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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

うまくいかない

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 好きになったひとが、男だった。

 高校一年生の春のことだ。僕は、同じクラスの政谷くんのことを好きになってしまった。政谷くんはやさしいので、いるのかいないのかわからないような存在感の薄い僕にもやさしくしてくれる。高校に入学したてのころ、教科書を忘れて困っていたら、見せてくれた。政谷くんは隣の席なのだ。

 それだけ? と言われれば、それだけだ。たった、それだけのことだったのに、僕は政谷くんのことを一瞬で好きになってしまったのだ。

 これだから、普段から他人にやさしくされ慣れていないやつは困る。やさしくされれば、すぐ好きになってしまう。

 僕は、無意識に政谷くんを見つめてしまう。だって、好きだから。

 政谷くんはそれに気付いて、

「沢田、なんで見るの?」

 と尋ねてくる。僕はなんでもないふりをして、「べつに」と答える。

「ふうん」

 特に気にしていないのか、政谷くんは軽く相槌を打つだけだ。


 僕には、ひとつ上に千夏という姉がいる。千夏ちゃんは女子校へ通っていて、僕は男子校へ通っている。

 千夏ちゃんがお風呂に入っている隙を見計らって、僕は千夏ちゃんの部屋に忍び込み、千夏ちゃんの制服を着てみた。僕と千夏ちゃんは、顔もそうだけど体格も似ているので、すんなりと着ることができた。千夏ちゃんがいつも履いている、黒いハイソックスも穿いてみた。

 姿見に映した自分の姿は、なんとも情けないものだった。全然、女の子に見えない。臑毛が生えているからだろうか。

 僕は自分の部屋からクリームと剃刀を取ってきて、臑毛を剃ってみた。脚はつるつるになったけれど、やっぱり女の子には見えない。いくら千夏ちゃんに似ていると言ったって、やっぱり男の顔だもの。

「なにしてるの?」

 背後から声をかけられ、飛び上がるほど驚いた。後ろにいる千夏ちゃんと、鏡越しに目が合う。

「あたしの部屋で、あたしの制服着て」

 千夏ちゃんはそう言って、部屋の床と僕を指さした。

「なにしてるの?」

 怒られるかと思っていたのだけど、振り返って見た千夏ちゃんの顔は、戸惑っているようではあっても、怒っているようには全く見えなかった。だから、僕は正直に言う。

「千夏ちゃんみたいになれるかと思って」

 千夏ちゃんは首を傾げて、

「春くんは、女の子になりたいの?」

 と尋ねてきた。僕は、あれ? と思う。

「どうだろう」

 正直な疑問だった。

「女の子になりたいわけじゃ、ないかもしれない」

 僕は言った。

「でも、女の子みたいになれば、好きなひとに好きになってもらえるかもしれないと思ったんだ」

「ふうん」

 千夏ちゃんは軽く言った。

「制服、ちゃんとハンガーにかけておいてね。あとね、春くん。あたしの服を着たい時は、貸してって、ちゃんと言うのよ」

 僕は、うなずいた。けれど、もう女の子の服を着ることはないだろう。


 次の日の体育の時間は、サッカーだった。短パンにならないといけないことをすっかり忘れていた。

 短パンを穿いた僕の脚は、当然のことながらつるつるで、クラス中の注目を浴びてしまった。普段、存在感がなかったのが嘘みたいな悪目立ちっぷりだった。

「沢田のやつ、なに考えてんだよ」

 という、ひそひそとした声が、嘲笑と共に耳に入ってくる。恥ずかしくて死にたくなる。それでも、なにも聞こえないふりをして、なにも気付かないふりをして、僕はサッカーボールを追いかけた。

 転んで膝を擦り剥いた時、

「臑毛がないから怪我なんかすんだよ」

 嘲ったような声が聞こえて、僕は下唇を噛む。

 血で砂がこびり付いた膝を洗うために、僕はグラウンドの端っこの水道へ向かった。水道の水は冷たくて、膝の傷にしみた。涙が、ぼろぼろとこぼれた。

 ちがうんだ、と思う。膝が痛いから涙が出るんだ。バカにされたから泣いているってわけじゃないんだ。心の中でそういいわけをしたけれど、誰に対してのいいわけなのか、自分でもわからなかった。

 ごしごしと手の甲で涙を拭うと、横からタオルを差し出された。見ると、政谷くんだった。

「先生が、休んでていいってよ」

 政谷くんは言った。

「ありがとう」

 僕はうなずいて、タオルを受け取った。でも、本当に使っていいのかどうかわからなくて、そのまま持って突っ立っていた。

「保健室行くか?」

 政谷くんが言う。

「いい」

 僕は首を振った。

「顔拭いたあと、膝も拭いたら」

 政谷くんがタオルを示してそう言うので、僕はそのとおりにした。タオルが少し血で汚れてしまった。洗って返そうと思っていたら、

「そのタオル、やるよ」

 政谷くんが言った。僕の血で汚れてしまったから、もう要らないんだ、と思った。

 また泣きそうになったので、タオルを顔に押し当てて隠した。タオルからは政谷くんの匂いがした。僕は、気づかれないように、ふかふかとその匂いを吸い込む。

 タオルを顔から外した時には、もう政谷くんはいないんだろうと思っていたのに、予想に反して、政谷くんはまだそこにいた。排水溝の縁のコンクリに座っている。

「沢田も座ったら」

 政谷くんの言うとおりに、僕は座る。政谷くんとは、少し離れたところに座る。

 政谷くんはなにか言いたそうな表情をして、しばらく迷っているようだったけれど、意を決したように、こう尋ねてきた。

「なんで、臑毛なんて剃っちゃったんだ」

 顔が、カッと熱くなった。恥ずかしかった。

「女の子みたいになろうと思って」

 僕は正直に言う。なんだかもう、やけくそな気分だった。どうなってもいいと思った。

「なんで、女の子になろうと思ったんだ」

 政谷くんは、笑いもせず表情すらも変えずに聞いてくる。僕は逐一、正直に答えた。

「女の子みたいになれば、好きなひとが好きになってくれるかもしれないと思ったから」

「なんで、そう思ったんだ」

「僕の好きなひとは、男だから」

 政谷くんは目を見張る。

「この学校のやつ?」

「そう」

 僕はうなずく。明日になったら、僕がオカマの変態野郎だという噂が流れているかもしれない。それでもいいか、と思った。政谷くんは、僕のことを笑わなかった。それだけでじゅうぶんな気がした。

「だれ?」

 政谷くんがぽつりと言う。

「うん?」

 聞き返すと、

「沢田の好きなやつって、だれ?」

 今度ははっきりと聞かれた。僕はその質問にだけは答えられなかった。黙っていると、

「俺には言いたくない?」

 政谷くんが言うので、僕はうなずいた。政谷くんには、政谷くんにだけは、言いたくない。

「そっか」

 政谷くんは目を伏せる。


 予想に反して、僕がオカマの変態野郎だという噂は、翌日になっても聞こえてくる気配がない。政谷くんが黙っていてくれたのだろう。

「だれにも言わないでいてくれて、ありがとう」

 僕は、隣の席で授業の準備をしている政谷くんに小さく言う。

「沢田、おまえ、俺が言いふらすと思ったのか?」

 政谷くんは礼を言われるなんて心外だという表情で僕を見た。政谷くんが言いふらすとは思っていなかったけれど、政谷くんが友だちかだれかに言って、そのだれかが言いふらす可能性は高いと思っていた。でも、うまく言えなくて、僕は黙っていた。政谷くんが怒ったような顔になる。少しこわかった。

「ごめん」

 謝ると、政谷くんは、

「いや、いい。そうだよな」

 と目を伏せる。そして、

「沢田が謝る必要は、全然ない」

 と言ったきり、政谷くんは僕のほうを見なくなった。僕がオカマの変態野郎だから、目を合わせたくないのかもしれない、と思う。わかっていたことだけれど、やっぱり悲しかった。

 政谷くんには嫌われてしまったかもしれないけれど、せめて政谷くんがくれたタオルは大切にしようと思う。政谷くんになにかものをもらえるなんて、きっと最初で最後だろう。それが、たとえ要らなくなったものだったとしても。


 脛毛が生えそろってきたころ、

「沢田」

 学校からの帰り道、後ろから呼び止められた。政谷くんだった。どうしたんだろう、と思う。なぜ呼び止められたのか、全く見当もつかない。

 政谷くんは、自分の鞄をごそごそとまさぐると、なにかを取り出して、こちらに差し出してきた。

 それは、深緑色のリボンの形をした髪飾りだった。白いレースが付いている。

「政谷くん、これは? なに?」

 わけがわからなくて、僕は政谷くんに尋ねる。

「やる」

 政谷くんは、無愛想に言った。

「沢田、女の子になりたいんだろ?」

 言われて、僕はぎょっとした。政谷くんは勘違いをしている。僕が女の子みたいになろうとしたのは、政谷くんに好かれたかったからで、僕自身が女の子になりたいわけではない。

 もしかして、からかわれているのだろうか。そう思って政谷くんの顔を見ると、政谷くんは至って真剣な様子だ。

 政谷くんの手から、おそるおそる髪飾りを受け取ると、

「にっにあっ、似合う、と思う」

 政谷くんは言いづらそうに言った。夕日に照らされて、顔が真っ赤に見える。似合う、なんて本当だろうか。にわかには信じられないけれど、僕は、千夏ちゃんがやっているみたいに、耳の少し上にその深緑色のリボンを付けてみた。どんな感じなのか、自分ではわからない。鏡も持っていないし。そんなことを思っていると、

「か、か、かわ、かわいい」

 政谷くんは、やはり言い慣れていない感じで言うのだ。本当かなあ、と僕は政谷くんの顔を見る。やっぱり、政谷くんは真剣な様子で、からかっているようには思えない。だから、

「ありがとう」

 僕はお礼を言った。それから、リボンを髪の毛から外す。さすがに、付けたままでは帰れない。

「これ、どうしたの?」

 なんとなく尋ねると、政谷くんは、

「昨日、買った」

 と呟くように言った。

「え」

 買ったの? わざわざ? 僕のために?

