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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
8/13

8話

翌日学校に行くと、先生は私を職員室に呼び、案の定昨日はどこへ行っていたのかを尋ねた。私はわざと暗い声で、力なく、

「気分が悪くなってしまって……、家に帰りました」

 と答えた。


「鞄を置いて?」

「鞄が重くて」

「……」


 具合の悪そうなふりも、みえすいた嘘も子供じみていて私は自分の演技そのものが馬鹿馬鹿しくなった。けれど、問題を大きくしたくなかったので、この猿芝居は押し通さなければと決意を持って、俯いて自分の靴の爪先を見ていた。先生は猜疑心に満ちた目で私を見ながら、微かなため息をついた。


「今度からは勝手に帰らないように」

「すみません」

「で、体調はもういいの?」

「はい、大丈夫です」


 先生が私の嘘に騙されたとは思わない。面倒をさけたいのだろう。保護者を呼んだりクラスで討論をさせたり、いじめっこを改心させたりするよりは転校生一人を黙らせておく方が楽に決まっている。おおかたそんなところだろう。いじめにあった中学生や高校生が自殺して、学校はいじめの存在を認識していなかったなんてコメントをニュースで見かけるけれど、あんなのは全部嘘に決まってる。この狭い世界で、たかが子供の集まりで分からないなんてことありえない。知らないなんてことありえない。いじめにもっと早く気付いていれば……なんて道化た発言。今の私はおかしくって、呆れるのを通り越して笑ってしまう。この人だって、全部知ってて、それでも黙認してるのだ。


 私は一礼して職員室を出ようとした。すると、先生が私をもう一度呼び止めた。


「渡辺さん、前の学校でコーラス部だったんだよね」

「……はい」

「伴奏やってたんだって?」

「……一応……」

「今日のホームルームで、来月の合唱コンクールのこと決めなきゃいけないんだけどね。指揮と伴奏を選ばなくちゃいけないんだけど……」

「……」


 この時、私はいやな予感がした。


「うちのクラスにはピアノ弾ける子がいないんだよ」

「……」

「渡辺さん、やってくれないかな」

「……」

「指揮は推薦か立候補で決めるけど」

「……あの、うちにピアノないんです」

「あ、大丈夫。学校で練習できるようにするから。放課後、音楽室で練習できるようにする。どうかなあ。お願いできないかな。転校してきたばっかりだから、そういう役割をするとクラスに馴染むきっかけにもなると思うよ」


 先生が眼鏡の奥の目で私をぐいぐいと押してくる。それが「お願い」ではなく半ば強制力を持っていることが感じられる。人の良さそうな微笑みの下で、教師の権限を、まあ、もしそんなものがあるとしたらの話し、振りかざしている。しかし、果たしてそれは卑劣な行為だろうか。結局のところ、大人はそのようにして責務をまっとうしていくだけのことなのだ。より効率のよい方法で。私には言い返す術もなかった。


 それに、クラスに馴染むきっかけって一体なんなんだろう。私にはそうは思えない。私達は子供だけれど、馬鹿ではないのだ。そんなことになんの意味もないのはいやというほど知っている。どうして大人はそういうことを忘れてしまうんだろう。子供の純真や純粋の裏にある単純さと、横暴さと、残酷さを。


「曲は『空がこんなに青いとは』知ってる? ……音楽の田中先生はそんなに難しい曲じゃないって言ってたけど」


 空がこんなに青いとは。その曲なら知っている。前の学校で弾いたことがある。私は蘇ってくるメロディに思わず睫毛を伏せた。この学校で、あの教室で、私がピアノを弾いても反発をかうだけだと思った。もしかしたら、あてつけのように誰も歌わないかもしれない。私の伴奏はいやだという声が運動となって沸きあがるかもしれない。


「放課後、練習できるんですよね」

「うん」

 先生は勝利したように深く頷いた。


 右手の中指がぴくぴくと痙攣するように動いた。私の体は平穏を求めている。ピアノ。私のピアノのような音のものはどこにもないだろうけれど、それでもいいと思った。担任は音楽の先生のところへ私を連れて行き、放課後の音楽室の使用についての注意点を聞かされた。そして、伴奏の楽譜を受け取ると「がんばってね」と肩を叩いた。私はかすかに微笑んでみせ、頷いた。


