違う、こんなの認めない
完璧な自己紹介をしてみせたこと、イレネが自己紹介をしていないのに家名を把握していたこと、イレネのふるまいに関して指摘されてあまりに当然のことを、遠慮なくズバッとフェリシアが言ってみせたこと。
何もかもが今はイレネにとって分の悪い状況でしかなかった。
同い年なのにこんなにも持っている迫力が違うだなんて、と悔しそうにするイレネだが、自己紹介された以上は自分もしなければならない。
分かっているけれど、今、目の前で姿勢を正し、背筋を伸ばしてただ微笑んでいるだけのフェリシアの圧がとんでもないから、動きたくても動けない。
早く、早く自己紹介をしなければ。焦りばかりが大きく膨れ上がり、行動に移せないでいると途端に興味をなくしたフェリシアはひらひらと手を振る。野良犬を追い払うように、しっしっ、という仕草だったこともあり、イレネもカディルも顔を真っ赤にした。
「別に貴女の自己紹介なぞいらないわ。わたくしとミシェルのランチタイムをこれ以上邪魔なさらないでね」
「……っ」
「ねぇ、お返事は?それもできないの?」
ぐぐ、とイレネが悔しそうに黙ったままでいると、カディルに庇われたままのイレネに一歩、フェリシアが近付いた。
「私の言っていることが理解できない、理解しようともしない、行動にも移さない、なぁんにも反応をしない、だなんて」
大袈裟なほど、フェリシアは微笑んでぐるりとカディルに視線を移した。
「ご立派な婚約者様ですわねぇ、殿下?お似合いでしてよ。あぁそれから、改めて言わせていただきますわ。わたくし、貴方なんかに手紙をいただくわけにはまいりませんの。何せ、貴方はイレネ嬢の婚約者。他の令嬢に手紙を送るなどどういったご神経をお持ちなのか、諸々疑いたくなりますので……ね?」
益々顔を真っ赤にし、何も言えない二人を馬鹿にしたようにフェリシアはもう一度だけ見て、くるりと反対を向いてミシェルの隣に座り直した。
「ミシェル、ランチの続きにしましょ」
「いいの?」
「いつまでもお人形さんみたいに棒立ちしている人に、これ以上余計な時間なんか使えるわけないわ」
「それもそうね」
あはは、と朗らかに笑ったミシェルの笑い声を皮切りに、じわじわと食堂の雰囲気はまた明るいものへと変化していく。
カディルの従者が引きずるようにカディルとイレネを食堂から連れ出したのを、ちらりと背後を振り返り確認し、フェリシアはランチの続きを楽しんだ。
「(イレネ曰く、ここはゲームとやらの世界。いいのよイレネ、ここがあなたの為の世界だとしても、わたくしには関係ないわ)」
思ったことは心の内に密やかに留め、午後の授業を含めて穏やかな時間はあっという間に過ぎていく。
「じゃあね、フェリシア」
「えぇミシェル、また明日」
Sクラスのクラスメイトと、そしてミシェルに別れを告げて家の馬車に乗り、帰宅する。
予習復習をきっちりしてから、フェリシアは夕飯に呼ばれるまで己の掌の刻印をじっと眺めていた。
──そういえば、寿命を吸い取った後はどれくらい有効なのだろう。
「……実験道具はいっぱいあるのだから……焦る必要なんてないわ」
ぐ、と手を握りしめ、部屋の中で一人笑う。
今頃、カディルもイレネも大層悔しがっていることだろう。
はてさて、あの馬鹿たちは一体、今どのような気分なのだろう、と想像するだけでとても面白い。退屈しない。
「さぁて、どうやって私を悪役に仕立てあげてくれるのかしらね」
制服から私服のシンプルなクリーム色のワンピースに着替え、靴も指定のローファーからお気に入りの黒のパンプスに履き替えた。
そういえばこの時間ならば夕食前のおやつをビビアンが持ってきてくれるはず、今日は一体何なのだろう、とこの時だけは子供らしい表情でうきうきとしながらビビアンを待ちわびるフェリシアだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「何で?」
イレネは、とても混乱していた。
「何で、フェリシアが学院にいるの?!」
何で、どうして。
頭の中をぐるぐると回るのは、本来いるはずのない場所にフェリシアがいること。
