表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おかえリ、知ラなイ娘

作者: 高和 洋耀



 俺の日常は、無数の配管と電気系統、そして鳴り止まない電話の音でできている。

 高木健一、40歳。ビル管理会社のマネージャー。俺たちの仕事は、巨大なビルの血管や神経を隅々まで把握し、それが千切れたり詰まったりしないよう、24時間365日、正常に動かし続けることだ。何事もなくて当たり前。感謝されることなど滅多にないが、ひとたびトラブルが起きれば、全ての責任が俺の肩にのしかかる。そういう仕事に、俺は誇りを持っていた。

「部長、第五系統の冷却水ポンプ、圧力が規定値を下回ってます!」 「慌てるな。まずバルブのB-7を閉鎖。サブ系統に切り替えて圧を維持しろ。俺は今から本社を出る」

 受話器を置き、ジャケットを掴む。今日もまた、家族との夕食は少し遅くなりそうだ。

 家に帰り着くと、いつもと同じ、味噌汁の優しい匂いがした。 「おかえりなさい、あなた」 エプロン姿の妻、美咲が迎えてくれる。34歳の彼女は、市役所で働くしっかり者だが、俺の前ではいつも穏やかに笑っている。

 リビングを覗くと、娘のひかりが部屋の隅で、床に座り込んで何かに夢中になっていた。背中を向け、小さな肩を揺らしながら、人形遊びでもしているようだ。 「ひかり、ただいま。何してるんだ?」 俺が声をかけると、ひかりはびくっと肩を揺らし、慌てて何かをスカートの下に隠した。そして、ゆっくりと振り返ると、いつもの天使のような笑顔を浮かべた。 「なんでもないよ!パパ、おかえりー!」

 小さな竜巻のように駆けてきて、俺のズボンにぎゅっと抱きついてくる。俺は(何をそんなに驚くんだ?)と一瞬思ったが、娘の満面の笑みに、そんな些細な疑問はすぐに消え去った。 「ひかり、ただいま。美咲、すまん、遅くなった」 「ううん、お疲れ様」 ひかりが「パパ、あとでみて!いっしょにあそぼ!」と俺を見上げる。 「ああ、後でな」 俺はそう言って、ひかりの頭をくしゃりとかき混ぜた。ひかりは「やくそくだよー」と言いながら、またリビングへ駆けていく。その背中を見ながら、美咲が少しだけ寂しそうな顔をしたのを、俺は見逃していた。

 風呂上がりのビールが、俺の唯一の癒やしだった。冷えた黄金色の液体が喉を通り過ぎる時だけ、俺はビルの神経系統図を頭から追い出すことができる。今日も一本、また一本と空き缶が増えていく。その横で、美咲が「飲み過ぎよ」と心配そうに呟く声が、少しだけ遠くに聞こえていた。



 数日後、その「当たり前」は、何の予告もなく終わりを告げた。

 担当している駅前ビルの大規模修繕で、致命的なトラブルが発生したのだ。俺は急遽、夜勤の現場指揮を執ることになった。ヘルメットの下で、じっとりと汗が滲む。

「高木さん、ダメです!予備電源に切り替わらない!」

「落ち着け!ヒューズは確認したか?Aブロックの配電盤をもう一度…」

 部下の切羽詰まった声に、冷静に指示を飛ばす。頭の中では、何百通りもの配線図が明滅していた。大丈夫だ、俺ならできる。この程度のトラブル、今まで何度も乗り越えてきた。そう思った、その時だった。

 ぐにゃり、と。

 世界が歪んだ。

 目の前の計器盤の数字が、まるで水に滲んだ絵の具のように流れ出す。立っているはずなのに、床がなくなったような感覚。強烈なめまいと、頭を内側から万力で締め付けられるような激痛が襲ってきた。

「あれ…?」

 声を出そうとしたが、口が動かない。部下の驚愕の顔が、やけにスローモーションで見える。まずい、と思った時にはもう遅かった。膝から力が抜け、俺の身体は、まるで糸の切れた人形のように、コンクリートの床へと崩れ落ちていった。

 最後に聞こえたのは、自分の名前を絶叫する部下の声だった。

 


 次に目を開けた時、目の前は白い霞にかかっていた。

 ツン、と鼻をつく消毒液の匂い。どうやら俺は、病院にいるらしい。

 身体を動かそうとしても、まるで分厚い水の中にいるように、何もかもが鈍い。思考に靄がかかったようだ。

「…あなた!…聞こえる!?」

 遠くで美咲の声がする。俺の名を呼んでいる。応えたいのに、声が出ない。

 必死に頷こうとした、その時。自分のすぐそばで、こくん、と頷くような小さな気配を感じた。俺が頷いたのか?それとも…。

「よかった…!」

 美咲の安堵した声が響く。「ひかりも、パパがわかったのね!偉かったね!」

(ひかりも、一緒にいてくれるのか…)

