最後の仕上げ④
「わたくしの、大切なカディルにくっついている、……悪い虫……。……ふ、ふふ……そうよ、虫だから……早急に駆除しないといけないんだわ……」
ぶつぶつと呟き、ぎらぎらと血走った目でイレネを睨みつけながら、エーリカは目標へと近づいていく。
カディルのための、カディルの隣に立つべきはずの女性は、誰がなんと言おうとフェリシアの予定だったのに。あの艶やかで美しい髪に、王家に伝わるティアラをのせ、純白の特製のドレスを着てもらって、フェリシアとカディルが並んでいる姿はとても美しくて、絵画にもなるくらいのものなのに、と呟き続けている。
エーリカが思い描いた未来は、決してやってくることなんてない。
どれだけ『たられば』を言い続けた、いいや、願ってみたところで現実が変わらないのだから、その先である未来も変わらない。
カディルの隣にはイレネがいて、二人の結婚は確定しているから、エーリカがどう足掻いても決定事項は覆らない。しかし、エーリカは血走った目でイレネに近寄って、ばっと手を伸ばし、女性とは思えないほどの力でイレネの腕をぎちぎちと掴んだ。長い爪が衣服越しにぎりり、と食い込んでいくような感じがして、イレネは顔を顰める。
「や、やめて、ください、お義母様……! 痛い、です!」
「……は?」
イレネの発した単語は、エーリカにとっての特大の地雷でしかない。
こんな女に母などと呼ばれたくなんかないが、悲しきことにこれが『今』。目の前で繰り広げられる現実なのだ。皮肉にも、イレネの言葉がエーリカへと逃げられない現実を突きつけてしまった。
「お前が、……お前が、いるせいで!! そうよ、お前が出しゃばってきたから何もかも、カディルだって選び間違えたんだから、お前はいらないの!! ふざけないでちょうだい!! どの面下げてカディルの隣に立っているのよ!!」
エーリカのその発言は、カディルにも届いていた。
エーリカは、自分にとってかけがえのない、自慢の母であった。
美しさも、教養も兼ね備えており、審美眼も併せ持っている母であり、国母でもあるエーリカ。いつか、母を自由にするためにと、今回の王太子への復活の件も、王太子教育を改めて最初からやり直すということだって了承したのに、エーリカ自身がそれを全て台無しにしようとしているような行動を取っている。
「…………やめろ」
「お前のせいで、カディルはおかしくなったのよ!! 何もかもお前のせい!! お前ごとき、フェリシアに敵うはずもないことくらい、分かっているでしょう!? それとも何、身の程というものを知らないの!?」
「…………やめてくれ」
「何が聖女よ!! 疫病神の間違いではなくて!? この王家を滅ぼしでもしたいのかしら!?」
「やめてください母上!! もう、……っ、お願いだからやめてください!!」
カディルの必死な声も、頭に血が上り切っているエーリカには届かない。
イレネの腕を掴んだまま、しかも彼女の体を揺さぶりつつ叫んでいるから、エーリカの呼吸は段々上がってきている。
しかし悲しきかな、カディルの声はどうやってもエーリカには届かないようで、更なるもみ合いになりかねない様子の二人の間に割って入ろうと、必死でカディルは体を滑りこませようとしているのだが、火事場の馬鹿力を発揮しているエーリカを、引きはがせないままだった。
「母上!! お願いだ、もうこれ以上貴女の立場を悪くしてないでくれ!!」
「うるさい、お黙りなさいな!! お前も、こんな性悪に騙されないで頂戴!! 今まで学園でも公務でも一体何を学んできたの!! ああ、判断を明らかに間違えているというのに、そんな簡単なことにすら気が付かないだなんて、その鈍さは一体誰に似てしまったというのかしら!! ……ああ忌々しい!! 本当に嫌すぎて、我が子だというのに嫌悪感、いいえ吐き気すらやってきそうだわ!!」
「そ……そんな……っ、母上……!」
こうなってしまったエーリカを止められそうなのは、恐らくフェリシアだけだろう。
