9話
次の日から私は学校に行くふりをして家を出て、まっすぐにハットリの家に向かうようになった。
ハットリはたいていもう起きて絵を描いたり、大きな木材を磨いたりしていた。が、時々まだ寝ていて、そんな時は起きてくるまで放っておいて勝手にテレビを見たり本を読んだりした。
起きてきたハットリにお茶をいれる。ハットリは寝ぼけた顔でそれを飲み、新聞を読んだりテレビを見たりする。学校のことはなにも言わない。リカちゃんが全部話しているだろうから私から言うことも何もなかった。
そんなリカちゃんもほぼ毎日やってきては絵を描いたり、レポートをしたりしていた。ハットリの大学の友達というのは他にも沢山いて、代わる代わるやって来る。しかも庭から。誰も玄関から入ってはこない。ふらりと庭へ現れて縁側から入ってくる。なにをしに来るのかというと、それぞれ色々で、工作をしたり編物をしたり、飲んだり食べたり、つかみどころがないほど自由だった。
庭の物置を改造したという暗室を実際に使うところも見た。ハットリがその人に「おう、吉田」と声をかけた時は驚きのあまり心臓が止まりそうになったけれど、振り向くとそこにいたのはリュックを背負った普通の男の子だった。念の為、恐る恐る妹はいるか尋ねたが、その人はいないと答えた。不思議そうな顔で「なんで?」と聞かれたけれど、私はへらへらと笑ってみせて「なんとなく」と誤魔化した。もしかしたらこうやってずっと怯えながら生きるのだろうか。そう思うと自分が情けなかった。
私はやってくる大学生と呑気なお喋りに興じたり、時々マーブリングや簡単な工作を教えて貰ったり、模型を作ったりして遊んだ。ハットリの友達たちも最初は私に向かって「だれー?」と尋ねるけれど、それ以上のことはなにも言わない。私が中学生で、学校に行かないでここにいることについて誰も咎めはしない。この場所は私を受け入れている。ここが私が初めて得た自分の場所だと思った。
ハットリは普段はどちらかというと無口だけれど、私が何か言うと淡々とした口調で淀みなく話してくれる。絵や音楽の話。初めて付き合った女の子の話。大学の話。聞けばなんでも話してくれる。しかし、それは私が尋ねなければ自分からは話さないということでもあった。
私の生活はハットリの存在によって大きく変わり始めていた。本来、大部分を占めるはずの学校生活は消え去り、ハットリの家とリカちゃん達と出かけるクラブやバーが生活のすべてになった。急激に帰宅の遅くなった私を母は訝しそうな顔で見たけれど、私は適当にごまかし、口先だけで調子よく遅くなったことを詫びたりした。私が「万事快調」といった顔で学校や偽の友達の話しをしたので、母はそれ以上追求したり怒ったりすることはなかった。コツは明るく、笑顔で振舞うことだ。逆ギレしたり不貞腐れたりしては、余計相手の神経を逆撫でするだけだ。素直で子供らしいポーズ。明るく、朗らかな様子。それが上手いカムフラージュになる。私はそういった嘘を巧みに操った。
学校に行かなくなって、その間に制服は夏服に変わったけれど、それを着て実際に登校していないので私はそれをちょっとした私服のように感じていた。そうこうしているうちに時間は過ぎていき、週末に私とリカちゃん、コウゾウくんの三人でこの前行ったテンガロの店員がいるクラブに出かけることになった。コウゾウくんは、
「やっぱり週末とかに行かないとねー」
と、その盛り上がりっぷりをとうとうと語った。リカちゃんも調子を合わせて、
「お洒落していかなくちゃね! 夏、かわいーからモテまくりだよ」
とはしゃいだ。
そういう場合大抵そうであるように、ハットリはぼんやり煙草を吸って私達の話に耳を傾けていた。
「ハットリは行かないの?」
私が尋ねると、ハットリは「ふん」と鼻先で返事をし、煙を長々と吐き出した。
