2話 崩壊の日
俺は今日も訓練をしよう、そう思った。
それが当たり前の日常であり、疑う理由などなかった。
そうして、楓のところへ向かった。
しかい、彼は珍しく険しい顔で立ち尽くしていた。
視線は俺を捉えていない。どこか、もっと遠くの景色を見つめているようだった。
「どうしたものか……いや、もう潮時か。
一緒に逃げられるか……いや、無理だな。せいぜい一時間。
早川に見つかれば、終わりだ」
低く、押し殺した声。
胸の奥がざわつく。
(どうしたんだ……楓?)
俺はとっさに声をかけた。
「楓さん、どうかしましたか」
声をかけると、楓はびくりと肩を震わせ、無理に平静を装った。
「……いや、なんでもない」
間が、一拍。
「そうだ。今からお使いを頼めるか」
早口だった。考え直す暇すら与えないように。
「俺が前に教えた小屋、覚えているな。
そこに箱がある。それを開けて、中に何が書いてあるか読んでくれ」
小屋はここから三キロほど離れている。
しかも、そこは――いつも「見るな」と言われていた場所だ。
なぜ今、だろう。
疑問は頭をかすめた。
楓には、今までさんざん世話になった。
今までの生活よりはるかにいい生活ができている。
だから、忠実に聞くべきではあるのだろう。
でも、今回ばかりは気がかりだ。
いつもと様子がおかしい。
「どうしたんですか。何か相談があるなら聞きますよ。」
「ああ、その答えはあの倉にある。行ってきてくれないか。」
どうして言えないのだろう。
言えない理由があるのだろうか。
いや、これでは押し問答だ。
楓も困る。
であれば従うほかない。
「……わかりました。行ってきます」
楓は一瞬、何かを言いかけて口を開き、ゆっくりと閉じた。
「ああ。気をつけてな」
その声は、ひどく優しかった。
振り返ると、楓はもうこちらを見ていなかった。
背中が妙に小さく見える。
この言葉が、俺と楓が交わした、最後の言葉だった。
羽田楓 視点
「行ったか……
じゃあ俺も、早川壮一――あいつとけりをつけないとな」
そう呟き、家のドアに手をかけた。
迷いはない。あるとすれば、それを切り捨てる作業だけだ。
向かったのは草原。
確信はないが、あいつなら堂々と姿を現さない。
奇襲を選ぶだろう。背後か死角か、あるいは――最初から照準に入れているかもしれない。
ここは視界が開け、隠れる場所も逃げ場も少ない。
だからこそ、俺にとっては戦いやすい。
大丈夫だ。
――たぶん、俺を先に狙う。
壮一は俺の強さを知っている。
光をいきなり殺して隙を作るような甘い真似はしない。
だから、まず俺だ。
その思考が終わる前、乾いた破裂音が空気を裂いた。
反射的に体が動く。
地面を蹴り、重心をずらす――だが、わずかに遅れた。
頬をかすめる熱。鋭い衝撃が血の感触となって伝わる。
「……やはり強いな、羽田楓。
旧四天王最強と言われるだけはある」
草原のどこかから、声だけが降ってくる。
「やめてくれ、壮一。
その呼び方は」
歯を食いしばる。
胸の奥に、嫌なざらつきが残る。
最悪な名誉だ。
俺がどれだけ多くを壊してきたかの証明なのだから。
「なあ、お前、まさか光を助けたくらいで罪が消えると思うか、散々殺しておいてなあ」
「ああ、そうだ。俺は多くの人を殺した。そしてその罪は地獄に行っても償えないだろう。
だが最後くらい、立派に生きる。それが俺の生きざまだ」
「そうかい。ただ、お前、俺に勝てると思ってるのか。特級の俺に。お前が死んだら次は光だ。
お前は立派に生きることすらかなわない」
「うるせえな。さっさと始めようぜ。お前にはイライラしてくる」
俺は構えた。
「ああ、俺もこんなところで時間を食っている暇はねえからな」
壮一も同時に構える。
草原は一瞬、静寂に包まれる。
広大な草原に二人しかいない。
その緊張は、絶対に入ってはいけない恐ろしさを孕んでいた。
俺は、瞬間的に銃を抜いた。
その銃弾はやつをかすめた。
その刹那。
視界が真っ白になった。
(投げつけたな、煙玉。やばいな逃げないと。)
俺は後方に逃げた。
直後その煙玉の中から六角が襲ってきた。
俺は後方に飛んだ。
であれば絶対によけることはできない。
容赦なく当たった六角が俺の腹部を打ち込んだ。
大量の血がとめどなくあふれていた。
止血しないと。
俺の体は、この六角によりかなりの痙攣をおこした。
しかし、それでも壮一は待ってなどくれない。
壮一は、俺のところに一直線に向かった。
その途中。
壮一の動きが一瞬歪んで見えた。