かつてエーリカが執着し、しかし、己を失脚させる原因となった公爵家令嬢。今やローヴァイン女公爵だと言っても過言ではない。
助けてくれ、と願いを込めてフェリシアを見てみたカディルは、ひやりとした何かを感じる。フェリシアの目には、特に、何の感情もこもっていない。
「……どうして、そんな、目で……」
呆然と呟いたカディルの言葉は、空気にするりと溶けた。
フェリシアはカディルの視線に気づいていないようで、とても小さくふぁ、と欠伸をしている。器用に隠しているので、他の貴族には見えていない。
じとりとフェリシアの方を見てくるカディルの視線が鬱陶しく感じ、リルムがフェリシアをつつく。
「ねぇフェリシア、カディルがこちらを見ているけれど」
「あら、そう」
「助けてあげないの?」
「だってリルム。もう少しなの、本当に」
そう告げて、フェリシアは懐中時計を取り出して時間を確認する。確認後は時計を仕舞い、心から興味がない、と言わんばかりの視線をカディル達へと向けている。
以前のエーリカを知っている貴族の面々は、『王妃殿下はこのような方だったか?』と、焦っているようだが、これが『エーリカ』だ。
公務の場では、決して見せることのなかった姿。きちんと隠しきっていた過去はどこへやら、今は醜いと言われようとも、『自分が願っていたことが叶わなかった』ことが嫌で仕方ないエーリカは、絶対に『是』とはしない。
発狂にも等しい暴れっぷりを披露しているエーリカだが、彼女を止められそうなフェリシアは、まだまだ動こうとはしない。だって、彼女はエーリカの自滅を誰より願っているのだから。手なんか貸してやるものか、と決めている。
「――もうすぐ、尽きるから」
ぽつり、と呟いてフェリシアはじっとエーリカを観察している。
もうそろそろか、と思いふとそちらを見ればカディルが縋る様に己を見ていることを確認したフェリシアは、こっそりと溜息を吐いて、次いで視線を移動させた。
「さて、そろそろ時間だから……看取って差し上げないと」
「……ああ、そうか」
納得したリルムは、ぽん、とフェリシアの肩へと手を置いて囁く。
「『吸った』?」
「ええ、でもこれはイレネに対してのやり返しに使うから、王妃殿下にはそのまま最期を迎えていただいて、まず一つ目のお片付けにしましょうね」
イレネとエーリカの取っ組み合いのような状態を見つつ、フェリシアがようやく一歩を踏み出した。
止めるためではなく、最期を看取るための行動ということは、フェリシアの協力者がきちんと理解している、だから、誰も何も言わない。
むしろ、イレネ側はフェリシアが動いたことで何をするのだろうか、と動けないまま見つめることしかできない。カディルだってそうだ。本当ならフェリシアに縋りつきに行きたいほどだが、どうしてか動けないままで、冷や汗を垂らしながら彼らの方にやってきているフェリシアを、ただじっと見守っている。
「フェリ、シア」
ああ、ようやく母を正気に戻してくれるのか、とカディルはほっとしていた。
そんなカディルをただ横目で見ただけで、フェリシアはするりとエーリカの元へと向かい、怒鳴り声をあげていたエーリカの腕に、そっと触れた。
「……王妃殿下」
たった、その一言で、エーリカはイレネに対しての興味が消え失せてしまったようにするりと手を離し、ゆっくりとフェリシアの方へと向く。
それまで怒鳴り、暴れていたエーリカはフェリシアにがばりと抱き着いてわんわんと泣き出してしまった。
「ああ……っ、フェリシア! フェリシアぁぁ……!!」
「王妃殿下、どうか、お気を確かに」
「ねぇ、どうして!? お願いだから貴女がまたカディルの婚約者になってしまえばいいことでしょう!? そうすれば、この王家も安泰なのだから!! ね、ねぇ!! そうしましょう!? フェリシアこそがこの国に必要な王太子妃たる存在で、わたくしだって――」
「……エーリカ様」
にこ、と場違いなほどに綺麗に微笑んだフェリシアは、エーリカを宥めようとぎゅっと抱き締めて優しく背を叩く。
すっと耳元に口を近づけて、エーリカにだけ聞こえるように囁き始めた。