「なんで? ハットリってクラブとかで遊ばないの?」
「今そういう気分じゃないから」
「……ふうん……」
ハットリの苦々しい微かな笑いに私は「なにかあるな……」と訳有りな気配を嗅ぎ取った。
実際ハットリには「ワケあり」そうな空気がいつも漂っていた。はっきり言って謎が多かった。子供の頃からこの町で育っているのに、ハットリはどうして家族と住んでいないのだろうとか。なんで高校を中退したんだろうとか。そういったことを本人に聞くと、
「出席日数足りなくてダブったから」
と、あっさり答えるけれど、でもそれ以上は何も言わない。そして「お前、ヒマならちょっと豆腐買ってきてくれよ」とおつかいに出されたりする。そのあまりのわざとらしさは「言いたくないんだな」としか思わせなかった。だから私は追及することはしなかった。
誰にだって言いたくないことはある。知りたくないと言うと嘘になる。しかし私はハットリの気持ちを尊重することにした。私は十五歳の分際で、彼らと対等であろうとしていた。彼らがそうしてくれるように、私もそうでありたかったからだ。少なくとも彼らは学校や家のことを私に尋ねたりはしない、もう口にするのもおぞましいような事柄については。それが優しさでなく、なんだというのだろう。私はそれに倣いたいと思った。
私は母に友達のうちに泊まりに行くといい、鞄にパジャマを詰めてコウゾウくんのうちへ行った。コウゾウくんの部屋にはもうリカちゃんが来ていて、お化粧をしながら華奢なグラスに入れた金色を帯びた飲物を飲んでいた。私は今夜のアリバイ工作についてコウゾウくんに話すと、
「リカもここによく泊まるし、全然かまわないよ。布団、敷いてから行こう」
そう言って自分のベッドの横にお客さん用の分厚い布団を二組敷き詰めてくれた。グラスの中の飲物はなにか尋ねると、
「シェリー。飲んでみる?」
とリカちゃんがグラスを差し出してくれた。繊細なカットの施された細いグラスに鼻先を近づけると、涼やかな匂いがした。口に含むと甘いような香りのあとに辛味がきて、でも滑らかな舌触りでスムーズに喉を流れ落ちていった。
「これ、美味しいね」
「夏、あんた、けっこういける口ね」
コウゾウくんがグラスにシェリーを注ぎ足した。
リカちゃんは綺麗に、かつ、丹念に化粧し、私達の目の前で潔く服を脱ぎオールドローズの散ったシフォンのワンピースに着替えた。体の線に沿う柔らかな素材のワンピースはずいぶんフェミニンでロマンチックで、リカちゃんは知らない人みたいに見えた。ぐっと大人の女の人に。
「夏、お化粧してあげる。座って」
リカちゃんはそう言って私を座らせた。
テーブルに置かれた鏡に映る私はただの中学生で、もちろんすっぴんだった。化粧が似合うような年齢ではないけれど、リカちゃんがあまりに綺麗なので、私は好奇心と羨望と期待の眼差しで今まさに私の眉を整えてくれるリカちゃんに心躍らせた。リカちゃんは自然に見える程度に眉を整えてくれ、アイブロウを使い、アイライナーをひき、シャドウをいれ、「素顔に近いけれど、まるでちがう」というメイクを施してくれた。鏡の中の私は目鼻のはっきりした顔になり、いかにも意思の強そうな瞳に変わっていた。最後に赤みのついたグロスを筆で塗ってくれながら、
「この町にももう慣れた?」
「……うん」
「住めば都だからね」
「……うん」
「はい、できた」
時計を見るとすでに九時近くなっていた。私はこれも用意のリカちゃんの踵の高い赤いサンダルを借り、コウゾウくんのアドバイスでジーンズの裾を折って履いた。
「ハットリも来たらいいのにね」
部屋を出ながら私が言うと、二人は顔を見合わせ少し困ったような表情をした。私はそれを見逃さなかった。
「あいつ、気分屋だからね」