貧血だ。
これはまずい。
「さあ、至近距離で戦おうや。」
やつが持っているのはナイフ。
いや、ナイフだと思って関節技ということもありうる。
絶対に超至近距離に入れない。
「ああ、やろう。壮一。」
その瞬間。
あまたの金属音がこだました。
「いいね。羽田楓。お前はやっぱり強い。」
ただ、そんなことを言っているにも関わらず血を出しているのは俺だけ。
俺は、あいつのナイフ全てをさばききれず血しぶきが舞う。
やばいな、壮一やっぱり速い。
このままでは負ける。
俺は懐から銃を取り出した。
良しこれで持ち直しだ。
そして撃った。
いや、撃ったばずた。
ただ、その手にはもう銃がないのだ。
「そんな小細工きかねーよ。」
一歩遅れた。
ここで、このミスだ。
やばい迫られる。
すると、やつは俺の近く30cmのところに来た。
俺は、自身の言葉を思い出す。
「いいか、関節技の持ち手は、三〇センチ以内に潜り込ませてはいけない。」
死を悟る。
俺は最後のあがきでナイフを握り、壮一に斬りかかった。
「甘いぞ。」
だが、俺が動くより早く、刃が走った。
腕が裂ける。
(終わりだ。俺は、負ける。)
肩をつかまれ、視界が反転する。
背後に回られ、胴をがっしりと固められた。
次の瞬間、首に腕が回る。
ギシギシ。
骨がきしむ音が、頭の奥で響いた。
これで、終わりか。
ふと、血の繋がらない少年の背中が脳裏をよぎる。
走馬灯だ。
その人生だけは、確かに俺が生きていた。
生きる意味であり、
俺が存在した証だった。
(ああ、俺は最悪の人生を送ってきた。
数えきれないほど人を殺し、それでも何も感じなかった。
復讐だと、言い訳を並べてきた。
本当に、ごめん。
俺はもう死ぬ。
だから、せめて、せめて――光だけは助かってほしい。
なあ、光。
俺には家族がいる。息子もいる。
それでも、俺は思っている。
お前こそが、俺の本当の息子だ。
光。
幸せになれ。)
ボキ。
甲高い音とともに、世界が途切れた。
こうして
最悪の悪魔と罵られ、
四天王最強と呼ばれた上級極道――
羽田楓は、静かに息を引き取った。
岡山 光 視点
どうしたのだろう、楓は。
なぜ俺に、こんなお使いを頼んだのか。
そうこうしているうちに、倉に着いた。
その倉は不気味で、長いあいだ手入れをされていないのではないかとさえ思えた。
(ここで……いいんだよな)
俺は恐る恐る、中へ足を踏み入れた。
倉の中は暗く、今にも何か――お化けでも出てきそうな、そんな空気だった。
(なんで、こんなでかい倉なんか作ったんだろう)
中は、がらんとしていた。
本当に、何もない。
――ただ一つの箱を除いて。
本当に、「宝の持ち腐れ」とはこのことだと思った。
(たぶん、この箱だよな……。これ以外、考えられない)
周囲を見渡しても、それらしいものは他にない。
(よし……たぶんこれでいい。開けよう)
そうして箱を開けると、中にあったのは一通の手紙だった。
(なんだ、これ……ここに真実があるのか)
封筒の中には、ぎっしりと文字の詰まった便箋が、数枚入っていた。
俺は一瞬、怖くなった。
読むのをやめることもできたはずだ。
それなのに――好奇心からか、
俺は最後まで、読み切ってしまった。
「真実を話そう。
俺は金沢組の極道だ。
いや、正確には“だった”と言うべきかもしれない。
この手紙をお前が読んでいる頃、俺はもう生きていないだろう。
組を裏切った人間に、金沢組が報復をしないはずがないからな。
光。
お前は『金沢組』という名前に、聞き覚えがあるはずだ。
世間で最も恐ろしい極道組織の一つとして、必ず名前が挙がる。
それは誇張ではない。
むしろ、ここ数年で状況はさらに悪化した。
原因は、金沢悠哉が組を率いるようになったことだ。
それ自体は問題ではなかった。
だが、彼の側にいた二人が最悪だった。
一人は、早川壮一。
あいつは、ただ純粋に強い。
全盛期の俺であっても、
かすり傷一つ与えられずに負けた。
もう一人が、羽田竜。
あいつは“育てる”才能を持っている。
人を、極道として完成させる力だ。
実際、あいつの教えを受けた若い連中は、
異常な速度でのし上がっていった。
今、金沢組がしているのは、脱退者の粛清だ。
例外はない。
岡山――その姓は、金沢家の分家だったらしい。
つまり光、
お前の家族は……おそらく、金沢組に殺された。
今日まで、この家は見つからなかった。
だが、もう時間の問題だ。
ばれれば、次に狙われるのはお前だ。
