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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
7/13

7話

運良く誰にも見つからずに教室から荷物を持って出ることができた私は、自分の姿を見咎められないようにとそればかり願っていた。結果的に、私は速やかに鞄を持って帰ることができたわけだけれど、自分の存在が誰の関心もひかないのだと思うと少し傷ついたような気持ちになった。


 家に帰ると母は仕事に出かけるところだった。母の仕事は相当忙しいらしく、近頃は週に一度ぐらいしか休みをとらなかった。不思議なことに、母はどんなに忙しくても疲れたとは一言も言わず、言わないどころか、むしろいきいきとしてどんどん元気になるようだった。


 夕方から出勤するなんて、水商売みたいだと当初は言ったものだけれど、今は昼夜関係なく仕事に情熱を注いでいるらしい。母のはりきりぶりは目を見張るものがある。私は母が仕事に熱心になるほど「自立」という言葉を思い出していた。しかし自立といえば聞こえはいいが、私には母が私を捨てて一人になりたがっているようにしか思えなかった。仕事のことを話す母は必要以上に明るい。自分はちゃんと職場でやるべきことのできる能力のある者なのだと、虚勢を張るような、見得のような、そのくせ言い訳のような言葉を聞くと、母は一体なにを欲しているのだろうかと図りかねる時があった。


 私はいそいそと出かけていこうとする母に、作りおきのシチューの鍋を覗き込みながら声をかけた。


「お母さん、今日、私、友達んとこに遊びに行くことになったんだけど」

「誰んとこ?」

「……玉島さん」

「同じクラス?」

「……うん。でさあ、遅くなってもいい?」

「……その子のおうちに行くの?」

「うん」


 シチューに指を突っ込み、安っぽいインスタントのルーの味のするそれを一舐めした。


「その予定だけど、他にも友達来るからカラオケとかかも」

「……ふうん」


 母はもう玄関で靴を履きかけている。


「気をつけてね」

「うん」


 出て行く母を見送りながら、母に嘘をついたことよりもわざわざ玉島さんの名前を使う自分に嫌気が差した。私は玉島さんや、吉田さん達以外の誰の名前も知らない。覚える間もなく迫害は始まってしまった。誰だって自分の身がかわいいのだ。私はもう誰とも仲良くなることはないだろう。


 一人の家でシチューを食べ、テレビを見て、なにを着ていくかちょっと迷ったけれどジーンズにTシャツを着てジャケットをひっかけた。ジャケットは紺色で、白いステッチが入っている。これは母が買ってくれたもので、フレンチカジュアルでとても気に入っている。腕にはベビーG、ブラックモデル。火の元を確認してから鍵をかけ、すでに暗くなった町を斎藤医院目指した。一応、お金は持ってきたけれど、大人の遊びというのはどのぐらいお金がいるものなのか見当もつかなかった。クラブに行くようなことを言っていたけれど、中学生がすんなり入れるんだろうか。斎藤医院までは歩いて5分ほどだけれど、その五分をてれてれ歩くうちに「大人と遊ぶ」ということと「大人の遊び」のイメージが膨らんできて、期待と緊張と高揚で踏み出す足に勢いがつき始めた。


 斎藤医院はまだ診療中らしく、私はどこから入っていいのか分からなくて周囲をぐるりと一周した。ちょうど医院の裏手に「斎藤」の表札がでた普通の民家らしい玄関があったので、私はその扉の前でコウゾウくんの携帯電話を鳴らした。インターホンを押す勇気はなかった。三コールでコウゾウくんが出た。


「夏です。今、コウゾウくんちの前だよ」

「はーい、今行く」


 ブロック塀と門の奥は灰色の敷石で、玄関灯の明かりが薄い光を投げている。斎藤医院の正面玄関から見ると平屋に見えたのに、裏から見た斎藤家は二階建てだった。玄関が開いて、コウゾウくんが顔を出すと、

「いらっしゃい。入って入ってー」

 と手招きをしてくれた。私は門扉をきしませて中に入ると、招かれるままにコウゾウくんの部屋に通された。


 コウゾウくんの部屋は玄関を入ってすぐの階段を上がって、二階にあり広々として明るかった。よく知らない、大人の、男の人の、しかもホモセクシュアルの人の部屋。私は好奇心でうずうずしてくる唇を引き締めるのに必死だった。