 教室に戻ると楽譜を机の上にのせ、久しぶりの五線紙を眺めた。


「それ、なに」


 不意に声をかけられて顔をあげると、山田くんが隣りの席から私の机の上を指差していた。


「楽譜。合唱コンクールがあるんでしょ?。その伴奏を頼まれたの」

「へえ……」

「前の学校にはコンクールなんてなかったけど」

「コンクールっていっても、校内だけだけどね」

「あ、そうなの? 私、てっきり県とか市の大会でもあるのかと思った」

「まさかぁ」


 山田くんは呑気に笑っている。

「ピアノ、上手いんだ?」

「上手くないよ。久しぶりだからいっぱい練習しなくちゃ」


 正直言ってまたピアノが弾けることが嬉しかった。そりゃあ面倒な事態も想像してしまうけれど、そんなことよりも単純に弾けることが喜ばしくて、私は自分がこんなにもピアノを好きだったんだなと実感した。


 合唱コンクールのこと、コウゾウくんやリカちゃんにも聞いてみよう。彼らも中学時代に参加したはず。放課後が忙しくなるな……。ふとポケットに手をいれると昨夜コウゾウくんが買ってくれたガムの残りを入れてきたのを思い出した。私はガムを一枚取り出すと、気分が良かったことも手伝って山田くんにガムを差し出した。


「あげる」

「お、さんきゅ」


 山田くんはガムの包みを剥いて口に入れた。


「昨日、もしかして脱走してなかった?」

「……」

「やっぱりな。急にいなくなって、どこ行ったのかと思ってた」

「……」


 私は返事に困って、ふふと小さく笑った。山田くんはガムを噛み、ミントの匂いをさせながら、

「今度、脱走する時は俺も誘ってよ」

「……二人はダメよ」

「なんで?」

「二人だとすぐ見つかっちゃう」


 ……本当は二人だと周りがうるさいから、だけど……。一体山田くんはこの状況をどう思っているのだろうか。見当もつかない。ただ人の良さそうな顔で笑っているけれど。


 授業が終わり、ホームルームの時に担任は予告した通り合唱コンクールの話しを切り出した。コンクールは期末試験が終わってから行われ、ぜひとも一位を目指そうと教室に語りかけた。


「曲は『空がこんなに青いとは』で、練習は朝のホームルームと帰りとにすることになる。で、まあ、毎年のことだから分かってると思うけど、指揮者を決めたい」


 教室がざわめき始める。あちこちで誰がいいだの、いやだのと声があがる。


「じゃあ、まずは立候補! 誰かいないか?」

 誰もが教室に視線を彷徨わせる。いない。

「伴奏は、渡辺さんがやってくれるから」


 先生がそう言った途端、教室に水をうったような静けさが走った。あ、やっぱり。私はそう思い、いたたまれない気持ちになった。


 私にはみんなの心象風景が手にとるように分かった。玉島さん達がどうでるか。それを窺っているのだ。それ次第で賛成もすれば反対もするのだろう。妨害もすれば、冷やかしもし、嘲り笑うのだろう。そのすべてが彼女達次第なのだ。これが独裁でなければ一体なんだというのだろう。そして、この教室にはちょっとでも疑問を感じて革命を起こそうなんて子はいないんだろうか。共産主義の国じゃあるまいし。


 そう思って俯いていると、いきなり「はい」という声と共に立候補の手があがった。私はその声の主を見て、ぎょっとした。衝撃は教室中の全員にあった。誰もがこの微妙な状態に戸惑う中、立候補として手をあげたのはなんと山田くんだった。


 先生は「他に誰かいないか」と問うた。教室はますます戸惑い、私と山田くん、玉島さんを順に見つめている。息を詰めて。緊張が教室を満たしている。それは恐怖政治ゆえだろうか。それとも、好奇心がそうさせているのだろうか。成り行きをみんなが見守っている。渦中の私でさえも、この事態がどういう方向に向かっているのか想像もつかなかった。山田くんはみんなの先頭にたって指揮をとるようなタイプじゃない。誰からも好かれるタイプ。でも、ど真ん中にいるような子じゃない。なのに、なぜ指揮を? クラシックが好きだとか、指揮者に憧れるとか? 最近、そんなテレビ番組でもあったのだろうか。なにか影響を受けるような……。私は固唾を飲んで山田くんの横顔を見ていた。山田くんはこちらを見ることはなく、まっすぐ前を向いていた。