「ありがとう」

 僕は、もう一度言った。

 政谷くんが、僕のために髪飾りを買ってくれた。たとえそれが誤解からの行動だとしても、うれしかった。別に女の子になりたいわけではないけれど、政谷くんが似合うと言ってくれるなら、かわいいと言ってくれるなら、僕は女の子になってもいいかもしれない、と思った。


 家に帰って、千夏ちゃんに頼んで服を借りた。もう女の子の服を着ることはないと思っていたけれど、政谷くんが髪飾りをくれたので、それに合う服を着ないといけないような気がしたのだ。

 千夏ちゃんは、

「かわいいね。いい色」

 とリボンの髪飾りを誉めてくれた。

「バレッタって言うのよ」

 千夏ちゃんが選んでくれた服を着て、耳の少し上にリボンのバレッタを付けて姿見に映す。やっぱり、男にしか見えない。深緑色のリボンは、千夏ちゃんの服には合っているけれど、僕に似合っているとは思えなかった。かわいくもなんともない。政谷くんは、きっと僕に気をつかってくれたんだろう。すごく誉めにくそうにしていたし。ガッカリしながら納得していると、

「顔かしら」

 と千夏ちゃんは言って、僕の眉毛を小さな鋏でととのえてくれて、簡単なお化粧の仕方を教えてくれた。

 顔を作って完成した僕は、ほとんど千夏ちゃんだった。もしかしたら、双子だと言っても通るかもしれない。千夏ちゃんは耳が隠れるくらいのショートヘアだし、僕の髪も伸びっぱなしだったものだから、髪形までそっくりだ。

「あたしの代わりに女子校へ行ってもわからないかもしれないわね」

 千夏ちゃんは、僕を見て言った。

「かわいくなったから、撮ってあげる」

 千夏ちゃんは自分の携帯で僕を撮り、その写真を僕の携帯にメールで送ってくれた。

「でも、春くんはそのままがいちばんかわいいのよ」

 千夏ちゃんは言って、僕の頬を両手で包む。

「ありがとう」

 僕は言う。

 僕は、きっとどうかしていたのだと思う。千春ちゃんが撮ってくれたその写真を、政谷くんに送ってしまったのだ。政谷くんにもらったバレッタを、ちゃんと活用しているということを知らせたかったのかもしれない。

 政谷くんからは、すぐに、

『沢田、かわいい』

 と一言だけ返信があった。うれしかった。


 千夏ちゃんが、お化粧の道具を分けてくれた。中学の時に使っていたらしい、睫毛をくるっとさせる器具とか、もう少しでなくなりそうなBBクリームとかだ。まだ新しいけれど、と言って特別にくれたのは、ブラウンのアイシャドウだった。

「お化粧は、ちゃんと落とすのよ。肌が荒れちゃうからね」

 千夏ちゃんは、拭き取るタイプのメイク落としもくれた。

「これは、コンビニでもドラッグストアでも、どこでも売ってるから、面倒がらずに落とすのよ」

 千夏ちゃんに念を押され、僕はうなずいた。


 日曜日、政谷くんの家へ遊びに行った。政谷くんから誘われたのだ。家がわからない、と言うと、途中まで迎えに来てくれた。

 政谷くんの家には、誰もいなかった。家族は出かけているらしい。政谷くんの部屋は、きれいに片付いていた。というか、ベッドと机の他には、ほとんどものがなかった。

 部屋の真ん中に、ダンボール箱がひとつ置いてあって、それを示して政谷くんは言った。

「従姉から、うちの妹にお下がりが届いたんだけど、ほしいのがあったら持って帰ればいい」

 僕は意味を把握しかねて、政谷くんを見返す。

「ほら、服とか買うの、大変だろ」

 政谷くんは言った。あっ、と思った。この箱の中には、きっと女の子の服が入っているのだろう。政谷くんは、僕にバレッタだけではなく服まで用意してくれたのだ。僕に千夏ちゃんがいることを、政谷くんは知らないから、心配してくれたのかもしれない。

 僕は、誤解も解かず、千夏ちゃんのことも、なにもかもを黙って、

「ありがとう」

 とお礼を言った。政谷くんの気持ちが、なによりうれしかったし、誤解を解いてしまったら、政谷くんとの接点が減ってしまうような気がしたのだ。こんなふうに家に呼んでもらえることもなくなるかもしれない。政谷くんは僕を見て、どこかほっとしたように微笑んでいた。

「妹さんに悪いから、一着だけもらうね」

 言って、僕は服を選ぶ。ダンボール箱の中には、かわいらしい服が、たくさん入っていた。僕は、着るとしてもきっと一瞬しか着ないだろうから、せっかくかわいい服なのに、なんだかもったいない。だから、千夏ちゃんの好みそうな服を選ぼうと思った。そうすれば、普段は千夏ちゃんが着てくれる。もったいなくない。

「これ」

 僕は、白地に青い花柄の、ノースリーブのワンピースを選んだ。千夏ちゃんに似合いそうだ、と思ったからだ。これからの季節にも、ぴったりだ。

「に、似合う! と思う」

 政谷くんが言った。すごく力が入っていて、言いにくそうだった。無理をして誉めてくれなくてもいいんだけど、と思う反面、政谷くんにそう言ってもらえると、やっぱりうれしかった。

「着てみたら?」

 政谷くんは、さらに言う。

「ほ、ほら、サイズとか、合わなかったらまずいし……」

 声がひっくり返っている。僕に精一杯気をつかってくれているんだと思うと、なんだか申し訳ないような気がした。

 僕は着ていた服を脱いだ。政谷くんが僕のほうをじっと見ているのがわかって、恥ずかしがることではないとは思ったけれど、でも、恥ずかしくてたまらなかった。

 ワンピースの後ろのファスナーを上げられなくて、もたもたしていると、政谷くんが上げてくれた。政谷くんの手が、直に背中に触れて、ものすごくドキドキしてしまう。

 どんな感じだろう、と鏡を探したけれど、政谷くんの部屋には、姿見も普通の鏡もないみたいだった。だけど、どうせ情けない姿なんだろうな、と思う。まさか政谷くんの目の前で女の子の格好をすることになるとは思わなかったので、お化粧の道具なんて持ってきていなかった。お化粧さえすれば、少しはマシに見えるのに。政谷くんにもらったバレッタも家に置いてきてしまった。臑毛だって、もう生えそろっている。そう思って、小さく息を吐くと、

「沢田、か、かわいい」

 政谷くんが言った。やっぱり言いにくそうだ。

「すごく、かわいい」

「本当?」

 半信半疑で確認すると、政谷くんは首をぶんぶんと縦に振った。

「写真、撮ってもいい?」

 政谷くんが携帯を取り出し、言う。僕は躊躇う。なんで写真なんか撮りたいんだろう。黙っていると、

「一枚だけ。一枚だけでいいから」

 政谷くんの様子が、なんだか必死だったので、僕は思わずうなずいてしまった。

 一枚だけだと言ったのに、政谷くんは僕の写真を三枚も撮った。それから、僕の剥き出しになったふくらはぎを撫でて、「沢田、かわいい」と言った。うれしかったけど、ちょっとこわかった。それに、やっぱり脛毛が気になった。政谷くんが、なんでそんなに誉めてくれるのか、わからない。

 もしかしたら、政谷くんは僕のことを、かわいそうだと思っているのかもしれない。そう思われるのは、ちょっと悲しい。僕は、ワンピースの裾を引っ張って、脚を隠した。


 家に帰って、政谷くんにもらったワンピースを見せると、千夏ちゃんは、

「かわいいね。あたし、こういうの好き」

 と言ってくれた。

「これ、きっと高いんだよ。レースとかリボンとか、作りがすごく凝ってるもの」

「僕は着ないから、千夏ちゃんが持ってて。好きな時に着ていいよ」

「いいの?」

 千夏ちゃんが言うので、僕はうなずいた。

「ありがとう。じゃあ、一応あたしのクローゼットにしまっておくけど、これは春くんのだから、春くんが着たい時に勝手に着ていい服だからね。あたしが着たい時には、春くんに貸してって言うから」

 そう言って、千夏ちゃんはワンピースを大事そうにハンガーにかけてクローゼットにしまってくれた。


 放課後、下校途中に英和辞典を忘れたことに気付いて取りに戻った。あれがないと予習ができない。教室のドアを開けようとした瞬間、

「これって、沢田じゃん」

 という声が耳に飛び込んできた。ドアにかけていた手を、とっさに引っ込める。

「返せよ」

 政谷くんの声も聞こえてきて、僕は体を固くした。

「なんで沢田なんか待ち受けにしてんの? しかも、これってスカート穿いてね? 沢田はともかく、翼ってこういう趣味があったのかよ。超意外」

 笑いを含んだその声の主は、政谷くんのことを下の名前で呼んでいた。親しい友だちなのだろう。

 しかし、そんなことよりも、政谷くんは、どうやら僕の写真を携帯の待ち受けにしているらしい。僕だと判別が付いたところを見ると、お化粧をしていない写真、きっと政谷くん自身が撮った三枚のうちのどれかなのだろう。その意味を考える前に、

「ちがっ……お、おもしろいから、待ち受けにしてるだけだって」

 聞こえてきた、どこか焦ったような政谷くんの言葉に、目の前が真っ暗になった。

 ショックだった。でも、納得もしていた。そうか。やっぱり、そうだったのか。道理で、あんなに誉めてくれるはずだ。勘違いして浮かれた僕の反応を見て、政谷くんは楽しんでいたんだ。真剣な顔をして見せながら、心の中では、おもしろがって笑っていたんだ。

 僕は、教室のドアを開ける。

「沢田」

 政谷くんが僕を見て驚いたように目を見開いた。

「噂をすれば沢田じゃーん!」

 政谷くんの友だちが僕を見て、楽しそうに笑う。

「沢田、おまえ、女装が趣味とか、ガチじゃん。超ヤバイ。てか、キモい」

 知ってるよ、と思う。自分がキモいってことくらい、ちゃんとわかってるよ。でも、うれしかったんだ。政谷くんが、僕に買ってくれたリボンのバレッタ、かわいいって言ってくれたこと、うれしかったんだ。たとえ、それが嘘だったとしても。

