最後の仕上げ③
そもそも、イレネとリルム。背負ってきているものの大きさが、根本的に異なっているということをイレネは理解していない。
今、カディルが王太子になり国務に携わるようになり、イレネも『時の聖女』としてでかでかと宣伝しながら王太子妃教育をどうにかこうにか行いつつ、補佐を複数人つけることでギリギリ及第点、というレベルで業務をこなしているという状況。
イレネの魔法にかかっている国民、そしてイレネの味方をする貴族などは『慣れていないのだから仕方ない』と、何とも微笑ましい様子で見ているのだが、周辺各国はそんなもの知ったことではない。
「い、っつ……」
だが、カディルもイレネもそれを理解はしていない。
頬を殴られてついうっかりすっころび、尻餅をついてしまったカディルに、イレネは慌てて駆け寄る。ベナットがかけた時止めが、ようやく効果が切れて動けるようになった、ということなのだが、イレネは『どうして動けなかったんだろう』くらいにしか思っていないのだろう。
「カディル様! ああっ……何てこと! この国の未来を背負い立つことになる、次期国王陛下への暴力だなんて、許されることではないわ!」
「……へぇ……国の未来を、ねぇ?」
リルムは一言だけ、そう告げて冷ややかな目を向ける。
その冷たさにギクリ、とイレネは顔を強張らせるがリルムは遠慮なんかしない。
「次期国王陛下は、国務を担うにしてはどうにもこうにも……要領がお悪いご様子。周辺各国から、わたくしへのお手紙に……色々と、書かれておりますわ」
「そ、それは! 俺は、王太子としてようやく執務を開始したばかりで、まだまだ初心者なんだぞ!」
「はぁ? 初心者、とかなんとか、まさか王家の人間ともあろうものが、こういう場で馬鹿みたいに主張しますの? 本当に頭が悪いこと……ふふっ」
軽蔑したように告げられた内容に、カディルは一気に顔を真っ赤にする。
――だって、事実だから。
カディルを王太子にして、数年も経過していないどころか、ほんの数か月しか経っていないにも関わらず、リルムの元に『あんな能無しが王太子で大丈夫か?』という内容の手紙が届いている。
リルムは簡潔に『国王陛下の御意思です』とだけ返事を書いて、対応しているのだが次はヘンリック宛てに国の未来を憂慮する手紙が届いているが、果たしてきちんと目を通しているのかどうか。
「わたくしが携わっていた業務から、わたくしは全て手を引いているので。引継ぎ用の資料も残しているけれど……ああそういえば、燃やした馬鹿がいたわね! 誰だったかしら?」
リルムは心底楽しそうに問いかければ、カディルの顔がこれでもかと強張っている。
「(ああ、その顔は誕生祭で見せた、王妃エーリカの醜い顔にとてもそっくり。こうやって見ると、あの王子は本当にエーリカ様にそっくりだこと)」
フェリシアは何も言わないまま、顎に手をやって至極楽しそうに見守っている。こんなはずではなかった、とイレネは思っているのだろうが、そもそも初期設定を崩したのは他でもないイレネなのだから、くるくると表情を変えて顔芸を披露しなくても……と思っているフェリシアだが、恐らくフェリシア側の人たちは揃って同じことを思っているのだろう。
「リルム……き、貴様……! 俺のことを馬鹿にするのもいい加減に!!」
「馬鹿を馬鹿にして何が悪いの? だってお前たち本物の馬鹿でしょう? 他に何か言いようがあるのかしら」
「ぐ」
「それに、王太子妃殿下も補佐を付けないと公務が成り立たない、だなんて我が国の恥でしかございませんわ。そこはご理解いただけて?」
「あ、貴女に関係ないでしょう!?」
イレネもカディルも、リルムからの指摘に顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
だが、リルムから出てくる言葉は全て真実が故に、イレネ側の人々は顔色を色々と変化させている。しかしリルム側……もとい、フェリシア側にいる人々はクスクスと楽しそうに笑っているだけ。
会場の隅にひっそりと気配を消して集合しているローヴァイン家の親戚筋の面々は、フェリシアやベナットのやり方に感心しているのか、にこにことしている。
ここでようやく、イレネはおかしい、と気付く。
「(……どうしてフェリシアについている奴がいるの……?)」
今もフェリシアは微笑みを絶やしてはいない。
面白い出し物を見ていたい、と言わんばかりにカディルとリルムを見守っているし、忙しく視線を動かしてミシェルを探す。
フェリシアと仲が良かったはずだ、と探し当てればミシェルはカディルとリルムの言い争いを、笑いをこらえながら見ている。
「(は!? どういうこと!?)」
口の動きがちゃんと読めるなら、きっとイレネはもっと憤慨しただろう。
だってミシェルはひとしきりこっそり笑い終えて、『はー面白い、馬鹿がめっちゃ吠えてる』と呟いていたのだ。それをフェリシアは読唇術で見て、にこにこと微笑ましく見ていた。
どくどくと、心臓の音がとてもうるさく感じる。
