美しさを失った月
ようやく月面探査機は、月の裏側へと回り込もうとしていた。全世界の人々が、息を詰めてその映像を見守っている。いつも夜空に浮かぶ、あの穏やかで美しい白銀の表面とは一転して、裏側は漆黒の闇に沈んでいた。探査機の強力なスポットライトがその深淵を照らすと、暗闇の中で何かがスッと逃げるように動いた気がした。
探査機は慎重に、表面へと近づく。映像の端に、時折黒い揺らめきがかすかに現れては消える。そのたびに、世界中の視線がモニターに釘付けになった。
「何かがいる」――誰も口には出さないが、誰もがそう思い始めていた。
やがて、探査機は地球から最も遠い地点に到達し、その先を照らす。
その瞬間、映像は突如として激しく乱れた。砂嵐のようなノイズが画面を覆い、何が映っているのか判断できない。
だが、確かに“それ”は、そこにいた。
ギョロリ。
砂嵐の奥に、あり得ないほどの数の目が浮かび上がり、こちらを見ていた。
一つ一つの目が、静かに、冷たく、あらゆるものを見透かすように人々の視線を捉える。姿形は見えない。ただ、肌が、気配が、直感が、叫んでいる――「そこに“何か”がいる」と。
鳥肌と悪寒が全身を駆け巡る。しかし、誰も視線を外せない。
見続けるしかない。
視線を逸らせば、死ぬ――その確信が、人々の思考を支配していた。
やがて、探査機は何事もなかったかのように月の裏を離れた。映像は回復し、再び沈黙が戻った。
人々は絶句した。
そしてその日から、月を見上げる者はいなくなった。
静かに輝くはずのその白い円が、夜空にぽっかりと浮かんでいるだけで、ぞっとする。
あの裏側に、“それ”はいる。
じっと、ただ、こちらを見ている。
何をするわけでもなく――ただ、そこに存在するというだけで。
月はもう、美しいだけのものではない。
人類は知ってしまったのだ。
日々の空に浮かぶあの光が、闇の眼差しに貫かれているということを。