 僕は、無言で政谷くんの座っている隣の机から、英和辞典を取り出し、鞄にしまった。

「春喜ちゃーん、次はどんなカッコすんの?」

 政谷くんの友だちが言う。彼が僕の下の名前を知っていたことに驚いた。だって、僕は彼の名前を知らない。

 僕はやけになって答える。

「きみの好きな格好をしてあげる」

 そう言って微笑むと、政谷くんの友だちは少し怯んだみたいだったけど、すぐにニヤリと笑って言った。

「マジで」

 ニヤニヤしたまま、

「じゃあ、次はメイド服とか?」

 などと言うものだから、変態だな、と思う。彼も政谷くんも、みんな変態だ。男に女装させて楽しんでるなんてヤバイよ、ふたりとも。変態。キモい。

 でも、いちばんキモいのは僕だ。男のくせに、政谷くんのかわいいなんて嘘の言葉に有頂天になって、おもしろがられていることに気付かずに写メまで送って、目の前でワンピースなんて着て見せて、さらには写真まで撮らせた、僕がいちばん変態だ。

「やめろよ、タキタ」

 政谷くんが言うので、彼の名前がタキタくんだということがわかった。

「いいよ、タキタくん。なんでも着てあげる」

「なあ、翼、メイド服ってどこに売ってんの? ハンズかドンキにあっかな?」

 タキタくんが政谷くんに言って、政谷くんはもう一度、「やめろよ」と言う。

「んだよ、おまえだっておもしろがってたんだろうが。オレにもちょっとくらい楽しみを分けてくれたっていいだろ。沢田がいいって言ってんだし」

 ニヤニヤ笑いながら、タキタくんは言う。

「ちがう!」

 政谷くんは言う。

「なにが、ちがうんだよ」

 タキタくんに言われ、政谷くんは言葉に詰まったみたいだ。

 そうだよ、本当だよ、なにがちがうの? 僕をからかっておもしろがってたくせに。自分はよくて、タキタくんは駄目なの? よくわからないな。政谷くんもタキタくんも、同じだよ。なにも、ちがわない。同じだ。

「僕、帰るね」

 タキタくんに言う。

「服が用意できたら呼んで。休みの日は、だいたい暇だし。僕の携帯は政谷くんが知ってるから、教えてもらうといいよ」

「おっけー」

 言って、タキタくんはヒラヒラと手を振った。

「おい、沢田っ!」

 政谷くんが呼んだけれど、気付かないふりをして、僕は教室を出た。

 政谷くんなんか、嫌いだ。大嫌い。

 そう思えたら、どんなに楽だろう。


 次の日、僕がオカマの変態野郎だという噂が流れていた。でも、何日も前から予想していたことだったので、覚悟はできていた。

 席につく。政谷くんのいる隣を見ないようにする。もう政谷くんのことを見られないな、と思う。政谷くんに迷惑はかけられない。

 政谷くんが僕をおもしろがっていたとわかったいまでも、僕は政谷くんのことが好きだった。嫌いになれれば楽なのに、僕はバカだから、なかなか気持ちを切り替えることができない。ならば、いっそ、政谷くんにおもしろがってもらえたらいい。僕が女の子の格好をして、政谷くんがそれをおもしろいと思ってくれるなら、それでいいと思うのだ。

 みんなが僕を、影で「ハルキちゃん」と呼び始めた。僕の下の名前がこんなに浸透しているとは、意外だった。僕は政谷くん以外のひとの名前を、ほとんど覚えていないというのに。

「沢田、あのさ……」

 話しかけてきた政谷くんの言葉を遮って、

「僕に話しかけないで」

 政谷くんのほうも見ずに僕は早口に言った。オカマの変態野郎の僕に普通のトーンで話しかけるなんて、どうかしてる。僕なんかに話しかけると、政谷くんまで、なにか言われるかもしれないのに。

 政谷くんは、それきり話しかけてこなかったので安心する。それでいい。


 放課後、タキタくんが僕を教室の隅の方へ呼んだ。

「翼が、おまえのケータイ教えてくんねーんだけど」

 タキタくんは言った。

「どうしてだろう」

 僕は疑問を口にする。

「知らね。なんか、ごちゃごちゃうるせんだ、翼のやつ」

 言って、タキタくんは僕から携帯を奪い取り、自分のスマートフォンに僕の情報を登録した。それから、僕の携帯に自分の番号とアドレスを登録した。『たきた』とひらがなで入っている。

「また連絡する」

 タキタくんが言うので、僕はうなずいた。


「沢田」

 帰り道、後ろから呼び止められた。政谷くんだ。僕に話しかけないでって言ったのに。そう思ったけれど、でも、いまは周囲に誰もいないから大丈夫だ、と思い直す。政谷くんに話しかけてもらえるのは、うれしい。この期に及んでそんなことをうれしがれるなんて、僕は結構おめでたいやつだ。

「沢田、おまえ、タキタにケータイ教えたのか」

 政谷くんはこわい顔で言う。

「うん。タキタくんに携帯教えたよ」

 僕はうなずいた。

「なんで教えたんだ」

 僕の答えを聞いた政谷くんは、ますますこわい顔になった。政谷くんが、どうして怒っているのか、よくわからない。僕は、なにかいけないことをしたのだろうか。

 もしかしたら政谷くんは、オカマの変態野郎である僕と、自分の友だちのタキタくんが接点を持つことで、タキタくんに迷惑がかかることを心配しているのかもしれない。それは、もっともな考えだ。僕は心の中で納得する。これからは、タキタくんにも迷惑がかからないように、もっと気を付けようと思う。

 僕が黙っていると、政谷くんは目を伏せて言った。

「おまえが、前に言ってた好きなやつって、タキタ?」

「どうして?」

 僕は驚いて声を上げる。僕が好きなのは政谷くんだ。隠しているのだから、このことを政谷くんが知るはずはないのだけど、だからって、どうしてそんな勘違いをしたのだろう。

「だって、おまえ、俺のことは『政谷くん』て呼ぶくせに、タキタのことは名前で呼んでるだろ」

 わけがわからず、僕は政谷くんの顔を見返す。政谷くんは目を伏せたまま、僕の返事を待っているようだった。

「タキタくんの『タキタ』って、苗字じゃないの?」

 僕は、覚えた違和感を口にする。すると、政谷くんは伏せていた目を上げ、僕を見てパチパチと瞬きをした。

「どういうことだ?」

「僕、タキタくんの名前を知らなかったから。政谷くんがタキタって呼んでるのを聞いて、同じように呼んでた。苗字じゃないの?」

「タキタは、あいつの下の名前だ。あいつの苗字は川地。あいつは、川地多輝太っていうんだ」

 政谷くんは、気が抜けたようにそう言った。

「そっか」

 僕はうなずいた。

「馴れ馴れしく呼んじゃって申し訳なかったな。川地くん、怒ってた?」

「いや、別に、怒っては……ないだろう」

 政谷くんは戸惑ったように言う。

「よかった」

 ほっとして、僕は息を吐いた。

「オカマの変態野郎に馴れ馴れしく名前で呼ばれるなんて地獄だもんね。川地くんは政谷くんの友だちだから、迷惑かけないように今度から気を付けるよ」

 政谷くんを安心させようとして言ったのに、政谷くんの顔は、なぜか苦しそうに歪んだ。僕の言葉により、そういえば僕がオカマの変態野郎だったと気付いて、気持ちが悪くなったのかもしれない。言わなきゃよかったな、と少し思う。

「ちがうんだ、沢田」

 政谷くんが言った。

「恥ずかしくて、多輝太にはとっさにあんなふうに言っちゃったけど、ごめん、ちがうんだ。俺はおまえのこと、本当にかわいいと思っ」

「もう、いいよ」

 政谷くんの言葉を遮るようにして僕は言う。

「気をつかってくれなくてもいいよ。僕が勘違いしてたんだから。僕が恥ずかしい人間だってことは、僕がいちばんよく知ってるし、もう、ちゃんとわかってるから、堂々とおもしろがってくれていいんだよ」

「ちがう。沢田、なに言って……」

「僕、政谷くんたちを楽しませることができるように、がんばるからね。政谷くんがくれたアイテムも、ちゃんと活用するよ。バレッタと、ワンピース。僕が着たら、きっとおもしろいよ。笑ってくれるとうれしいな。川地くんも、よろこんでくれるといいんだけど」

 僕は、精一杯笑う。きっと、ちゃんと笑えていると思うのだけれど、自信はない。政谷くんは顔を苦しげに歪めたまま僕を見る。どうして、そんな顔をするんだろう。笑ってくれたらいいのに。

 僕は政谷くんに背を向けて走った。


 土曜日に、川地くんの家へ行くことになった。家がわからないと言うと、政谷くん同様、途中まで迎えに来てくれると言う。

 僕は、お化粧の道具と鏡を、ちゃんと忘れずに鞄に詰めた。今度は、女の子の格好をするということが事前にわかっていたので、前日に臑毛もきれいに剃った。

 僕の様子が、いつもとちがうことに気付いたのか、出かけようとしている僕の頬を両手で包んで、千夏ちゃんが言った。

「春くんは、かわいいのよ。だって、あたしに似てるんだもの。かわいいかわいい、きれいな顔をしてるのよ。自信を持っていいんだから」

 わざと戯けたような口調で言われたその言葉に、

「ありがとう、千夏ちゃん」

 僕は笑ってお礼を言う。千夏ちゃんや両親はそう言ってくれるけれど、身内の欲目だと僕は思う。千夏ちゃんにとっては、僕はかわいい弟なんだろうけど、僕は、もうちゃんとわかっている。他のひとにとっては決してそうではないということを。

 小学校の時も中学校の時も、僕は少しいじめられていた。そんなにひどいことはされなかったと思うけれど、女の子にはよく持ち物を盗まれたし、男の子にはいつも仲間外れにされた。女の子たちは僕を誉め殺して僕の困ったような反応を見て楽しんでいたし、男の子たちはそうやって持ち上げられた僕の自尊心を叩き折ることに長けていた。女の子と男の子がタッグを組んだら、とてもこわい。

 だから高校は、公立の共学へは行かず、私立の男子校を選んだのだ。高校に入学してからは、目立たずひっそりと行動していたつもりだったのに、またこんなことになってしまった。自業自得だと言われれば、そうなのだけど。