「リカももう来るから」

「うん」


 部屋はこげ茶色のフローリングで、同じ色の洒落たライティングビューローとガラスの蓋つきの本棚があった。カーテンも茶系のしぶいタータンチェックで、ベッドにも茶系のカバーがかかっていた。全体的に品がよくいちいち高価そうでコウゾウくんの豊かさを物語っていた。部屋の真ん中に小さな丸テーブルと折り畳みの椅子があり、私はそこにこしかけて部屋を見回していた。その視線に気付いたコウゾウくんは、

「別に変なもんはないよー」

 と笑った。


私は慌てて弁解するように両手を振り、

「そんなんじゃないよ。男の人の部屋に入ったの初めてだから」

「あ、ほんと? んー、でも、この部屋は普通の男の部屋じゃないと思うから比較にならないと思うよ」

「普通って?」

「普通の男の子の部屋ってもっとちらかってるもん」

「コウゾウくんは綺麗好きなの?」

「綺麗好きっていうかね、綺麗なものが好きなの。ほら、これ見てよ」


 そう言いながらコウゾウくんはベッドサイドの小さな猫足のテーブルの上からビクトリア調の装飾のされた写真立てを取り上げた。そこには他にも美しく絵付けされた小皿があり、中には乾いてかさかさになったバラの花びらがたまっていた。


 言われてみると部屋にはちょっとした綺麗な小物があちこちに置かれていた。部屋の隅のキャンドルスタンドも優美な曲線のものだし、本棚の中にもクリムトの絵みたいな金色の小物入れがある。コウゾウくんはそれらを示しながら、


「綺麗なものは心が和むからね。こういうの、大事だよ。ほんと。ちょっとしたものでもいいから、ああ綺麗だなって思えるものをそばに置かないとね、人間はどんどん醜くなる」

「……ふうん……」

「夏もなにか綺麗なものをそばに置きなよ。いやなことがあっても、苦しい時も、それを見たら単純に『ああ、綺麗』って思えるようなものを。そしたらね、卑屈になったり荒んだりしないから」

「……そうだね」

「ほら、これも綺麗でしょ?」


 コウゾウくんはライティングビューローにあった香水の瓶を差し出した。爽やかで優しい匂いと、すべすべしたつや消しのガラス瓶。アラベスクのような花模様が施されている。


「これ、使ってるの?」

「たまーにね。普段はだめ。だって、学校とかじゃまずいでしょ? ほーんと世の中生きにくいことだらけよ。好きでも、好きって言えなかったり、思ったようにできないことばっかりだもんね」


 コウゾウくんは背が高くて肩幅もがっちりしていて、体育会系な感じだけれど、この清潔感も明るさも本当はカムフラージュなんだろう。本当の姿を隠すために好青年を演じている。私はまるで共通点などないコウゾウくんに親近感を感じた。学校や親の前で見せる姿と本当の心のありどころ。生きにくい世の中について、自分は同じことを感じている。


「コウゾウくん」

「ん?」

「リカちゃんって、ハットリのカノジョなの?」

「ちがうよ。あ、夏、ハットリが好きなの?」

「ちがうちがう」


 コウゾウくんはベッドに腰を下ろすと、

「リカとアタシとハットリの弟が同級生だったの。幼馴染ってヤツよ。ハットリは高校中退してしばらくぶらぶらしてたから今の大学でリカと一緒になったけど。リカは今もっと年上の男のつきあってる」

「…そうなんだ。え? じゃあ、コウゾウくんって何歳?」

「二十二」

「ハットリは?」

「二十五」

「二十五?!」

「なんでびっくりすんの?」

「だって大学生なのに?」

「ハットリ、浪人してる上に留年もしてるから」

 コウゾウくんはそう言って笑った。


 その時、コウゾウくんの携帯電話が鳴った。着メロは激しめの男の子が好きそうなロックだった。意外だと思った。でも、それもカムフラージュなのかもしれないと思うとコウゾウくんの苦労が偲ばれた。私みたいな子供に分かるはずないかもしれないけれど、偽ることの痛みなら知っている。私が今ここにいることが真実と偽りを併せ持っているから。母はなにも疑っていない。私がクラスの子達とカラオケに興じていると信じている。私が教室にうまく溶け込んでいると思っている。私がそう思わせたから。罪悪感は、ない。でも何も感じていないわけでもない。自分の中に嘘があるのは、胸の中に毒を忍ばせているのと同じだ。