コウゾウくんがそう言ったけれど、彼らがハットリについて何か秘密を知っているのは確信していた。
私達が連なって駅へ行くと、駅前のコーヒーショップから山田くんが出てきたところに遭遇した。私はちょっと慌てたけれど、すぐに気を取り直して「こんばんは、一人?」と先に声をかけた。山田くんはものすごく驚いた顔で私を見た。
「渡辺さん……。なにしてんの? つーか、なんで学校休んでんの?」
「……なんでって……」
知ってるでしょう?という意味を込めて私は山田くんをじっと見詰めた。分かってるでしょう?と。
山田くんはため息をつくとすべてを諒解したように、
「どこ行くの?」
と質問を変えた。
「友達と遊びに」
「……友達って……」
私はすでに先を行くコウゾウくんとリカちゃんを指差した。
「年上だけど、友達なの」
「……あれ、もしかして、斎藤さん?」
「知ってるの?」
山田くんは目を細めながらコウゾウくんを見ていた。そうか、同じ中学出身だと言っていたし、考えてみたら同じ町内だし、知らないってこともないか……。
「なんで友達になったの?」
「……なんでって……」
「いや、斎藤さんってうちのアニキと同級生でさ。中学ん時。部活も同じで、うちによく遊びにきてたから」
「ああ、そうなんだ。えーとね、コウゾウくんと家が近いから、あと、えーと、たまたま気が合って」
「ふーん……。年上の人と仲良いから、学校のヤツらとは合わないんだな……」
「……そういうんじゃないけど」
「……うん、ごめん。分かってる。ごめん」
「なんで謝るの?」
「……」
今度は山田くんが分かってるだろう? という目で私を見つめる。私は軽く肩をすくめた。
「じゃあ、また」
「渡辺さんさあ、なんかあったらメールしてよ。アドレス、教えとく」
「あ、うん」
私は携帯電話を取り出して、山田くんの言うアドレスを登録した。
「じゃあ」
「……うん、じゃあ」
山田くんはさらりと片手を挙げ、走ってコウゾウくん達を追いかける私の背中を見送ってくれた。一度だけちらりと振り返ると山田くんはまだそこに立っていた。私は突如山田くんのところに駆け戻りたい衝動に駆られた。そして善良で真面目な山田くんに言いたかった。私達はもしかしたらすごく気が合って、仲良くなれるかもしれないけれど学校にいる限りそれは不可能なのよ、と。もしここで山田くんに一緒に行かないかと誘ったら、彼は来るだろうか。
「ごめん、ごめん」
私はコウゾウくん達に追いつきながら、自分は、自分で思うよりも山田くんを憎からず思っているのだなと気付いた。そして、たぶん山田くんもまた私を嫌いではないということが感じられた。私達は今同じ気持ちなんだと思うと、一層悲しくなった。不幸で、悲しい気持ちに。
夜の電車はこうこうと明るくて、しらじらしい空気が漂っている。私は夜の中をいく電車に乗っていると、目が覚めるような、それでいて非現実的な世界へさらわれるような気分になる。レールの上を着実に走る電車。行き先は決まっているのに、永遠にたどり着けないような怖さがある。
前の学校では電車通学で、片道三十分程度だったけれど朝のラッシュが強烈だった。よくもみくちゃにされたし、痴漢にもちょいちょい出くわした。その度にいやな気分になったし泣きそうになったりもしたけれど、あの苦痛は今の学校より百倍ましだ。そういえば、父も通勤は電車だった。片道一時間。父はどんな気持ちで早朝や深夜の電車に乗っていたんだろうか。そして、父が帰りたいと思う場所はいつから私達のところではなくなったのだろう。
私は体を斜めにして暗闇の車窓を眺めた。
「さっきの子、山田くんっていうんだけど、コウゾウくんのこと知ってたよ」
「……ああ、そう」
「山田くんのお兄さんと同級生だったんだって?」
「……うん。てゆーか、初恋だった」
「えっ」