 俺が倒れて、心配をかけた。妻だけでなく、この小さな娘にも。申し訳なさで胸が詰まる。俺の意識は、再び深い霧の中へと沈んでいった。

 意識がはっきりしている時間が増えてきた。だが、身体の奇妙な感覚は消えない。視界が妙に低い。ベッドから周りを見渡すと、何もかもがやけに大きく見える。自分の手足も、まるで子供のものみたいに小さく、頼りなく感じる。

 ある日、医者が美咲に説明しているのが、ベッドの向こうから聞こえてきた。

「…脳へのダメージで、一時的に空間認識能力に異常をきたすことがあります。自分の身体が小さく感じたり、周りの物が大きく見えたり…。いわゆる『不思議の国のアリス症候群』に近い症状です。言葉がうまく出てこないのも、失語症の一種でしょう。焦らず、ゆっくりリハビリしていきましょう」

(そういうことか…)

 専門家の言葉は、ストンと胸に落ちた。俺のこの奇妙な感覚は、病気のせいなんだ。原因が分かれば、あとは戦うだけだ。俺は、そう固く信じた。

 


 多くの人に支えられながら、どうにか家に帰り着いた。退院の日の記憶は、人の顔や車の光が入り乱れ、あまりはっきりしない。

 俺が寝かされているのは、いつもの寝室ではなかった。リビングの一角に作られた、真新しい介護用のベッドの上だ。窓から光が差し込み、穏やかな空間だったが、俺の心は鉛のように重かった。

 食事の時間、美咲がお粥を運んできた。

「はい、あーんして」

 子供に言い聞かせるような口調。

 屈辱だった。40にもなって、妻に飯を食わせてもらうのか。俺は悔しさを押し殺し、おとなしく口を開けた。出てくる言葉は、相変わらず意味をなさなかったが、美咲は「美味しい?」と優しく微笑むだけだった。

 時々、美咲は誰もいないはずの隣の寝室に向かって、ふと話しかけることがあった。

「あなた、今日は天気がいいわよ」

「さっき、会社の方がお見舞いにいらしたわ。みんな、あなたのこと心配してる」

 俺は、胸がざわつくのを感じた。

(幻聴か…?いや、違う)

 妻は、俺が倒れたショックで少しおかしくなってしまったのかもしれない。俺という存在がすぐそばにいるのに、誰もいない空間に話しかけるなんて。

 俺がしっかりしなければ。

 この無様な身体でも、俺がこの家の大黒柱なんだ。

 そう思うことで、俺はかろうじて自分を保っていた。リハビリと称して渡される積み木や粘土にも、指先の訓練だと信じて、真剣に取り組んだ。

 全ては、元の日常を取り戻すため。

 俺は、この果てしない霧の中を、ただひたすら歩き続けていた。

 


 奇妙な療養生活が、季節の変わり目と同じくらいの速さで日常になっていった。

 俺の見る世界は、相変わらず低いままだった。リビングのテーブルは、見上げなければ天板が見えない壁のようだし、テレビの音は、子供向けのけたたましいアニメソングばかりが流れていた。

 美咲が作ってくれる食事は、決まって甘い味付けだった。ハンバーグ、オムライス、クリームシチュー。大好きだったはずの塩辛や、ピリ辛の麻婆豆腐が食卓に並ぶことは、もうなかった。

「病人の食事は、消化が良くて栄養があるものが一番だからね」

 美咲はそう言って、俺の口元にスプーンを運ぶ。その優しさが、俺のプライドを少しずつ、しかし確実に削り取っていった。

 ある日の午後、玄関のチャイムが鳴った。美咲に促されるままリビングで待っていると、見慣れた顔が神妙な面持ちで入ってきた。会社の部下、田村だった。

「部長…」

 田村は俺の姿をちらりと見ると、すぐに視線を外し、リビングの隣、夫婦の寝室のほうへ向かって深々と頭を下げた。

「部長、ご不在の間の件ですが、駅前ビルの修繕は、先日無事に完了いたしました。これもひとえに、部長が倒れる直前まで的確なご指示をくださったおかげです。本当に、ありがとうございました」

 田村は、誰もいないはずの寝室に向かって、滔々と業務報告を始めた。俺は、ここにいるのに。その報告を受けるべき本人は、ここにいるというのに。

 報告を終えた田村は、ようやく俺のほうを向くと、困ったような、哀れむような目で笑った。

「お嬢ちゃんも、パパがいなくて寂しいだろうけど、早く元気になるように応援してあげてね」

 そう言って、俺の頭を無遠慮に、ぽん、と撫でた。

(馬鹿者…!)

 俺は心の中で叫んだ。

(俺はここだ!貴様の上司だぞ!)

