乗っているのは、泥舟
よろりとヘンリックは立ち上がり、近衛兵を呼びつける。顔色は悪く、近衛兵がやってくるまで視線はエーリカにのみ向けられていたが、ひとつ、息を吐いてから気持ちを切り替えたのだろうか。のろのろと顔を上げて指示を出した。
「……エーリカを、移動させよ。彼女に……これ以上醜態を晒したくは、ない」
「は、はい!」
指示を聞いた数人が、エーリカに近寄って彼女の遺体を運んでいく。
これで、ようやく落ち着いて別室でエーリカは眠れるだろう。だが、ここまで言われなければ動けないとは誰が思うだろうか。
今までは全てベナットがヘンリックを助け、仮に後手に回ろうとも、過去に少しだけ時間を戻すことで全てきちんと対応できていた。
それを失った途端にここまで崩れるとは、とフェリシアもベナットも呆れてモノが言えなくなってしまった。
何が賢王か。
彼がどの口でエーリカを愛している、だなんて言えたのだろう。口先だけの甘い台詞は、演劇だけで良い。フェリシアだけでなく、フェリシア側の令嬢たちや夫人たち、揃って顔色を悪くし、嫌悪感を露わにしていた。
「……信じられないわ」
「王妃様、なんてお可哀想……!」
「あれだけ自慢していたご子息にも……見捨てられているようではないか……」
自分の話題が出てしまった、と慌ててカディルが周囲を見れば、ニヤついた顔で己の醜聞を嘲笑いながら見ている貴族が目に入った。
どうしてここまで言われなければならぬのだ、と叫んでみたところで自業自得なのだ。
「(くそ……っ!)」
カディルが悔しがったところで何かが変わるわけでもなければ、事態が好転するわけでもない。
まさか、こんなことになるとは思わなかった。
フェリシアを断罪し、死刑にしない代わりにこの国に縛り付けることで自分やイレネの補佐をさせておく、これで何もかも上手くいくはずだった。
フェリシアがこの国にいる限り、どうせリルムだってこの国にいるだろうから、リルムには王太子の仕事の補佐をさせる。これは国王である父から王命を使ってもらえば可能になるはずだ、とイレネと笑いながら話し合い、是非とも実現させようと二人で計画していたというのに、何もかもが台無しになってしまっている。
「お、おいイレネ、どうするんだ!」
「……私の、時の力を使います。そして、皆の動きを止めている間に殿下だけでもお逃げになって!」
「何だと!?」
「(茶番もいいところね……馬鹿馬鹿しいこと、この上ないわ)」
二人の会話なぞ、フェリシアたちには筒抜けである。
ひそひそと会話をするでもなく、堂々と脱走計画を二人で話しているのだから、聞く耳立てる必要などなくとも丸聞こえ。
ヘンリックはエーリカを失ってしまったショックで、しばらくは茫然自失のままだろう。いいや、また施政者として立ち上がれるのかどうかも不明だ。
今日のこの日のことを、エーリカの耳に入らないようにしていなかったことだけが、悔やまれて仕方ない。
いくら悔やんだところでエーリカは戻らない。弔ってやらなければならないのは承知の上だが、頭が回らない。
ヘンリックにも、イレネとカディルが何かを話しているのは聞こえているが、ぼたぼたと涙が溢れ、止まらない状態でまともに思考が働く訳もなく、一時的に気持ちを持ち直しただろうにまたもや暗い顔になっていた。
「(ベナット……何故助けてくれない……!)」
どうにかしてくれ、時を戻してくれ。
縋ってそう叫んでしまえば、どれだけ楽になれるのか。しかし、ベナットは何処吹く風で娘であるフェリシアを見守っている。
「……公爵」
それが、どうしても許せなかったヘンリックは、絞り出すように声を出した。
「はい、陛下」
「貴様……どうして何もせず、突っ立っているだけだ?」
憎しみを込めて問いかければ、はて、とベナットは微笑みまじりに答えた。
「何を、どうせよと」
「分かっているだろうが!」
言外にエーリカのことをどうにかしろ、と伝えたいらしいが、死人を甦らせるだなんて出来るわけが無い。出来たとしても、どうしてこんな奴のために労力を割いてやらねばならないのかも、意味がわからない。
丸ごと見限ると決めた以上は、こんな馬鹿に力を貸してやる気など、さらさらないのだから。
「陛下……何かを勘違いされていませんかな?」
「は……?」
「死人を甦らせるなど、どうやればできましょうか。突如、失われた人の時を戻せるというのであれば、わたしは……我が父に対してきっと、全てを投げ打ってでもそれを使った。まだまだ、学ぶべきことが沢山あったのだから。ですが、そんなものは出来るわけもない。それは単なる時間を巻き戻す、というだけではなく失われた魂すら、呼び戻さなければならないものだ」
滾々と語るベナットの言葉に、一切の嘘は無い。
死人を戻せるなら、それこそあちこちから懇願されているだろう。
寿命を奪うことはどうなのか、と問われればこう答える。
あるものを、使っただけだ。
奪いきって殺してはいない。
実際、エーリカの寿命だって、ギリギリまで吸い取りはしたけれど、トドメを刺したのはカディルとイレネの行動そのものである。
せめてカディルがもう少しまともであれば良かったのかもしれないが、彼はもうすっかりイレネを愛しているのだろう。彼女の言うことは何でも受け入れているようにしか見えない。
フェリシアは覚醒の時に祝詞を唱えた。
誰を救うのか。『己自身』を。
『もう、大切なものを見失わないように、父や母、一族を守り、悲劇を生み出さない』ために、力を使う。