私はびっくりしてガラガラに空いた車内に声を響かせてしまった。正面に座ったコウゾウくんに慌てて声をひそめながら、
「山田くんのお兄さんを好きだったの?」
「そうだよ。同じ部活で仲良かったし。アタシ、もうその頃って自分がゲイだって分かってたからさ。悩んだけど、卒業する時にコクったんだよね」
「そ、それで……」
「絶交されちゃった。きもいって」
「……」
「やだ、そんな顔しないでよ! 失恋なんて、よくある話じゃないの!」
コウゾウくんは下町のおばさんみたいに手をぱたぱたと振りながら笑った。軽い衝撃を受ける私を慰めるように、
「まだ十五だったんだもん。仕方ないよ。今ならちがう反応もあるかもしれないけどさあ。あの頃はそんなこと言われてもびびっちゃうだけじゃない? それなのに、真っ向告白とかするアタシが悪いのよー」
「ごめん」
「昔のことよ」
コウゾウくんはほんのりと微笑んだ。傷ついたことのある人の笑顔だった。甘悲しいような、一枚の薄絹をかぶせたような微妙な表情。私は黙ってコウゾウくんを見つめていた。そういえばハットリも時々こんな顔をする。泣くのを我慢して笑っちゃうような、不可思議な顔を。ああ、だから彼らは優しいのだ。痛みを知っているから。
「それよりさあ」
「なに?」
コウゾウくんが突然私に詰め寄るようにして言った。
「さっきの、山田の弟」
「うん」
「夏のこと、好きなんじゃないの?」
「え?」
私はあまりに唐突な発言に驚いて、思わずきょとんとしてコウゾウくんの顔を見た。コウゾウくんはどういうわけだか目を輝かせて、
「アタシ、こういう事に関しては勘がいいのよね」
と言った。
するとリカちゃんが笑いながら口を挟んだ。
「また始まったよ! もー、すーぐこれなんだから! あんたの勘なんて当たったためしないじゃない」
「そんなことないよ! ねー、どうなのよ、そこんとこ」
ああ、まるで女子高生の会話……。私は苦笑いしながら、興味津々な様子の二人を見返した。見ながら、心の中で玉島さん達の姿が浮かんでは消える。教室での山田くんの微妙な態度も。
誰が誰を好きだとか、嫌いだとか、そんなの本当はどうだっていい。誰も誰かの心の中など見えはしないのだから。私は肩をすくめて見せ、
「山田くん、モテるみたいよ」
と言って、さっき登録したばかりの山田くんのメールをもう削除してしまいたいような衝動に駆られた。
手の中の携帯電話のメモリを見つめながら、私はふと思い立ってコウゾウくんに尋ねた。
「ハットリはケータイ持ってないの?」
「持ってると思う?」
「あ、やっぱり持ってないんだ」
「必要ないからねえ」
私はあれから携帯電話の待ち受けにハットリの写真を設定していた。ハットリがイーゼルに向かって絵を描いている横顔の写真だ。それを撮った時、シャッターの音を聞いたハットリは私の方を向いて、ちょっとだけ笑った。誰にも内緒だけれど、私はそのハットリの唇に漂うようなあるかなきかの微笑に心の一番柔らかいところをぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
怖いような、懐かしいような気持ち。何度も見たくなるような、目を背けたいような危ういもの。
「男前に撮れよ、ちゃんと」
ハットリはそう言って再びキャンバスに向き直り、筆を動かし始めた。
「写真は真実を写すっていうから」
「お前、失敬だな」
私はハットリに彼女がいるのかどうかを、コウゾウくんにもリカちゃんにも聞けなかった。本人に聞けば、ハットリはまた淡々と答えるのだろうけれど、本人の口からは聞きたくないと思った。真実がすべていつでも正しくて、誰も傷つけないとは限らない。
「ハットリも一緒に来ればよかったのにね」
「……そうだね」