 だが、喉から漏れたのは「あ、うー」という不成者の音だけ。田村は「じゃあ、これで失礼します」と、もう一度寝室に頭を下げると、逃げるように帰っていった。

 美咲が、お茶を差し出しながら言う。

「あなた、よかったわね。田村さん、あなたのこと、すごく尊敬してるのよ」

 俺は、もう何も考えられなかった。

 俺の病状は、俺が思うよりずっと深刻で、もはや一人の人間として扱われてすらいないのかもしれない。

 その日から、俺はリハビリと称される積み木遊びに、前にも増して無心で取り組むようになった。何かを考えてしまえば、心が壊れてしまいそうだったからだ。

 


 静かな午後だった。

 美咲は「すぐに戻るから」と言い残し、買い物に出かけている。家の中には、リビングで呆然と座る俺と、隣の寝室で眠り続ける「誰か」の気配だけがあった。

 喉が、カラカラに乾いていた。

 テーブルの上に、子供用のプラスチック製マグカップが置いてあるのが見えた。確か、中身はリンゴジュースだったはずだ。美咲はいつも、俺の手の届くところにそれを置いていく。

 手を伸ばす。だが、指先がうまく動かない。病気のせいで、簡単な動作さえおぼつかないのだ。指が滑り、マグカップがカラン、と乾いた音を立てて床に落ちた。

 中身のジュースが、フローリングの上に淡い黄色の水たまりを作った。

(また、やってしまった…)

 自己嫌悪がこみ上げる。美咲に、これ以上手間をかけさせるわけにはいかない。俺はベッドから這い降り、雑巾を探そうと、低い体勢で床に目をやった。

 その時だった。

 床に広がったジュースの水たまりに、何かが映っている。

 西日が差し込み、キラキラと光っている。

(…なんだ?)

 顔を近づける。

 水たまりに映っているのは、見慣れた40歳の自分の、疲れた顔ではなかった。

 そこに映っていたのは、おさげ髪を揺らし、不安そうに眉をひそめている、見知らぬ――いや、見知らぬはずがない、たった一人の愛する娘の顔だった。

「…………え?」

 時が、止まった。呼吸を忘れる。瞬きもできない。

 水たまりの中の少女が、俺の動きと完全にシンクロして、驚愕に目を見開いている。

 次の瞬間、脳内でダムが決壊したように、記憶の断片が濁流となって溢れ出した。

 ――病院で、美咲は俺(の身体)を見て「あなた!」と叫んでいた。横にいた俺(娘の身体)のことなど見ていなかったじゃないか。

 ――視界が低いのも、手足が小さいのも、当たり前だ。俺は5歳の娘の身長で世界を見ていたんだ。

 ――「うまく話せない」んじゃない。「5歳児の語彙でしか話せない」んだ。

 ――部下の田村が俺を無視したんじゃない。俺が「ひかり」だったからだ。

 ――美咲が隣の部屋に話しかけていたのは、そこに「俺」がいたからか。

 パズルのピースがハマる音ではない。

 積み木がガラガラと崩れ落ちる音だった。

 俺が「俺の物語」だと思っていたものは、すべて、根底から、間違っていた。

 俺は誰だ?

 鏡に等しい水たまりの中の少女が、俺と同じように恐怖に顔を歪めている。

 俺は、この身体の持ち主は、誰だ?

 ひかり。俺の、たった一人の、愛する娘。

 その瞬間、絶望が、はっきりとした意味を持った。俺はただ奇妙な体験をしているんじゃない。

 俺は、娘の人生を乗っ取った侵略者だ。

 叫びたかった。だが、この小さな喉からほとばしったのは、「ひっ」という短い悲鳴だけだった。それは40歳の男の絶叫ではなく、迷子になった子供のか細い鳴き声だった。

 俺は、その小さな身体で、リビングの向こうで静かに眠る「自分自身」の気配を確かに感じた。そして、すべてを理解した。

 床に広がったジュースと、小さな膝から伝わる冷たさだけが、現実だった。

 涙が後から後から溢れて、床のジュースと混じり合っていく。俺は、ただ泣くことしかできなかった。


 7


 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。

 床に広がったジュースはとっくに冷え切り、涙は枯れ、残ったのは空っぽの虚無感だけだった。

 俺は、高木健一ではない。

 俺は、5歳の娘、ひかりの身体を乗っ取った、名もない何かだ。

 ゆっくりと顔を上げる。

 リビングの向こう、少しだけ開いた寝室のドアが見えた。あの向こうに、「俺」がいる。意識もなく、ただ呼吸だけを繰り返す、抜け殻の俺が。そして、そんな抜け殻を、妻の美咲は「あなた」と呼び、献身的に介護している。