「……馬鹿げたご提案、誠にありがとうございます。謹んで、お断り申し上げます」
「………………え?」
フェリシアに抱きしめられたことでエーリカの表情はぱっと明るくなったが、囁かれた内容に表情を凍り付かせている。フェリシアは、気にせずに言葉を続けていく。
「そもそも、最初に断った婚約を無理に推し進めようとした誰かさんの招いた結果、このような未来がやってきているというご自覚、ありまして?」
「わたくしは、いちばん、いい、みらい……を……」
「一番?」
ハッ、と鼻で笑ってからフェリシアは少しだけ体をずらして、真っすぐにエーリカを見据えた。
「ええ、これから貴女の愛して甘やかし放題だった暴君は、破滅していくの。わたくしにとっては確かに一番いい未来だわ」
「…………どうして」
こんなこと、と呆然と呟いたエーリカに、フェリシアはしっかりととどめを刺すことを忘れない。
「だって」
もう一度、フェリシアはぎゅうっとエーリカを抱き締めて耳元で低く囁いた。
「わたくし、貴女のことが」
「……っ」
「大嫌い、なんです」
なお、エーリカは何故かフェリシアは、自分自身のことを、絶対に好いているはずだと思っていた。
しかし、それはエーリカの一方的な思い込みでしかない。そもそも、かつて婚約を打診したときにしっかり丁寧に断られたというのに、フェリシアがエーリカを好いていると思い込んでいることは、ある種の妄想だった、としか言えない。
「なんで」
「何で、って」
「わたくしは、あなたのことをとても大切に……おも、って」
「ああ」
そういえば、と呟いてからエーリカ曰くの『大切に』という言葉を振り返る。お人形さんとしてただ綺麗だから置いておきたい、という身勝手な感情。
そんなものに付き合ってやる義理なんてないし、やはり今回もあのままいけばフェリシアをお人形さんとして傍に置いておく気満々だったんだろう、としか思えない。
言葉の端々に、それが滲んでいることが良く分かってしまうから、フェリシアは思わず楽しそうに言葉を続けていく。
「お人形さんとして、お飾りとして置いておきたかっただけじゃない。何て身勝手なんでしょうね、貴女」
「…………フェリシア、どうして」
フェリシアは、こんなこと言うはずがない。
フェリシアは、きっと自分を助けてくれるはずだと、そう聞いていたのにまさかリーリエに騙されたのか、とカッとなりかけた瞬間だった。
「……あ」
エーリカの目の前が、ぐにゃりと歪んだ。
周りの声が、どんどんと小さくなっていって、自分を抱き締めてくれているフェリシアの顔も、うまく見えない、ぼやけている。
「(どうして)」
そう思ったところで、ぷつり、とエーリカの意識が途切れ、かくりと首が後ろに垂れる。
「…………」
ああ、ようやく逝った。
茶番みたいなやりとりも、案外疲れるものだと淡々とフェリシアは思い、がばりとエーリカの体を抱き締めて大げさに叫んだ。しかしこれはあくまでパフォーマンスだが、イレネとカディル、ヘンリックに衝撃を与えるには十分だろう。
「――王妃殿下ぁぁぁぁぁ!! ああ、嫌です!! どうか、どうかお気を確かに!! 殿下!!」
フェリシアのその声に、今だとリーリエが駆け寄ってフェリシアに寄り添う。
そして、双方目配せをして頷き合って、フェリシアはそのまま泣きまねをすることに注力した。
「……っ、わたくし、王妃殿下に、落ち着いていただきたかった、それ、だけ、だったのに……! ああ……っ、エーリカ様、きっと……この状況があまりに耐えられなかったんだわ!!」
その一言で、ヘンリックの抱いた怒りの矛先は、見事、イレネとカディルへと向けられる。
しかし、イレネはこれで負けを認めるわけにはいかない。だめだ、不要なものを排除すればきっとまた国王たるヘンリックも自分に期待してくれる。カディルと二人で幸せになれるはずなんだ。
「(……っていうことを思っているんでしょうね。自分が後どれくらいそのままで居られるか、知らないくせに)」
――そう思うフェリシアの仄暗い笑みを、誰も、見ていない。