だから俺は、お前の護衛をしていた。
来るとすれば、早川壮一だろう。
光。
お前は、綾瀬組に行け。
かくまってもらえるよう、話はすでにつけてある。
最後に、忠告だ。
絶対に、極道になるな。
俺がお前に稽古をつけたのは、
身を守るためだ。
決して、人を殺すためじゃない。
俺は復讐心から金沢組に入った。
そこにいれば、親の仇を討てると信じていた。
だが、俺が殺した三百人のほとんどは、
実行犯と“つながりがあった”だけの人間だった。
命令したわけでも、
直接手を下したわけでもない。
それを教えてくれたのは、
結婚したあとの妻だった。
気づいたときには、
もう戻れなかった。
俺の息子も同じだ。
羽田竜――
あいつは、金沢組に洗脳された。
俺と同じようにな。
だから、光。
お前だけは、そうなるな。
復讐は、何も生まない。
ああ、あと最後にこれだけは伝えたい。
お前は、今までの人生家族に虐げられてきたそうだったな。
だが俺は、俺だけはお前がどんな道を行こうと応援をするよ。
あの時のようにな。
幸せになってくれ光。」
手紙を読み終えたとき、
文字の上に、いくつもの雫が落ちていた。
いつから泣いていたのか、
自分でもわからなかった。
インクはにじみ、
ところどころ、読みにくくなっている。
そうか。
そういうことだったんだ。
俺の家族は、もういない。
まあ……それはよかった。
むしろ、せいせいしていた。
しかし――
俺をかばった楓は、殺された。
あの楓が。
胸の奥で、
何かが静かに崩れた。
音はしなかった。
ただ、確かに壊れた。
楓。
俺は、お前のことを許せない。
三百人だぞ。
三百人も殺しておいて、最悪だ。
俺を助けたくらいで、
そんな罪が消えるわけがない。
それでも――
俺は、楓がお前自身の手で
誰かを殺す姿を、見たことがなかった。
俺の前にいた楓は、
いつも落ち着いていて、
頼れて、
普通の食事と、当たり前の愛情をくれて、
まるで、父親みたいな存在だった。
だから、こうして紙の上で
過去を突きつけられても、
俺はまだ、
楓と一緒にいた時間を否定しきれない。
正直に言う。
俺は、お前のことを、
かっこいいと思っていた。
……なのに。
金沢組は、羽田楓を殺した。
信じられなかった。
あんなに強かったのに。
いや、今でも信じられずにいる。
俺は、恨んだ。
猛烈に恨んだ。
なぜおれに相談しなかった。
相談したら、
いや、それでも、俺は足手まといだろう。
俺は、自分の無力さに立ちすくむ。
なぜ、神は俺から大事なものを奪う。
俺を不幸にさせたいのか。
復讐をしたい
金沢組に復讐をしたい。
「羽田楓。
もう俺は、普通の生活なんかできねえよ。
綾瀬組にかくまってもらって、
「はい、そうですか」なんて顔して生きていけるわけがないだろ。
一生、背後を気にして、びくびくしながら生きろっていうのか。
ふざけるな。
お前が殺されたんだ。
息子でもない俺に、普通の生活をくれたお前が、
それで復讐をしないなんて、できるわけがない。
なあ、楓。
お前は言ったな。復讐は何も生まないって。
でもよ、
強い奴に頭を下げて、
何を奪われても「仕方ない」で済ませて、
それでも生きろっていうのか。
そんなのは、生きてるんじゃない。
社会に削られて、感情を枯らした人間のすることだ。
俺は違う。
俺は、一縷の望みに賭ける。
金沢組当主――金沢悠哉を殺す。
お前の信念には、反するかもしれない。
でも、俺は俺だ。
俺は、やりたいことをやる。
この先、後悔するかもしれない。
地獄に落ちるかもしれない。
それでも――
何もしなかったら、俺は一生後悔する。
……ごめん、楓。」
俺は倉の中で高らかにそう宣言した。
この物語で描かれた出来事から、
一つだけ確かなことがある。
金沢組の中で、
早川壮一は別格の存在だ。
力だけを見れば、誰も並べない。
羽田楓もまた、
組の中枢を担う実力者であり、
彼が育てた者たちが、
今の金沢組を支えている。
――だが、それでも。
この物語の中心にいるのは、
圧倒的な強者ではない。
すべてを奪われ、
それでも生き残ってしまった
「光」という一人の少年だ。
彼がこれから何を選び、
誰と戦い、
どこへ向かうのか。
その行き着く先にあるのが、
金沢悠哉という男であることだけは、
もはや避けられない。
復讐は、何も生まない。
それでも人は、
進まざるを得ない時がある。
立志編終了。
次回の章はこの物語の核を決める重要な場面であるためかなり時間がかかります。




