崩れゆく未来
「まぁ、ヴェルンハルト殿下ったら。わたくしのことを『時の聖女』、だなんて……」
ほほほ、と少しだけ演技をするかのような笑い声を出しつつ柔らかな笑みを浮かべたフェリシアは、イレネをほんの少しだけ見て、すぐに視線をヴェルンハルトの方に元に戻して愉しそうに告げる。
「殿下、あちらにいらっしゃる我が国の『聖女』様が悲しんでしまわれますわ」
「あちら……はて?」
フェリシアの示す先にいるイレネを見て、ヴェルンハルトは首を傾げた。
「あれが?」
「はい」
「貴殿の国の、……聖女?」
「はい」
「はっはっは、一体どの辺りが聖女だと言うのだ?」
「全てですわ」
にこにこと、まるで場違いな程に微笑んでいるフェリシアと、珍獣か何か奇妙なモノを見たようなヴェルンハルトの短いやり取りに、周りは何も言うことが出来ず、ぼうっとして見ることしかできなかった。
フェリシアとヴェルンハルト、双方の距離がとても近いこともどうして、と聞きたいことのうちの一つなのに、ヴェルンハルトがイレネのことを『あれ』としか呼ばないのもまた、周囲にとっては『何故』なのだから。
「あ、ああ、あ、あれ、って……、し、失礼すぎるわ、私を何だと思っているのよ!」
「ヴェルンハルト殿下といえど、我が国の聖女に対してあまりにも失礼極まりないのではないか!?」
「……え、いやしかしだな……」
真っ赤になっているイレネと、怒りのままに反論してきたカディルから目を逸らさず、ぽりぽり、とヴェルンハルトは頬をかき、心底困ったようにへにゃ、と眉尻を下げた。
「威厳もクソも、本当に言葉通り何も無く、追加で教養も無さそうなそこの女が、何をどうして、……いいや、どういう判断をもってして、それが聖女だ、って初対面の俺がすぐさま理解できると思っているんだ。大体、聖女というのはもっとこう……神秘性があるものではないのか?」
「辛辣」
「いや、リルム殿下、実際そうだろう?」
「まぁ……その、えぇ……そう、ね……」
ヴェルンハルトの口が大層悪いのは仕方がないにしても、口を開けばありとあらゆる罵詈雑言がこれからも出てきてしまいそうな彼に、フェリシアは微笑みを返していて、リルムは『そろそろお黙りになってくださいな、ヴェルンハルト殿下』と小声で注意をしている。
一方、口を挟むことなく罵られたイレネはわなわなと震えているが、この場の誰も、イレネの味方であるはずの他の貴族たちも誰も彼もが、彼女を擁護してくれないことに激しい憤りを感じていた。
「(何よ……っ、続編の攻略キャラがこんなところで出てくるとかおかしいでしょ!? でも、今の私は彼と面識はない、だったら……!)」
思っていても言えないし、口に出そうものならイレネの正気が疑われてしまう。
なお、イレネはあくまで『今作』の主人公だから、『今作』の登場人物に対しては補正がきいているのだが、シナリオから逸脱してしまったイレギュラー、更には突如現れたヴェルンハルトにはそんな補正能力など何の意味もなかったのだ。
「ど、どなたかは存じませんが……あまりに酷いですわ!! 何てことを仰いますの!?」
「え?」
イレネがヴェルンハルトに対して文句を言おうと口を開けば、隣にいたカディルがいち早く反応し、みるみるうちに顔色を真っ青にしているではないか。国王であるヘンリックまでもが同じように顔色を悪くしているのを見て、イレネからは『あれ?』と間抜けな声が出てしまった。
「お前……王太子妃教育は、始まったんだよ、な?」
「は、い……」
「ならば何故、知っておかねばならないはずのあの方を知らない!」
「……え?」
ヤバい、と本能的に察したイレネはぱっと謝ろうと口を開いたのだが、カディルの言葉の方が早かった。少しだけ遅かった、と思っても後の祭りである。
「各国の要人、特に王位継承者に関してはしかと、名前も顔も覚えておけとあれほど口酸っぱく言われただろう!?」
さて、ここでイレネはようやく気付いたようだ。
ヴェルンハルトが次作の攻略対象であるのは一旦さておいて、彼は、『他国の』要人なのだから覚えておく必要があるのは当たり前のこと。
場合によっては相手の国の礼節を以て挨拶をすることが当たり前とされている中、あまりにも馬鹿丸出しのイレネの発言には、さすがに色々な人たちが顔色を悪くした。