窓の外を眺める私に、コウゾウくんとリカちゃんは顔を見合わせて黙ってしまった。待ち受け画面に設定したハットリの横顔は私にとってお守りみたいなものだった。
街は週末のせいもあって賑やかだった。通行人の数も多くて大人達はみんなアルコールの匂いを帯びて明るかった。今ではすっかりお馴染みになったクラブ「ハッピィハウス」の前には人がたむろし、お喋りしたり煙草を吸ったりしていた。私達はそれを横目にさっさと階段を降り、顔見知りの店員に挨拶をして中へ入る。手の甲にはエントリーを示すスタンプ。扉を押し開けて入ってまず驚いたのはいつもより店内が薄暗く、そのくせ派手な照明が灯台の光のようにぐるぐるとめぐっていることだった。が、それ以上に驚いたのはラッシュ時の電車みたいな大混雑と大きな音だった。
煙草の煙で視界がかすむようなフロアには音楽にあわせて踊る人やお酒を飲む人が詰まっていて、思い思いに夜を楽しんでいた。私は軽い衝撃で呆然としていたけれど、カウンターにお酒を買いに行こうと耳元でコウゾウくんに言われ我に返った。頷いてカウンターに向かって歩き出しながら、履き慣れない靴に集中しながらぐっと背筋を伸ばした。心持ち顎先を上に向けて、虚勢を張るような、見栄を張るような姿勢で。私は自分が場違いなただの子供であることを恥じて、懸命に「背伸び」しようとしていた。ここにいることや、その姿が自然で、慣れた様子のコウゾウくんやリカちゃんが羨ましく、眩しかった。いくら彼らが私を同等に扱ってくれても、それは本当は違うのだ。彼らが大人だからこそ、私を思いやってくれているのだ。そのことを忘れないようにしようと思った。自分を見失わないように。
カウンターの中にはテンガロがいて、忙しそうにお酒を作ったりお客さんと話したりしていたけれど、私の姿を見ると「よぉ」と方手をあげた。
「こんばんは」
私はテンガロに挨拶をした。
「夏、今日化粧してる?」
「うん。リカちゃんがしてくれたの」
「似合ってる。かわいいよ」
テンガロはそう言ってグラスに氷を放り込んだ。コウゾウくんにはジントニックを、私にはカンパリソーダを作ってくれた。私はかわいいと言われて妙にどぎまぎしてしまった。でも、すぐにコウゾウくんの横顔を見上げてニヤけてくる口元を引き締めた。
「今日は混んでるね」
私がそう言うと、コウゾウくんは空いたテーブルを見つけて座り、
「週末はいつも、だよ。でも、今日は特に、かも。今日はドラッグクイーンのショーとかあるし」
「へえ……。初めて見る。楽しみー」
音楽と喧騒で声がかき消されてしまうので、私達は丸い小さなテーブルに頭を寄せ合うようにして、半ば怒鳴りあうみたいに喋っていた。リカちゃんは椅子の背に背中を預け、ゆうゆうと煙草をふかした。コウゾウくんはジントニックを飲みながら、肩でリズムをとっている。二人の様子はいかにも楽しげで、わくわくした顔をしていて、まるで砂場で遊ぶ子供みたいに真剣で、遊ぶことに全精力を傾けているみたいだった。
遊ぶって、こういうことなんだ。ファーストフード店でえんえんとお喋りをしたり、カラオケに行くのは楽しい。ゲーセンでプリクラを撮ったりするのも楽しい。でも、それだけ。面白いことや楽しいことを探して、いつも何かしていないと退屈だった生活は、考えてみたらなんて希薄な楽しさだったんだろう。ここにいて、音楽が鳴っていて、周りを沢山の人が取り囲み、それぞれが個人的に振舞って楽しんでいる。自分もその一部であるということ。なにもしなくても、楽しさの予感に満ち溢れ、同時に、ここで楽しくなるもならぬも自分次第ということ。そう、楽しむことができるのは自分の才覚なのだ。自分を遊ばせることの才能。私はこれまでそんなものに出会ったこともない。いつだって「有りもの」でしか遊べなかった。私はそれを恥ずかしく思った。遊んでいたのではなく、遊ばされていたのだ。