 今まで感じていた全ての出来事が、刃となって心を抉った。

 美咲の優しさは、俺に向けられたものではなかった。

 部下の田村の哀れみも、俺に向けられたものではなかった。

 全ては、この身体の本来の持ち主である「ひかり」に向けられたものだ。

 俺に向けられていたのは、寝室の抜け殻に対する、儀式的な報告と、もはや人間扱いされていないという無言の侮蔑だけだったのだ。

「…ただいま」

 玄関のドアが開く音と、美咲の声。

 まずい、と思った。この顔を見られるわけにはいかない。俺は慌てて、袖でごしごしと顔を拭った。だが、5歳児の小さな袖では、絶望の跡を拭いきれるはずもなかった。

「ひかり?どうしたの、こんなところで…きゃっ、ジュース!」

 買い物袋を抱えた美咲が、俺の姿を見て駆け寄ってくる。

「転んじゃったの?怪我はない?」

 俺は、何も言えずに首を横に振るのが精一杯だった。

 美咲は、俺の顔をじっと覗き込んだ。その瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいる。初めて、真実を知ってから初めて、俺は妻の顔をまともに見た。

 彼女は、俺(ひかりの身体)を心配している。

 そして、その視線は時々、隣の寝室へと向けられ、そこには深い悲しみと、それでも消えない愛情が宿っていた。

 彼女は、二人分の心配と愛情で、とっくに張り裂けそうになっているのかもしれない。

「…怖い夢でも見た?」

 美咲はそう言うと、俺の小さな身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。

 温かい。母親の匂いがする。

 俺は、この温もりを、この匂いを、娘から奪ってしまったのだ。

「う…、あ…、ああああ…」

 こらえきれず、嗚咽が漏れた。美咲は「大丈夫、大丈夫よ。ママがここにいるからね」と、俺の背中を優しくさすり続ける。

 その優しさが、罪の意識となって、ただただ重くのしかかった。

 その夜、泣き疲れて眠ってしまった俺(ひかりの身体)の寝顔を見ながら、美咲は数日前の夜のことを思い出していた。 (そういえば、あの日もそうだった…) ふと目を覚ますと、ひかりがベッドの上に座って、じっと暗闇を見つめていたのだ。その姿は、まるで小さな石像のように動かない。 「ひかり…?どうしたの?」 声をかけると、ひかりはゆっくりと、ぎこちない動きで振り返り、にっこりと笑った。 「ママ、だいすき」 そう言うと、また何事もなかったかのようにベッドに横になり、すぐに寝息を立て始めた。 美咲は、その時のことを思い出し、そっと息を吐いた。(この子が不安定なのは、全部私のせいね…夫が倒れたせいだわ…)と自分を責めることで、胸の奥の小さな違和感に蓋をした。


 


 絶望に溺れていても、腹は減るし、夜は来る。

 その日から、俺の世界は完全に反転した。

 俺はもう、この家の主ではない。居候ですらない。俺は、この家族の幸せを内側から蝕む、病原菌のような存在だ。

 夜、ひかり用のベッドに横たわりながら、必死に考えた。

 なぜ、こんなことが起きた?

 事故?病気?それとも…。

 倒れた日のことを、何度も頭の中で再生する。

 駅前ビルでの夜勤。トラブル。部下たちの怒声。そして、意識が途切れる直前の、あの強烈なめまい。

 何か、特別なことはなかったか?

(…そういえば)

 ふと思い出した。

 あの駅前ビルが建つ前、あの土地には何があったか。古株の社員が、昔話として語っていたのを、ぼんやりと覚えている。

(確か、小さな神社の跡地だったか…)

 人々の往来から忘れ去られた、古い神を祀る社。再開発で取り壊されたが、何か良くない噂もあったような…。

 そして、もう一つ。

 倒れた日、俺の作業着のポケットには、ひかりが作ってくれた不格好なお守りが入っていた。色紙を折りたたみ、震える字で「ぱぱへ」と書かれた、小さな宝物。

 神社の跡地。娘の想いが込められたお守り。そして、俺の、家に帰りたいという強い想い。

 偶然が、いくつも重なり合って、ありえない奇跡を、あるいは最悪の悲劇を引き起こしてしまったというのか?

 答えは出ない。だが、俺は暗闇の中で、か細い光を見つけた気がした。

 もし、原因があるのなら。

 もし、何らかの法則が働いた結果だというのなら。

 元に戻る方法も、どこかにあるはずだ。

 その瞬間、俺の中で何かが決まった。

 泣いている暇はない。絶望している場合じゃない。

 俺は、ひかりの身体を借りている、ただの父親だ。

 娘に身体を返す。それまでは、何があってもこの身体を、この家族を守り抜く。

 眠り続ける俺の代わりに、何も知らない美咲を支える。

 それが、罪を犯した俺にできる、唯一の償いだ。

 父親として、夫として、今できることをやるしかない。

 俺の、人生で最も過酷な夜勤が、静かに始まった。

 