「……ねぇ、聖女イレネ。問うわ」
こつ、とフェリシアの履いているヒールの音が、やけに大きく響いたような気がした。
ベナットもヘンリックも、カディルもイレネも、皆の視線がばっとフェリシアへと集まる。
「時の力って、時を止めるだけだと……思っていて?」
「あんた、何言ってるのよ」
「お前が使っていた、まがい物の力。それって、一種類しか力としては使えないんじゃないの?」
フェリシアの表情は、まるで『無』。
何を考えているのか読み取れず、イレネは訝しげな顔になってフェリシアをじっと睨みつける。
「何が言いたいのよ!?」
じわじわ襲い来るプレッシャーに耐えきれず、イレネはつい叫んでしまうがそれすら、貴族たちの格好の餌食となってしまうことに気付いていない様子だった。
「おやまぁ……」
「イレネ様ともあろうお人が……」
今はどちらが優勢なのか。
いくらヒロインの強制力が強いとは言えども、所詮は人。
面白そうなものがあればそちらへと流れてしまう。しかし、口ではこう言ってくれている、『我らはイレネ様の味方ですよ』と。
味方の定義付けから必要なのかもしれないか、今のイレネにそんなことを考える余裕なんて無かった。
「っ……早く、何が言いたいのか言いなさい!これは、王太子妃としての命令ですよ!」
「……まぁいいでしょう。あなた、時の聖女を名乗っている割には使えるのはたった一種類。時を止める、それだけ」
「で?」
「時を進めたり、戻したりはできないの?」
「…………は?」
フェリシアの言っている意味が、イレネには一瞬理解出来なかった。
そんなことまでも出来るなら、それは……。
「(悪魔……い、いいえ……そんなもの、まるで神様にも……)」
フェリシアも、ベナットも悠然とただ、微笑むのみ。
自分の手の甲に刻みつけた単なる傷跡ごときでは、本物に太刀打ちなんて出来るわけがないのに。
ここでようやく、イレネはあれ、と思う。
「(何で……私、掌じゃなくて、手の甲に刻んだの……?)」
攻略情報として持ち合わせているはずの情報と、己の行動が、何故だか一致しなかったのだ。
イレネは知っているはず。
刻印は手のひらに現れるのだ、と。しかし今のイレネは己の刻んだものを見て違和感しか覚えていない。
「あ、あれ……?」
ぐるぐると、まるで世界が回っているかのような錯覚にすら陥りそうになるのを必死に堪え、目の前のフェリシアに改めて視線を戻した。
「こく、いん、って」
「ええもちろん、ここにあるけれど?」
はいどうぞ、と幼子にするようにフェリシアは手のひらを見せる。
とても綺麗な形で、イレネの手の甲にあるものとは雲泥の差のそれに、一瞬見惚れてしまった。
「…………そこな聖女」
「!?」
ヴェルンハルトが、自分に対して話しかけてくれている、ということが嬉しく、イレネはぱっと顔を輝かせた。
考えることを一旦全て後回しにしてでも、今はヴェルンハルトの言葉に食いつかねば、とそちらにキラキラとした目を向けた。
「……聖女として、お前は何を、どうやって考え、日々活動しているのだ」
「何を、どうやって……?」
「我が国の聖女は、……そうだな。例えば、怪我人の治療のために戦場にも赴く。あとは魔物よけの結界を張り巡らせたり……あぁそれと、遠征に向かう騎士団員への祝福もお願いしている」
「…………え、ええ、と?」
「そなた、何が出来るのだ」
何が、と言われても……と、イレネは口ごもってしまった。
今はあくまで強制力が働いてくれるがままに、いい思いをしているだけに過ぎない。
時を止めてみせることで、聖女の奇跡だ!と騒がれて鼻高々になっているだけです、なんて口が裂けても言えるわけがない。
「そ、の」
「何ができる、ではないな」
にこり、とヴェルンハルトは口元だけを微笑みの形にしてみせる。
「指は美しく、髪も艶やかなまま。日焼けもしていない、きめも細かそうな白く、美しく滑らかな肌のように見える」
ヴェルンハルトが褒めてくれた! と顔を輝かせたイレネだったが、続いた言葉でびしり、と硬直しかできなくなった。
「我が国の聖女とは、大違いだ。あまりに綺麗すぎて、何もしていないちやほやされているだけの、道化のようだな。お前は」
「…………え?」
「フェリシア嬢は、我が国の兵士が大怪我を負い、治癒魔法では治すことが相当困難だと診断されたものでも、己を削り、治療してくれた」
「な、」
「リルムは、フェリシア嬢の助けになれば、と大量の救援物資と薬を提供してくれた」
「…………!?」
一体いつの間に、と聞こうとしても口が動こうとはしてくれない。ただ、ぱくぱくと金魚のように開け閉めすることしかできないまま、とどめを聞くことになってしまった。
「お前は血まみれになりながら、己が倒れそうになるほど疲弊してもなお、他の誰かを優先して動けるような、そんな『聖女』か?」
――そんなこと、できるわけがない。いいや、したくもない。まっぴらごめんだ。
素直にそう言えれば、ある意味良かったのかもしれない。
この長い沈黙が、ヴェルンハルトは『イレネでは到底できない』と判断してしまえる時間を与えたことになるとも、気付かないまま。
イレネはただただ、立ち尽くすことしかできなかった。
気のせいかもしれないけれど、足元にはぴしり、と亀裂が入ったような。そんな感覚にさえ陥るほど、イレネの顔色は悲惨なものになってしまったのである。