 電話はリカちゃんからで、私とコウゾウくんは駅でリカちゃんを待って一緒に街へ繰り出すことになった。リカちゃんは長い睫毛にマスカラをつけてさらに長く見せ、ぼってりした唇にはちゃんと口紅を塗っていた。大福を食べていた時のあどけなさは完全に隠されていた。私とコウゾウくんを見ると嬉しそうに、はしゃいだ声で、

「今日は夏のデビューだよ」

 と言った。


 デビュー。いったいどこでなににデビューするのだろう。そんな疑問をよそにリカちゃんとコウゾウくんの賑やかなお喋りが私を夜へとさらっていく。心地よい音楽のように。ビートに体を預けると心が躍るのと同じで、それと同じものを私は感じていた。私はこの時、なにも怖くなくて不安もなかった。けれど、それは私が子供で、彼らが大人だからだった。彼らが私を守ってくれると信じていたし、子供の図々しさで私は色々なことが許されるような甘えた気持ちになっていた。私はそれらを充分承知していて、それでも今はこの状況に甘んじていようと思った。嘘をつくことに疲れていたのかもしれない。


 出かけた先はバーやレストランや雑貨屋のひしめく繁華街から、ちょうど一本通りを隔てた路地裏の店だった。地下へと続く階段は細く、狭く薄暗かった。足元に注意しながらゆっくりと階段を降りるとプールの底に沈んでいくような錯覚を覚えた。


 ハッピィハウスという名のその店は平日はバーで、週末はクラブになるのだとコウゾウくんが教えてくれた。週末のイベントにはドラッグクイーンのショーなんかもあるのだそうだ。テレビや映画で見る、あのケバケバしい人たち。テレビの中だけのものと思っていたので私は実際に見てみたいと思った。扉を押し開けると中は思いのほか広く、ソファやテーブルの向こうには広々としたスペースがとられていた。平日のせいか店内は空いており、カウンターに何人かの客がいるだけだった。


 カウンターの中にいた背の高い、テンガロをかぶった男の子が「いらっしゃい」と声をかけた。


「来ると思ったよ。忘れもんだろ」

「もぉ~、まいったわ。ケータイないのって不便!」


 リカちゃんがそう言いながらカウンターのスツールに腰掛けた。私とコウゾウくんもその隣りに腰掛けた。私は緊張していて、スツールに座る時もカウンターの端をしっかり掴まないと転んでしまいそうに足もとが固くなっていた。


「ケータイがなくても平気だった時代が嘘みたい」


 リカちゃんは自分の手に戻ってきた携帯電話をぷちぷちと操作している。

「この小さい人は―?」

 テンガロがグラスに氷を入れてくるくると柄の長いスプーンでかき回しながら言った。


「ハットリの友達。夏っていうの」

「ハットリの?」

「かわいい子でしょー」


 リカちゃんが私の肩に腕をまわして軽く引き寄せた。私は「未成年おことわり」で追い出されるのかと内心ひやひやしていたけれど、テンガロは「ふうん」と言っただけで「なに飲む?」と私の前に立った。


「えーと…」

 私はどうしていいのかさっぱり分からなくて、棚にずらりと並べられたお酒の瓶に視線を彷徨わせた。

「夏、お酒飲めるの?」

「うん。でもこういうとこで飲んだことない。缶チューハイとか缶のカクテルばっか」

 コウゾウくんの問いに私がそう答えると、カウンターの中のテンガロが、

「じゃあ、なんか作ろうか」

 と言ってくれた。リカちゃんとコウゾウくんの前にはもうグラスが置かれていた。


「それ、なに?」


 私が尋ねるとリカちゃんは「テキーラ」と答え、コウゾウくんは「ジントニック」と答えた。クラブというから鼓膜が破れそうに音が鳴ってるのかと思ったら、そうでもなくて、今は普通の洋楽がかかっているだけだった。空気は淀んでいて重く、煙草の匂いに満ち満ちている。