「誰もいないなら、山田に決めるぞ」


 先生が言う。誰も答えない。正確には、答えられないのだ。先生の言葉がオークションの競り落としのハンマーのようにすべてを決めてしまうと、山田くんは私の方を向いた。私はすっかり困ってしまって、なんと言っていいか分からなかった。


 教室のはまだ衝撃のあまり麻痺しているといった体で、呆然としたままの状態でホームルームの伝達事項やらなにやらが伝えられた。


「どうして指揮をしたいの?」


 私は帰り仕度をしている山田くんにそっと尋ねた。教室は騒がしく、誰もこちらに注意を払っていなかった。


「ん? そうだなあ……強いて言うなら、渡辺さんが伴奏だから?」

「……」

「て、いうのは、内緒な」


 嘘か本当かは分からないけれど、山田くんは悪戯っぽく笑って「じゃ」と鞄を持って教室を出て行った。いや、嘘か本当かは問題じゃない。彼が指揮者で私が伴奏になったということ。それだけが問題なのだ。絶対に。


 私は鞄を持つと音楽室の鍵を借りに行った。まずピアノを綺麗に拭き、扉をぴったりと閉めて世界を遮断するようにピアノに向かい合う。まずは指を動かすメソッド。退屈な音階や指の運動を繰り返す。それから、懐かしい気持ちで何曲か暗譜している曲を弾く。弾き始めは頭の中で譜面をなぞるけれど、すぐに指が勝手に動き出す。私は文字通り夢中で、「空がこんなに青いとは」の伴奏も練習した。何度も繰り返し、時々小声で自らも歌ってみたりする。


 扉一枚隔てた向こうには恐怖が渦巻いている。正義は死んだ。ただ、子供じみた嫉妬や残酷さだけが横行している。練習しながら、私はもしもひきこもりになるなら、ピアノがあればいいと思った。そうしたら、一人でも幸せに生きていけるような気がする。私のピアノはそんなに上手なわけではない。演奏家を目指したりしていたわけでもない。ちょっとお稽古事にさせられて、たまたまそれが続いたという程度のものだ。それでも弾くことは嫌いじゃないので放っておけばいくらでも弾けた。弾けば弾くほど意識のすべてがピアノに束ねられる。他に何も考えることはない。思う音を、旋律を体で生み出していく。何度もやり直し、繰り返し。そうして時間を過ごす。コウゾウくんの言っていた「綺麗なもの」とは、私にとってはピアノであり、ピアノを弾く時間なのだ。


 二時間も弾いただろうか。その時、突如がらりとドアが開き、吉田さんと東田さんが入ってきた。私は驚いて手を止め、つかつかとこちらへ歩み寄ってくる二人を見つめた。


「ちょっと話しがあるんだけど」


 ……ああ、また……。私は思わずごくりと唾を飲んだ。いや、こうなることは分かっていた。すべての無意識の予感が符号する。私は冷たい水の中に飛び込むような気持ちになった。死を前にするような気持ち。大袈裟なのではなく。死を意味するのだ。十五歳の平和な生活の死。


「ちょっと来て」


 二人は固い声で私を促した。私はのろのろと立ち上がり、まるで連行されるように二人に音楽室から連れ出された。なんの用? とか、どこ行くの? なんて聞ける雰囲気ではなかった。それでもなにが起ころうとしているのかだけははっきりと分かっていた。


 人気のない校舎を歩き、彼女たちが押し開けた扉はなんと女子トイレだった。


「入って」


 私は思わず吉田さんの顔を凝視した。そんな私を吉田さんは押し込むようにトイレにねじこんだ。私は勢いに押され、半ば飛び込むように彼女たちとトイレの中へ入った。中にはお馴染み、玉島さんを筆頭とするメンツがずらりと揃っていた。恐怖政治の中心人物たち。


