

 内壁へと叩きつけられている。襟首が強い力で掴みあげられていた。

 眼前には顔があった。楠木将人が無表情でそこにいる。智仁はぞっとした。

「おい! なんのつもり……」

「お前には渡さない。絶対にな」

 腹の底から絞り出された言葉が、智仁の耳朶を打った。

 将人が右手を振り上げ、顔面へと叩きつける。

 骨と衝突する鈍い音が聞こえ、強い力が皮膚をえぐった。

 右の頬から重い痛みが走って、智仁はうめき声をあげる。

「や、やめろ」

 智仁の呼びかけに反応することもなく、将人は膝を打ち込んでくる。

 太股に命中。全体に伝播するような鋭い痛みを感じ、歯を食いしばった。

 将人の表情は変わらない。まるで良く出来た彫刻のようだ。

 つぎの一撃が来た。よろめいて逃げようとしたが、また服を掴まれて胸にくらった。

 咳を溢す。姿勢を低くする。強く押され、白い内壁に沿って離れた。

 智仁の表情が歪む。手足がぴくりと動いて、反撃しろと呼びかけてくる。

 身に付けた技能はなんのためだ? と、脳裏でだれかに囁かれる。

 ――親友を殴るためじゃない。

 だが、現実は非情だった。将人は顔色ひとつ変えず、こちらの髪の毛を掴む。

 内壁にぶつける。何度も、何度もぶつける。

 鼻にじーんとした感触が広がり、骨が折れてしまうのではないかと心配になった。

 血は出ていた。口の端を伝わって、踊り場へと落ちる。

「助けてくれ」

 返答はなかった。背中に蹴りを入れられた。

「頼む」

 崩れ落ちた智仁の顔を思い切り踏みつけた。頭が揺れて、眼に涙が滲む。

 震える両手を冷たいリノリウムの床へ付け、立ち上がろうとする。

 顔に靴先が飛んできて、顎を打った。

 舌を噛んだようで、はっきりとした苦痛が伝わる。

「お前じゃない」

 上から声が聞こえた。

「お前はいらない」

「お、俺は……」

「完璧さを邪魔するなら、いらないよ。お前」

 その無感情な言葉が、智仁の耳に入った時、何かが折れた音がした。

 憎悪と狂気のまま、将人が智仁へと近寄る。

 そのまま踏みつけようとした足を、何かが掴んだ。手だった。智仁の手だ。

 表情を変えないまま、首を傾げる。

「へえ」

 智仁が素早い動きでたちあがった。将人の足を掬い上げようとする。

 将人はそれを避けて、殴りかかろうとする。顔をあげた。眼に指が飛んできた。

「ぐあ!?」

 目潰し。咄嗟に将人は両目を押さえる。智仁は無防備になった下腹部へ、前蹴りを入れた。

 筆舌に尽くしがたい悲鳴が聞こえる。智仁が笑った。純粋におかしかった。

 手が顔から離れたところで、アッパーカット。一撃が頭蓋骨を揺らし、将人は背後へとよろめく。

 ステップで前進し、鳩尾にパンチをくれる。前のめりになって、そのまま智仁へ身を預けた。

 服の袖を掴んで、内壁に押す。将人が笑った。凶暴な笑みだった。

 喊声をあげながら、こちらへと突進してくる。

 それをいなして、足をかけた。将人がつんのめって、踊り場に転ぶ。

 上へ乗って、襟を掴んだ。顔が見える。まだ笑っていた。

 それが憎くてたまらず、顔面に拳を入れた。

 まだ笑みを浮かべる。もう一度殴る。

 まだ笑っている。力を入れて殴る。

 遂に血が噴き出す。今度は智仁が笑う。

 殴る。よい感触がする。ダスクと戦っている時のような熱情が、胸中に満たされる。

 こいつは敵だ、ともう一人の自分が騒ぎ立てた。

 殴り続けていく内に、快楽と興奮が自らを支配する。

 智仁にとって、ここは平穏と退屈の園ではなく、血と肉と硝煙が混じる夜だった。

 やがてうめき声も聞こえなくなる。ふっと覚めた。突然のことだった。

 眼をぱちくりとやり、自分がなにをしていたのかに気付いて、両手が震える。

 おそるおそる相手を見た。血だらけだった。

「あ、ああ……」

 額をさわる。違うと叫びたかった。

「お、俺はこんなことがしたかったんじゃ」

 無我夢中だった。このままでは殺されると思った。だから――。

「は、はははは」

 智仁がびくりと怯える。声の主は倒れ込んだ将人だった。

 かれは血だらけになりながら、その顔を笑みへと歪めている。

「つ……よい……じゃないか……」

 智仁はかれに飛び付き、血を手で拭った。

 深い怪我はないようだった。安堵の息を吐く間もなく、手を掴まれた。

「楽し……かった……ろ? 相……棒」

「う、ううう」

 なんとも言えずに顔をそむける。

 その様子を見て、将人はよろよろと立ち上がろうとした。