 私の前に赤い色のついたお酒の入ったグラスが置かれた。


「じゃ、乾杯しよー」


 コウゾウくんがグラスを手にしたので、私もリカちゃんもそれぞれのグラスを持ちあげた。


「夏のクラブデビューを祝して、かんぱーい」

 どうやらこれが私の「デビュー」らしい。グラスの中身は甘酸っぱくて、いくらでも飲めそうな気がした。


 ハットリもこういうところに来るんだろうか。お酒を飲んだり、踊ったりするんだろうか。想像できない。ハットリにあの古い家が似合いすぎていて、馴染みすぎていて他のどこにも行くことなんてないような気がしていた。まるであの家から一歩も出ないような。そんなことあるわけないのだけれど。実際、ハットリは散歩にだって出かけていたじゃないか。


 テンガロは煙草を吸いながら、小さなグラスに注いだビールを時々口に運び「何歳?」とか「ハットリと仲良いの?」とかの質問をした。私はそれらに正直に答えた。横でコウゾウくんが代わりに答えてくれることもあれば、リカちゃんが口を挟む事もあった。


「夏は引っ越してきたばっかりだから、私達で案内してあげることにしたのよねー」

「案内するようなとこ、ねえだろ」

「そんなことないよ。あるよ」

「なんで引っ越してきたの? 転勤とか?」


 テンガロは灰皿に煙草を押し付けた。目の前をまだ紫煙が漂っている。


「親が離婚して。それで」


 私が答えると、リカちゃんは大袈裟なぐらい大きな声を出した。


「ええ! そうなの?!」

「そう。お母さんの実家がこっちだから。それで」

「そうなんだ……。じゃあ、お父さんはどうしてるの?」

「……女の人と暮らしてるって聞いたけど……。どうしてんだろ……分かんない」


 気付くとリカちゃんは物凄く悲しい、傷ついた表情で私を見ていた。私はぎょっとして、慌てて何か言おうとしたけれど、コウゾウくんがそれを止めた。耳元で、「リカの彼氏、奥さんいるの。不倫ってやつ」と囁いた。コウゾウくんはテンガロと話しているリカちゃんを横目に、さらに囁いた。


「ビビってんの。相手の家庭が自分のせいで崩壊したら…って。だったら、今すぐ別れたらいいのにね。それができないってんだから、やっかいよ。馬鹿なんだから」


 そう言ながらもコウゾウくんの目は優しく温かかった。心配していることがよく分かった。


 それにしても意外な事実に私は驚き、リカちゃんの横顔を見つめた。不倫。その言葉がぐるぐると頭をめぐる。私には父がなにを思い他の女を選んだのか分からない。たぶん、生涯理解できないだろう。それから、リカちゃんの怯えたような目。あれはなにを意味するのだろう。罪を恐れる気持ちの表れだろうか。もしかしたら、私はこの人から知ることがあるかもしれない。父の気持ちを。その断片を。そう思うとこちらを見てにっこり微笑み「飲んでみる?」といって自分のグラスを差し出してくれる彼女から目をそらすことはできなかった。グラスの中の透明な液体は独特の匂いがしていて、一口啜ると喉がかっと焼けるように熱くなった。


「お酒って感じだね、これ」

「美味しい?」

「まずいよ」

「あはははは」


 グラスを返す時、リカちゃんの指に嵌った細いリングに気がついた。彼氏からのプレゼントだったりするんだろうか。彼氏とお揃いとか。約束の指輪。そういえば父は母との結婚指輪をどうしたんだろう。


 テンガロは今度はりんごの匂いのする淡い琥珀色の飲物を作って、他の客の相手をしにカウンターの端に向かった。向こうでは男の子が一人で座っている。髪の長い男の子だ。


「ナイショだよ。彼が、好きな人」

「誰が、誰の?」

「あのバーテンが僕の好きな人」

「……コウゾウくんの彼氏?」

「ううん、片思い」


 ひそひそと囁き交わす言葉は教室のお喋りのようだった。


 私の「教室」はこの時からここになった。音楽とお酒と煙草に溢れた空間。教師の代わりに何人もの、様々な大人。友達も、また。二杯目のお酒も甘くみずみずしく、気付けば頭の芯がゆらゆらと揺れるようだった。この不思議な感覚が「酔い」であると気付いた時、私は楽しくて仕方なくて、コウゾウくんとリカちゃんとお喋りしながらリズムにあわせて指でカウンターを叩いた。それは母が私の携帯電話を鳴らして「まだ遊んでるの?」というまで続いた。


