第3話 お姉ちゃんができた!
どれくらい寝ているんだろう……僕はまだたぶん寝てる。
初めて使った神の御業。厳密に言えば2度目かもしれないけど。
夢の中で、よみがえる外道の熊との戦いと、その情報の数々。
まるで自分が倒した外道の熊になったかのごとく、その半生が走馬灯のように映像として映し出され、脳裏に刻まれてゆく。
敵だと思って戦いに臨んだ外道の熊。
神様が決めた理に背いた存在。
脳裏に刻まれた熊の半生は、とても悲しいものだった。
母親を目の前で罠に掛けられて殺されると、必死に逃げた。
まだ小さかった熊は、自分で満足に餌を取ることもできず、お腹をすかしていた。
母親を亡くした悲しみにくれながら、一人で森を彷徨う。
次の日にどこからともなくしてきたいい匂いに釣られるように、その方向を目指して歩く。
やがて、人間の声が聞こえ始めてきたころ、木の陰からこっそりと覗き込んだ。
そこでは、見たものは、無残に解体された母親が調理されている情景。
母親は、楽しそうに会話をする人間の胃袋におさまっていく。
映像は、次第に早送りをしたようにものすごいスピードで流れていく……
やがてあるシーンで映像は突然止まる。それは子熊が餓えに苦しみながら命の灯火をついに消すところ。
タスケテ……タ…ス…オマ……エニ……
映像に霞がかかったようになると、どこからかともなく声が聞こえてくる。
それは、母親を殺された子熊が神様の理を外れ、外道に落ちていくまでの物語。
子熊の悲しみが僕の心を覆っていく。
その後の夢は、難しい言葉が延々と羅列でよくわからないもの。
ずっと無条件に見させられるだけで、夢の中のはずなのに、なんだか気持ち悪くなった。
「アルくん……アルくん!」
遠くのほうで、僕の名前を呼ぶ声がする。とても安心する綺麗な声。
右手に心地よい温もりを感じると、僕をやさしく包んでくれる。
やがて覚醒していく意識の中で、僕はゆっくりと瞼を開けた。
最初に目に入ったのは《ドルダダのほとり》の客室の天井だった。
窓から入ってくる日差しは、午前中を感じさせるものだった。
そして視界の隅に少しだけ、ソフィアさんのおでこと綺麗な青い髪が入る。
「よかった……気がついたのね……」
僕をやさしく気づかってくれる声に、自然と心が安らいでいった。
そうしたら、僕のせいで攻撃を受けちゃったこととか、凄い辛そうな顔をしながら、必死に気づかってくれたこととか、いろんなことを思い出した。
それで、すごく悲しくなってきて、泣きはじめちゃったんだ。
それに僕の頬に流れる涙をやさしく拭うソフィアさんは、疲れた顔をしてたけど、微笑んでくれた。
ソフィアさんは、すごくやさしいから甘えたくなったんだと思う。
こんなやさしいお姉ちゃんがいたら、さみしくないのに……そう心の中でこっそり願う。
「ソフィアお姉ちゃん……ごめんなさい……グス……」
「アルくん。どうしちゃったの? ほら、泣かないの。もう大丈夫だから……ね」
そしたら僕の口からは勝手にお姉ちゃんって言葉がでてきた。
僕はまだボーっとしていると、おもむろに頬を撫でられる。
「アルくん。そんなに泣いてたら、ガールフレンドがたくさん心配しちゃうよ」
「…………」
「ガールフレンド?」
ソフィアさんの言葉に、何を言われているのかわからない僕はきょとんってした。
そうしたら、彼女の後ろからひょっこりと赤い髪のアリスがでてきて、指を唇に当てながら、心配そうに僕を見つめる。
「ちっちがうよー! アリスなんて僕に意地悪しかしないもん!」
僕は思わず叫ぶ。だってアリスはいつも意地悪ばっかりする女の子。
そんな彼女がガールフレンドなわけがない。
でも、アリスの顔は心配そうな顔は、みるみるうちに、赤くなり頬はふくれていった。
――ベチッ! っと僕の顔をタオルが覆うと、目の前が真っ暗になった。
「アルなんてだいっきらい!」