 トイレはしんと静まり返り、白いタイルや水の気配にひんやりとしていた。小さな小窓は開け放されていたけれど、あまりに小さく空を切り取っているだけで、一瞬、野球部の放った白球が飛んでいくのが見えた。個室が四つ、洗面台が二つ。掃除用具入れの中にはデッキブラシやホースが入っている。放課後の掃除はもう済んだ後で、床のざらざらしたコンクリートの敷石は濡れていた。この狭いトイレで私は身動きも取れないほどがっちりと玉島さん達に包囲された。どこに視線を向けていいか分からなくて、じっと俯いていた。まず切り込んできたのは玉島さんだった。


「チャラチャラしちゃって」


 玉島さんは私の髪をいきなり掴んで引っ張った。


「山田となんかあんの? ねえ」

「ないよ、なにも……」

 かろうじて言い返す。


「じゃあ、なんであんたが伴奏で、山田が指揮とかやりたがるわけ?」

「知らないよ、そんなの」


 玉島さんはひっぱっていた髪を放すと、私の肩を突いた。私は睨み返すだけで精一杯で、そのくせ足が震えていた。


「あんたみたいな女、大っ嫌い。超ムカつく」

「……」

「どうせ男なら誰でもいいんでしょ」

「……」


 鼻息も荒く私を睨む玉島さんを見ていると、なんだかとても滑稽で、次第に私は怖さを忘れていく自分を感じていた。馬鹿げている。あまりにも馬鹿げている。なにもかもが。


 一体、私の中のどこにそんな勇気があったのだろうか。私は沸々と煮えてくる怒りを掬い上げるようにして言い放った。


「玉島さん、そんなに山田くんを好きなら本人に言えば? まあ、でも、山田くんにしたらいい迷惑だろうけどね」

「……どういう意味よ……」

「玉島さんみたいな子に好かれて、山田くんが気の毒だって意味よ」


 そこまで聞くと玉島さんは右手を大きくふりかぶった。私の言葉は決戦の火蓋を切って落とした。私は玉島さんの平手をかわして怒鳴った。私の声は昂ぶって一オクターブは高くなって、トイレの壁に反射した。


「山田、山田ってそればっかり! 頭おかしんじゃないの?! 男狂いはそっちでしょ!」

「あんたに言われる筋合いないよ!」


 それはどう考えても不利な喧嘩だったけれど、私と玉島さんは掴み合いになり、押し合い圧し合いしながら壁やトイレの扉に激突した。私は滅茶苦茶に腕を振り回し、髪を掴んでくる玉島さんに反撃した。そのうちの一発がかなりモロに玉島さんの顔面に当たった。その手ごたえは快いほどだったけれど、叩いた手の平から黒く染まりそうなほど瞬時にいやな気持ちになった。ぞっとした。どんな場合でも私は人を傷つけたりすることを良しとしていない。少なくともそういう教育は受けてこなかった。くだらない中傷も暴力も私は否定することを教えられてきた。なのに、今自分が必死に応戦していること。その矛盾。その醜さ。私は一体なにをしているのだろう。こんなはずではなかったのに。私はなにも望まなかったのに。その結果がこれだなんてあんまりだ。


 私はトイレを脱出しようと出入り口に駆け寄った。が、それを阻止したのは吉田さん達で、私の前に立ちふさがり、扉に飛びつこうとした私を退けるようにいきなり蹴りを入れた。私は勢いよくみぞおちを蹴られ、軽く吹っ飛び転倒し濡れた床に尻もちをついた。


「逃げんじゃねーよ!」


 怒鳴ったのは誰だろう。それを確かめる間もなく、あの時と同じく全員が私を蹴り始めた。それを避けようとした私はトイレの扉に頭をぶつけ、何度も立ち上がろうと試みたけれど、猛烈な勢いで繰り出されるキックの嵐は私にその隙を与えなかった。立ち上がりかけては蹴られ、押さえつけられ、殴られた。玉島さんが私の髪をぐいっとつかんで上を向かせた時、私の顔はまたしても鼻血にまみれていた。


「きったない顔」


 嘲るように、言う。唇の端には笑いさえ浮かべて。


「洗ってあげる」

 玉島さんが一同を見渡すように言うと、吉田さん達がげらげらと笑い出した。私の両腕を吉田さんと東田さんが逃げられないように押さえつけた。私は必死で抵抗しようともがいたけれど、到底力及ばす、とうとう大声で悲鳴まじりの泣き声をあげた。


