第一章:(2)〈水の乙女〉
風のまえのともしびのように、意識が朦朧とゆれている。途中でなにかうわごとを言ったかもしれないし、涙も流したような気がする。
しかし、アナベル・リィが目覚めたとき、外は静かな夜に包まれようとしていた。
「ここは……?」
麻の生地のベッド、石を積んで塗り固められた壁、そして個室。なるほど上等ではないものの、清潔でしっかりした宿屋なのはまちがいなかった。
問題なのは、アナベル自身はその宿をとった覚えがないということだった。
(……いや、そんなことはどうでもいいわ)
服は変わっていたけれども、装身具などはすぐそばのテーブルに置いてあった。アナベルはそれを確認すると、首飾りなどを身につけ、あたりをうかがった。
どうやらここは地上のようだ。──ならばまだなんとかなるかもしれない。わたしにはやることがあるんだ……そう思い、彼女は部屋を出た。
「どこへ行く?」
だが、その扉のそばには男がいた。闇の中にひそんだ獣のように気配が読めず、そして気が立っているようだった。
つかのまの恐怖に身が縮こまるものの、かろうじて勇気を出して、
「だれなの?」
「通りすがりの剣士さ」
こころなしか、男の声はやわらかくなったような気がした。ならばこそ、とアナベルは語気を強くして応じた。
「関係ないなら、どいていただけませんか。わたし、これからやらねばならないことがあるので」
「こんな夜遅くに? ただ事ではあるまいな」
「なんですって……!」
キッとにらみつける。
だがそこに見出したのは、闇にきらめく青玉のようなひとみ……やさしいまなざしだった。そこで気を抜かれると、いっきに全身のちからが消えて、床に崩れそうになる。
その身体を支えるように抱きとめると、男は言った。
「慌てるな。なにがあったのかは知らないが、飛行船から湖に身体を叩きつけて無事なはずがないだろう」
──医者を呼んでくるから、寝てろ。
そう言うと、男は廊下の向こう側に行ってしまった。
やがて、医者と思わしき老婆を連れてやってくると、扉のかげにもたれて、視界から消える。
彼なりの親切のつもりなのだろうか、そう思うとなんだかおかしかった。
診察をひと通り終えて、休むように通達を受けると、入れちがいに男がやってきた。
ふたりだった。
もうひとりは、さっぱりと赤茶けた短髪で、北方から来たと思わしき見かけをしていた。どこか色男の風もただよっていて、アナベルは警戒する。
「初めまして。おれはナザールっていうんで……」
男はそういうと、剣士のほうに向き直って、肩をバンと叩いた。
「おおい、カレシン。おれじゃあダメだから、助けたおまえがなんか言ったれ」
「俺でもダメだ。なにせ関係ないらしいからな」
「かーっ! そこで退いたら男の沽券にかかわるってもんだぜこの甲斐性なしッ。おまえが手を差し出しといてその態度はなんだってんだ」
「ふむ」
「フム、じゃねえよなんか言うことァねえのかこのアホんだら!」
間抜けた騒がしさにあてられて、アナベルはくすりと笑ってしまう。
その様子に毒気をぬかれたナザールは、せきばらいをしてから、
「あー、お嬢さん? 自己紹介から入っていいかな。あいつがカレシンなんだが、通りがかりで、湖に落っこちたあんたを助けた御仁さ。それで、おれはなんていうか、連れかな」
「ただの弥次馬だろうに。なんでここまでついてきたんだ」
「いやいや、袖振り合うも他生の縁というじゃないですか。これもなにか、たとえば運命の女神アルステラのお導きでしょう!」
「ほざけ下郎」
なーにーおーう、と凄むナザール。
「あの……仲いいんですね、ふたり」
「「どこが」」
思わず言葉が重なった。
その調子に呑まれて、すっかりアナベルは警戒を解いてしまった。ころころと笑う。その様子をみて、男ふたりは呆然とする。
「ふふ、失礼しました。わたしはアナベル。アナベル・リィと申します。クレスト帝国から参りました」
「へへぇ、アナベルさん。あなたは西のほうの出身かい」
「ええ、そうです」
「するってえと、こっちのカレシンとは敵対国家同士ってことになるんじゃ……」
「祖国なぞないに等しい。生まれはたしかにダルシアだが、もうあそことは縁を切ったようなものだ」
「それで、〈つぐない〉の巡礼っていうのかい?」
「それとこれとは話が別だ」
あー、悪かったね、とナザールは目をそらす。
「んで、アナベルさん、こいついわくきみは何かを焦っているようなんだけど、もしおれらでよければそのことを聞いてもいいかな」
「直球ね」
アナベルは苦笑した。
カレシンはその気持ちがよくわかった。ナザールのぶしつけなやり方は、どこかひとのこころに土足で乗り込むようで、失礼な感じがするのだ。
しかし、アナベルは息を吐くと、ゆっくり話しはじめた。
「……あのね、わたし祖国を追われてるのよ」
「え?」
彼女が話したのはつぎのような事柄だった。