走って遠ざかる足音が聞こえたと思ったら、投げつけられたタオルがぺろって剥がれ落ちた。
「こらっ! アルくん……女の子にそういうこと言っちゃだめでしょ!」
「だって……」
呆れるように僕を諭すソフィアさんと客室に残されると、また睡魔が襲ってきて、気がついたら夕方だった。
* * *
起きてからが大変だった。
僕が神の御業を使って、外道の熊をやっつけたことを、村のみんなが知っていて、食堂に降りていったら、いきなりもみくちゃ。
やれ英雄だの、勇者だのと。村人たちの笑顔は、晴々としたものだ。
でも僕は母様との約束を破ってしまったことのほうが心配だった。
ひとつ、《神書》のことは大人になるまで、秘密にしていること。
ひとつ、困っている人がいたら、助けてあげること。
ひとつ、女の子にはやさしくすること。
それが母様との三つの約束。
膝を突いて、僕の目を真っ直ぐに見つめる母様。人差し指、中指、薬指を順番に立てていき、僕にそんな約束をさせた。
その真剣な母様の面差しが脳裏によみがえる。
そして、村人たちの祝賀ムードが盛り上がるほどに、逆に僕の気持ちはどんどん落ち込んでいった。
食堂の真ん中で浮かない顔をしていると、ソフィアさんが話しかけてくれた。
「アルくん? どうしたの?」
「なんでもない……」
「アルくん。まだ疲れてるのかな? なにしろ3日も寝たきりだったんだよ?」
「えっ? 僕、そんなに寝てたの?」
三日も寝っぱなしだったことに正直驚いた。
そういえば、行商の人とかソフィアさんの仲間の人とかがいない。
ソフィアさんだけ残ってくれたんだろうか。もしそうならすごい嬉しい。
「そうよ。だからみんなすごい心配してたんだよ。アリスちゃんもね」
ソフィアさんが、なんかアリスにこだわってくる。ほんとに関係ないのに。
僕はソフィアさんが残ってくれたのかが気になってるの!
「こら。アルくん。またアリスちゃんのこと悪く考えてたでしょ」
考えたことが顔に出ちゃったみたい。
アリスが、カウンター近くでこっちを見てるのに気づいて、顔を向けたらプイってされた。
だいたいアリスだって僕よりお姉ちゃんなんだから、いつも意地悪するのが悪いんだ。
「ほんとにどうしたの?」
「あの……ソフィアさんの仲間の人たちはどうしちゃったんですか?」
「あの人たちは、コスティスに行ったよ。それがどうかしたの?」
「それじゃあ、ソフィアさんだけ残ったの?」
「そうよ? なんで?」
「なんでもないです」
この時の僕は、すごく嬉しくて、すごいニコニコしてた。
お腹の辺りから、ぐわって嬉しい気持ちが湧き上がってきたもの。
そうしたら、母様との約束は、これっぽっちも頭から無くなっちゃった。
「それでね……アルくん……ちょっと話があるんだけど」
「なんですか?」
僕はニコニコしながら、ソフィアさんに聞き返した。
「アルくんの《神書》のことよ」
天国と地獄を行ったり来たり。
ソフィアさんの言葉に、母様との約束を思い出した僕の気持ちは一気にどよーんとしたものになった。
* * *
どうしてだか、ソフィアさんが僕んちにいる。
アル少年が外道の獣をやっつけた記念祝賀会が終了すると、
「じゃぁ、アルくんちにいこっか。もう私お金が全然ないんだ。アルくんちに泊めて」
ほらと言いながら財布を逆さに振ってアピールするソフィアさん。
その一言で連行されるように案内させられたわけだけど、すごい嬉しかったのはヒミツだ。
半年前からひとりぼっちの家に、かわいくて綺麗なお姉さんがくるんだもん。
それだけで、母様との約束は、また頭のどこかに行っちゃった。
そう……家に着くまでは……。
僕の家は、部屋が一つと広めのキッチン。それにトイレとお風呂しかない。
とりあえず、テーブルに掛けてもらってから、紅茶を用意した。
ちなみに僕は紅茶なんて飲まない。母様が飲んでいたものだ。
半年以上たってるけど、たぶん大丈夫だよね?