「やめて!」


 しかし、次の瞬間悲鳴は水音にかき消された。二度、三度。私は玉島さんに顔面を便器につっこまれ、何度も抵抗し、頭や顔をぶつけ、それでも顔を押し込まれては水洗の勢いに泣き声を溺れさせた。


押し流される水を何度も飲み、その度に私はげえげえとえづいた。時代劇の拷問のように、玉島さんはびしょ濡れの私の頭を掴みあげ、

「あんたなんか死ねばいいのよ!」

 だの、

「二度と学校に来るな!」

 と耳元で怒鳴った。


 私は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。この残酷な仕打ちに打ちひしがれ、嗚咽をほとばしらせ激しく泣いた。この時、私の心は大声でハットリを呼んでいた。魂をこめて、ただ一心にハットリを呼んでいた。


「ごめんなさいぃ、もう許してぇ……」


 泣きじゃくりながら私は懇願した。その様子に玉島さん達はおおいに笑った。可笑しくてたまらないといった様子で。制服は濡れ、顔や体には痣ができ悲惨としか言いようがない。なのに、これを笑える彼女達はもはや私の目には人間には見えなかった。私はひぃひぃと苦しい息を漏らし何度も懇願した。言われるままに、床に頭をこすりつけるようにして土下座までした。伴奏を辞めることを約束させられ、山田くんとは口をきかないことを誓わされた。ハットリ、ハットリ、ハットリ。助けて、助けて、助けて。涙が止まらない。震えが止まらない。


 笑いながら唾を吐きかけ、意気揚揚とトイレを出て行く玉島さん達を私は呪わずにはおけなかった。醜いと知りながら、どうしても呪わずにはおけなかった。許すことなど永遠にできないと思った。気付くとシャツのボタンがちぎれてなくなっていた。


 私は洗面台に掴まって体を支えながら、蛇口からほとばしる水を頭から浴びた。水は冷たく、痛いほどだった。トイレの便器に顔をこすり付けられ、便器の中に顔を押しこまれた感触が生々しく脳裏に焼きつき、離れなかった。吐き気と悪寒が止まらなくて、涙はとめどなく溢れた。


 髪からも顎からも水を滴らせながら、音楽室に置いていた鞄を取りに行き、そのまま学校を後にした。音楽室の鍵を返却するとか、そんなことは頭になかった。感情が昂ぶりすぎて何も考えることはできなかった。そうして半ば無意識のままに向かったのはハットリのところだった。


 もしも言い返さなければ、結果は違っただろうか。初めから従順な態度を見せれば違っただろうか。……とてもそうは思えなかった。彼女たちは求めていたのだ。適当な口実を見つけてストレスをぶちまけるように暴行を働ける標的を。理由なんて本当はどうでもよくて、闇雲に傷つける為だけの相手を欲していたのだろう。私の「転校生」という身分がその的になりやすかっただけで、何をしても結果は同じだっただろう。彼女達の周到なやり方も、手慣れたリンチも、教室内で認知されている権力も、すべてがそれを裏付けている。起きるべくして起きたのだ。玉島さんが山田くんに熱を上げていることも仕組まれたシナリオみたいなものだ。でも私はこんな猿芝居に参加する為にいるんじゃない。しかし学校というのは、そういうところなのだ。意思を持つものは排除される。人間のいる場所じゃない。


 いつものようにハットリの家に庭から入って行くと縁側にはハットリがいて、新聞を広げて足の爪を切っていた。私を見ると、ぎょっとして固まってしまった。そのぐらい私の様子は尋常ではなかったのだろう。私はハットリの姿を見ると張りつめていた糸が切れるように、その場で立ったまま大声で泣き始めた。鞄を投げ出して天を仰ぎ、わんわんと泣いた。庭のハナミズキが風にざわざわと葉ずれの音を響かせる。庭でいつまでも泣き続ける私にハットリは何か信じられないものを見ているような顔をしていた。それでも私はおかまいなしに声をあげて泣いた。


 そこへ折りよくリカちゃんがやってきて、泣いている私と唖然としているハットリを見ると「ど、どうしたの?」と駆け寄って、私の肩を抱いた。抱いてからさらにびっくりして、