 迎えに来てくれたのは、なぜか政谷くんだった。

「政谷くんもいっしょに遊ぶの?」

 少しうれしくなってそう尋ねると、政谷くんは、またあの苦しそうな顔をした。

「多輝太がなにするかわからないから」

 ぼそぼそと言う。

 川地くんの家は、政谷くんの家の斜向かいだった。ふたりは幼馴染みらしい。

 川地くんの部屋は、政谷くんの部屋とは反対で、妙にごちゃごちゃしていた。漫画とかゲームとか、あとバイクの雑誌みたいなものが多かった。

 川地くんに渡されたメイド服は、白い丸襟の付いた黒いワンピースと、ヒラヒラした白いエプロンだった。同じように、ヒラヒラしたカチューシャも付いている。パーティーグッズにしては、生地や形がちゃんとしているような気がする。

「いまはネットでなんでも買えるのな」

 川地くんが楽しそうに言ったので、ネットで買った服なのだとわかった。

 僕が服を脱いで着替える様子を、ふたりは黙って眺めていた。なんでそんなに見るんだろう、と思う。僕の身体は、臑毛を剃ったために脚がつるつるなのが変なだけで、あとは他のひととそんなに変わらないはずなのに。別にパンツまで脱ぐわけじゃないのだから、どうってことはないのだけど、見られるのはやっぱり恥ずかしかった。

 ワンピースを着て、エプロンを着けると、

「ニーソ忘れてたな。残念」

 と川地くんが言った。なんのことかわからなかったけど、川地くんの目線が僕の脚のあたりにあったので、ソックスとかタイツのことかな、と思う。確かに、なにも穿いていない僕の脚は、少し間抜けな感じがした。

 川地くんが、スマートフォンで僕の写真を撮る。

「ちょっと待って」

 僕は慌てて言う。

「まだ完成じゃないんだよ」

 僕は、鞄から鏡とお化粧の道具を取り出し、お化粧をした。政谷くんと川地くんは、物珍しそうに見ている。千夏ちゃんに教えてもらったとおりに、BBクリームで肌の色をととのえて、ブラウンのアイシャドウを控えめに塗る。睫毛をビューラーで上げて、マスカラで盛ったあと、またビューラーで押し上げる。これがなかなか難しい。昨日、ちゃんと練習をしておいてよかった。そして、チークと色つきのリップクリームを塗れば完了だ。

 カチューシャを付けて、完成した顔を向けると、

「……やばい」

 川地くんがぼそりと言った。

「おまえ、かわいい」

 川地くんは目がおかしいのかな、と思ったけれど、そういえば、政谷くんもそう言ってくれたんだった。そのことを思い出して、僕はようやく、これはそういう遊びなんだと気が付いた。僕のことを、かわいいかわいいと持ち上げて、僕の反応を楽しんでいるのだろう。あのころの、女の子たちといっしょだ。どういう反応をすればよろこんでくれるかな、と考えて、僕は、

「ありがとう、うれしい」

 と、はにかんで見せた。こういう勘違いしたような反応が、きっとおもしろいのだろうと思ったから。

 だけど、笑いが起こると思ったのに、川地くんはぼんやりと僕を見るだけで、なにも言わない。政谷くんのほうを見ても、同じだった。笑ってくれたらいいのに。そう思っていたら、

「沢田」

 川地くんが上擦ったような声で、僕の名前を呼んだ。

「うん?」

 返事をしたけれど、川地くんはなかなか用件を言ってくれない。

「どうしたの、川地くん」

「多輝太でいいよ。こないだまで、おまえ、そう呼んでたろ」

 言われて、

「本当にいいの?」

 と確認すると、川地くんはやっぱり、

「ああ、多輝太でいい」

 と言うのだ。

「どうしたの、多輝太くん」

 知らないからね、確認したからね、と思いながら僕は呼び直す。その瞬間、多輝太くんの手が、黒いスカートの中にするりと差し込まれた。僕は驚いて、座ったまま後退る。

「おまえ、やめろよ!」

 政谷くんが言って、多輝太くんの腕を掴んだ。

「さわるくらい、いいじゃん。おまえだって、どうせさわったんだろ?」

 多輝太くんは、政谷くんを睨むようにして言った。

「なあ沢田、そうだろ? 翼はおまえに女装させて、おまえの身体をさわってたんだろ?」

 そう尋ねられて、僕は政谷くんにふくらはぎを撫でられたことを思い出した。黙っていると、それを肯定と受け取った多輝太くんが政谷くんに言った。

「やっぱ、さわってたんじゃん。自分はさわっといて、オレには駄目だって言うのかよ」

 政谷くんは黙ってしまった。多輝太くんの腕から、のろのろと手を離す。多輝太くんの手が素早く動き、僕の太ももを撫でた。

「沢田、超かわいい」

 多輝太くんはうっとりしたような目で僕を見て、言う。僕は、なんだかこわくなった。だけど、言葉が出ない。多輝太くんの手が、スカートの中で位置を変え、僕のお尻をゆっくりと撫で回した。

「あ、い、いやだっ……!」

 思わず叫んでしまった。多輝太くんの手の動きが止まる。怒られるかもしれない、と身構えると、

「ごめん」

 多輝太くんは言った。まさか、謝られるとは思っていなかったので驚く。

「どこならいい?」

「え?」

「どこなら、さわっていいんだ?」

 多輝太くんは、そんなことを言う。

「やめろって、多輝太」

 政谷くんの声が飛ぶ。

「翼は黙ってろよ」

 多輝太くんが、政谷くんのほうを見もせずに言い返す。

「なあ、沢田、どこならいやじゃない?」

「わ、わからない……」

 僕は首を振る。多輝太くんは、じっと僕を見る。なにも言わない。怒ったのかもしれない。こわい。

 じわりと視界が滲んだ。涙だ、と思う。泣くつもりなんてなかったのに。

 多輝太くんはそんな僕を見て、驚いたように目を見開き、両手を挙げて僕から少し離れた。

「しない!」

 多輝太くんは言った。

「もうさわらないから、泣くな」


 服を着替えて、僕はお化粧を落とす。

 その間、政谷くんは多輝太くんの腕を捕まえるように掴んでいて、多輝太くんはテンションも低く、おとなしくしていた。僕のほうを見るふたりの視線が、なんだかちくちくした。


 家に帰って携帯を確認すると、多輝太くんからメールが届いていた。

『今日はごめん。また遊ぼう』

 続いて、政谷くんからも。

『もう多輝太に呼ばれても行くな』

 僕は、どちらにも返信をしなかった。


『次の土曜日、また家においで』

 多輝太くんからメールが届いた。多輝太くんは実際の喋り口調とメールの口調が全然ちがう。メールのほうが、口調が少しやわらかい。

 政谷くんには、多輝太くんに呼ばれても行くなと言われたけれど、僕は多輝太くんのメールに、『わかりました』と返信した。政谷くんも来るかもしれないと思ったからだ。政谷くんに会えるのなら、うれしい。それに、多輝太くんはそんなに悪いひとではないような気がする。おもしろがっていろいろするけれど、僕がいやがれば、やめてくれる。

 多輝太くんから返信があった。

『なんか普通の服があったら持って来て。コスプレとかそういうのじゃなくて普通のやつ』

『わかりました』と返信する。僕は、メールだとなぜか敬語になってしまう。


 土曜日、多輝太くんの家に行くと、多輝太くんしかいなかった。

「政谷くんは?」

 尋ねると、

「翼? 呼んでないけど」

 と言われた。少しガッカリする。

「服、持って来た?」

 と言われ、僕は鞄から、政谷くんにもらった花柄のワンピースを出して見せた。

「沢田に似合いそう」

 多輝太くんはふにゃっと笑って、そう言った。始まった、と思い、僕は急いではにかんで見せる。

 服を脱いで、ワンピースを着る。やっぱり、後ろのファスナーを上げられない。メイド服のワンピースは、前にボタンがあったからひとりで着ることができたけど、このワンピースは誰かに手伝ってもらわないといけないので、ちょっと困る。

「あの、多輝太くん」

 遠慮がちに呼ぶと、多輝太くんは僕の後ろに回り、開いたままのファスナーのところから両手を突っ込んで、僕の両胸の上にそのてのひらを置いた。驚いて、僕は多輝太くんから離れる。

 ワンピースがすとんと足元に落ちて、僕はパンツだけの状態になってしまう。多輝太くんが、また僕に近寄って、僕の身体に両腕を回して、ぎゅっと締め付けた。がっちりと固定されて、動けなくなる。

「多輝太くん」

 呼んでも答えてくれない。多輝太くんは、無言で僕の首のところに顔を埋めると、そこをちゅうっと強く吸った。なにをしているのだろう、と思う。行動が意味不明で、こわかった。

「た、多輝太くん」

 声が震えてしまう。多輝太くんは、僕の首から顔を上げ、僕の顔をじっと見た。そして、

「ごめん」

 と言った。多輝太くんは、僕から身体を離すと、僕の足元でまるまっているワンピースをするすると持ち上げ、僕の腕に通して、前から背中に腕を回すようにして、後ろのファスナーも上げてくれた。

「ありがとう」

 僕が座ってお化粧をしている間、多輝太くんは僕の背中に負ぶさるようにしてのしかかっていた。これは、どう楽しいのかな、と思う。どういうふうに反応したらいいのか、よくわからない。重いし、お化粧がしにくいのでやめてほしかったけれど、多輝太くんは楽しいのかもしれないと思って、放っておいた。

 鏡越しに多輝太くんの顔をうかがうのだけど、多輝太くんは、なんだかぼんやりとしていて覇気がない。視線を自分に戻すと、首のところに赤い跡があることに気付いた。さっき、多輝太くんが吸ったところだ。

「多輝太くん、ここ赤くなっちゃった」

 言うと、多輝太くんは、

「うん」

 と言っただけだった。それから、僕の首の後ろを、またちゅうっと吸うのだ。

「多輝太くん、それ、なにしてるの?」

 もうあまりこわくはなかったので、聞いてみる。

「跡付けてる」

 多輝太くんは、言う。それから、また僕の首を吸う。

「こうやると、赤くなるんだ」

 多輝太くんは言った。

「それだけ?」

 僕は言う。

「うん」

 多輝太くんはうなずく。やっぱり今日は元気がない。口数が少ない。

「楽しいの?」

 と聞くと、多輝太くんは少し考えて、

「まあ、うん。そこそこ」

 と言った。

「楽しいなら、よかった」

 僕は言う。多輝太くんは、また僕の首を吸う。多輝太くんの身体が密着している背中が、やけに熱かった。

 お化粧が終わっても、多輝太くんは、自分の腕で僕の身体を後ろから固定して、ずっとそのまま座っていた。時折、僕の胸板をさすさすと撫でるので、なんだかくすぐったかった。僕にはおっぱいなんかないのに、さわって楽しいのだろうか。よくわからない。