そんなことを考えながら、ソフィアさんの前にお茶を出した。
お茶菓子になるようなものは、さすがにないけど。
上手に淹れられたか少し不安だから、ソフィアさんが口をつけるのを、じっと見ながら待つ。
「なに? そんなじっと見られたら、恥ずかしいよ」
「いえ……上手に淹れられたかなと思って……」
「大丈夫だよ。おいしいから」
どうやら茶葉は平気みたい。でも彼女は、母様が使っていたティーカップをジロジロ見てた。
どうしたんだろう? なんか気になるみたい。
僕は、お盆を片付けてから、ソフィアさんの向かいに座った。
彼女は僕が座るのを見ると、おもむろにティーカップをテーブルに戻した。
「アルくん、早速なんだけど、帝都の学園にはいかないの?」
「…………」
絶対に《神書》のことを聞かれると思ってビクビクしてたのに、違うことを聞かれた。
いきなり学園とか言われても、僕には正直言ってよくわからないもの。
だからきょとんとしながら、首をかしげるだけなんだよね。
「あのね、アルくん。神様の祝福を受けた子たちは、みんな学校に行くの。それでね、お国の勉強したり、神の御業の練習をしたりするんだよ。それで卒業したら、神道騎士団に入ったり、神道術師団に入ったりするの」
「でも……僕は……」
「なにかまずいことあるの?」
「母様との約束があって……《神書》のことは、大人になるまで秘密にしなさいって」
「そうなのね……やっぱり《アテイール》様の加護を受けてるから? 背中の紋様がそうだったよね?」
僕は無言で肯いた。
僕が《アテイール》様からの加護を受けていることが知られると、悪いことに巻き込まれるかもしれない。
無闇に神の御業も使っちゃだめって。どんなものか知られてないから、それだけでも不審がられるって言っていた。
ソフィアさんは、僕をどうしたいんだろう? ひょっとしたら、悪い人なのかな?
「アルくん! 私のこと、悪い人だと思ってるでしょ?」
また顔にでちゃったみたい。そんな言葉にドキッとしてしまう。
ソフィアさんは、溜息をつくと、僕の顔をじーっと見てきた。
「…………」
無言で見つめられてしまうと、どんどん恥ずかしくなってきて、ついに下を向いちゃった。
ソフィアさんは、ひょっとして意地悪なのかな?
「アルくん。アルくん」
僕をやさしく呼ぶ声に、上目使いで顔を上げる。
テーブルに肘をついて僕を見るソフィアさんは、どう見ても僕をからかうような意地悪なお顔だ。
やっぱり、ソフィアさんは意地悪な人なんだ! 僕が恥ずかしがるところを見て、喜んでるんだ!