クレスト帝国にはいま新しい宗教が席巻しようとしていた。〈イザークトの子ら〉と名乗る彼らは、アルカディアの信仰や、クレストの旧教とはことなり、唯一絶対の神さまを信じている。
信じている、というだけならまだよかった。問題なのは、それ以外の、たとえばアルカディアの十三柱の神々や、クレストの土着信仰をつぎつぎと排斥しようとしたということだった。彼らは帝国の政治家たちの支持を盾に、神殿や聖なるほこらを破壊してまわっているのだという。
「わたしは〈水の乙女〉なの」
「〈水の乙女〉? そりゃ、あんた、西方世界で信奉されてる水の神エリアーテにつかえる司祭様のことじゃねえか」
「よくご存知ですね、ナザールさん。そう、わたしはクレスト帝国領土内の旧きちからを収める神殿の管理を任されていたのです。ですが、〈イザークトの子ら〉はそれを破壊しました。
神に偶像は要らない、と彼らは言ってました。しかし、わたしにはそれよりも彼らが大地の恵みをつかさどる旧きちからを狙っているように思えるのです。
……これを、ご存知でしょうか?」
と言うと、アナベルは胸もとに隠した、首飾りの先端を取りだす。
それは宝石のようだった。パッと取り出したときには青いようにも見えたが、部屋のともしびにゆれて、赤くなったり、黄色くなったり……と七色へと変化した。
こりゃあたまげた、とナザールはつぶやいた。
「星霊石の結晶だ……」
「星霊石? 魔導機関の燃料になってる、あれか?」とカレシン。
「そうよ。まあ、あれはだいぶ混ざりものなのだけれど」
「す、すげえよアナベルさん。こんな純度の高いの、どこから……現代技術でさえ結晶の精錬はできねえって言われてんのに……!」
「いいえ。これこそが旧きちからなのよ。かつてアルカディアの地に古代魔法文明があったころ、これは作られたわ。正確にはできた、というべきなのでしょうけど」
このことはカレシンやナザールでも知っていた。
かつて──いまから約千年まえのこと、アルカディアの地には古代魔法文明と呼ばれる巨大な王国が存在した。その名はアルカディア……大地の名の由来となっていた。
古代アルカディア王朝は、その別名のとおり、〈魔法〉と呼ばれる独特の技術を持っていたと言われている。〈魔法〉の正体はまだわかっていないが、ひと晩で大地を隆起させ、山を築いただとか、天の星をひとつ降ろし、宝石として所有したというような、現代では考えられないほどの強大なちからだったと言われている。
そんなちからを持った王国が、なぜ滅びたのか……多くの伝承が同じことを述べている。イカルスという男が、ちからにおぼれて天に逆らったというのだ。ヒトの理に刃向かい、翼をまとって飛び立った彼は、その身を太陽のひかりに灼かれて、月の狂気のなかに閉じ込められたと聞いている。その異変のまえに天と地の理が書き換えられ、王国は海の底に没した。
ところで、イカルスのまとった翼はちりぢりになって、アルカディアの地に流星雨のように降り注いだという。その翼の断片が、いま星霊石と呼ばれているものだった。
「星霊石は、天空の星々と大地の岩石にたくわえられた旧きちからの結晶でもあります。アルカディアの十三神や、クレストの信仰は、そうした旧きちからの系譜を受け継ぐ、大切な教えだったはずなのです」
──ですが、〈イザークトの子ら〉はちがいます。
彼らは唯一絶対の神さまだけが真実であり、それ以外は神の名を騙るニセモノだと言いました。すなわち、悪魔だと。
彼らは言いました。──この世は悪魔のまちがった教えで満ちている。だが、神聖にして罪深きイザークトが預言を授かったことで、やがてまちがいは糾されよう。悪魔はことごとく駆逐され、神の再臨を約束しようではないか! と。
彼らはすでに帝国の奥深くまで根づいています。クレストの信仰はほぼすべて〈イザークトの子ら〉によって破壊され、礼拝堂に建て替えられました。
わたしはかろうじて難を逃れました。しかし、彼らは帝国を支配するのでは飽き足らず、アルカディアへの侵攻作戦を考えています。しかも、おりが悪く、今年はアルカディアで〈恩赦の大祭〉がある年ではありませんか。
彼らはアルカディアの信仰などまるで気にせず戦争を仕掛けるでしょう。そうなれば悲劇は繰り返されます。わたしはなんとしてもこのことをエレッセアやダルシアの人びとに伝え、旧きちからを護らねばなりません。
「……なるほどなぁ。ようやく事実がつながってきた、て感じか」とナザール。
「どういうことなの?」
「ちょっと待ってろ」
カレシンはそう言うと、部屋を離れる。
もの言いたげなアナベルを制して、ナザールは扉と窓を警戒し始めるが、何ごとも起こらぬうちにカレシンは戻ってきた。
その手には黒頭巾があった。
「まただ。連中、しつこくあんたのことを狙っているらしい」
ぞわり、と背筋が凍るものを、アナベルは感じた。