「楽しい?」

 と聞いてみると、多輝太くんは、

「うん。てか、も、ヤバイ」

 と言った。結局よくわからなかったけれど、楽しいってことなのだろうと納得する。

 そして、多輝太くんは僕の首筋に顔を埋め、そこをまた、ちゅうちゅうと吸う。多輝太くんは変なひとだな、と僕は思う。


 体育の時間につるつるの脚で短パンを穿くことが、恥ずかしくもなんともなくなってきた。慣れというものはおそろしい。クラスのみんなも、僕の脚に臑毛がないことを特に話題にしなくなった。「沢田はそういうやつだ」と思われているようだ。それはそれで、なんだか複雑な気分だ。

 教室で体操服に着替えていると、政谷くんが突然僕の肩を掴んだ。

「沢田、おまえ、それ」

 政谷くんは、僕の首元を見ていた。僕の首には、多輝太くんが吸った赤い跡がある。普段は制服の襟で隠れているけれど、体操服に着替えると、もしかしたら、首の赤いのがかなり目立つのかもしれない。驚いたことに、この跡はなかなか消えないのだ。だけど、別に痛くも痒くもないものだから放っておいた。

 家では千夏ちゃんだけが僕の首の跡に気付いて、

「それ付けたの、女の子? 男の子?」

 と尋ねてきたので、

「男の子」

 と正直に答えた。

「どうだった? いやだった? いやならいやって言わないと駄目よ」

「なんでこんなことをするのかよくわからなかったけど、別にいやじゃなかったよ。痛そうに見えるけど実は痛くないんだよ、これ」

 安心させようと思ってそう言うと、

「うーん」

 千夏ちゃんは複雑そうに唸っていた。

「それを付けた子は、どういうつもりだったのかしら」

「よくわからないけど、楽しいからしたんだと思う」

「本当に?」

「そのひとは、そこそこ楽しいって言ってた」

「うーん」

 千夏ちゃんは、また複雑そうに唸る。

「いやならいやって、ちゃんと言うのよ」

 と僕に念を押して、千夏ちゃんはやっぱり心配そうな顔をしていた。

「大丈夫だよ」

 僕は言った。


 政谷くんは僕の首をじっと見つめて、

「だれにやられたんだ」

 と小さく問う。その言葉の途中で僕は思わず多輝太くんのほうを見てしまう。教室を出ようとしていた多輝太くんは、僕を見てふにゃりと笑う。それから、政谷くんを見て、笑っているのか怒っているのかわからない変な表情をした。

 政谷くんの顔色が変わった。目がつり上がって、こわい顔になる。

「沢田、ちょっと来い」

 政谷くんに腕を引っ張られ、教室から連れ出される。

「でも、体育始まっちゃうよ」

 と言ったのだけど、政谷くんはなにも言わない。引っ張られる腕が痛い。チャイムが鳴った。

 連れて行かれたのは、図書室だった。もう授業が始まってしまったので、誰もいない。

「おまえ、多輝太の家に行ったのか?」

 政谷くんが言う。

「うん、土曜日に」

 僕はうなずく。

「行くなって言ったのに」

 政谷くんは、苦しそうな顔で僕を見た。

「政谷くんも、来るかと思ってたんだけど」

 僕はいいわけみたいに、うにゃうにゃと呟く。

「多輝太は、おまえになにをしたんだ」

「首を吸うんだよ、多輝太くん。びっくりした。でも、楽しいんだって」

 僕は言う。

「楽しんでもらえて、よかったよ」

 政谷くんは、やっぱり苦しそうな顔をしている。

「他には、なにかされなかったか?」

「身体をさわられたけど、それだけだよ」

「それだけって……」

 政谷くんは憤然としたような顔で僕を見た。

「おまえ、もう多輝太にさわらせるなよ」

「どうして?」

「どうしてって。沢田、いやじゃないのか?」

「僕は別にいやじゃないよ。多輝太くんも楽しいって言ってたし」

 政谷くんがなにも言わないので、僕は続ける。

「政谷くんだって、さわっていいんだよ」

 政谷くんの目が見開かれた。

「首も吸っていいよ。政谷くんが楽しいなら、僕はうれしい」

 政谷くんの目がドロリと熱を持ったようになり、僕は両肩を強く掴まれる。政谷くんの顔が近付く。首を吸うのってそんなに楽しいのかな、と思う。政谷くんか多輝太くんか、どちらかがいいって言ってくれたら、僕も吸わせてもらおうかな、と考える。

 だけど、政谷くんが吸ったのは、僕の唇だった。吸った、というか、これは、

「キスだ」

 僕は思わず言う。

「沢田」

 政谷くんが僕を呼ぶ。

「は、はい」

 返事をしたけれど、政谷くんは聞いていないみたいだった。

 政谷くんの手が、体操服の中に入ってきて、僕のお腹を撫でる。胸板を撫でる。僕はなぜか力が抜けてその場にへたり込んでしまう。政谷くんも身体を低くして、僕の体操服をめくり上げた。そのまま床に倒される。僕は図書室の天井を見ていた。床が冷たいな、なんてことをぼんやりと思う。

 政谷くんは僕の胸板を揉むように撫でながら、僕の首筋をべろりと舐めた。耳たぶを軽く吸われて、「ひゃっ」と変な声が出てしまう。

 多輝太くんにさわられてもなんともないのに、政谷くんにさわられると、なんだか変だ。身体の真ん中が、むずむずしてしまう。

 政谷くんは、僕の口の端にもう一度キスをして、僕の短パンに片手をかけながら、僕の乳首を吸った。政谷くんが、そこばかり吸ったり舐めたりするので、また変な声が出そうになる。慌てて口をおさえてから思う。もしかしたら、変な声を出したほうがよかったのかもしれない。

 なんだかよくわからなかった。こういう遊びは初めてだから、どういう反応をしたらいいのか、わからない。いやがればいいのか、よろこんで見せればいいのか。政谷くんは、どっちが楽しいのだろう。

 気が付くと、短パンが半分ずらされていて、政谷くんの手が僕の下腹部をやわやわと撫でていた。

「政谷くん、楽しい?」

 と聞くと、政谷くんはハッとしたように、僕から離れた。

「ごめん」

 政谷くんは泣きそうな声で言った。

「ごめん。おまえに好きなやついるって、俺知ってるのに、こんなこと……」

 政谷くんの顔は苦しそうに歪んでいた。

「ごめん」

 そんなこと気にしなくていいのに。僕はぼんやりと思う。

 頭がくらくらしていた。


 政谷くんは、僕の手を引いて立たせてくれて、乱れた体操服を直してくれた。それからまた、「ごめん」と言った。いいのに、と思う。政谷くんが楽しいなら、僕はいいのに。

「どうだった? 楽しかった?」

 僕が言うと、政谷くんは苦しそうに顔を歪めた。政谷くんは、思ったほど楽しくなかったのかもしれないな、と思う。いま、僕は女の子の格好もしていないし、そんなのではつまらなかったのかもしれない。それとも、もう僕で遊ぶのには飽きたのだろうか。

 政谷くんは、もう一度、「ごめん」と言うと、肩を落として図書室を出て行った。ガッカリさせてしまった。そう思うと、悲しくなった。

 僕は体育をサボることにして、保健室へと向かった。


「あら、どうしたの。顔が真っ赤よ」

 保健室の先生に言われ、体温計を渡された。熱を計ると、三七度八分だった。政谷くんにさわられて、興奮してしまったのかもしれない。なんだか恥ずかしかった。

「あらあら、ちょっとあるわね」

 先生は言って、僕にベッドを貸してくれた。

「私はこのあと、用事があるから抜けるんだけど、楽になるまで寝てていいから。担任の先生には、私から言っておくからね」

「はい。ありがとうございます」

 僕はうなずいて目を閉じる。うとうとしていると、頬を両手で包まれるような感覚があった。

「千夏ちゃん?」

 無意識に呼びかけてから、僕は気付く。ここに千夏ちゃんがいるはずがない。

「だれ? それ」

 返ってきた声は、多輝太くんのものだった。目を開ける。多輝太くんの顔が至近距離にあって、驚く。近いせいなのか熱のせいなのか、ピントがうまく合わない。ふに、と両頬を指でつままれる。手が頬から離れた。顔も離れたので、なんだかほっとする。

「探した。体育終わったぞ。おまえ、サボったろ」

 言われて、僕はうなずく。

「翼と、どこにいたんだよ」

「図書室」

 僕は正直に答えた。

「なにやってた?」

「遊んでた」

「遊んでた?」

 多輝太くんはきょとんと僕の顔を見る。

「土曜日に、多輝太くんがしたみたいなの。ちょっとちがうけど」

 多輝太くんの顔から、表情が消える。

「翼は、おまえになにをした?」

 多輝太くんは、政谷くんと同じことを尋ねてきた。

「身体をさわったりとか、あと、なんか……いろいろ舐めたり」

「なっ!?」

 と声を上げ、

「翼のやつ、そんなことすんの?」

 多輝太くんは戸惑ったような怒ったような、なんだか妙な感じに言った。

「僕、どういうふうにすればいいのかわからなくて」

 ぼんやりした頭で、僕は言う。

「どういう反応をしたらいいの? 多輝太くんたちは、僕がいやがるのが楽しいの? 僕がよろこんでるのを見て笑うのが楽しいの? よく、わからないんだ」

 多輝太くんは、困ったように僕を見て、僕の髪の毛を撫でた。

「多輝太くんにも政谷くんにも、楽しんでもらいたいのに、僕、うまく反応できなくて。せっかく遊んでくれるのに、政谷くんをガッカリさせちゃった」

 多輝太くんは黙って、ずっと僕の髪の毛を撫でている。

「最初は、オレ、確かにそういうつもりだったな」

 ぼそりと多輝太くんは言った。

「ごめん。おまえは、普通にしてりゃいいよ。いやなことはいやだって言え。無理してオレに付き合うことはない。オレはおまえにさわりたいと思うけど、おまえがいやだって言うなら、無理にはさわらない」