一際大きく切り取られたスペースで人々が押し合うようにして踊り狂っていた。一段高くなったところにやたら背が高くて舞台化粧みたいな派手なメイクをし、アカデミー賞のプレゼンターみたいな格好をした人たちが群集を挑発するように踊り始めると、コウゾウくんが、
「この曲、好き! 夏、知ってる?!」
「これ、SOS?」
「誰のリミックスだろー。ねえ、踊ろうよ!」
と、勢いよく立ち上がった。
「行っておいでよ」
リカちゃんが私を促す。私はその時、確かに興奮していた。フロアに歓声があふれ、熱気が波のように押し寄せてくる。それに圧倒されそうで私は喘ぐように深呼吸した。
コウゾウくんと二人でフロアに飛び込むと、耳をつんざくような大音量と内臓にずんずんと響く重低音に体をまかせ、向かい合って音楽に合わせて歌いながら踊りまくった。体を動かしながら、なぜか笑いが止まらなくなった。そこには音楽しか存在しなかった。両親の離婚も転校も、いじめもコンクールもなにもなかった。どんなに大声で歌っても全部かき消されるような爆音の中、とりどりの照明に照らされながら、音楽にすべてをゆだねればよかった。私とコウゾウくんは息が切れ、足がふらふらになるまで踊り続けた。
曲は途切れなく、際限なく続く。どのぐらい踊ったか分からないけれど、喉がからからになり、笑いすぎて顔の筋肉が痛いぐらいになったところで私とコウゾウくんはお酒を買いに人の輪をぬけた。
「あー、喉渇いた」
「すごい運動になるね」
「そうよぉ。こんだけ動いたらちょっとしたダイエットよぉ」
コウゾウくんは汗を拭きながら言った。カウンターのテンガロから今度はビールを貰うと、私達は喉を鳴らしてそれを飲んだ。ビールが美味しいと思ったことはないけれど、この時は汗をかいた後のせいかたまらなく美味しく感じた。ぐいぐいと飲んでみてから、改めて自分に驚いてしまった。
私は充足したため息をつき、今更のようにリカちゃんのことを思い出し、テーブルに視線を走らせた。リカちゃんは壁際のソファに座っていた。でも、よく見ると一人ではなかった。隣りにぴったりと寄り添うにように男の人が座っていた。それを見て私はすぐにぴんときた。あれがリカちゃんの不倫の彼氏だ。
二人はお酒を飲みながら楽しそうに、囁きを交わしていた。この喧騒では耳元に口を寄せなければ相手の声など届きはしないのだから仕方ないけれど、それよりも、二人の空気は親密だったし、なによりもくつろいだリカちゃんの柔らかな微笑や濡れたような眼差しが、せつないほどに恋情を溢れさせていた。それは私が彼女に出会ってから一番美しい瞬間だった。私は傍らのコウゾウくんを肘で突付いた。
「コウゾウくん、あれ」
「なに?」
コウゾウくんが私の示す方を振り向く。テンガロも一緒にそちらに目を向けた。
「なんだ、リカはまだあいつと付き合ってんのか?」
テンガロが呆れたような声を出した。私がどういう意味かと問うようにテンガロを見上げると、テンガロは肩をすくめてみせた。
「俺が言っても説得力ないかもしんないけどさあ、やっぱり人のもんは盗ったらだめだろ。そりゃあ恋愛は理屈じゃないし、どうしようもないこともあるよ。でも、俺はね、誰かを不幸にしてまで恋愛なんてできないね」
「そうは言っても止められないのが恋愛でしょ。リカも分かってるよ。馬鹿じゃないんだから」
「そう、馬鹿じゃないヤツを馬鹿にしちゃうのが恋愛の怖いところだ」
コウゾウくんとテンガロはそう言い合って彼方のリカちゃんを見ていた。
「夏は馬鹿になるなよ」
テンガロがそう言って煙草に火を点けた。
馬鹿になっちゃったのか……。私はその言葉で父のことを思わずにはおけなかった。
「馬鹿になるのは……仕方ないことなの?」
私は男二人を見上げた。二人は一瞬面食らったような顔をしたけれど、