 決意はしたものの、5歳児の身体でできることなど、たかが知れている。

 俺の武器は何か?金もない。力もない。あるのは、40年分の知識と経験だけだ。

 数日後、最初のチャンスが訪れた。

 美咲が、キッチンの換気扇の下で困った顔をしていた。スイッチを入れても、「カラカラカラ…」と嫌な音がするだけで、うまく回らないのだ。

「まただわ…。大家さんに言わないと…」

 そう言って、美咲は諦めたように溜息をついた。

 俺は、その音を聞いてピンときた。ベアリングの摩耗か、あるいは内部に何か小さな異物が引っかかっている音だ。長年の経験がそう告げている。

 俺は美咲の足元に駆け寄り、彼女の服の裾をくい、と引っ張った。

「ママ」

「どうしたの、ひかり?」

「あっち、ぐるぐる、だめ」

 俺は換気扇を指差す。そして、おぼつかない言葉で、必死に伝えた。

「とんとん、して。よこっちょ、ねじ、ある」

 換気扇の側面にある、フィルターを固定している小さなネジ。あそこを一度緩めて、フィルターを軽く叩いてやれば、内部の異物が取れる可能性がある。

「え?ネジ…?」

 美咲はきょとんとしていたが、俺の必死の形相を見て、半信半疑で脚立を持ってきた。そして、俺が指差したネジを少し緩め、フィルターの側面を軽く叩いた。

 カコン、と小さな音を立てて、何かが落ちる。スイッチを入れると、換気扇は嘘のように静かな音で回り始めた。

「…直った。すごい、ひかり、どうしてわかったの?」

 美咲は、心底驚いた顔で俺を見下ろした。

 俺は、得意げに胸を張りたかったが、ぐっとこらえて、こう言った。

「パパ、いってたもん」

 嘘だ。だが、今はこう言うしかない。

 美咲は、一瞬、ハッとした顔をして、それから泣きそうな顔で笑った。

「そう…そうね。パパ、何でも知ってたものね。ひかり、教えてくれてありがとう」

 彼女は俺をぎゅっと抱きしめた。

 その温もりを感じながら、俺は固く誓った。

 俺は、ひかりの言葉と身体を借りて、父親であり続ける。

 元の身体に戻る、その日まで。


 10


 その日を境に、俺は「物知りなひかり」になった。

 俺が持つ唯一の武器は、この家の誰よりも、この家のことを知っているという事実だった。40年間、様々なビルや家屋のトラブルと向き合ってきた知識と経験だ。

「ママ、おふろ、なんかへん」

 風呂場で遊んでいる時、給湯器から聞こえる微かな作動音の異常に気づいた俺は、美咲にそう告げた。

「え?そう?」

「ぽこぽこ、いってる。あかいの、ぴかぴか、はやい」

 給湯パネルのエラーランプが、不規則に点滅している。素人が見過ごすような、ほんの僅かな異常。俺は、それが不完全燃焼の前兆である可能性を知っていた。

 美咲は、初めは半信半疑だったが、換気扇の一件があったためか、すぐに業者に連絡してくれた。やってきた作業員は、点検を終えると驚いた顔で言った。

「奥さん、よく気づきましたね。初期の燃焼異常です。放っておいたら、一酸化炭素中毒に繋がる可能性もありましたよ。本当に、間一髪でした」

 美咲は、血の気が引いた顔で俺を見た。俺は「えへへ」と、5歳児らしい笑顔を作って見せる。

 その夜、美咲は眠る俺(ひかりの身体)の髪を、何度も何度も優しく撫でていた。

 水道の水の出が悪い時は、蛇口のフィルターの詰まりを指摘した。テレビの映りが悪い時は、壁のアンテナ線の接触不良を見抜いた。俺は全ての理由を「パパが、いってたもん」「パパの、むずかしいほん、よんだの」という、たどたどしい言葉で説明した。

 美咲は、いつしか俺を「うちの小さなホームドクターさん」と呼ぶようになった。その響きには、困惑と、誇らしさと、そして夫を懐かしむような、切ない色が混じっていた。

 

11


 俺が「ひかり」として過ごす時間が増えるほど、奇妙なことが起きた。

 美咲が、よく笑うようになったのだ。

 以前は、眠る俺(夫の身体)の顔を見つめては、静かに涙を流していた。だが最近は、俺(ひかりの身体)と話している時に、ふと懐かしいものを見るような、穏やかな笑みを浮かべるようになった。

 ある日、彼女が古いアルバムをめくっていた。

「見て、ひかり。これ、パパとママが結婚した時の写真よ」

 写真の中では、少し緊張した面持ちの若い俺と、幸せそうに微笑む美咲が写っている。

「パパね、口下手で、不器用な人だったけど、すごく優しかったの。仕事のことばっかりだったけど、いつも私たちのこと、一番に考えてくれてた」

 俺は、その言葉に胸を突かれた。

(そうだったのか…?俺は、ちゃんと伝えられていたのか?)