「それ、楽しい?」

 思わず聞くと、

「オレは、オレが楽しいよりも、おまえが楽しいといいと思うよ」

 多輝太くんは言った。よくわからなかった。多輝太くんは、しばらく黙ったあと、

「ところで、さっきのチカちゃんってだれ?」

 と聞いた。

「僕のお姉ちゃん」

 答えると、多輝太くんは安心したように、やわらかい表情で笑った。


 土曜日、また多輝太くんの家へ行った。『おいで』と誘われたのだ。

『土曜日は姉に服を貸す約束をしているので服を持って行けません』

 とメールを返す。千夏ちゃんに、「貸して」と言われていたのだ。

『別にいいよ。手ぶらでおいで』

 と返信があった。僕は、『わかりました』とメールを返す。だけど、一応お化粧の道具と政谷くんにもらったバレッタだけは持って行った。


 多輝太くんの家には、やっぱり多輝太くんだけだった。

「政谷くんは?」

 と微かな期待を捨てきれずに尋ねると、

「なんでおまえ、そんなに翼のこと気にすんの?」

 と言われた。僕は黙ってしまう。

「いや、いい。やっぱいい」

 多輝太くんは言った。

「いまは、さすがに聞きたくないわ」

 多輝太くんは、着替えろともお化粧をしろとも言ってこないので、僕はなにをしたらいいのかわからない。

「さわってもいい?」

 多輝太くんが言う。

「お化粧とか、しなくていいの?」

 尋ねると、多輝太くんは、

「いいよ、別に」

 と言う。いいのか、と思いながら、僕は多輝太くんのそばに寄る。多輝太くんは僕の背中に腕を回して、僕の身体をぎゅっと固定する。それから、僕の首をちゅっと軽く吸った。それで思い出す。

「多輝太くん」

 呼ぶと、

「うん?」

 多輝太くんは僕の首から顔を離した。

「僕も、多輝太くんの首のとこ、吸ってみてもいい?」

 多輝太くんは驚いたように目を見開いた。やっぱり駄目かな、と思っていると、

「いいけど、急にどうしたんだよ」

 と言われる。

「この前、多輝太くん、楽しいって言ってたから」

 答えると、多輝太くは眉間に皺を寄せて僕を見る。

「この前も思ったけどさ、沢田、おまえ、この意味わかってんの?」

「吸ったところが赤くなるのが楽しいんでしょ」

「ちがうよ!」

 多輝太くんは口をぱくぱくさせて、少し怒ったように言う。

「なんで、おまえ、そういう知識持ってねんだよ」

 なんでと言われても困る。知らないものは知らない。

「普通、友だち同士でエロい話とかするだろ。あと、そういう本とかネットとかさ。そんで知識を増やしていくんだろ。なんでおまえはそんなになんも知らねんだよ。幼稚園児並みじゃねーか」

 多輝太くんの言葉に、なるほど、と納得する。幼稚園の時には確かに友だちがいたような気がするけれど、小学校に上がってからは友だちなんか僕にはひとりもいないのだ。

「僕、友だちいないから」

 言うと、多輝太くんの眉が下がった。

「いないって。だって、翼は?」

「政谷くん?」

 僕は驚く。政谷くんが僕の友だちだと思われているなんて。政谷くんに迷惑がかかってしまう。

「政谷くんはおもしろがって僕にかまってくれるけど、友だちではないよ。僕に友だちはいないよ」

 僕はきっぱりと否定しておく。

「翼も別におもしろがってるわけじゃないだろ」

 もそもそと口の中で、多輝太くんは言った。そうなのかな、と僕は思う。でも、政谷くん自身がそう言ったのに。

「オレは?」

 多輝太くんが眉を下げたままの表情で尋ねてくる。

「オレはおまえの友だちかな? オレ的には、友だちって言われるとちょっと不満だけど」

 と言うので、

「わかってるよ。僕みたいなキモいオカマの変態野郎と友だちだと思われるなんて地獄だもんね。安心して。多輝太くんも友だちじゃないよ」

 ちゃんと答えたのに、多輝太くんはなんだか変な顔で僕を見た。

「おまえ、いろいろ間違ってるよ」

 多輝太くんはため息を吐く。

「オレ、友だちでいいよ」

 多輝太くんが言った。

「沢田、オレたち友だちになろう。まずは、そっからだ」

「本当に?」

 僕は驚く。

「多輝太くん、本当に僕と友だちになってくれるの? キモくない?」

 友だちなんて、初めてだ。自然と声が弾んでしまう。

「キモくないよ。前言ってたの、あれは忘れろ」

 多輝太くんはばつかわるそうに言った。

「わかった。忘れるね」

 僕は笑ってうなずく。

「おまえ、うれしいの?」

 そう聞かれ、

「うれしい」

 またうなずくと、多輝太くんはふにゃりと笑った。それから、少し屈んで僕に首筋を差し出してきた。

「吸うんだろ。好きにしろ」

 僕が多輝太くんの首に吸い付くと、多輝太くんはくすぐったそうに笑った。

「赤くならないよ」

「もうちょい強く吸てみろ」

「わかった」

 強く吸うと、多輝太くんの首に赤い跡ができた。

「できた」

 今度はまた別のところを吸ってみる。赤くなる。少し楽しくなってきた。僕は多輝太くんにしがみついて、多輝太くんの首をちゅうちゅうと吸う。

「楽しいか?」

 聞かれ、

「楽しい」

 僕は答える。

「そりゃよかった」

 多輝太くんは言って、僕の耳の後ろに自分の唇をくっつけた。くすぐったくて、僕は笑う。


 家に帰ると、千夏ちゃんが待っていた。

「待ってたの、春くん。服をありがとう」

「どういたしまして」

 僕は、千夏ちゃんに教えてもらったとおり、洗濯機の手洗い仕様でワンピースを洗濯する。

「今日、変なひとに会ったのよ。ごめんね、あたし、カッとなっちゃった」

 洗濯機が回っている間、千夏ちゃんが話してくれる。


 今日、千夏ちゃんは、僕が政谷くんにもらったワンピースを着て、友だちと買い物へ行った。友だちは、ワンピースを「かわいいね」と誉めてくれた。

 友だちと別れ、帰宅する途中、

「沢田」

 と後ろから呼び止められた。振り向くと、知らない男の子が立っていた。どうやら、自分を待っていたようだ。

「この間は、ごめん」

 その男の子は言った。千夏ちゃんは、内心で首を傾げていた。彼に謝られるようなことをされた覚えはない。というか、今日まで彼に会ったこともない。しかし、自分が覚えていないだけかもしれない。だって、彼は自分の名前を呼んだのだ。間違えずに、「沢田」と。ということは、彼のほうは自分のことを知っている。

「に、似合うよ、それ。かわいい。ちゃんと女の子に見える」

 その男の子は精一杯といった感じでそう言った。そこで、千夏ちゃんは気付く。この子は、あたしを春くんと間違えているんだわ。

 千夏ちゃんは口を開く。

「春くんを着せ替えて遊んでるのは、あなた?」

 彼は、ぎょっとしたように千夏ちゃんを見た。僕たちは、姿形は似ているけれど、やっぱり声だけは全く違うのだ。

「春くんの首に痕を付けたのも、あなた?」

 彼は、茫然としたように、それでも首を横に振った。千夏ちゃんは、カッとなった。嘘吐いてんじゃねー! と、思ってしまった。それが嘘か本当かは別として。

 そこからは、もう止まらなかった。

「春くんは、ちょっと物を知らなすぎるの。あたしもどこまで教えていいのかわからない。だって、あんな痕付けられて、いやじゃなかったって言うのよ。きっと、なんとも思ってないの。隠そうともしないのよ。信じられないわ。ちゃんと教えておけばよかった。あれが、どういうことか知っていたら、拒否するなり受け入れるなり、春くんは自分の意思でなにか言えたはずなのに。春くんは、別に女の子になりたいわけじゃないんだから。『ちゃんと』って、なによ。『ちゃんと女の子に見える』って。ひどい。春くんは男の子よ。女の子になりたいわけじゃない。もし自分が女の子だったら、好きなひとに好きになってもらえるかもって、そう思ってしまっただけなんだから。春くんの気が済むならって、あたしも少し手伝ったけど、でもきっと間違ってる。春くんを春くんのまま好きになってくれるひとじゃなきゃ、あたし、いやよ。春くんが女の子の格好してないといけないって言うなら、そのひとは、春くんのことを本当には好きじゃないんだわ。いくら春くんがかわいいからって、春くんを女の子の代わりにしないでよ」

 千夏ちゃんは早口で捲し立てた。目の前の彼はなにも言わずに聞いていた。

「大事にしてよ。春くんで遊ばないで。春くんのこと、傷付けないで。大事にしてよ。あたしの、大事な弟なの」

 言って、千夏ちゃんは走ってその場から逃げた。走りながら、千夏ちゃんは思った。

 やっちゃった。勝手なこと言っちゃった。あの子が春くんとどういう関係かを確かめもしないで、ついカッとなって勝手なことを。


「ごめんね、春くん」

 話し終わった千夏ちゃんは、しょんぼりと謝った。

「うああああ……」

 僕は思わず変な声を出す。血の気が引く。千夏ちゃんが会ったのは、きっと政谷くんだ。政谷くんに、僕の気持ちがばれてしまったかもしれない。一瞬そう思ったけれど、千夏ちゃんは僕の好きなひとを知らない。だから、僕の好きなひとが政谷くんだという事実だけはばれていないはずだ。

 そこまで考えると、気持ちが落ち着いてきた。なんだ、いままでとなにも変わらないじゃないか。僕が女の子になりたいわけではないということは知られてしまったけれど、いまとなっては、たいしたことではない。政谷くんは、ただおもしろがっていただけだったんだから。