だって、ヒロインたる己を大切にしてくれないゲームの本編なんて、あるわけない。そう怒鳴ろうとしても、ここにいる人達は、自分がゲームの中の登場人物だなんて信じるわけがないだろう。
どうやってフェリシアに味方しているらしい連中を、自分の方に引き込んでやろうか。そう考えていた時だった。
ぎぎ、ともう一度謁見の間の扉が開いた。
「え……?」
「何だ! ここには今関係者以外入れてはならんと申し付け、て……」
イレネのぽかんとした声の直後に、謁見の間に入ってきた人物を見たヘンリックは目を見開いてはくはくと口を開け閉めした。
「陛下! カディル!」
「嘘、だろう……?」
カディルも、入ってきたその人を見て、驚いている。
それはそうだろう。
あの日、誕生祭の後に離宮へと移されて、隔離され続けていたのだから、ここに来れるはずがない。そもそも存在ごとうっかり頭の隅へと追いやっていたというのに、今、カディルもヘンリックも、思い出した。
「はは、うえ」
かつての輝きこそないけれど、美貌だけは未だ健在だった。
涙を零しながら、リーリエの手を振り払って謁見の間に入り、リルムと対峙しているカディルへと駆け寄ろうと足早に向かう。
だが、しばらく運動をまともにしていなかった。
「っ、あ!」
どさり、と転んでしまったエーリカに、真っ先に駆け寄ったのは他の誰でもないフェリシア。
「ああ……大丈夫ですか、王妃殿下」
「フェリシア……! 何て素敵な女性に……!」
「お褒めの言葉、ありがたくいただきます。お体は問題ございませんか? ……あの光景を見て、さぞや驚かれたでしょう。……ごめんなさい、わたくしはどうあってもカディル殿下の妃になどなれません。……だって」
事情を全て説明なんかしない、フェリシアがするのは今、ここにある現実だけをエーリカに教える。
そうすれば、己の息子を溺愛するエーリカのことだ。
やることなんて、簡単に想像できてしまう。
「カディル殿下の隣には、あちらのハイス侯爵家ご令嬢であるイレネ嬢がおります。わたくしの入る隙なんか無く、彼女が王太子妃となり公務をこなしていらっしゃいます」
「あ…………ああ、っ、そん、な……」
エーリカは、離宮にいてもきっと信じていたのであろう。
フェリシアがカディルと結ばれるということを、そしていつか離宮から解放されて、本宮に戻れる日が来るのかもしれない。そして、ヘンリックからも『あの時はすまなかった』と謝罪をされて、己が王妃となりまた輝かしく君臨する、という御伽噺のような妄想を。
そうしなければ、離宮で独りぼっちの生活を、耐えきることが出来なかったのかもしれない。
だがしかし、そう甘くないのだと、今、エーリカが心から欲しがったフェリシアから現実を突きつけられたのだ。
「あの、おんな、が」
「ひ……!」
ぎぎ、と壊れたような人形みたいに、エーリカはイレネを視界に入れる。
既にエーリカがいない状態で王太子妃教育を受けていたから、イレネが正式にエーリカと顔を合わせるのはほぼこれが初めての状態。
だが、向けられているのは憎悪の眼差し。
「お前が……フェリシアから、カディルを奪った、のね?」
今、エーリカにある真実は『イレネがカディルをフェリシアから奪った』ということ。
間違っていないのだが、そこに至るまでの経緯はエーリカが思っていることと全く異なっているのだが、別にそこを丁寧に説明してやる義理なんか、フェリシアにはない。
そんなことよりも優先することがあったから。
「……ふぅ」
「リルム、お疲れ様」
こっそりとリルムに話しかければ、リルムはにぃ、と笑う。
そこに合流したのは、エーリカをここに連れてきたリーリエ。
「フェリシア嬢」
「リーリエ様、ありがとうございました」
「良いのよ、それで……目的は達成できた?」
「はい、恙なく」
ベナットは、ここに来るのに少し遅刻をした。何故か。
ちょっと、『実験』をしつつフェリシアに何かあったときに最大限守れるようにと、『ストック』をしてみただけ。
今までやったことがなかったから、うまくできずに時間がかかった、というだけだ。
そして、フェリシアがやりたかったことは何か。
「……もう少しで、本当の意味でのご退場となります。わたくしたちは、ただ、見守っていればいい。リルム、ごめんなさいね。貴女の思うようなやり返しじゃなかったかもしれないけど」
「いいえ、良いの。自死させてやるだなんて優しさ、持っちゃいけないわ。あの人にだけは……ね」
リルムも、リーリエも、恨んでいる。
自分たちを無意識に蔑ろにし、時には悪意を以て貶めたエーリカのことを、何があっても許したくない、と思っているのだ。
「……あともう少しで自滅するわ」
フェリシアは、静かに告げた。
「そうなるように、調整して吸い取ったから」
リーリエにも、リルムにも、力の使い方をきちんと説明した。
決して裏切らない、そう確信している人を選別してフェリシアは己が隠し続けてきたことを、極僅かの人に公開した。
今まさに、エーリカはカディルに掴みかかろうとしている。
――さぁ、喜劇の続きの幕が上がる。