「あぁ、いやなに構わんさ。どうせ俺はお前らのことを覚えたりはしない。俺がここに来たのは……」
ちらり、とヴェルンハルトの視線がリルムへと向いた。
「俺の花嫁になり得る人から、助けを求められた。それに応じてやってきた、それだけだ」
「…………は?」
「ま、まて、リルムお前何を勝手な……!」
間抜けなカディルの声に被せるように、ヘンリックはわなわなと震えているが、リルムは至って真剣に二人を見て口を開いた。
「勝手な、って……。王太女でなくなったわたくしの価値なぞ、他国に嫁ぐことくらいではありませんか」
「い、いや、それは、あの」
それでは困るのだ。
カディルと、イレネが。
「大体、そこの馬鹿がかつて王太子に内定せず、わたくしが王太女になったにも関わらず、陛下の身勝手な言い分と行動でその座を奪われ、今度はカディルが王太子に……って、到底納得できません。だから、助けてください、とヴェルンハルト様にお伝えしたまでのこと」
「そ、……そんな、こと……」
ああ、そうだ。心から困るだろう。
フェリシアのことも、文官資格を学生時代に取得してしまったミシェルのことも、その他有能な貴族たちも何もかも、国王として手放してはならないもの。
だが、今のリルムの話から予測するに、リルムが他国に嫁いだ場合……フェリシアたちはこぞって彼女についていくに違いない。
フェリシアたちが今の王家に大人しく仕えている最も大きな理由は、『リルムが王太女だったから』にすぎない。そも、フェリシアが忠誠を誓ったのは王家ではなくリルム。そんな友人につられて、ミシェルも一緒にリルムに対して忠誠を誓っている。
彼女らに追随する他の貴族たちも、リルムへと忠誠を誓っているから、カディルに対して何をどうやってお願いしたとて、忠誠を誓ってくれるはずなんかない。
「(まずい……!)」
……と、ヘンリックは心の内で叫んでいるのだろう、と予測して、フェリシアもリルムもほくそ笑む。
ヘンリックの考えることなど、彼と付き合いが長ければ長いほど手に取るように分かる。分かりやすすぎて笑えてくるようなものだが、あえて、フェリシアは問いかけた。
「陛下、突然にリルム様を王太女の座から引きずり下ろしたのです。つまり、それほどまでにカディル殿下が有能である、という証ではございませんか。そのように焦らずともよろしいのに……何か問題がありまして?」
ヘンリックが何かを言おうとて、口を開いて何かを言おうとしたのを素早く察知し、彼の言葉を遮るような形で、微笑みを浮かべたフェリシアに問われた。
その内容には、ヘンリックは何も言えない。
やらかしたのは事実だし、リルムはもう王太女、という立場で執務をしてはない。王太子に選ばれたのはカディル。出来不出来に関わらず、国王がそれを命じたのだ。
しかし、現実はどうなのか。
『カディル殿下では話にならないから』と泣きつきにきている家臣が、とても多い。だがリルムは、『手助けをしたいのは山々だが、王命により自分は王太女ではなくなったので、次期国王たるものの業務の補助なら出来はするが、補助ではない業務はできない。また、国王陛下がカディルを信頼し、王太子という立場……つまりは次期国王として自分の代わりに執務を任せられると判断したが故の、決定事項なのである。だから、その書類を持って是非とも、カディルのところに行ってくれ』と、リルムはとても丁寧に笑顔を浮かべ、やってくる彼らを拒絶しているのだ。
なお、リルムからのこの台詞を聞いた家臣たちから、あちこちで悲愴な声が上がったのだが、それを知ったカディルがとてつもなく怒り狂ったのは言うまでもない。
『何故自分に言いにこないのか、俺だって出来る』と豪語したものの、今のところ惨敗。貿易の相手国からはリルムと比較され、書類仕事もリルムより遅いから家臣たちががっくりと項垂れまくっているのが現状だ。
リルムが王太女のままであれば、何もかもが上手くいっていた。
フェリシア、もといローヴァイン公爵家も王家の味方で、フェリシアがしっかりとリルムに忠誠を誓っているからリルムが女王になってからの治世も落ち着いたものになり、ますます国が発展したことだろう。