 生きていた時には気づけなかった妻の想いを、俺は今、娘の身体を通して知っている。

「パパに、あいたいね」

 俺がそう呟くと、美咲はアルバムから顔を上げた。そして、まるで俺の心を見透かすように、まっすぐに俺の目を見て言った。

「ええ。でもね、不思議。最近、ひかりと話していると、すぐそばにパパがいるような気がするの。あなたの中に、パパが生きているみたい」

 心臓が、大きく跳ねた。

 気づかれたのか?いや、違う。これは、彼女の願望が生み出した、優しい幻想だ。

 俺はその幻想を壊さないように、ただ、にっこりと笑い返した。

 この歪んだ関係の中で、それでも妻が笑顔を取り戻してくれた。その事実が、苦しいほどの喜びとなって、俺の心を温めた。

 

12


 だが、喜びだけではなかった。俺には、逃れられない現実があった。

 幼稚園だ。

 40歳の精神を持つ俺が、5歳児たちに混じってお遊戯をし、砂場で泥団子を作る。それは、一種の拷問に近かった。

「ひかりちゃん、おしろ、じょうずね!」

「ひかりちゃん、このおはな、なんていうなまえ?」

 子供たちの純粋な賞賛が、罪悪感となって突き刺さる。俺は「ひかり」ではない。俺は、この子たちの友達である、本当のひかりの居場所を奪っている詐欺師だ。

 ある日、事件は起きた。

 友達の一人、たける君が、ジャングルジムの一番上から降りられなくなって泣き出したのだ。先生は他の子の対応で手が離せない。

 俺は、とっさに叫んでいた。

「たけるくん!した、みるな!うえの、あかいとこ、もて!」

「みぎあし、いま、のせたやつ、いっこした!」

「そう!じょうず!こわくない!」

 それは、現場で部下に指示を出す時の口調そのものだった。子供たちは、突然リーダーのように叫び出した俺を見て、きょとんとしている。俺は、我に返って顔を赤らめた。

 たける君は、俺の指示通りに、無事に下に降りることができた。先生は俺を褒めてくれたが、俺の心は晴れなかった。

 俺は、ひかりとして生きているんじゃない。ひかりの皮を被った、高木健一として生きているだけだ。

 このままではダメだ。

 ひかりが、本当のひかりが、帰る場所がなくなってしまう。

 焦りが、じりじりと胸を焼いていた。

 元の身体に戻る方法を、一刻も早く見つけなければ。

 タイムリミットが、すぐそこまで迫っているような、そんな予感がした。

 

13


 焦りは、静かに、しかし確実に俺の心を蝕んでいた。 幼稚園で「ひかりちゃん」と呼ばれるたびに、砂場で無邪気に笑う子供たちを見るたびに、俺は自分が取り返しのつかない罪を犯していることを痛感させられる。 ひかりの時間は、5歳の少女の、二度と戻らない大切な時間だ。俺がこうしている間にも、その時間は刻一刻と失われている。

 俺は、行動を起こさなければならない。 原因と思しき場所は分かっている。駅前の、あのビルだ。 あそこへ行けば、何かわかるかもしれない。元に戻るためのヒントが、きっとあるはずだ。

 問題は、どうやって行くかだ。5歳児が一人で行ける距離ではない。美咲に頼むしかないが、何と言えばいい?

 俺は、数少ない記憶の引き出しを必死にかき回した。そうだ、確か、ビルが完成した直後、物珍しさもあって、ひかりを連れて展望台に上ったことがあった。ひかりは、眼下を走る電車を飽きずに眺めていたはずだ。

 これだ、と思った。 俺は、美咲が洗濯物を畳んでいるそばへ行き、服の裾を引っ張った。 「ママ、おねがい、あるの」 「なあに、ひかり」 「あのね、パパと、まえにいったとこ、いきたいな」 「パパと行ったところ?」 「うん。でんしゃが、いっぱいみえるとこ。たかーいとこ」

 俺の言葉に、美咲は手を止め、少し寂しそうに笑った。 「駅前のビルね。覚えてるの?えらいわね」 「うん、いきたいな。おねがい」 「そうね…。でも、また今度にしましょうね。パパのこともあるし…」

 美咲の言葉が、不意に途切れた。 けたたましく鳴り響いた電話の着信音のせいだった。ディスプレイを見た美咲の顔が、さっと青ざめる。病院からだった。

「…はい、美咲です。…え?…はい…すぐに、行きます!」

 電話を切った美咲の手は、小刻みに震えていた。 彼女は俺のほうを見ようともせず、ただ、うわ言のようにつぶやいた。

「パパの容態が、急に…」

 

