あるべきものを、あるべき所へ①
かつて、聞きなれていた愛娘の声を聞いて、侯爵は愕然とするしかなかったのだ。
愛しい娘の声が聞けるだなんて、と侯爵は思った。それと同時に頭の中にかかっていたようなモヤが、すっと晴れたようなそんな気持ちになれた。
勿論、このイレネだって娘ではあるものの、何か違うという思いを抱けば、もうイレネのことを娘だなんて思えなかった。だからこそ、声がかぶさって聞こえるけれど、愛しい娘の声は聞き逃さない。
「あ、あぁ……っ」
「……お父さん」
『お父さん』と、侯爵を呼ぶその声は本来のイレネとそうではない者の声が混ざり合っているから、ノイズが走っているかのようなものは、とても聞き取りづらい。だが、混ざり合うふたつの声のはずなのに、耳に馴染むのは幼いソレだった。
「イレネ……、我らの……本当の、娘……!」
ぼろぼろと涙を零し始めた侯爵を見て、フェリシアは考える。
なるほど、つまり今体が成長して、その中身であるイレネ、という女はやはり本物ではないのか。『ゲーム』だとか何だとか、意味のわからないことを言ったり『ヒロイン』だとか『主人公』だとか言っていたのは、本来のイレネではなく、何らかの外部的要因……とはいえそれが一体何なのかはフェリシアには分からないけれど、何かが作用して本当のイレネを奥底にまで追いやって、出てこれないようにしてしまった『モノ』があるのか、と。
「(なるほどねぇ……)」
世の中には説明できない色々があると、本で読んで何となく知ったつもりになっていたが、こうして目の前で見てしまうとフェリシアとて納得せざるを得ない。
リルムやヴェルンハルト、ミシェルを始めとしたフェリシア側の人たちは言うまでもなく、カディルやヘンリック、イレネたち側の人たちまでもが唖然としている。
「何だよ……あれは……」
「聖女様の声なのに、どうして何かと混ざった声が聞こえるの……?」
「……まさか」
一人が疑いを持てば、それはあっという間に周りにも広がっていく。
ざわざわ、ひそひそと。
囁いていただけの声は、普通のボリュームの話し声へと変化していき、そうして、いつしか視線はカディルへと向けられていく。
「殿下……これを知っていた上で、貴方はこの聖女様を妃とすると、そう宣言したのですか……?」
カディルは、見事にやらかしていたのだ。
自分が王太子になるという宣言と同時に、『時の聖女』たるイレネを王太子妃にする。側妃はいらない、いたらロクなことにならない、だからイレネだけが我が最愛である、と国民に向けてつい最近発信したばかり。
それも、王宮のバルコニーからでかでかと。
「お、俺、は」
「知っていてやったのなら、貴方はとんでもないお人だ! 何てことをしてくれたんだ!」
「そうよ!」
「どうしてそんな悪魔をこの国の未来の王妃になど!」
「何が聖女だ!」
「悪魔じゃないか!!」
不満は膨れ上がり、伝染する。
フェリシアは、こうなるとはさすがに予想していなかった。ハイス侯爵夫妻のあの訴えが無ければ、フェリシアも己の命をかけてまでやろうとはしなかったこの行為だが、結果としてはやって大正解だったようだ。
見た目こそ己の娘だが、本来あるはずではない中身に対して、今、ハイス侯爵はとてつもない怒りを向けている。
「お、お父様、違うの、これは」
「お父さん、私だよ。イレネだよ」
イレネが叫ぼうとしたところで、本物の『イレネ』が遮って喋る。
幼い声は、少しずつ今のイレネの声と馴染んでいっているのだが、それでもほんの少しだけ違和感があった。
精神年齢があの閉鎖空間、いいや幽閉の場で成長していないのだと仮定した場合、幼さが僅かでも残っているのが本来のイレネの声なのだろう。
声が成長したとて分かりやすい差、これが偽物と本物の違いとでも言わんばかりに、見せつけてくるものだからカディルは焦りと恐怖に支配されていくことしかできなかった。
「この人、いきなり入ってきたの。嫌だ、もう、こんなの」
乗っ取り犯ともいうべきイレネは、恐らく慌てふためいているのだろうが、本来の体の持ち主たる『イレネ』が表に出てきてしまえば優先権はどちらに移るかなど、分かりきったこと。
「……なるほど、つまり貴女はよく分からない悪魔とも言えるべき存在に、乗っ取られていた、ということね?」
「そうよ」
「あなた、だぁれ?」
「ローヴァイン公爵家次期当主、と言えば分かる?」
フェリシアが問いかければ、イレネは頷く。
顔は引きつっているけれど、行動そのものを本来のイレネに制御されているから、成すがままに頷くことしかできないようだ。
何て無様な幕引きなのだろうか、と考えていたフェリシアだったが、本来のイレネは幼い頃に体を乗っ取られていたにも関わらず、フェリシアのことは知識として知っていたらしい。
「……聞いたことがあるわ。時を操る特別な能力を持っている、家」
「……そうよ」
そして、本来のイレネはとんでもなく頭の回転が速いらしい。
今こうして会話している様子は、幼子と会話しているなんていう印象はない。
……ああ、この人となら、王太子妃の座をきちんと争えたのかもしれない。イレネがこの少女を乗っ取って、おかしなことに巻き込まれなかったとしたら、もしかしたらいい友人になれたかもしれないのに……と考えたところで、フェリシアがハッと気づいた。
