ひねくれ曲がり、ねじれ、戻らない
イレネは、ずっとずっと考えていた。王子妃教育の合間にも、学院で授業を受けている間にも、友人たちとお茶をしているときも、ずっと。
どうやったら本筋通りにフェリシアを排除して、またカディルが王太子へと返り咲けるのか。いいや、返り咲かなくてもいい、返り咲くのはもう到底不可能だ。であれば、もっともっと、王家でのカディルの立場を確固たるものにして、カディルの発言権などを大きくしなければいけない。
ゲームの中では、イレネ、つまりヒロインとカディルは相思相愛だった。
カディルは何でもイレネに相談してくれて、イレネは聖女としての役割をこなしながらも彼に対していつもいつも的確なアドバイスをする立ち位置でいなければならない。
だから、今のこの状況はおかしい。
魔獣討伐任務のせいで、カディルはいつも疲れ果ててぐったりし、『こんなはずじゃなかった、あの頃に戻って、フェリシアに暴言を吐いて暴力を振るった己を殴り飛ばしたい』だの言っている。
違う、それでは物語がそもそも崩壊してしまう。そんなことをされては、イレネというヒロインの立場はどうなるのか。
「……やり直し……」
時の加護を持つローヴァインだからこそ出来ることであり、他の人にはどうやってもできないとされている。
ローヴァインの正式な血統者でなければ、異端の術として扱われてしまい、末代まで呪いに蝕まれてしまうらしいが、その呪いはどうやっても解呪できないとでもいうのだろうか。
「……そうよ」
イレネは、壊れたように笑う。
「呪いの解呪、私、できるわ」
自分の手のひらをじぃっと見つめ、この力こそが、と震える。
「だって、私はヒロインなの。この物語の正統な主人公。私は、ううん、私が思って叶わないことなんて、あるわけない」
王宮に与えられたイレネ用の客間で、誰もいない中、イレネはぎゅうっと自分の体を抱き締めて、独り言を続けた。
「アイツにできて、私にできないわけがないのよ」
ローヴァインがなんだ。時の加護、そんなものくそくらえだ、とイレネは飾られていた花瓶をローチェストから叩き落とす。
もちろん、がしゃん、と大きな音がしてしまうのでメイドが慌ててやって来るが、イレネは自分の部屋に入れないようにしながら細く扉を開けて対応する。
「イレネ様、今大きな音が!」
「ごめんなさい、うっかりして花瓶を落としてしまったの」
「でしたら後の片付けを私たちが……」
他のメイドも集まってきて、イレネのことを心配そうに見つめている。
いつもならばすぐに扉を開いて『ありがとう、よろしくね』と微笑んでくれるはずなのに、今のイレネは微笑んでいるにもかかわらず、途方のない仄暗さを秘めているようにしか見えなくて、一人、メイドが本能的に後退りをしてしまった。
「……あら」
イレネは、それを見逃さなかった。
「あなた、どうかしたの?」
「あ、の……」
細く開いたドアの隙間から、イレネは視線を動かして後ずさりしてしまったメイドをじっと見据えた。獲物をとらえた、と言わんばかりの鋭さも混じる目で、じぃっと見つめられ、メイドはぞわり、と走る恐怖に耐えきれずにその場に座り込んでしまった。
「ちょ、ちょっとどうしたの!」
「イレネ様、申し訳ございません。この子、まだ新入りで!」
「あら、そう。良いのよ別に。だって、私、心が広いもの」
うふふ、と笑ってまたイレネは微笑みを浮かべたまま続けた。
「ねぇ、その子、片付けに貸してくれる? 一人いれば大丈夫よ。なにか誤解させてしまったかもしれないし、お話もしたいわ」
「え、えぇと……」
この王宮で働くメイドたちは、リルムからこう言われていた。
王子妃候補がおかしなことをしたら、すぐ報告するように、と。
今がそのおかしなこと、ではないだろうか。
何日か前のイレネはこのような歪な雰囲気ではなかったはずだし、言い表しようのない気持ち悪さ、得体の知れなさがある。
「でも、この子は新入りなので、万が一粗相があればイレネ様にご迷惑をかけてしまいます!」
「私が、いい、って言ってるの」
「いけません」
集まってきていたメイドの三人のうち、一人がきっぱりと断った。
「大変申し訳ございません、我らの管理をしているのはリルム王太女殿下でございます」
「だから、何」
「え……」
ぎり、とイレネは扉を掴んでいる。
指先が白くなるほどの強い力。
はっとしたメイドたちが改めてイレネを見て、彼女たち三人はぞっとした。
「あの女の言うことは聞けて、私の言うことは聞けないって、そう言うのね」
そうですとしか返せないのだが、今のイレネはどうにも危うすぎる。
儚げとかそういうのではなく、ただただ、『恐ろしい』のだ。
「一人だけで、用命を受けてはならぬと、そう、めいれい、されて、い、て」
「へぇ」
嘘では無い。一人ならついうっかり誤魔化してしまう可能性もあるから、基本は複数行動を、と常にメイド長からも言われている。
早く、早くこの場から逃げたい。
メイドたちはその思いでいっぱいだった。
「どうしたの」
と、その時、まさに天の助けがやってきてくれた。
「リルム様!」
メイドたちはほっとしてそちらに駆け寄る。座り込んでいたメイドも慌てて立ち上がり、まるで逃げこむかのようにしてリルムの元へと走った。
「……イレネ嬢、これは一体どういうこと?」
「べつに、なぁんにも。だって、そのメイドを一人貸してくれ、って言ったのに、その子たちが拒否するから」
