巻き戻り先の『聖女様』になる前の令嬢は
ちょっと短めです
「─────っ!!」
がばり、とイレネは飛び起きる。
ぜぇはぁと荒い呼吸を整えながら、慌てて周りを見渡した。そこは紛れもなく自分の部屋で、記憶がある頃から過ごした見覚えのある部屋。
「え……?」
嫌な夢を、見ていたらしい。汗がぐっしょりと滲み、手は微かに震えている。夢の内容の最後、自分がとんでもない目にあった、ような気がしていた。
「どうして、……わ、私、あんなとんでもないこと、でも、あ、あれ、ゆ、ゆ、……夢?」
つっかえながら、何とか出てくる言葉。どうしよう、でもあれは夢なんだ、どうにもできない。そうやって自分に言い聞かせながらゆっくり目を閉じ、再び開く。
次に大きく深呼吸をし、イレネはゆっくりと部屋を見渡した。
見慣れた調度品とイレネが好きな花が生けられた花瓶、誕生日に父からもらった大きな熊のぬいぐるみ、お気に入りの一人掛けソファ。どこまでも見慣れた景色なのに、何となく違和感があるのはどうしてだろう。
「嫌な、夢」
まるで自分に言い聞かせるようにして、また呟く。
口に出すが、喉の奥がべたついているような気持ち悪い感覚があった。
「みず……」
起き上がりベッド脇のサイドテーブルにあった水差しを取り、中身をグラスに注いで一口。
はふ、と息を吐いて自分が追体験をしたような夢を思い出そうとするが、あっという間に思い出せなくなっていることに気付いてあれ、と口に出る。
「思い出せ、ない?」
普段ならば夢の内容を少しだけ思い返して感傷に浸ることもできたのに、とイレネは首を傾げる。
とはいえ、先ほどの夢は飛び起きたあの瞬間を思い返せば寒気が襲ってくるほど。嫌悪感がとんでもなくて、寒気に追加して吐き気すらこみ上げてきてしまった。
自分はあんなこと望んだりしない、そう思うけれどそれが何に対してだったのかも思い出せなくなっていく。あんなことと、とは何なのか。そう考えることすら、それがどうしてなのか理解できなくなってしまったので考えることを一旦止めた。
その思いも行動も、何か大きな力に操られ、仕組まれたような感覚があるが、その感覚ですら溶けて消えていくのが、ほんの少しだけ、怖かったけれどそれも、もう、ない。
「……何だったのかしら」
はて、と首を傾げてイレネは手にしていたグラスに残っていた水を飲み干してベッドから降りる。もうすぐイレネ付きの侍女が身支度をするために来てくれるはずだ。
あれだけ感じていた違和感も、恐怖も、何もかも無くなってしまえば、あとはいつも通りの日常が始まる。
「お嬢様、失礼いたします」
コンコン、とノックがされる。
いつも通りの時間だ、と思いながらイレネは室内から『どうぞ入って』と声をかけた。
「おはようございます。あら、お嬢様、お水を?」
「起きた時に喉が渇いていたの」
「左様でございましたか」
イレネは、気持ち悪さから来ていた喉のべたつきのことすら忘れ、水を飲んだ理由を『喉が渇いていたから』と説明した。
ある意味正解で、ある意味ハズレなのだが何がどうなって、ということすら消え失せてしまっているから言った本人も、おかしなことだ、と思うわけがない。
「ねぇ、今日は何かある?」
「今日ですか?いつも通り、家庭教師の先生が来て……あ、そうだ。先ほど旦那様が何か仰っていたような……」
「お父様が?」
「はい。なんでも、お嬢様の婚約がどうとか……?」
「婚約?! え、あ、えっと……」
貴族の子女たるもの、早いうちから婚約者がいて何の問題もない。
家同士の関係性の強化などもあるが、親同士が仲が良く口約束をしていた、たまたま参加したお茶会で本人同士が出会って一目惚れをした、など理由はあれこれ様々。