「夏、びしょびしょじゃない!。なにがあったの?」

 と叫んだ。


「ハットリ、なんかしたの? どうしたの?」

 ハットリはようやく我に返ったように、爪切りを置いて縁側から飛び降りた。そしてやにわに私を担ぎ上げた。


「リカ、風呂いれろ」

「う、うん」


 リカちゃんは慌てて縁側から部屋にかけあがり、奥へと走りこんだ。


 私は荷物のようにハットリの肩に担われ部屋を突っ切り、リカちゃんの後を追ってお風呂場へ放り込まれた。リカちゃんはもう水色のモザイクみたいな細かいタイルで縁取りした浴槽に勢いよくお湯をため、タオルや新しい石鹸を箱から取り出していた。ぴしゃりと閉められたガラス戸の向こうに映るハットリの巨大なシルエットを見ると、私はまたしても声をあげて泣きそうになり、慌てて口もとを押さえた。


「夏、制服乾かしといてあげるから」

 リカちゃんが心配そうに私の顔を覗き込む。私はこくりと頷いて、濡れた制服を脱いだ。


 裸電球がぽっちりと灯るお風呂に浸かっている間も、リカちゃんは扉の向こうにいて「熱くない?」とか「夏、頭洗ってあげようか?」などと話し掛けてきた。膝を抱えて、揺れるお湯を見ていると私は泣けてきてしょうがなくて、ぐずぐずと一人浴槽の中で涙をこぼした。その間もリカちゃんは絶えず私に話し掛けてきた。


 お風呂から出るとリカちゃんは「私のでよかったら」とTシャツとカーゴパンツを貸してくれた。シャツからはリカちゃんの香水のいい匂いがしていた。


「……ハットリは?」


 部屋を見回しながらリカちゃんに尋ねた。物干しに私の制服がぶらさがっている。もう日は暮れかかり、空は薄墨を流したように紺色に染まりつつあった。


「買い物に行ったよ」


 リカちゃんが答えながら、冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出した。ようやく人心地ついた私はペットボトルに口をつけてごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。失った水分を補給するには一・五リットルぐらいじゃあとても足りないだろう。私は自分が流した大量の涙に思いを馳せた。


 リカちゃんは黙ってその様子を見ていた。傍らにはすでに救急箱を用意していた。私がそれのお世話になるのも二度目だった。


「なにがあったのか、聞かないんだね……」

「聞いてもいいの?」

「……」

「なにがあったの?」


 私はリカちゃんの横に腰を下ろした。そして、リカちゃんに手当てをしてもらいながら、今日のこと、その前のことをぽつぽつと話し始めた。山田くんのこと。コンクールのこと。伴奏のこと。時々、思い出し泣きしそうで何度も言葉を詰まらせた。それでもようやく最後まで話すことができた時、リカちゃんはものすごく暗い顔をして俯いていた。それは、暗い、辛そうな表情だった。卓袱台の上に置いた手で拳を作り力をこめていた。


「……ハットリが帰ってきたら、ごはんだから。今日はスキヤキだよ。夏、おうちに電話しなよ。友達んちで食べて帰るって」

「うん……」


 リカちゃんはぱっと立ち上がると台所へ走って行った。その横顔。目に涙がいっぱい浮かんでいるのを見た時、私は自分が憐れでたまらなくなった。


 その夜、ハットリとリカちゃんの三人でスキヤキを食べた。ハットリは私がよほど哀れだったのか、いつも以上に無口で、でも鉄鍋の中で肉がぐつぐつと煮えるそばから私の器の中に放り込み、

「もっと食えよ」

 とか、

「夏、卵は?」

 とか、

「メシ食うか? あ、最後にうどん入れるか」

 と、なにくれとなく世話してくれた。


 スキヤキは美味しかったけれど、ハットリの優しさが私から涙を誘い出した。湯気の向こうでハットリがビールを飲み、私を見ているのが感じられ、それもいたたまれなかった。お腹の中にブラックホールができたように、食べても食べても満たされなくて、そのくせ胸が苦しくて仕方ない。


 時々、リカちゃんが私の顔を見てから、ハットリの様子を横目で窺ったけれどハットリは核心に触れるようなことな何も言わなかった。ただスキヤキの世話をし、私に肉をたくさん食べさせてくれるだけだった。


 帰りはリカちゃんがうちまで送ってくれた。その頃には庭に干しておいた制服もすっかり乾いていたが、私の中に染み渡った汚れた水は絞っても絞っても濯がれないと思った。


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