一話『平日、病室にて。』
「………………ぁ」
右手に温かい感触があった。
鉛のように重い瞼を、なんとか頑張って開けるとそこは、知らない天井で。
ここは、どこだろう。
考えようにも、あまりにも情報が少なすぎた。
首を巡らせてみると、僕の右手を掴みながら、今にも泣き出しそうな顔で見つめている女の子がいた。
「お前っ……!」
肩を震わせて、それでもなんとか緊張を解そうと、深く息を吸って、吐いて。
両手はそのままで、恥ずかしさからか顔を逸らしてから、ポショリと呟いた。
「全く……心配、掛けさせるな、よな」
言って、不器用に笑ってみせる彼女とは。
これが。
初対面のように、思えたんだ。
午後八時過ぎ、屋上へと繋がる階段の下で、ぶっ倒れて伸びている僕を。
「悪い子はいねがー」と、校内を見回っていた警備員さんが見つけてくれたらしい。
声を掛けるも反応はなく。直ちに救急車を呼んで、ここの病院へと運ばれたという。
翌日、朝のホームルームでそのことを知った彼女――鴫原常夜は、授業から躊躇いもなく抜け出して、見舞いに来てくれたそうだ。
その証拠に、壁に掛けられている時計の針はどちらもてっぺん近くを指しており、カーテン越しに微かに見える空は明るくて。
眠気が中々出て行ってくれない頭でボーっとそちらを眺めていると、おもむろに病室の扉が開いた。
「……よぉ」
「う、うん」
僕の様子を見るや否や、『悪い』と言って、出て行ってしまった鴫原だった。
前髪が濡れている。きっと、お手洗いで顔に水を掛けてきたのだろう。
心なしか彼女の瞳が赤くなっているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。
「悪いな。取り乱しちまって」
「いや」僕は首を横に振った。「仕方ないと思うよ。うん」
他人事のように、僕は言う。
当事者は紛れもなく、僕なのに。
でもだって、仕方がないじゃないか。とも思う。
彼女のことも。
どうして僕が階段でぶっ倒れていたのかについても。
それらを含めた、殆ど全部の記憶が思い出せないなんて――そんなこと。
到底受け入れられるはずがなかった。
「ええと……鴫原さん、で、いいのかな」
「……ぅぅ」
勇気を出して、『友達の関係にあったらしい』目の前の彼女を、そう呼んでみると。
あからさまに悲しい顔をされた。違ったみたいだ。どうしよう……あわわ。
名前呼びか? 流石にないか……なら、渾名とか。しぎはらとこよ……しぎ……ダメだ、何も思いつかない。偶然思いついたとして、一致する保証なんてないし……うおお、無理だ。ムリゲーだ。
素直に謝るしかないだろう。
「や、ごめん……本当に、思い出せなくって」
「いや……いいんだ。こうやって目を覚ましてくれただけでも僥倖なんだ。『ワンチャン目覚めないかもしんねー』って、担当の医者が言っていたからな……本当に、よかった」
……妙にパリピ臭の漂うお医者さんは置いておくとして。
そんな優しい言葉を掛けられても、何も返せない今の自分の不甲斐なさを知って、ちょっと情けなくなる。
気丈に振舞っている彼女が、知らず知らずの内にため息をついているのを見て、いくらか気分が沈んでいるように思えた。元々そういった性格なのかどうかは、今のところは分かりようもない。
しばらく無言のまま、お互いにそうしていると、スカスカの学生鞄を持って、彼女は立ち上がった。
「はぁぁぁ明日……また、来るわ」
「明日?」
「今日は安静にしてろってさ」
「ああ」僕は頷いた。「うん」
今日はここで一日、様子を見られるらしかった。
そうやって少しでも僕から入院費を捻出しようと――いや。それは、流石に僕の邪推が過ぎたな。
「学校に戻るの?」
「は? いや……」
一瞬、『何言ってんだコイツ』とでも言いたげな視線を向けてから、病室の扉に手を掛けて。
もう一方の手をあげつつ、言った。
「帰るけど。じゃな」
そして僕の返答なしに、その扉が閉められて。
「……」
なんというか。
バチバチに染めた髪色といい。スカートの丈の短さといい。教科書が入っていなさそうな鞄といい。
彼女に対して抱いた印象は、『棘のない不良』だった。