上編
影法師の夜想曲
ひゅっと風を切って、黒いコートが夜空に舞う。
脚に内蔵された強化ダンパーは体を軽々とビルからビルへと、その身体を運んでいる。
「……………」
隣のビル屋上に無音で着地した人影は、溜息ともただの呼気とも取れない息を吐き、ビルの反対側の端まで歩いた。特殊な合成樹脂で造られた靴底はいっさいの足音を立てる事もなく、闇夜の中に無音の黒いコートの人影――不可視の存在として、そこに在った。コート自体も何かしかの細工がしてあるのか、光を吸い込み、その一角がまるで闇に飲み込まれたかのように暗い。
影は己の立つビルから眼下を見下ろす。
オフィス街の中で異彩を放つ邸宅に視線を向ける。
そこに住む老人が、今回の殺戮目標であった。
地球連合政府の大物と称される政治家だ。
影に与えられた任務は、この老人を殺害する事。
詳しいことは何一つ知らされていない。要するに、影の所属機関にとって、老人は邪魔な存在と判断され、失脚ではなく、その命脈を断つべき存在として判断されただろう。無論、影自身に恨みなどある訳がない。一面識もない老人を、機関にとって邪魔だという命令に従い、ただ殺すのみだ。
影は人を殺す為だけに存在する暗殺者
――名前も過去も存在しない、影法師。
目標は、窓のない部屋で、くつろいで見える。それはそうだろう。目標は自分が今から殺されるなどとは露とも思っていないだろう。それでも老政治家が窓のない部屋にいるのは、多少の危機意識を持っており、狙撃などを警戒してのことだろう。近頃は、火星独立運動や地球連合内部でのゴタゴタで政治家の屋敷が襲撃される事も珍しくない。リスクマネージャーなどといった職種があるのを聞いた事があるが、大方、そうした素人の助言に従っての行動なのであろう。
しかし、そんな事は無意味だ。
プロの目から見れば、差したる障害にすらならない。
"どうやって、窓のない部屋の老政治家の動きを認識しているのか?″
極めて単純で、明確な説明。
影の目が特別製なだけ。
赤外線をはじめとするいくつかの不可視光線を照反射出来る仕様になっている機械瞳。ちょっとした意識の切り替えで、壁の向こうを見通す事すら可能であり、必要ならば鋼板すら透視する事が可能の瞳であり、視界を縦横三千二百のグリッドで区切って精度を高めることすら可能なのだ。
そう――影の体は機械で構成されていた。
最新テクノロジーの結晶。
脳や一部器官を除き、己を己とする肉体を持たぬ、機械人間――それが影なのだ。
それは、機関の助けなしには生きていけない身体。
だからこうして、生きる為に機関の言いなりに暗躍し、機関の言いなりに人を殺すのかもしれない。そんな風に思うこともあるが、しばらく思考し、微苦笑を浮かべる。
――無意味な言葉遊びと思って
ビルの屋上を強く蹴り、隣のビルの浄水タンクの上に着地。
無音。
音が全く立たない。そもそも意図して音を立てない限り、影は音を立てて移動することがない。
速やかな目標の排除を目的とする為に、影は滑るように移動する。無音の存在がビルとビルを飛び交う。どんなに地上の警備が厳重であっても、ビルを跳んで移動する存在までは、警備でカバーする事はできない。眼下では、巡回警備員らしき連中が幾人もいるようだが、それだけだ。障害に成りえない存在に思考を向けるの止め、己の任務に集中する。
己は所属する機関の実験体――今日まで己が生かしてもらえたのは、偏に暗殺技術が買われての事。
非公式の機械化兵士計画−−悪魔の実験機関トロン=リヴェスタが創造した強化義体素体18号。それが影に与えられた呼称。
そして素体には生まれと同時に、例外なく脳の中にチップを埋め込まれていた。紊乱防止と人体改造による脳の影響を調査する為に。そしてそのチップには、脳内で小さな爆発を起こす機能を持っていた。実験体の処理。極秘計画であらばこその常套手段。