「僕は、もう寝ます!」
そう言って、寝室に逃げ込んだ。
急いでパジャマに着替えると、ベットの中にもぐりこむ。そして頭まですっぽりと布団を被った。
「…………」
でも、ソフィアさんのことが気になって、とても寝れたものじゃない。
ベットの中でもぞもぞしていたら、突然に布団をひっぺがされた。
「こらっ! 寝る前には、ちゃんとお風呂も歯も磨かないとだめでしょ?」
そのあと無理やり起こされて、一緒にお風呂にお湯を張ったり、歯を磨いたりした。
母様とは少し違うけど、ほんとのお姉ちゃんみたいで、楽しくて嬉しい。
「よし! じゃあ、次はお風呂行くよー」
「ぼっ僕だって、一人でお風呂ぐらい入れるよ!」
「なに恥ずかしがってるの? 子供はそんなこと気にしなくていいの!」
僕がもじもじとしていたら、そう言って無理やりパジャマを脱がされて、お風呂に連れて行かれた。
そうして僕は、ソフィアさんに、なすすべもなく、身体の隅々まで洗われちゃう。
ソフィアさんは、もちろんすっぽんぽんではない。身体にタオルを巻いていたよ。
「お姉ちゃんが肢体を洗ってる間に温まっててね」
そう言ってソフィアさんは、タオルを外しちゃった。
その時に、ちらっとだけ、わき腹の少し上に痣がついてるのが見えた。
たぶん、攻撃されたときにできた痣だ。
ソフィアさんの肌はとても白くて綺麗なのに、そこだけ青黒くなってるのが、とても痛々しい。
僕のせいでできた痣。今でもきっと痛いと思う。
悲しい気持ちになった僕は、ずっとお風呂の中で、目をつむってた。
少ししたら、身体を流す音が聞こえた。と、思ったら、今度はソフィアさんが湯船に入ってきて、僕の後ろに座るんだもん。
ソフィアさんに寄りかかるようになって、背中に当たるお胸の感触。やわらかくて気持ちがいいな。
そう思ったら、とても恥ずかしくなって、すごく緊張してきたんだ。
母様と一緒にお風呂に入っても、緊張することなんて無かったのに。
だからお風呂場でのことは、ちっとも覚えてない。
お風呂を上がって、身体を隅々まで拭かれて、パジャマ着せられて。
そうしたら、そのままベットに連れてかれて、一緒に布団をかぶる。
「ねぇ、アルくん……お姉ちゃん、悪い人かな?」
「ううん……」
「アルくんのお母さんって、どんなひとだったの?」
それから、母様のことを話したり、ソフィアさんのことを聞いたりした。
「お母さんとほかになにか約束してないの?」
「困ってる人を助けなさいっていうのと、女の子にはやさしくしなさいって」
「ふーん……じゃあ、アリスちゃんにもやさしくしないとだめね」
「だってアリスはいつも僕に意地悪するんだよ」
「ちゃんとアリスちゃんと仲直りしないと、お姉ちゃん、アルくんのこと嫌いになっちゃうかも」
「……やっぱり、ソフィアさんは意地悪だ……でも、どうしてそんなに僕にやさしくしてくれるの?」
「それはね……アルくんの力を利用して、成り上がるためよ」
「…………」
「ウソ! ウソだからね。だから、そんな瞳で見ないで! うーん……アルくんがかわいいからかな?」
「なんか、とってつけたような理由……」
「そんなことないよ! だから、そんな寂しそうなお顔しないの!」
「…………」
「……ソフィアさん、やっぱり身体は痛いの? 僕のせいで……おっきい痣ができてた」
「少し痛むけど、大丈夫だよ……そ・れ・よ・り・も。アルくん、お姉ちゃんの裸見たでしょ?」
「違うもん。湯気で見えなかったもん。だけど、怪我だけ見えちゃっただけだもん」
「ほら、お姉ちゃんは大丈夫だから、そんな悲しいお顔しないの」
「…………」
向かい合ってお話をしていると、やさしいお顔したり、意地悪なお顔したり、いろんなお顔をするソフィアさん。
そんなソフィアさんと一緒に居るだけで、僕のお胸は温かくなっていくの。
こんな人がお姉ちゃんになってくれたら、寂しくないのになって思ってしまうのに時間は掛からなかった。
そして僕は、もう我慢できなくなっちゃったんだ。
「……ねぇねぇ……ソフィアさんのこと……お姉ちゃんって呼んでいい?」
そうしたら、「おいで」って言われてやさしく抱きしめてくれた。
お姉ちゃんの抱擁は、とても温かくて、気持ちよくて。それにとてもいい匂いがして。
「お姉ちゃん……僕ね。一人ぼっちで寂しいの嫌だよ。ずっとお姉ちゃんと一緒に居たいよ……」
「アルくんは、甘えん坊さんだね」
そんなお姉ちゃんのやさしい声が聞こえたら、僕はいつのまにか眠りについていた。
一人ぼっちの僕に、お姉ちゃんができたとても大切な日になった。