◆序章:空に恋した少年
トキワタリのように、飛びたい。
どこまでも、いつまでも。
そうねがったのがすべてのはじまりだ。
「──トキワタリ?」
トキワタリっていうのは、虚空を飛びつづける伝説の巨鳥のこと。
つばさをひろげたそのすがたは、天に流れる星の河にかかるほどで、いっかいの羽ばたきで月と太陽がまわると言われている。アルカディアに伝わる伝承によれば、かの鳥は神さまによって永遠を飛ぶよう運命づけられたのだという。
けれども少年があこがれたのは、そのことではない。
空だ。
どこまでも遠く、果てしなく、そして青い……
そんな空を、どんな鳥よりも高く、自由に飛びたかった。
それだけだ。
それだけなのに。
「ダメだ」
「罰当たりだ」
「できないことを考えるんじゃない」
あまつさえ、こんなことも言われた。
「天空をねがう、そりゃあ、バカのすることだ。賢いヤツは大地を見る。空ばかりながめてると、いつか足場を踏みはずして痛い目にあうってわかってるからさ。
……だから、いいか坊主。バカなこと考えてるヒマがあったら、さっさと土地を耕す手伝いでもするんだ。そのほうがみんなのためになる」
少年は反論する。
「土地を耕したって、退屈なだけさ」
──ああ、おまえはなにもわかっちゃいない。
男はひたいに手をあてて嘆いてみせると、少年にこう言ってやった。
「いいか。俺たちはヒトだ。鳥でも、ましてやトキワタリでもない。俺たちにつばさはあるのか? 俺たちは飛べるのか? ちがうね。飛ぶのは鳥の仕事さ。俺たちのすることじゃない。
みろ、その代わり、俺たちには二本の足がある。二本の腕がある。神さまが与えてくれたものさ。神さまはヒトにこの二本の腕と足でできることをしろ、と遠いむかしに教えてくださったんだ。それは決して飛ぶことじゃあ、ない」
──足は地面を踏んづける。
そして手先はいろんなものを創り出せる。
ならば、土地を耕すことは、神さまが俺たちヒトに与えた、立派な使命なのさ。てのひらにマメをつくりながら、汗をかいて足元を豊かにする。これこそ足を持ち、手を持ったヒトのもっとも大切な役割なんだ、と。
男は、そう言った。
「でも、だったら……」
──なんでヒトは空を見上げられるの?
どうして目は遠く高くまで見通せて、手はそこに伸ばすことができるの?
「そりゃ、おめえ、仕方のないことだ。生きてゆくのに目は必要だし、手だって必要なのさ。神さまだって万能じゃない。だが、そうした余計な、無駄なことを考えないために、よりだいじなことを考えるためにこのおつむはあるんだろうて」
とんとん、と指であたまをつつく。
しかし少年は納得しない。
「でも、だったら……」
男は、ああ、しつこい、と打ち切った。
──道理のわからねえヤツだ、いつか痛い目をみて、思い知ればいいのさ。分不相応のことを考えてると、神さまの罰があたるんだからな!
しかし、それでも少年は納得しなかった。
むしろくりかえし出される「神さま」という言葉に疑いを持った。
神さま、なんて本当にいるのだろうか。
どうやら神さまは空のてっぺんにいるらしい。だったら、ぼくのねがいは「神さま」のすがたを拝みたいとねがうのと同じことになる。
それはきっと不都合なことだろう。
誰に? 神さまを信じるヒトたちに。
当時、神さまはひとりとされていた。
神さまは天を統べ、地を統べ、ヒトを統べた。
だからヒトはヒトを統べる神さまに近づいてはいけない。王さまにあたまを下げなきゃいけないのと同じか、いやそれ以上にヒトは神さまを敬わなければならなかった。
ところで、ヒトは神さまを信じたが、動物たちは信じているようには見えなかった。だって、聖なるほこらや、神殿にささげられたお供え物を勝手に食べちゃうから。ほんとうに動物が神さまを信じてたら、そんな罰当たりなことはしなかっただろうに。
じゃあ、神さまってなんだ。
そこまでして信じたい神さま、て。
少年は疑問をいだいた。
それは許されざる問いだった。
けれども少年のねがいは強かった。
神さまを疑うまでに。
世界をすべて敵にまわすほどに。
この少年の名はイカルス。
やがて独力で天の極みに昇り、神さまの怒りを買って、王国を滅ぼしてしまう、罪深きものの名前だった。