「大丈夫だよ、千夏ちゃん」

 僕が言うと、千夏ちゃんはほっとしたように微笑んだ。

「僕がなにも知らないって、今日、友だちに言われたばかりなんだ。千夏ちゃんも、そう思ってたんだね」

「そうよ。でも、だからって、あたしが教えてあげるわけにもいかないじゃない。そういうのは、男の子同士で少しずつ知識を増やしていくものでしょう?」

 千夏ちゃんは言う。多輝太くんと同じことを言ってるな、と思うと少しおかしかった。


[newpage] 日曜日、政谷くんの家に行く。政谷くんに、話があるから、と誘われたのだ。

 政谷くんの部屋は、以前来た時みたいに、がらんとしていた。余計なものがなにもない。

「昨日、沢田のお姉さんに会った」

 政谷くんは言った。やっぱり政谷くんだったのか、と僕は思う。

「聞いた」

 僕は言った。

「ごめん。俺、沢田が女の子になりたいんだと思ってたんだ」

 政谷くんは僕に頭を下げる。

「いろいろ、傷付けた。ごめん」

「仕方ないよ」

 僕は言う。

「僕が、政谷くんの勘違いを訂正しなかったのが悪いんだ」

 政谷くんは、もう一度、「ごめん」と謝る。いいのに、と思う。

「いいんだよ。僕、政谷くんがバレッタやワンピースをくれたこと、本当にうれしかったんだ」

 政谷くんは目を伏せる。そして、

「沢田の好きなやつって、やっぱ、多輝太なの?」

 と聞く。そういえば前に聞かれた時、ちゃんと否定をしていなかった、と思いあたる。だけど、いま否定してしまうよりも、肯定してしまったほうが、政谷くんにとってはいいのかもしれない。僕が政谷くんのことを好きだなんて知ってしまうよりは、迷惑がかからないかもしれない。

「うん、そう」

 僕はとっさにうなずいた。政谷くんは、苦しそうな顔をした。どうしてだろう、と思う。僕は、政谷くんのこの顔が好きじゃない。なんだか僕まで苦しくなってしまう。

「多輝太は、おまえのこと女の子の代わりにしてるんだぞ」

 政谷くんは言う。

「おまえ、それでもいいのか?」

「そんなことはないよ」

 僕は言う。

「多輝太くん、昨日は僕に女の子の格好なんてさせなかったよ」

「おまえ、昨日も多輝太のところへ行ったのか」

 政谷くんの目がつり上がる。

「うん」

 僕がおそるおそるうなずくと、

「あ、そうか」

 政谷くんは力が抜けたように言った。

「沢田は多輝太が好きなんだから、なんの問題もないんだ」

 政谷くんは、ぼんやりとした表情で僕を見た。

「うん」

 僕はしっかりとうなずく。

「なんの問題もないんだよ」

 多輝太くんには申し訳ないことをしたけれど、事情を話せば、きっと許してくれると思う。


 夜、多輝太くんに電話をかけた。多輝太くんは、

「沢田から連絡くるなんて、珍しい」

 と言っていた。

 今日の政谷くんとのことを多輝太くんに話して、

「申し訳ないんだけど、僕が多輝太くんのことを好きだってことにしておいてほしいんだ」

 とお願いすると、

「別にいいけど……なんかやだな」

 と多輝太くんは曖昧な返事をした。どっちだろう、と思う。

「ごめんね。いやなら、僕、ちゃんと政谷くんに話して謝るよ」

「『僕が好きなのは多輝太くんじゃありません』って?」

「うん」

「それも、なんかやだー」

 多輝太くんは言う。僕は困ってしまう。でも、いちばん困っているのは多輝太くんかもしれない。迷惑をかけてしまった。

「ごめん。どうすればいいんだろう」

「おまえが、オレのこと本当に好きになったらいいんだ」

 多輝太くんは言った。

「そしたら、なんの問題もないだろ」

 確かに、その意見はもっともな気がした。

「沢田、オレのこと好きになってよ」

 多輝太くんはなおも言う。

「多輝太くんは、それでいいの? 僕が多輝太くんのことを好きになっても平気?」

「あたりまえだろ」

 多輝太くんが言うので、

「努力してみる」

 僕は言った。

「本当だな?」

 多輝太くんは言った。

 僕は「うん」と返事をして、「また明日ね」と通話を切る。


 毎週土曜日、多輝太くんの家へ行って、オセロをする。僕が勝つこともあるし、多輝太くんが勝つこともある。だいたい半々の確率だ。

 僕が勝つと、多輝太くんは黒飴をくれる。オセロを始める前に好きなお菓子を聞かれ、黒飴だと答えたからだろう。「ばあさんかよ」と多輝太くんは笑っていた。

 多輝太くんが勝つと、多輝太くんは両手をひろげて、僕に「こっちこい」と言う。僕がそばに寄ると、自分の身体を僕にぴったりとくっつけて、僕の背中に両腕を回して固定する。以前はなにもなくても時々していた行為だけど、僕が多輝太くんのことを好きになろうと努力を始めてからは、多輝太くんはオセロに勝たないと僕にさわらなくなった。

 多輝太くんは、両腕で僕を固定したあと、鼻先で僕の髪の毛をかき分けて、僕の耳の後ろに唇をくっつける。唇は、僕の頬やおでこや手の指にくっつけられることもある。どこにくっつけられてもくすぐったくて、僕はいつも笑ってしまう。それを見て、多輝太くんも笑うので、僕はなんだかうれしい。

 多輝太くんは、僕に女の子の格好をしろとは言わない。

「もう、しなくていいの?」

 と聞くと、

「沢田がしたいならすればいい」

 と多輝太くんは言うので、僕はそのままでいる。別に、女の子の格好をしたいわけではないからだ。

 多輝太くんの家に行く時には、もう、お化粧道具は持って行かなくなった。政谷くんにもらったバレッタだけは、こっそり鞄に入れて行く。やっぱり大事だし、お守り代わりにしている。本当は置いて行ったほうがいいのかもしれない。僕は政谷くんのことを忘れている途中なのだから。


 多輝太くんの家に、ただオセロをしに行くのは楽しい。なんだか、かなり友だちみたいな感じがする。僕には、こんなふうに休日に遊ぶような友だちはいなかった。

 オセロをしている時、僕は、多輝太くんが勝てばいいな、と少しだけ思っている。多輝太くんがしてくれることは、僕にとって気持ちがいいのだ。多輝太くんが両腕で僕を固定する時、まるで抱き締められているみたいでドキドキしてしまう。きっと、僕は多輝太くんのことを好きになっている途中なんだと思う。


 僕は胡座をかいて、多輝太くんは床に寝転がってオセロをする。

「沢田って、キスしたことある?」

 ふいに、多輝太くんが尋ねた。

「あるよ」

 僕は答える。小さい頃は、よく千夏ちゃんとしていたし、最近では、少し前に政谷くんにされた。

「まあ、そうか。そうだよな。おまえ、しゃべるとアレだけど、黙ってりゃ普通にかっこいいもんな」

 多輝太くんは納得したように言う。かっこいいと言われたのは半信半疑ながらうれしかったけれど、でも、なんだか気になる。

「アレって?」

 尋ねると、

「だって、おまえ、しゃべるとバカっぽいじゃん」

 と言われた。僕は言い返せない。本当のことだ。

「最後にしたのっていつ?」

 多輝太くんが聞く。

「一ヶ月くらい前」

 僕が答えると、

「あ?」

 多輝太くんはむくりと起き上がって僕を見る。

「誰と? どこで?」

「政谷くんと、図書室で」

「くそ。あん時か」

 多輝太くんは舌打ちをして顔をしかめた。怒っているのかな、と思い、慌てて、

「僕からしたわけじゃないよ」

 と言う。なんだかいいわけみたいだ。

「まあ、わかってっけど」

 多輝太くんは苦々しそうに呟く。なんだ、わかってるのか、と僕はほっとする。

「オレもしていい?」

 むすっとした表情で多輝太くんは言った。

「キス?」

「うん」

 僕は、「いやならいやって、ちゃんと言うのよ」という千夏ちゃんの言葉を思い出す。一ヶ月前のあの日、保健室で多輝太くんも言っていた。僕は、いやかどうかを考える。別に、いやではないな、と思う。だから、

「いいよ」

 と答えた。多輝太くんは、むう、と唸って僕を見た。そして、「やっぱ、いい」と言う。

「おまえ、なんとも思ってなさそうなんだもん」

 多輝太くんは不満そうだ。


 オセロに勝ったのは多輝太くんだった。多輝太くんは床に座り直し、

「こっちこい」

 と両手をひろげた。僕はその中に入って、多輝太くんの腕で固定してもらう。

「僕、これ好きかもしれない。抱き締められてるみたいで気持ちいい」

 なんだか幸せな気持ちで言うと、

「なに言ってんの」

 驚いたように多輝太くんが言った。

「ごめん。ちがう。なんか気持ち悪いこと言っちゃった」

 僕は慌てていいわけを考える。

「じゃなくて」

 多輝太くんは声のトーンを落とす。そして、

「オレは、いま、おまえを抱き締めてるんだけど」

 静かに言った。

「え」

 僕は驚いて、身体を固くする。

「いまだけじゃなくて、いままでも、ずうっと抱き締めてるつもりだったんだけど」

「うそ」

「おまえ、どう思ってたんだよ」

 多輝太くんは、呆れているみたいだった。

「固定されてると思ってた」

「固定」

 多輝太くんは呟いて呆れたような顔で笑う。

「本当バカだな、おまえは」

 そして、

「あと、たぶんおまえわかってないだろうから言うけど、こういうのも一応『キス』の内だからな」

 そう言って、多輝太くんは僕の耳の後ろに唇をくっつける。頬やおでこやあごのところにも、同じようにする。くすぐったかったけど、笑えなかった。顔が、ものすごく熱い。

「おまえ言わなきゃわかんなそうだから、もう言うわ。オレは、沢田が好きなんだよ」

 多輝太くんは、はっきりと言った。

「へええぇぇ……?」

 僕の口から情けない声がもれる。いっぱいいっぱいだった。多輝太くんが噴き出す。

「言っとくけど、気付かないほうがおかしいんだからな」

 そう言って笑う多輝太くんの顔は真っ赤だ。その顔を見た途端、僕はなんだかたまらなくなって、多輝太くんの背中に手をまわして、ぎゅうっと多輝太くんにしがみついた。多輝太くんは一瞬固まったけれど、すぐに僕の身体を、ぎゅうぎゅうと強く抱き締めた。

「初めてだ」

 多輝太くんは言った。

「沢田、初めて抱き返してくれた」

 僕は、なんだか泣きそうになる。


 日曜日、伸ばしっぱなしだった髪の毛を短く切った。耳がまるっと全部出ているので、なんだかすうすうするけれど、髪の毛が顔にかからなくなったので楽だ。

 千夏ちゃんは、「似合う、似合う」とはしゃいだように言って、携帯で僕の写真を撮った。

「すっごくかっこいいよ、春くん」

 千夏ちゃんは言う。少し照れくさい。


 月曜日、学校へ行くと、僕の顔を見た政谷くんが、思わず、というふうに、

「もったいない」

 と言った。

「駄目だよ。僕に話しかけないで」

 そう言うと、政谷くんは苦しそうに顔を歪める。僕がオカマの変態野郎だという噂が、完全になくなったわけではないのだから、政谷くんはもっと気を付けなくちゃいけないと思う。でも、なにがもったいないのか気になって、僕は聞いてしまう。