「ああ、いけない」
「……フェリシア様?」
侯爵が不思議そうにフェリシアに対して呼び掛ければ、心底申し訳なさそうにフェリシアは口を開いた。
「……あのイレネが、イレネだと思っていたから……寿命を使ってやり直していたの」
ああ、とハイス侯爵は頷いた。
フェリシアやベナットの力のことは聞いていたし、やり直しのことも彼ら夫妻を信じて話していたからこそ、今小声で真実を告げることにしたのだ。
乗っ取った方のイレネは何かを叫びたそうにしていたけれど、本来のイレネがおさえこんでいるからか、何も喋れないらしい。
「使ったのは……」
「そう、『イレネ』の寿命」
「……いや、こんな風になっているだなんて、その時は誰も分かりはしなかった……とはいえ……」
悔しい。
ハイス侯爵が絞り出すように発した言葉に、フェリシアも悔しい思いに襲われてしまう。
どうにかできないのだろうか、と必死に頭をフル回転させていると、リルムがそっとやってきて問いかけた。
「……フェリシア、吸い取ったものは分け与えることは出来ないの?」
「やったことがない上に、やり方が分からないけれど……やりましょうか」
「…………え?」
何でもないように告げたフェリシアの目は本気そのもので、ベナットを見てからフェリシアはフッと微笑んだ。
「ねぇお父さま、こんな力があるから驕ってしまう人が出てきてしまうのよ。……それなら、いっそのこと」
「……まぁ、お前ならばそう考えるだろうね」
仕方ないな、とでも言わんばかりに、ベナットは微笑んで近付いてきた。
「不可能って、わたくし嫌いです」
「奇遇だな、わたしもだ」
時属性の力を使える二人が揃っているという稀有な状況であるのならばこそ、試したいことができてしまったのだ。
それもこれも、この本物の『イレネ』を救いたいという思い。
「欲望のために振るうのではなく、誰かのために。……であれば、出来ないことなんてない。死んだ人を蘇らせることは出来ないけれど、イレネ嬢は死んでなんかいない。ただ、精神を幽閉されていたような状態だった」
「……本来いてはいけない妙な輩には、ご退場願おうか」
父と娘、二人の考えていることは同じだった。
ハイス侯爵のために。
本物のイレネのために。
あるべき存在を、あるべきところに戻す。
イレネの言っているエンディングの達成はできないし、本来の道筋や考えていたことからはだいぶ逸れてしまって、何もかもがめちゃくちゃになってしまうが、それは乗っ取った側のイレネや、彼女を妻にしようとしていたカディル、そんな二人を全面的に支持していた国王ヘンリックとその他大勢の都合の良いことしか信用していなかった貴族の面々。
だが、そんなものは知らない。見捨てる。
「でも、どうやりましょうか……」
「わたしはストックがまだあるが……フェリシアはどうだ?」
「ないんです」
「フェリシア様、わたしの……」
ハイス侯爵が『是非に』と手を上げにかかったが、それはいけないとフェリシアは首を横に振った。
だって、彼にはイレネと家族の時間を取り戻してもらわなければいけない。
「……ああ、そうだ」
フェリシアはすっと立ち上がって、ずんずんとヘンリックのところに歩いていく。
ぼんやりとこちらの様子を窺うだけだったヘンリックは、フェリシアがやってきたのを見て、びくりと体を震わせたが、お構いなしでフェリシアはそのまま彼のところに行って、おもむろに手を伸ばしてがっちりと両肩を掴み、告げた。
「陛下、こんなところでぼうっとしているお暇があるのであれば、エーリカ様との本当の意味でのお別れまでのお時間を大事になさいませ」
「……え」
「……ね?」
もうすぐ、ヘンリックの時間は尽きるのだから。
「そ、う……か?」
「はい」
愛する妻が死んでから、まともな思考ではないのだろう。
フェリシアの言っていることは理解していないまま、ヘンリックがふらりと部屋を出ていく。まるで操られているかのような、生気のない顔。エーリカを失ったことが堪えたのだろうと思うが、それ以上にフェリシアの言っている内容がきちんと理解できないままで謁見の間を出ていく様子は、『葬儀までの間、エーリカとの別れの時間を大切にしたいがために出ていった哀れな男』にしか見えなかった。
実際は、フェリシアがあまりにするりと吸い取ったものだから、思考能力も何もかも低下して、言われるがまま出ていった、というだけ。
しかしこれでとりあえず、余計な者がいなくなった。
「さて、あるべきところにお片付けいたしましょうね」
乗っ取り犯を追い出して、本来あるべきものを、あるべき場所に。
既に『時の聖女』と崇められていたイレネは、『悪魔』と罵られている。無理をしたところで何の問題もないし、何ならヴェルンハルトにお願いをして保護対象を増やしてもらえれば御の字。
「悪魔さん、どうぞ貴女はここから退散なさってくださいませ」
「……っ!」
一瞬、表情が引きつったイレネだが、すぐにそれは消えて本来のイレネが顔を覗かせる。
「悪魔を……追い出してくださいませね」
もしかしたら、見えているのは幻影なのかもしれない。
だが、フェリシアには見えるのだ。
幼いイレネが満面の笑顔で、大人のイレネに凶悪な笑顔でしがみついている様子が。