 智仁は震える腕で、かれを持ちあげる。バランスを崩し、将人は階段の手すりに掴まった。

 ぺっと血が絡まった痰を吐き捨てる。白いものが混じっていた。歯だった。

「これが……お前の……本性って……わけだ」

「やめろ。これ以上争いたくない!」

「争いたく……ない?」

 腫れた唇を舐めながら、将人は笑った。

「こんな……有様に……しておいて、よく……言えたな」

「お前が先に殴ってきたんだろうが……!」

「言い逃れ……か? これを望んでたんだろ……お前は」

「違う。俺はただ単に――」

「お前は、俺を殴り、期待を裏切り、その血塗られた手で、彼女を……撫でたんだろ?」

 頭がくらくらする。智仁の脳裏に無数のイメージが像を成す。

 額からは汗が滲み出て、傷は痛みを報告し、血がゆっくりと皮膚を流れる。

「黙れ。お前は頭がおかしくなってるんだよ。正気じゃない」

「正気じゃない? それは自覚してるさ。俺はずっと前から狂ってる」

 肩を竦めて、かれは言う。

「だが、お前が正気だと言うつもりかよ。殴りながら、笑ってたじゃないか」

「なあ、将人。俺が悪かったよ。できるかぎりのことはする。だからもとのお前に……」

「もとの俺などいないッ!!」

 怒鳴り声があちこちに反響する。将人は笑みを崩して、今や憤怒の形相を讃えていた。

 こんな姿も、見たことがなかった。自分はなにも知らないのだと、智仁は思った。

「あの日以来! あのアパートの事件以来! 本当の俺などどこにもいない!」

 腹を押さえながら、将人が智仁を目指して歩み寄ってくる。

「ただ家族とお前たちが望むペルソナを演じているだけだ! 優等生の楠木将人をくんをなァ!!」

 最初と同じように、智仁は襟を掴まれる。

 だがそこに力はなく、ただ自らの身体を支えるために手で握っているようなものだった。

「あの子は! 俺が初めて……好きになったんだよ……」

「将人」

「親友を捨ててまでな……あの子が好き……なんだ。引けよ、智仁。身を引いてくれよ……」

 絞り出すような声を、智仁はどこか遠くで聞いている気分だった。

 今まで信じて、作りあげてきたものが全て崩れ去った感覚。

 安穏で退屈とした学校生活という前提が壊れ、なにかおぞましいものに切り替わったような錯覚すらある。

 それでも智仁は引けなかった。彼女が好きだった。愛していた。

 あのぬくもりを、忘れることができない。

「無理だよ、将人。俺たちは、相容れない」

「お願いだ。頼む……頼むから……」

「できない。どんなことがあっても、この火は消せない」

 将人が襟を離した。数歩後退する。かれの顔が見えた。

 虚ろな瞳に弧をえがく口元。その笑みはこの期に及んでも削られることはない。

 そんな将人を見て、智仁は仮面を連想した。

 長い間かぶり続けて、脱ぎ方を忘れてしまった仮面。

「くくっ……くくく」

「すぐに保健室へ――」

「必要ない。“弧山”」

 伸ばそうとした手が止まる。ナイフで斬り付けられたような感触を覚えた。

「どうせこの世は肥溜めだ。上にいるか、下にいるか」

 緩慢にあとずさり、手すりに拳を置く。

「その程度の違いしかない」

 仮面のような顔が現れる。

「愛してるよ。弧山。俺は全てが信じられない。お前だってそうなるさ」

 くつくつと鍋の底から溢れ出るような嗤いを放つ。

 智仁は背筋に寒気を感じた。それは人間が極限に追い詰められた時、発せられるであろうものだった。

 将人は嗤いながら、階段をよろよろと降っていく。

 どうすればよいか分からず、その後ろ姿を黙って見守る。

 智仁は血を拭った。怪我はそれほどでもない。だが、それ以上に――。

「なんだよ、これ」

 思わず苦笑が漏れる。全てが灰燼と化したようだった。

 今のここにあるのは焼け野原だ。

 笑いが止まらなくなり、やがてそれが嗚咽となる。

 ずっと走り続けてきた。なにも見ないようにしてきた。

 ダスクを狩る生活と日常に暮らす生活を両立していけば、余計な苦しみはないと思った。

 どうせ死ぬのだから。

「くそっ……」

 身体も痛かった。心も痛かった。しかし、今の自身にはどうすることもできない。

 内壁に寄り添い、姿勢を低くする。やがて尻が床へと着く。

「どうすればよかった?」

 ひとり呟いた言葉は、虚しく宙へ消えた。


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