「単独行動は禁じているのよ。言いつけられたことを忠実に守っているだけなのだから、彼女たちに責められるいわれはないわ」
「なら、良いですわ」
ばん!と大きな音を立てて閉められたドア。ようやくメイドたちは一息つけたのか、ほう、と大きな息を吐いた。
「……場所を変えるわよ」
小声でリルムは三人を促し、イレネの部屋の前から立ち去った。出来るだけ早く事情を聞かねばならないだろう、と思いながら歩く彼女たちを、ほんの少しのドアの隙間から覗いているイレネがいたことには、気付かなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「報告なさい」
凛としたリルムの声、普段ならば恐怖で縮こまるが今はただ、心強かった。
「様子が、おかしくて」
「イレネの?」
こく、と座り込んでしまっていたメイドは頷いた。顔色はとても悪く、かたかたと小さく震えてしまっている。
「あの……得体の知れない、何かが、あったような気が、して」
ふむ、とリルムは考え込んだ。確かにあのイレネは何かがおかしいような気がした。
底知れぬ闇というか、何だかおかしな方向に走っているような、暴走一歩手前のような、そんな雰囲気。
「……しばらく、イレネの部屋に近付かないようにしなさい。彼女の部屋には、魔法の心得のあるものに行かせます」
「え……」
どういうことだ、とメイドたち三人は身構えるが、リルムは険しい顔のまま更に続ける。
「このことは、イレネ本人には決して伝えてはなりません。うっかり零してしまった、などもないよう、情報の徹底管理を行いなさい」
一体、イレネはそこまで言われるほどの何をしたというのだろうか。
カディルの婚約者になってはいるものの、いい噂ばかりではないということは知っている。ローヴァイン公爵令嬢にやたらと関係もないようなことで突っかかったりしているところも何度か王城で目撃もされているのだが、リルムがここまで警戒心を露わにするのはどうしてか、彼女たちには理解できなかった。
「……返事は」
「え」
「わたくしが今話したことを、理解出来たのなら返事くらいなさい」
「は、はい!」
慌てて三人のメイドは姿勢を正し、胸に手を当てて真剣な顔でリルムの言葉への返事をした。
「私どもは、リルム王太女殿下のお言葉を理解し、決してこの話をイレネ様にしないと、御前にてお約束いたします」
「…………よろしい。下がっていいわよ」
「失礼いたします」
三人が部屋から出ていった後、リルムはデスクの引き出しを開けて、封筒を取り出した。
「…………まるで、あの子の方が聖女だわ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
やってしまった。
うっかり獲物として見てしまったから、アレが逃げてしまった。
しかも、イレギュラーな奴まで出てくる始末、とイレネはぎりりと爪を噛む。
「ゲームに、リルムなんていないのよ。フェリシアだって、本当はカディル様を取られて悔しいはずなのに、悔しくないフリをし続けているから、カディル様もフェリシアに執着して、未だにどうにか接触しようとする。なら……」
イレネは、自分の手にナイフの先端を当てる。
「紋様を刻んで、私だって、ねじ曲げてやるわ」
異端と言われようと、自分が望んだストーリーへと強制的に戻してやらねば、気が済まない。
イレネはフェリシアに言われたことを思い出す。
誰が、誰のせいで悪女になったか。
イレネのせいだと、フェリシアは言った。
──いいや違う、お前は最初から『そう』あるべき存在なのだから、この流れに抗うことの方がおかしなこと。
ナイフで深くいきすぎないように皮膚を傷つけ、あるべき姿をねじ曲げて、無理やりに使えるようにと魔法陣を描いていく。
「どうせ……、フェリシアの手のひらにある刻印だって、こうやって……刺青みたいにして、あるだけよ……!」
ならば、自分もそうしてしまえ。
狂ったような眼差しで、イレネは本来使わない方がいいはずの術を使えるようにと、根本をねじ曲げにかかった。
「あは、──アッハハハハハハ!!!!!!!」
高笑いは幸いなことに誰にも聞かれないまま、空気へと溶ける。
「お前に奪われた何もかもを、私が取り戻すの! そしてまたお前を処刑台に送ってやるわ、フェリシア!!」
もはや、それは執着と言うしかないほどの、『何か』となって、イレネを支配する。
時属性魔法をローヴァイン公爵家本来の血を持っていない者が使えばどうなるのか。
無理やり使ったとて、その反動は凄まじく、呪いに蝕まれてしまう、と御伽噺のように言い伝えられているのだが、本当にどうなるかを知っているのは正しき血筋の、目覚めた人のみ。
本当のお話は、本物にしか受け継がれない。
だから、イレネは『本当』を知らないまま、ねじ曲げてしまった。
その傷があるうちは、きっとフェリシアのようにできるだろう。時を戻し、ありとあらゆる行動を己の思うがまま、自分に有利な方向に進められるだろう。
フェリシアはちょっとした抜け道として、他のものの寿命を対価に術を行使しているが、基本的にその力を振るうのは欲望のためではない。
人を助け、正しく在るべきようにしているからこそ、恙無く行えている。それだけのお話なのだ。
「お前ばかりが特別だと思い続けないことね!」
部屋の中、誰に聞こえるでもなくイレネは宣戦布告をする。
彼女が、己の欲望のままに、自らが『ヒロイン』であるために設定した、『悪役令嬢』へと向けて。