 もうちょっと飲んでいくというリカちゃんを置いて、私はコウゾウくんと家に帰った。お酒の匂いがしてはまずいということで、コウゾウくんがクールミントのガムを買ってくれ一度に三枚ぐらい噛まされた。辛くて鼻に抜ける空気がすーすーしすぎて痛いぐらいだった。コウゾウくんはロイヤルハイツの前まで送ってくれた。


 コウゾウくんはロイヤルハイツの入り口の階段のところで、青白い蛍光灯の灯りに照らされながらじっと私の顔を見つめ、微かに笑うと、

「夏、黒目が大きくて、澄んでて綺麗だね」

 と突然改まって言った。


「え? そ、そう? そうかな……」

「うん。ハットリの弟と似てる」

「……そうなの?」

「うん。リカもそう言ってた」

「ふうん? ハットリの弟ってどんな人? ハットリと似てる?」

「似てないよ、全然」

「そうなんだあ」


 コウゾウくんはさらに目を細めて笑った。それから大きな手で私の頭を撫でると、

「夏、仲良くしようね。なんか困ったことがあったら、なんでも相談してよ」

「……ありがとう」

「ほら、アタシもリカも、夏よりはちょっとだけ人生経験があるじゃない?」

「そうだね。よろしくお願いしまーす」


 私は半ばおどけるようにぺこりと頭を下げて見せた。それは私が転校してきた日と同じ挨拶だったけれど、まるで違っていた。コウゾウくんは「いやあねえ」と小さな子供を見るような、懐かしいものを見るような顔をしていた。


 私とハットリの弟が似てるのか。男の人に似てるなんて複雑だけど、これでなんとなく合点がいったな。ハットリが私を助けたのは、弟と似ていたからなのだ。私はハットリを疑ったりはしていなかったけれど、心のどこかで行動の読めないハットリを警戒していたのかもしれない。固く引き締められていた胸の紐がするりと解けるような気がした。


 家に帰ると母がお茶漬けを食べながらニュースを見ていた。怒られるかとびくびくしたけれど、母は私に一瞥をくれると「楽しかった?」と尋ねた。私は鼻先で返事をし、台所でミントのガムを捨てた。


「仲のいい子ができてよかったわね。どんな子なの? ミサちゃんやカナちゃんみたいな子?」


 背後で母がテレビの音に混じって言う。


「どっちにも似てないよ。どっちでもない」


 こともなげに答えつつ、私は少しむっとしていた。私は確かに何もかもを失ってしまった。でも、それはちがう場所で、また同じようなものを拾い集めてなにごともなかったような顔をする為の「ゼロ」じゃない。母はそれを知っているのだろうか。それとも母にとっては、そうなのだろうか。この町でまた父のような人を見つけて結婚し、庭付き一戸建てに住み人生の積み木を積みなおすのだろうか。そして、その中にはやはり私も組み込まれていて、私はまた母について従い、母の選ぶ誰かをお父さんと呼ぶようになるのだろうか。かつて、私がそう呼びかけた人の代わりに。


「最近、ミサちゃん達に電話とかしてないのね」

「……うん……」

「元気にしてるかしらね。二人ともよくうちに遊びに来たじゃない?」

「元気なんじゃない? 夏休みに遊びにおいでって言ってた」

「……あら、そう。そうね、夏休みになったらね」


 部屋の気圧が下がるような錯覚があった。母との時間は気詰まりだ。それはたぶんお互いに自分のことしか見えていないからだろう。私達は互いの胸のうちを探っているようでいて、なんの手応えも感じていない。思惑がそれぞれの間をすり抜けていくだけだ。この不自然さを母はなんと思っているんだろう。夏休みに友達のところに遊びに行くということ。それは父の住む町へ行くということだ。それなのに、その肝心な部分は黙殺しようとしている。母はきっと私があの町へ行くことを良しとは思っていない。私が過去に触れることを良しとは思っていない。それはひどくせつないことだった。


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