フェリシアがカディルの婚約者ではなくなってしまっていること。
そして、リルムが王太女として君臨していることと、フェリシアととても仲良さげにしてしまっていること。
「まさか、何かのバグ?!リルムって確か、カディルの……えーと、あれは立場的に異母姉、よね。側妃の娘が何で王太女なんかになりあがってるの?!」
ぎりり、と爪を噛んで頭を掻き毟るイレネ。
この世界はイレネが思っている、恋愛ゲームの世界ではないというのか。それにしては、登場人物の顔や名前はゲーム通り。
フェリシアが時を巻き戻したことで、イレネは本来ゲーム開始まで『イレネ』のまま過ごす予定だったはずが、ほんの少し発生した歪みによって、もう、『イレネ』はイレネでなくなっていた。
フェリシアを、どん底に突き落とすべく行動したゲームの主人公、まさにその人の人格が相当早い段階で浮かび上がってしまったのだった。
彼女は今の状況を整理したが、納得のいかないことばかりすぎて、頭が到底ついていかない。
カディルが王太子から外されていることに関してもそうだ。ゲームでは確かにカディルが王太子だったはず。
そして、そんなカディルの婚約者がフェリシアで、フェリシアとの関係性だったり、マナーに五月蝿い彼女の発言の多さによってカディルが辟易し、幼馴染たるイレネの出番がやってくる。
二人でフェリシアを処刑し、幸せにならなければならないというのに。
「そもそもカディルが王太子じゃないから!」
がしりと枕を掴み、勢いのままに床に叩きつけた。
はぁはぁと荒い息のまま、何度も何度も枕を踏みつけ、ぐりぐりと踵で踏みにじる。
「……でも、まだよ。フェリシアがあまりに口煩いから、カディルが婚約を嫌がった。そう、それをフェリシアは悔しがって今日みたいに言ったのよ!」
どうにかして自分が納得出来る理由を、とイレネは必死に考えた。
「フェリシアがカディルの婚約者になれば、カディルはまた王太子になれるはず。……あ、あはは、そうよ、だったらリルム殿下には引っ込んでもらわなきゃ!女が国のトップになるだなんてちゃんちゃらおかしいわよ!そうじゃなきゃ、私が幸せになれないじゃないの!」
ぐり、と靴を動かしてまた枕を踏む。
ぴりりと生地が裂けてしまい、中身がうっすら見えてしまうがそんなこと気にしない。
どこまでも自分だけに都合のいいように考えるイレネの顔は、まさに狂気そのもの。
本来のイレネの記憶と、成り代わった『イレネ』の記憶は混ざり、知識の共有はされているはずなのに、どこまでも都合のいいように話を持っていこうとする。
しかし、そうしなければ達成したい未来がやって来ない。
そんな小細工をイレネがするまでもなく、フェリシアの手によって、カディルとイレネはどうやったとしても別れることなく結ばれるように細工されているとは知らず、ただイレネはどうにかして状況をひっくり返してやらねば、と企む。
「まずはクラスの皆を操作しなくちゃいけないわよね……。接点がないから、こっちの話を聞いてくれるだろうし……それに、修正力が働くはずよ。だって、私はヒロインなんだから!」
踏みつけていた枕を思い切り蹴飛ばせば、使われていた羽毛がぶわりと宙に舞った。
イレネは演劇の主人公のように両腕を広げ、舞い散る羽毛の中、くるくると回ってみせる。
「ちょっとだけゲームのストーリーと離れたけど、良いわ!最後に笑うのは私なんだからね!」
あっははは!と高笑いをするイレネと、場所は違えどあまりに静かに過ごすフェリシア。
フェリシアが時を戻したことにより発生した違いの大きさを、この時点でイレネは見誤っていたのだ。
いるはずのない人が、いるはずのない場所にいること。
日陰にいるはずの人が、日向へと出てきていること。
本来あるべき立場にいる人が、その立場ではなくなり別の立ち位置になっていること。
既にこれだけの違いがあるというのに、イレネはどうにかなると大きな過ちを心に抱いたまま、笑い続ける。
確かにイレネは主人公だが、ここまで事態をひっくり返したフェリシアの執念を、甘くみすぎていたことに気付かないまま、時は流れていくのだ。




