chapter-1
1
それは眼だった。
白濁色に浮かぶ黒点はかぎりなく小さくなり、まるで針穴のように細くあるだけだ。
顔はやさしい作りをしていたが、口元だけが硬直したように緊張で引き攣っていた。
「よくもやったな、あの野郎」
それは死体だと認識して、少年――弧山智仁は無表情を保った。
深夜の廃工場。その敷地に人気は一切なく、ただ死体とかれひとりがしゃがみ込んでいるだけだ。
智仁は額から滲み出る冷や汗を一度ぬぐうと、右手で握っていた四五口径ピストルを確認した。
弾は入っている。数年も酷使していれば、故障も山ほど出そうだが、この鉄の相方は泣き言を晒したことなどなかった。
準備はオーケイ。智仁は眼を瞑り、死体となったかつての同僚に別れを告げる。
立ち上がり、両手でピストルを構え、敷地の中を進み始めた。
ここには銃声がして駆けつけたのだ。硝煙の臭いはまだ濃い。相手はまだ近くにいる。
付近はすべて闇だった。それは不思議と墓所の静寂に似ている。智仁は奇妙な安心感を覚えた。
屋根を駆ける音――。
すぐに背後へ振り向く。薄ぼんやりとした月光と、片手に持ったマグライトの光が、それを描写した。
赤銅色の胴体。四本の肥大化した腕。先別れしたゾウのような足。顔には赤く染まった牙があった。
人間ではないナニモノか。それが『ダスク』を最初に見たときの率直な感想だったし、今も変わらない。
化け物――ダスクは廃工場の屋根を跳躍すると、そのまま地面へとダイブする。
地面から屋根まではおよそ一五メートル。人間であったら無事では済まない高さを、ダスクは軽々と跳んだ。
ライトによって照らされた円光の中で、コンクリートが弾ける。
ダスクはその鮫とも爬虫類ともつかない顔を、智仁へと向けた。
「……あとはおまえひとりだ。掃除屋」
ダスク特有の奇妙に張り詰めた声。智仁はピストルの照準をつけると、言った。
「ざけんなよ。お前は俺たちに勝てないから、こそこそしてたんだろうが」
ダスクは丸太のような首を傾げると、笑い声ともとれる音をあげる。
「認めよう、掃除屋。お前たちは賢い。そして強くもある。昔ならいざ知らず、二十一世紀ではそれほど分がよい勝負ではない」
「なら膝でも付くのか? 刑事ドラマみたいにいちいち権利とか読み上げてやろうか?」
「それを読み上げられるのはお前のほうかもしれんぞ。善良な市民とやらは、銃など持ち歩かん」
智仁はトリガーに指をかけ、ひいた。それを皮切りにぞくぞくと銃声があたりに響き渡る。
ダスクの胸部から青い血が噴き出し、枝分かれしたような脚部が、一歩後ろへ下がった。
一瞬の静寂。その後に胸部から肉が激しく焼けるような音がして、ダスクは悲鳴をあげる。
「ギギギ……た、短気な若僧だ。一00年前はもっと……作法があったぞ」
「悪いけど、現代っ子なんだよ。それにお前、病院から赤ん坊拉致しただろ? どうした?」
「こう答えるべきだろうな……喰ったよ! ギギギ!」
ダスクはその場で俊敏にジャンプし、三メートルほど浮遊すると、智仁の背後へ着地した。
左足を軸にして振り返るのと同時に、ダスクの鋭利な爪が襲い掛かる。
「ちくしょう!」
智仁は毒づくと、前方へと跳ねる。同時にダスクが飛び掛かり、すれ違いざまに腕を振り回す。
重い鈍痛と衝撃。意図しないほうへ吹き飛ばされ、そのまま地面へと叩き付けられる。
――痛い。
脳内をインプットされた痛覚が疾走する。智仁はふと考えた。どうしてこんな仕事してるんだ?