「仕方ない時もあるって話だろ。仕方ないから許されるってことじゃない。仕方ないで全部が許されたら、モラルなんていらないだろ」
テンガロが言う。
「間違いも失敗もあるでしょ。やり直しのきかない人生なんてないのよ。今は特に若いんだから」
コウゾウくんが言う。
父と最後に話したのは、母はすでに家を出て実家に戻り、私は学校の手続きや整理を終えてから母を追う形で家を出た時だった。私と母の荷物はすでに引っ越し屋によって運び出されていた。がらんとした部屋に父を残すことがしのびなかった。父は私を玄関で見送りながら「忘れ物ないか」とか「なにかあったら電話しなさい」と言った。私は靴を履きながら鼻先で返事をし「じゃあ、またね」と父を振り向いた。お互いに何を言っていいのか分からなかった。父は一度も「ごめん」とは言わなかった。
コウゾウくんとテンガロ。二人の言っていることはたぶんどちらも正しい。私は急激に冷えていく心をくっきりと感じていた。
「今日はもうリカは戻ってこないよ」
「……」
私は黙って頷いた。左腕のベビーGブラックモデルが深夜三時を指していた。
「帰ろうか」
「うん。……私、リカちゃんに言って来るね」
私はそう言うとすたすたとフロアを横切って、まっすぐにリカちゃんの座っているソファに歩いていった。
リカちゃんの彼氏は眼鏡をかけていて温厚そうな人だった。左手の薬指には指輪があった。誰との約束の指輪なのだろう。
「リカちゃん、私達先に帰るね」
私は彼氏に寄りかかって笑っているリカちゃんに大きな声で呼びかけた。リカちゃんはびっくりしたように私を見て、でも、すぐに、
「あ、ほんと? もう帰るの?」
「うん」
近くで見てもやっぱりリカちゃんは綺麗だった。頬が紅潮し、瞳は輝きに満ちていた。
「リカちゃんはまだ帰らないでしょ?」
「んー。うん。もうちょっと遊ぶー」
「うん、じゃあ」
「待って、夏」
リカちゃんが私を呼び止めた。私はくるりと振り向く。リカちゃんは私ではなく彼氏に「彼女がさっき話してた子。夏」と私を紹介した。
「……どうも」
私は小さく会釈をした。彼氏はリカちゃんのサンダルを履いた私にちょっと微笑んで、
「こんばんは」
と挨拶をした。
リカちゃんが彼氏に私のことをなんと話したのかは分からないけれど、その目は小さきものを見る目だった。優しい、けれど、はっきりと自分との線引きをした確固たる視線。大人とはそうしたものだ。自分を大人と思えばこそ、子供を見る時の目はいつもと違う。
「引越してきたばっかりなんだって?」
「はい」
「もうこの町には慣れた?」
「はい」
「リカから悪いこと教わってない?」
彼氏はふざけるような口調で言った。するとリカちゃんが甘い抗議の声をあげてそれを否定した。
「ひどーい。私、なんにも悪いことなんて教えてないよねえ?」
「……うん」
「夏ちゃん、あんまりリカに毒されないようにね。リカはお酒とか煙草とかしか教えないから」
「そんなことないよ、ねえ?」
ねえ?とは私に向けた言葉だった。
「リカちゃんは色んなこと教えてくれます。音楽とか絵のこととか。お化粧もしてくれたし」
「ほーらね」
リカちゃんが対抗するように顎先を心持ち上に向ける。彼氏は絶えず笑っている。それ以上なにか言う必要なんてなかったのに、なぜか私は言わずにはおけないような気分になり、最後にもう一つ付け加えた。
「不倫とか、も、教えてくれます」
リカちゃんは衝撃のあまり大きな目をさらに大きく見開いて、信じられないという顔で私を凝視した。彼氏は柔和な笑顔を瞬時に凍りつかせた。言ってしまってから、私は自分の発言の威力が怖くなり、慌てて精一杯の笑顔を顔に貼り付かせ、
「じゃあ」
と逃げるようにコウゾウくんのもとへ走り去った。振り返ることはできなかった。