「なにがもったいないの?」

 政谷くんは少しほっとしたように僕を見た。そして、

「髪、前のが似合ってたから」

 と言った。そう言われ、急に不安になる。千夏ちゃんが「似合う」とか「かっこいい」とか言ったのは、やっぱり身内の欲目だったのかもしれない。僕みたいなもんは、伸びた髪で顔を隠しておくくらいがちょうどいいのかもしれない。

 もしかしたら、多輝太くんもそう思うかもしれない。そう考えると少し泣きたくなってしまう。多輝太くんの席を見ると、まだ登校していないみたいだった。どうしよう、いまのうちに保健室に逃げてしまおうか。そんなことを思っていたら、

「はよっす」

 多輝太くんが教室に現れた。僕と目が合った多輝太くんは、一瞬目を見開いて、ふにゃっと笑う。それから、そのまま僕のところにやってきて、

「すっきりしたな、沢田。かっこいい、かっこいい」

 と言って、僕の髪をぐしゃぐしゃと撫でたので、僕は心の底から安心した。

 多輝太くんにきらわれなくて、よかった。胸を撫で下ろした僕は、自分の変化に気付く。僕は、どうして多輝太くんにきらわれたくないんだろう。まさか、僕はもう多輝太くんのことを好きになってしまったのだろうか。好きだって言われたから? 単純すぎる。自分の気持ちが信用できなくて、僕はぷるぷると頭を振る。

 政谷くんを見る。

「どうした、沢田」

 政谷くんは戸惑ったように聞いてくる。

「なんでもない」

 僕は言った。

「学校では、僕に普通に話しかけちゃ駄目だよ」

 政谷くんは苦しそうな顔をする。

「多輝太はいいのに、俺は駄目なのか」

 政谷くんは苦しい顔のまま言う。

「多輝太くんは友だちだから」

「俺は?」

 政谷くんは言う。僕は笑って答える。

「もちろん、友だちじゃないよ」

 政谷くんを安心させるつもりで言ったのに、政谷くんはなにかに衝撃を受けたように固まってしまった。

「そんなに、俺のことが嫌いなのか」

 政谷くんは、ぼそりと言う。どうして政谷くんがそんなことを言うのかわからなかった。

「嫌いなわけないよ」

 僕は言う。

「本当に?」

 政谷くんは確認してくる。

「うん」

 僕はうなずく。政谷くんは微かに笑う。


 金曜日の夜、政谷くんから、メールがきた。『好きだ』と一言だけ書かれていた。


 土曜日、多輝太くんの家でいつものようにオセロをする。

 政谷くんからのメールを多輝太くんに見せて、

「なにが好きなんだと思う?」

 と聞いた。多輝太くんは苦々しく笑う。

「そりゃ、おまえのことだろ」

 多輝太くんは言う。

「翼は、おまえのことが好きなんだ」

「うそだよ」

 僕は思わず言う。そんなこと、あるはずない。だって、政谷くんは僕をおもしろがっていたはずなのに。

「よかったな。両想いじゃん」

 多輝太くんは目を伏せ、オセロの盤面を見ながら呟くように言った。

「知ってたの?」

 僕は言う。

「僕が政谷くんのことを好きなの、知ってたの?」

「見てりゃわかるよ」

 多輝太くんは言った。

「よかったじゃん。おめでとう」

 多輝太くんは僕を見て笑う。でも、なんだかしんどそうな笑い方だった。

「多輝太くん、僕、よくわからないんだ」

 僕はいまの気持ちを正直に言う。多輝太くんは、

「これ終わったら、今日はもう帰れ」

 と言っただけだった。

 オセロは多輝太くんが勝ったのに、多輝太くんは僕を抱き締めてはくれなかった。その代わり、黒飴を一握り、鞄に入れてくれた。鞄の中を見た多輝太くんは、「これ、なに?」とリボンのバレッタを取り出した。

「バレッタ」

 僕は言う。

「政谷くんにもらったんだ」

「ふうん」

 多輝太くんは言った。

「ちゃんと大事に持ってんだな」

 多輝太くんは、バレッタを僕の鞄の中に戻す。多輝太くんは顔を伏せているので、表情が見えない。

「返事、ちゃんとしろよ。翼も、よろこぶだろ」

 多輝太くんは言った。僕は、下唇を噛む。

「もう、来なくてもいいぞ。てか、来んな」

 多輝太くんに言われ、泣きたくなってしまう。でも、仕方がない。多輝太くんが来るなと言うなら、仕方がない。

 もう多輝太くんとオセロができない。もう抱き締めてはもらえないんだろうな、と思うと苦しくなった。

 僕は、さよならを言って、家へ帰る。


 家に帰り、千夏ちゃんの顔を見るなり、僕は泣いてしまった。

「どうしたの、春くん!」

 千夏ちゃんは、僕のまとまらない話を辛抱強く聞いてくれる。

「春くん、どっちといっしょにいたいの?」

 話を聞き終わった千夏ちゃんは言う。

「どっちといっしょにいるのが楽しい?」

 言われて、僕は考える。

「どっちかひとりが思い浮かぶようなら、まだ迷う必要はないのよ」

「うん、そうだね」

 僕はうなずく。

「そしてね、それを正直に言ったらいいの」

 千夏ちゃんは、僕の頬を両手で包む。

「春くんが楽しいのが、いちばん」

 僕は笑った。千夏ちゃんと多輝太くんは、言うことが似ている。


 政谷くんには、土曜日の夜にちゃんとメールをした。丁寧に正直に書いたメールは長くなってしまったけれど、政谷くんは、『そうか。ありがとう』と返事をくれた。


 月曜日、多輝太くんは僕と目を合わせてくれなかった。仕方ないのかもしれない、と僕は思う。なんとか話をできないかな、と思っているうちに掃除の時間になる。じゃんけんに負けた僕は、ゴミ捨て場にゴミを捨てに行く。教室の二階の窓から政谷くんが見えたので手を振ると、政谷くんも手を振り返してくれた。

 ゴミ捨て場のそばでは、二年生が三人、タバコを吸っていた。

「あれ。こいつ、ハルキちゃんじゃね?」

 その中のひとりが僕に気付き、僕の顔を覗き込んで言う。

「ハルキちゃん?」

 もうひとりが僕を見る。僕はゴミ袋を持ったまま、少し後ろへ下がる。

「ほら、ちょっと前に噂になってたじゃん」

「ああ、アレか。女装してしゃぶってくれるってやつ」

 僕はぎょっとする。噂に尾ヒレが付いている。

「ハルキちゃーん、おれらのもしゃぶってくれんの?」

 僕は首を振りながら、また後退する。しゃぶるって、まさか黒飴ではないだろう。こわい。なにをしゃぶらされるのかわかったもんじゃない。

 腕を掴まれる。力が強くて振りほどけない。ゴミ袋を落としてしまい、結び目が開いてゴミがこぼれてしまう。二年生たちは怖がる僕を見て笑っていた。

 僕は息を吸う。お腹に力を入れる。そして、きっと確実に僕のことを助けてくれるだろうひとの名前を呼んだ。

「多輝太くん!」

 悲鳴みたいな声が出た。二年生たちが驚いたように僕を見る。

「多輝太くん多輝太くん多輝太くん!」

 夢中で叫んだ。

「沢田!」

 二階の教室の窓から、多輝太くんが顔を出した。

「たすけて、多輝太くん!」

 僕は叫ぶ。その瞬間、多輝太くんが二階の窓から飛び降りたものだから、僕は、「ひえっ」と叫んでしまう。

「なにやってんだ、あいつ!」

 僕を取り囲んでいた二年生が、多輝太くんが落ちたところへ向かって駆け出した。僕も慌てて走る。多輝太くんはその場にうずくまっていた。

「おまえ、なにやってんだ。大丈夫かよ?」

 二年生たちが口々に言う。

「多輝太くん」

 僕は多輝太くんに駆け寄る。多輝太くんは僕の肩を掴み、立ち上がる。

「多輝太くん」

「大丈夫だ。たぶん折れてはない」

 言って、多輝太くんは僕を自分の背後に隠すように移動させた。

「こいつには、なんもしないでください」

 多輝太くんは言った。

「お願いします」

「しないって。しない。冗談だって」

「てか、おまえ無茶すんな。ビビるだろうが」

 二年生は口々に言い、「ちょ、保健の先生呼んで来っから。じっとしてろよ」と、その場を立ち去ってしまう。思ったよりも悪いひとたちではないのかもしれない。

「多輝太くん」

 多輝太くんは仰向けにごろりと寝転がる。

「おまえ、翼を呼べよ。オレを呼んでもしょうがねーだろ」

 あー、脚がビリビリするー、と多輝太くんは呟く。

「でも、来てくれた」

「来るよ、そりゃ」

 多輝太くんは額に汗を浮かべて、笑った。脚が痛いのだろう。

「あんなふうに呼ばれたら、来るだろ、普通」

 多輝太くんは言う。

「なにされた?」

「まだ、なにも。女装してしゃぶってくれるのって、言われただけ」

 多輝太くんは眉尻を下げる。

「ごめん。その噂も、元はと言えばオレのせいだしさ……」

 多輝太くんの声は震えていた。そういえば、そんなこともあったなと思う。でも、

「いいよ、そんなの」

 言いながら、僕は多輝太くんの脚を撫でた。それから、多輝太くんの半開きのくちびるの端にキスをする。多輝太くんは、目を見開いて僕を見た。

「言っとくけど、気付かないほうがおかしいんだからね」

 僕は言う。多輝太くんは、おそるおそるという感じで、僕の手の指をやわやわと握る。

「マジかよ」

 呟いた多輝太くんは目を閉じて、また開く。

「また、家に遊びに行ってもいい?」

「うん」

「また、僕とオセロしてよ」

「うん」

 多輝太くんは小さくうなずいた。

 向こうには、保健の先生を連れて走ってくる二年生たちの姿が見える。



ありがとうございました。

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