死線に身を置き、命令には絶対服従。
命令の未遂は死を意味し、命令からの逃亡は死を意味し、命令の遂行以外の選択肢はない。
ゆえに素体の寿命は決まっている。成績が100点から減じて0点になる時、それが終焉の日。
任務の失敗で役立たずとして脳を焼かれるのか、あるいは任務途中の妨害で死ぬのか、もしくは必要とされない時まで任務を続けるか。
いずれにせよ、その終焉まで、素体は人を殺す。機関の道具として生き続ける。素体と機関は共存であり、また存在理由でもある故に、影は殺人に手を染め続ける。
これまでに50名近い人間を殺戮し果せた。目撃者は一人残らず、抹消する。
彼らは自分の存在を長える為の必要な犠牲でしかない。
そう、それだけの事だ。
ビルから飛び降り、裏手の通りから屋敷に向かい疾駆する。暗闇に溶け込んだ影を視認できる者などいない。彼の身体は機密性の高いステルス機能も備えているのだ。熱源探知などでも容易に探査できない。
そして屋敷の裏手の壁の前に立ち止まり、周囲に誰もいないのを確認し、壁の中へ侵入すべく行動を移そうとした瞬間――
「なんでぇ、まだガキじゃねぇか」
不意に通りの奥から声がした。
瞬転――腰元のナイフを抜き、構える。
声は暗闇から響いてくる。音紋探査を実行。前方8m地点に人型の波紋を感知。
「ステルスシートって云ってな、色々なセンサーの類をまとめて、アクティブ・パッシブ問わず無効化できるって触れ込みの開発主任の自信作らしいが――効果覿面ってところだな。あのオバサンが喜ぶ顔が見えるぜ」
バサリと漆黒の布が地面に落ちる。街灯を背景にスキンヘッドの大男のシルエットが浮かび上がる。その手には、長柄2mはあろう双刃の斧が納まっていた。
影は相手を見極めるべく、静かに腰を落とし、暗視モードへと視覚を移行させる。
年の頃は30前後、身長2m10cm、体重120キロ前後、その身に纏うは地球連合軍陸軍の正式軍装、襟元の階級章は曹長、装備は長柄の双刃斧を一本、腰元にコンバットナイフ、軍正式採用銃1丁。
軍用ライフルの所持は認めず。
脅威判定はCと判定されるも、己の勘はそれを否定する。
「そう邪険にすんなよ、ガキ。最近、連合政府のお偉方を狙っている連中がいるって話で、護衛紛いの仕事させられて、俺も機嫌が悪いんだ。今なら、命の保障はしてやる、降伏しな」
眼前に小山ほどの圧力で立つ巨漢の纏う剣呑な気配に、頬がヒリヒリ灼ける感覚。コイツは強い――と修羅場を潜り抜けてきた本能が訴えかける。理屈ではない。この巨漢は、靱い。
だが、己の役目を果たさなければならない。
それだけが己の存在理由。
それだけに、己は生きるのだから。
戦って死ぬか。
戦わずに死ぬか。
あるいは、戦い生き延びるか。
闘争に選択の余地はなく、僅かに結末にだけ、己の努力が反映される。
ならば。
ならば、殺すのみ。
巨漢の仲間は周囲にいない。
パッシブセンサーのみならず、己の本能がそう回答を出す。
「…………」
鋭敏に鋭角に。
何処までも自分を尖らせて行く様をイメージ――刃物をブラッシングするように。
切先をポリッシングするように。
己を刃とイメージする。
研ぎ澄まされた刃鋼。
地を断ち、天を断ち、我を絶ち、敵を絶つ――世界の全てを断ち切る刃。
殺せないモノなど存在しない。
世界の全てを演算可能な認識世界へと変転する。
0と1で構築された世界――屍骸と死骸と遺骸で造られた世界、血臭と死臭で埋め尽くされたバイナリコードの中から、影は、この世の誰よりも身近に死生の境界上に己を置く。
迅雷の抜き撃ち術、影の左腕に仕込まれたニードルガンが、巨漢に向けて発射される。