14


 タイムリミット。 その言葉が、頭の中で警報のように鳴り響いた。

 病院に駆けつけると、医者から非情な現実を告げられた。眠り続ける俺(夫の身体)の、バイタルサインが、原因不明のまま急速に低下しているというのだ。 「様々な手を尽くしてはいますが、このままでは…もって、一週間かもしれません」

 魂の抜けた身体が、限界を迎えようとしている。 俺は、医者の言葉を聞きながら、直感的にそう理解した。 このままでは、俺の身体は死ぬ。そうなれば、ひかりの身体を乗っ取った俺だけが生き残り、本当のひかりは永遠に帰る場所を失う。それだけは、絶対にダメだ。

 美咲は、もう泣く力も残っていないようだった。ガラスの向こうで、様々なチューブに繋がれた夫の姿を、ただ呆然と見つめている。

 今しかない。 俺は、彼女の隣に立ち、その手を両手でぎゅっと握った。

「ママ」

 美咲は、虚ろな目で俺を見た。 「ひかり…ごめんね。ママ、今、ちょっと…」 「ママ、おねがい」

 俺は、彼女の目をまっすぐに見つめ、一言一句、はっきりと伝えた。 「えきまえのビル、いこう」 「…何言ってるの、ひかり。こんな時に…」 「いま、いかないと」 俺は、さらに強く手を握った。5歳児の力ではない、40歳の男の、必死の想いを込めて。

「いかないと、パパ、ほんとに、いなくなっちゃう…きがするの」

 それは、ただの子供のおねだりではなかった。 俺の瞳に宿る異様な光に、美咲は息を呑んだ。恐怖と、戸惑いと、そして、ありえないと知りながらも無視できない、切迫した何かが、俺の言葉にはあった。

 彼女は、しばらくの間、俺の顔と、ガラスの向こうの夫の顔を、交互に何度も見比べた。 追い詰められた人間は、時に、常識では考えられない選択をする。

「…わかったわ」

 長い沈黙の末、美咲は、何かにすがるような声でそう言った。 「行きましょう。ひかりの言う通りに、してみる。もう、ママには、何が正しいのかわからないから…」

 彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 俺たちは、まるで共犯者のように、固く手を握り合ったまま、病院の白い廊下を走り出した。目指す場所は、ただ一つ。

 全ての始まりであり、そして、終わりの場所になるかもしれない、あのビルへ。

 

15


 タクシーの車窓を、見慣れた街の景色が高速で過ぎていく。日曜の午後、平和な日常の象徴である家族連れやカップルの姿が、今の俺にはまるで異世界の出来事のように見えた。

 隣に座る美咲は、固く唇を結んだまま、一点を見つめている。彼女の心の中では、後悔と、ありえない奇跡への期待が、激しくせめぎ合っているに違いない。 (私は何をやってるんだろう。病院にいるべきなのに) (でも、もし、この子の言う通り、何かあるとしたら…) 彼女の張り詰めた横顔が、痛々しいほどに美しく見えた。

(間に合ってくれ…!)

 俺は心の中で叫びながら、ポケットを探る。もちろん、ひかりの服のポケットには何もない。だが、感覚として確かめる。倒れたあの日、俺の作業着のポケットに入っていた、ひかりがくれたお守りの感触を。

 やがて、巨大な駅前ビルが目の前にそびえ立った。俺たちの目的地だ。 美咲に手を引かれ、多くの人で賑わうエントランスを抜ける。この喧騒と、俺たちの目的との間の、途方もない断絶。

 俺は、記憶を頼りに、人の流れから外れた通路を指差した。 「ママ、あっち」 「え?」 「かぎ、いるとこ。エレベーター、ある」 俺が指したのは、関係者以外立ち入り禁止の札がかかった、業務用の通用口だった。 美咲は、俺の顔を驚愕の表情で見た。なぜ、5歳の娘が、こんな場所を知っているのか。彼女の目に、いよいよ俺の存在そのものへの畏れが宿り始めていた。

 だが、今の彼女に、立ち止まっている時間はない。美咲は警備員の姿がないことを確認すると、意を決して、その扉に手をかけた。幸いにも、鍵はかかっていなかった。

 

16


 ひやりとした空気と、機械油の匂い。そして、巨大な心臓の鼓動のように、低く響き渡る機械の唸り。 俺たちは、ビルの裏側、巨大な機械室が並ぶフロアにたどり着いていた。

 ここだ。 俺が倒れたのは、この冷たいコンクリートの上だ。 間違いない。この場所の空気が、空間が、俺の魂に直接語りかけてくるような気がした。

 俺は、部屋の中央まで歩いていくと、ぴたりと足を止めた。 「ママ」 俺は振り返り、美咲を見た。彼女は、この異様な光景を前に、青い顔で立ち尽くしている。 「ひかりのおまもり、もってる?」 「え…?」 「パパのふくのポケットに、はいってたやつ。びょういんから、もってきた?」