イレネの場合、侯爵家令嬢であることからも婚約は早々に行う、と父から聞いていたがまさかこんなに早いとは、とぼんやり考えていると、侍女は嬉しそうに微笑んでいた。
「もしご婚約が叶うのであれば、こんなにも嬉しいことはございませんわ! 旦那様が考えてくださる婚約者様ですもの、きっと、素敵な方に違いありません!」
「あ、うん……」
未だ、実感は無いが『婚約』という単語に胸がふわふわとした感覚になる。
いつかやってくるであろう婚約者との顔合わせの日が、遠くない未来でありますように。そう願いながら身支度を整えてもらう。
そして、朝食を食べるために居間へと向かう。そこには既に父と母が着席していた。
「お父様、お母様、おはようございます」
「おはよう、イレネ」
「イレネ、おはよう。……あら、少し顔色が悪いようだけれど……大丈夫かしら?」
「え? えぇ、大丈夫ですわお母様」
両親に挨拶をしてから自分の定位置へと向かう。その最中、母に心配され、目に見えるほど顔色はよろしくなかったのだろうか、と思うが、母は一人娘であるイレネをとても可愛がり、過度なほどに心配をすることがある。きっと今回もそれだろうと考え、微笑んで安心させてみせた。
そうすると、母はほっとしたように笑ってくれるから。
「イレネ、もしも……だが」
こほん、と咳払いをした父が朝食を食べ始めたイレネに対して姿勢を改めて問いかけてくる。
「もしも、王子妃候補となりうるとしたら……どうする?」
「え?」
王子妃候補、という思いもよらない言葉に、イレネはぎょっとする。
日頃から淑女たれ、と教育を受けているイレネだが、さすがに突拍子が無さすぎて驚きに目を丸くした。
「そ、そんな、いきなり……」
「あぁ、まだ正式なものでは無いしどうなるかは分からないんだが……もしかしたら、ということがあるかもしれないんだ」
イレネの家、ハイス侯爵家は由緒正しき家柄。優秀な政務官を数多く排出しており、政治に携わる者として国に貢献していることから、少しずつ、着実に、ここまで己が実力で上り詰めた。
着実に功績を積み上げ、国王をはじめとした国の有力者からの信も厚い。
「あなた、王子妃……となると第二王子でいらっしゃるの?」
「いや、もしかしたら第一王子殿下かもしれない」
「でも……第一王子殿下は正妃様のご長男でいらっしゃるわ。それならば王太子妃候補、の方が……」
「う、む」
カディルはまだ王太子として内定していない。決めるのは国王だから、まだ『王太子妃候補』などと言ってはならない。
だが、迂闊なこともいえないためにイレネの父は困ったような顔をしている。
「お父様、ええと……はっきりと分からないのであれば、無理にお話いただかなくても」
「それもそうね……。けれどあなた、一体どうしてそんなお話を?」
「第一王子殿下の婚約者候補として、ローヴァイン公爵令嬢の名が出たんだが」
「まぁ、家柄を考えると当然ですわよね」
「何でも、目覚めたらしい」
あ、とイレネの母は小さく声をあげる。幼いイレネは何のことか分からないけれど、恐らく母がこうして驚いていることや父の神妙な顔から、恐らくとても大切なことなんだろうと予測をつけて、朝食を食べ進めていく。
【どうして!?】
「……?」
ふと朝食を食べる手を止め、周囲をきょろきょろと見渡すイレネに、侯爵夫人は少しだけ険しい顔になる。
「イレネ、お行儀が悪いですよ」
「あ……も、申し訳ありません、お母様」
今の声は何だったのだろう、とイレネは首を傾げるが、それっきり何も聞こえなくなったので気のせいだったのだろうと片付けてしまった。
巻き戻る前、その声の主とイレネの意識が混ざり合ったことで起こってしまった悲劇でもあり喜劇がやってくる。その前触れなどということには気付くはずもなかったのである。