「これでもくらえ!」
四五口径ピストルを当てずっぽうで撃ちまくる。硬い反動が腕を伝わり、肩を揺らした。
ライトが捉えたダスクは、そのまま突進。智仁は横へ跳ね退いた。
ズシン、と空気を伝播する重み。智仁は走ると、廃工場の角へと逃げ込む。
「……非合法で、命が安くて、身体が壊れればそれでオシマイ」
外壁を背中につけ、息を整えながら、言葉を吐き出す。
「3kなんてもんじゃないよな。マジでスイーパーなんて、馬鹿がやる仕事だ」
浮かんだのは苦笑だった。撃ち尽くした弾倉をポケットに入れ、新しい弾倉を装填する。
スライドを短く引いて、離す。
「おれ、ふつうの高校生になりたかったけど」
角の向こうからこちらへと進む足音が聞こえる。一度目を瞑った。
「ラノベとかじゃ、もれなく好みの美少女とかついてくるパターンじゃないかよ」
智仁は思い出す。可愛い少女たちに囲まれ、敵を倒し、成長していく主人公たちの姿を。
「おれのところには来ないんだな、きっと。分かってるさ。ああ、分かってる」
眼を開いた。音はすぐそこだった。四五口径のグリップをしっかり握り、怒鳴った。
「マジで勘弁しろよ!」
角を曲がり、姿を現す巨体。それが見えた瞬間に、銃口が火を噴いた。
ダスク専用の儀礼弾でも、消滅に追い込むのは楽ではない。智仁は突進した。
右爪がわずかな差でコートの裾を破る。背中から刃物を抜いたとき、月光によって輝いた。
マチェット。鉈刀とも呼ばれる武器を、智仁は思い切りに膝へ叩き込む。
肉を切り拓く感触。もう慣れたそれを味わいつつ、前方に跳ね、背後からもう一度斬り込んだ。
焼ける音が聞こえたのと同時に、斬り込んだ足が持ち上げられ、智仁の身体をくの字に折る。
「ぐっ……あ」
うずくまりそうなのを必死で耐え、今度は腕部を狙おうと刃を持ち上げた。
その瞬間、智仁の腕は自分のそれより数倍大きい手に捕まえられ、動けなくなる。
「暴れるじゃないか、若僧。なかなかいい腕をしている。何年だ?」
「黙秘権って知ってるか」
ぐわりとダスクの口が扇状に広がった。笑った。それを認識した直後には既に放り投げられていた。
背中を打つ。それでもまだ動ける。手元にマチェットを引き寄せ、握りしめた。
「お前のような若僧がスイーパーになる理由はひとつ。両親がそうだったからだ」
「……カウンセリングなら間に合ってるぞ」
「父親だな? 父親だろう。おそらくそうだ。お前は殺人技術を仕込まれた。しかし父親は――」
ダスクは心底愉快そうに笑声をあげた。そうだ、あれは笑い声だ。おぞましい音の。
「お前に愛とやらをくれたのかなァ?」
智仁は待たなかった。右手で四五口径を連射しながら、左手のマチェットを袈裟懸けに振り下ろす。
肉に埋没する鋼。左手を離し、小振りの攻撃をなんとか躱して、背後へ潜り込む。
後頭部へ照準をつけた。トリガーをひく。何度も。
ダスクが前のめりによろめいた。膝を撃ち抜く。弾倉を入れ替えるのと同時に、ダスクは崩れ落ちる。
あたりに薬莢が転がり、発射薬の臭いが立ち込める。
「無駄口を叩き過ぎだって思わないのか」
正面へ回り、顔を見つける。こちらを向いていた。ふたつの輝きが弱ってきていた。
「……よく……やるものだ……ギギギ」
近くにコンクリートのブロックを見つけ、智仁はそこに腰を下ろした。
かれは自分の手が震えていることに気付いた。そうだ、こんな仕事は馬鹿げている。
「お前たちがいなきゃ、きっとみんな幸せだったよ」
「本当に……そうかな……自分の影に……呑み込まれるだけだ」
「俺は幸せだった。影なんかなかった。そういや今期のアニメは何だったけな」
「……お前の……下に、死角に、記憶に……」
「青春ロックガールに、アイドル候補生X、徳川家美の乱世に」
「目をそらしても無駄だ……お前を見ている……ずっと見ている……」
智仁はスライドを引いた。弾は発射状態にある。トリガーも重くない。
「ほら、いるぞ。ギギギ」
冷や汗が滲むのを感じる。なぜか耳を塞ぎたい衝動にかられる。
「お前の背中に」
「黙れ!!」
小さな鉄筒から銃弾が放たれた。鉛の嵐がダスクの顔面に穴を開け、それが増えていく。
やがて銃弾の川が途切れたとき、そこには灰となって崩れていくダスクの巨体と、俯いた少年の姿があった。
智仁はマチェットを灰の塊から拾い上げると、鞘に納め、ピストルをホルスターに入れた。
ひどく疲労した気分になり、立ち続けるのも億劫になる。その場に腰を下ろした。
空にはぼんやりとした月。やさしいようで、醜いものをヴェールで覆い隠すサマをも連想した。
「隠さなきゃな。せっかく終わったことなんだ。埋めて、隠さなきゃ」
思い出したら、きっとすべてが終わりだと、呟いた。