 美咲は、ハッとした顔で、持っていたトートバッグの中を探り始めた。彼女は、夫の遺品になるかもしれないものを、病院から引き取ってきていたのだ。やがて、彼女の震える指先が、一枚のくしゃくしゃになった色紙を見つけ出した。 震える字で「ぱぱへ」と書かれた、俺の宝物。

「これを…どうするの?」 「にぎって」 俺は、そのお守りを美咲の手から受け取ると、自分の小さな両手で強く握りしめた。そして、美咲に向き直る。

「ママも、いっしょに、ねがって」 「…何を?」 「『パパ、ひかりのところに、かえってきて』って」

 美咲の瞳が、大きく揺れた。 彼女はもう、目の前の存在が、ただの娘・ひかりではないことに、気づいているのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。

「お願い…!」 俺は、涙ながらに懇願した。 美咲の頬を、一筋の涙が伝う。彼女は、ゆっくりと頷くと、俺の小さな手を、彼女の大きな手で包み込むように握りしめた。

「パパ…」 彼女の、かすれた声が機械室に響く。 「ひかりのところに、私たちのところに、帰ってきて…!」

 俺も、心の中で絶叫した。 (ひかり、身体を返すぞ。父さんのところへ、帰ってこい!)

 その時、俺の身体ひかりの口から、小さな、しかしはっきとした声が漏れた。 「うん。『やっと』だね」

 その瞬間だった。 機械室の空気が、びりびりと振動した。お守りを握る俺たちの手を中心に、まばゆい光が生まれ、部屋中を満たしていく。 強いめまいに襲われ、俺の意識は急速に遠のいていった。 最後に見たのは、光の中で、泣きながら、それでも確かに微笑んでいる美咲の顔だった。

 

エピローグ


 次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、見慣れた病院の、白い天井だった。 俺は、ゆっくりと自分の手を見た。 大きくて、ごつごつした、見慣れた40歳の男の手だ。

 身体が、自分のものだとわかる。 奇跡は、起きたのだ。

 病室のドアが開き、美咲が入ってきた。彼女の後ろには、少し戸惑ったような顔をしながらも、ちゃんと5歳児の表情をしたひかりが、隠れるように立っていた。 俺たちの目が合う。ひかりは、少し恥ずかしそうに「…パパ」と呟いた。

「健一さん…!」 美咲が、俺の胸に飛び込んでくる。その温もりは、あの小さな身体で感じたものとは、まるで違っていた。

 数週間後、俺は退院した。 俺はもう、仕事のことばかり考える男ではなかった。定時に会社を出て、家族と食卓を囲む。その時間が、何よりも大切だと知ってしまったからだ。

 ひかりは、あの日の出来事を覚えていないようだった。ただ、「パパー、たいへんだったねー」と、他人事のように言うだけだった。俺は、子供には難しい記憶だったのだろうと、特に気にも留めなかった。

 ある週末の午後、俺たちは三人で公園を散歩していた。 美咲は幸せそうに笑い、ひかりは楽しそうに駆け回っている。これ以上ないほど完璧な日曜日。失いかけた日常が、今、ここにある。

 ひかりが、俺のズボンを引っ張り、言った。 「パパ、だっこ!」

 俺は、喜んで彼女の小さな身体を抱き上げた。ずっしりと、心地よい重み。 「もう、絶対に離さない」 俺がそう言うと、ひかりは「ひかりもー」と言って、俺の首にぎゅっとしがみついた。

 その帰り道だった。 夕日が長く影を落とす中、俺はひかりを抱っこしたまま、美咲と並んで歩いていた。 「ひかり、今日は楽しかったか?」 俺が尋ねると、ひかりは俺の肩にこてん、と頭を乗せた。愛らしい、いつもの仕草だ。

 そして、俺の耳元にだけ聞こえるような、小さな、しかし氷のように冷たい声で、こう囁いた。

「うん。…あの『おじさん』、とってもながくいたから、ひかり、ちょっとたいくつだった」

 全身の血が、凍りついた。

 おじさん? 長くいた? たいくつだった?

 俺が娘の身体の中で、絶望し、苦しみ、家族のために戦っていたあの日々の全てを、この腕の中にいる「何か」は、まるでつまらない芝居でも見るように、すぐそばで観察していたというのか。

 ぞわり、と鳥肌が立つ。 腕の中の重みが、愛する娘のものではなく、得体の知れない異質なものに変わる。

 俺は、声も出せずに、隣を歩く美咲を見た。 彼女は、何も気づいていない。 「本当に、よかったわね。こうして三人に戻れて」 心からの笑顔で、そう言った。

 俺は、ゆっくりと視線を娘に戻す。 ひかりは、天使のような、無垢な笑顔を浮かべて、俺を見上げていた。 その瞳の奥が、夕日を受けて、底なしの闇のように、黒く、静かに光っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