──だが、カディルが王太子になったことで、そうはならないことが確定した。
「リルムが、ヴェルンハルト殿下に、嫁ぐ……だと。そ、そんな、馬鹿げた、ことが……あっては……」
「馬鹿げた、はて……。それはおかしなことだ。何をどうしたら、彼女の考えや行動に関して、そのような評価ができるというのか」
呆然と呟いたカディルの言葉を遮るようにして、ヴェルンハルトの声がよく通った。
「彼女ほど、自分の立場をよく理解し、身の振り方までをも考えている人はいないだろうな。どうせこの国にいてもお前の補佐として使い捨てられる、ならば、我が国に嫁ぎたい。助けてくれ……とのことだ。そして我が国で協議をした結果、彼女ならば正妃としての価値はあるという結論に達した。国同士の結びつきの強化にも繋がるこの婚姻を拒む明確な理由があるのであれば、是非とも聞かせてほしいものだな!」
「ぐ……!」
カディルが慌ててリルムを見れば、向けられたのは冷めきった視線。
カディルが王太子になったから、リルムは『王族』である己の身の振り方を考えただけのことであり、また、フェリシアから諸々を聞いてもいたから、この国の貴族との結婚なんて考えてなどいなかっただけのこと。
ローヴァイン家の誰かでも、という声が上がりかけたが、フェリシアが国ごと見捨てる気満々だったからリルムもそれに乗っかった。ちょうどいい協力者もいて、その人の婚約者探しに難航している、という情報だって仕入れていたから『じゃあ、わたくしとかいかが?』としれっと聞いたところ、ヴェルンハルトは嬉々として議会の議題の一つにして、反対はあったもののリルムとの婚姻を受け入れることが決定したのだ。
ちなみに、ヴェルンハルトの婚約者探しが難航していた最大の理由が、『かつて婚約者だった令嬢が病で亡くなり、その人以外は受け入れようともしなかったから』である。どうしてリルムを受け入れたのか、と問われれば、セイシェルから『いい加減皇太子としてきちんとなさいませお兄さま!』とビンタをくらったとか何とか。
その後、フェリシアたちのいる国にたまたまお忍びでやってきて、あれよあれよと話が進んで行ったのだから、タイミングとは何とも恐ろしいものだ、とはミシェル談。ちなみにミシェルは婚約の打診を受けてから断っている。ミシェルには既に相思相愛の婚約者がいたし、ヴェルンハルト自身が『そんな二人を引き裂くとか鬼か!』と叫んだからであるが。
それはさておき。
国のために動いた王女と、国のことをさほど考えずに行動した王太子。
どちらにつくのが良いか、と問われれば当たり前のごとく前者ではあるのだが、掌返しをしようとしてきた貴族を、リルムは決して受け入れようとはしない。
どうにかおべっかを使おうと口を開きかけた貴族を目ざとく発見したリルム、そしてヴェルンハルトは目線だけで何も言えなくしてしまった。何とも息ぴったりな二人である。
「……っ、お前……!」
ヘンリックは、とてつもなく不機嫌な様子を隠しもせず、ぎりり、と歯を食いしばって震える声で、しかしリルムを睨みつけながら言葉を絞り出した。
「であれば……これから、この国をどうする、気なのだ……!」
「どう、って」
あらあら、と可愛らしく首を傾げ、リルムはにこりと微笑んで口を開いた。
「これからも、陛下のお好きになさったらよろしいではございませんか」
「何だと!?」
「だって、陛下がとても己の気の向くままに、王位継承者をも代えたりして、好き勝手なさっているから……。ご自分の保身のようなことばかりしているから……」
すい、とリルムは床に倒れているままのエーリカを指さした。
「おばさまのことも、だーれも気にしない。医師も呼ばなければ、どこか別室へ移すことさえも、しない。そんな人に、何をどうやって期待すればよろしいの? 期待するだけ無駄ですし、カディルが王太子になったのだから、彼がわたくしのように何もかもきちんとすれば良いだけのお話ですわ」
リルムの言葉に、ヘンリックはその場にへたりと座り込んでしまった。
カディルも、イレネも、彼女らの味方であった貴族たちでさえも、呆然としていることしかできないまま、皆揃って立ち尽くしていたのだ。