なんてひどい嫌味を言ったんだろう。私には関係のないことなのに。コウゾウくんを早く早くとせかして、まだ興奮の渦巻くクラブを後にした。私の様子を不審に思ったコウゾウくんが、
「どうしたの?」
と尋ねた。私は長い列をなすタクシーの行列の脇で立ち止まり、
「変なこと言っちゃった」
とコウゾウくんに事の顛末を打ち明けた。
コウゾウくんは黙ってそれを聞いてから、しばらく何事か考え込むように沈黙し、歩き出すよう私を促した。
「夏は、お父さんが愛人と暮らしてることが許せないの?」
車のエンジン音に満ちた通りを二人で渡りながら、私はコウゾウくんの質問を噛みしめた。
コウゾウくんの質問は、誰も私に問わなかったものだった。そもそも、父も母も私に何も問わなかった。離婚の事実と引越しと転校といったもろもろの決定事項を「知らされた」だけで、私が口をはさむどころか、知らないうちに事は進み、終わっていた。その後も、誰も私に問いはしなかった。私の心のうちなどは。私がなにを思い、なにを考えているのかなど取り沙汰されることはなかった。私は半歩前を行く背の高いコウゾウくんの手を無意識に求めた。
「ん?」
「……許せない。でも、それよりも一体なにが、どうして、こうなったのかさっぱり分かんないの……」
私の声は消えいりそうにか細かったけれど言葉に込められた心の分だけ強くコウゾウくんの耳に届いた。その証拠にコウゾウくんは、私の手に呼応するように、たくましい腕を伸ばして私の肩を抱き寄せた。私はコウゾウくんに肩を抱かれ、コウゾウくんの脇にぴったりとひっつく形になった。
「仕方ないって分かってても、理由や理屈じゃないの。コウゾウくん達だって言ってたじゃない。誰にも止められないって。仕方ないって。でもね、そりゃあ、やり直しだってきくかもしれないけどね、私達はもうやり直せないんだよ。私達、家族はもう二度とやり直せないの。……私の言ってること、分かる?」
「分かるよ」
「リカちゃんが悪いとかじゃないの……。ただ……」
「いいよ、なんにも言わなくても。分かってるから」
コウゾウくんは私の肩に置いた手に力をこめた。私はコウゾウくんにしがみつくように腕を腰にまわした。
私は父を許せないのと同時に、母のことも同じぐらい許せなかった。別れたという事実、そのすべてが許せなかった。そして、何も知らないで呑気に暮らしてきた自分自身も許せなかった。どちらが先に愛を失ったのかは知らない。私が知っていたのは、両親がそんなに仲が良いわけではないということだったけれど、その間を埋めることができない自分は一体なんだったのだろう。私達家族は、一体なんだったんだろう。
喉もとに吐き気のようなものがこみ上げてきて、私は思わず口を押さえた。吐くかと思ったが、私の口から飛び出したのは嗚咽だった。夜の街をコウゾウくんに肩を抱かれて歩きながら、私は両親の離婚を思って泣いた。やり直しのきかないものへの、悲しさとやるせなさの涙だった。コウゾウくんは黙って私の頭を撫でてくれたり、涙を拭いてくれたりした。
私は背が高くて肩幅のがっちりした、いかにも男の子らしいコウゾウくんを姉のように感じていた。細やかな優しさは、もし姉妹がいたならこんな感じじゃないだろうかと思った。
その夜はタクシーでコウゾウくんの部屋に戻り、枕を並べて眠った。
電気を消した部屋で眠りに着く前に、私は低い声でコウゾウくんに話し掛けた。
「リカちゃん、怒ってるかな」
「大丈夫だよ」
「……明日、リカちゃんに謝るね……」
「一緒に謝ってあげるから、気にしなくていいよ。リカはそんな根性悪くないからさ」
暗がりの中コウゾウくんが優しく言った。ハットリにしろ、コウゾウくんにしろどうしてこんなにも優しいんだろう。どうしたらそんな風になれるのか。あの嵐の吹き荒れる教室を思えばただ不思議な気持ちになるばかりだった。