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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
6/13

6話

私をボコにしたことですっきりするのかと思ったらそんなことはなく、玉島さんの指揮のもとに陰湿ないやがらせは続いた。私の孤立は今や完全なものになっている。陰口を囁くのではなく、公然のものとして声高に糾弾する。頭のてっぺんから足の先まで、あますところなく非難の対象になる。そのことに驚きを覚えた。


 体育の後ロッカーで着替えをしていた時のことだった。授業が終わって、制服に着替えて教室に戻ると吉田さんをはじめとする女の子数人がにやにや笑いながら私の方へ、やってきた。私はいやな予感がして彼女達から目をそらした。すると、彼女達は奇妙な微笑を浮かべながら私を取り囲んだ。いかにも何事か企んでいるような様子で。次の瞬間、衆人環視の中で彼女達のしたこと。それは、なんと「スカートめくり」だった。私は慌ててスカートを押さえた。女の子達が一斉に笑い出した。


 教室には男の子もいて、一部始終を見ていた。その中で、吉田さん達はいまどき小学生だってやらないようないやがらせを、さもこれが愉快な冗談やちょっとした悪ふざけであるかのように笑いながら、いやがる私のスカートの裾をばさっと掴み上げ始めた。私は必死で「やめてよ!」と懇願したけれど、吉田さん達は笑うばかりで裾を掴む手を緩めることなく、ほとんど私を引き回すようにしてスカートの中身を曝け出そうとした。


 一体、なぜこんなことをするのかまるで理解できなかった。私の下着をみんなに晒すことのなにがそんなに面白いのか。なぜ急にそんないやがらせを思いついたのか。吉田さんから逃れると、今度は後ろの東田さんが後ろから裾をまくりあげ、それから逃れると今度はまた前から。横から。執拗にそれは続いた。教室のほとんど全員に私の下着や太股が晒されたところで、いい加減息が切れたのか、笑いすぎたのか、彼女たちはひーひーとひきつったような呼吸で私を突き飛ばした。私はよろめきながらスカートの裾をしっかり押さえ、ささやかな抵抗で彼女達をきっと睨んだ。すると、彼女達の行為を笑って傍観していた玉島さんが、私ではなく、教室中に説明するように一声高く叫んだ。


「誰かさんは男ったらしだからさあ。見せたくってしょうがないんだよねえ」

 彼女の言葉に私ははっとした。


 どういうわけなのか、この学校の女の子達はみんな制服のスカートの下に体操服のショートパンツを穿いていた。私にはそれが不思議で仕方なかった。冬に防寒の為にアンダーウェアを穿くのとはわけがちがう。運動部の子が着替えの時間を短縮する為にそうしているのでもない。なにか取り決めでもあるのかしらないけれど、女の子達はスカートの下に体操服を着ていた。それが私には不思議なことだったけれど、まさかスカートをめくられない為ではないだろう。


 前の学校では考えられないことだった。ミサもカナも、他の女の子達だってみんな競うようにかわいい下着を身に付けていた。それを隠すようにわざわざ体操服を着たりはしていなかった。それが自然だった。


 私は唖然として教室を見回した。そうなの? そういうことなの? 私がスカートの下にショートパンツを穿いてないから、私は下着を見せたがってるんだってことになるの? だから、私が男ったらしってことなの? 私は吉田さん達をポン引きのように感じ、他ならぬ私自身が淫売扱いされたことに衝撃を感じた。彼女たちが私のスカートをめくって引き回したのは、そこに男の子がいたからだ。でなければ、それはいやがらせにはならない。「辱め」という言葉がぐるぐると頭を巡り始めた。たかがスカートをめくられるぐらいのことで大袈裟かもしれないけれど、私はこの時、人間としての尊厳を叩きのめされたと思った。しかもそれがさも冗談のように、悪ふざけのように笑いに紛れて行われることの悪質さ。悔しさに奥歯をきつく噛みしめ、私はスカートの裾を握りしめる格好で自分の席に座った。


 あちこちでまだ笑いが渦巻いている。吉田さん達が男の子達にからかいの言葉をかける。


「今、超嬉しそうに見てたでしょー」

「やらしー」


 私は屈辱のあまり血の出るほど唇を噛んだ。こんなに人がいて、誰も止めないどころか笑いばかりが細菌感染のように広がることが恐ろしく、おぞましかった。すっかり気持ちが昂ぶって手や足がぶるぶると震え、机の中から小説を取り出すもとても読むことはできなかった。


 耐えられない。そう思った瞬間、チャイムが鳴った。私はみんながそれぞれの席に着席する中、一人立ち上がると、教室を走り出た。廊下や階段を走って教室に戻る生徒。私はその中を逆走し校庭を駆け抜け、校門めがけてまっしぐらに走った。校門には生徒の脱走を監視する為に休み時間の間先生が立っている。私は校舎の陰に身を隠すと、しゃがみこんで息を潜めた。生徒が皆、納まるところへ収まった後の静寂。私は先生が校門から離れるのをじっと待った。時間にしてものの数分のことだと思う。しかし、私には永遠のように長く感じられ、見つかって教室に連れ戻されたらという恐怖と緊張で心臓が破けそうだった。


 先生が校門を離れた。門は今度は外部からの侵入者を完全に拒むようにものものしい空気を放って閉ざされている。が、外部からの侵入者をシャットアウトする為の警備体制は中から出ることは容易だった。私は誰もいなくなった校庭を背に、門を開け、猛烈な勢いで走り出した。


 「逃げる」という言葉がこれほど相応しい瞬間は他にないだろう。私はその時、確かに「逃げて」いた。逃げようとして必死で、何度も振り返り、追っ手のないのを確かめながら懸命に走った。大人の目を避ける為に住宅街を駆け抜け、狭い路地をじぐざぐに迷走し、走って走って、走り続けた。どこに行こうと思って走っていたわけではなかった。とにかく逃げなければという強迫観念に駆られ、一メートルでも学校から遠ざかりたい一心で走り、とうとう私は気付くとあの海沿いの家にやってきていた。


 今頃、教室では午後の授業が始まっているだろう。私がいないことで、先生は不審に思うかもしれない。鞄は残されたままの空っぽの席。私がどこに行ったのか、教室に問うかもしれない。しかし、誰も答えないだろう。きっと。私がいても、いなくても、どうでもいいから。むしろ、いない方がいいと思ってさえいるかもしれない。そして、私の行方を囁きあい、いやがらせが効果的に働いたことを、その戦果を喜び、称えあうだろう。


 まだ激しく波立つ胸と動悸に私は目を閉じて深呼吸をした。そして、ほとんど無意識といっていいほどのふらふらとした足取りでハットリの家の庭へと入って行った。呼び鈴を鳴らそうなどとは思いもしなかった。足が勝手に庭に向かい、吸い寄せられるように開け放された縁側にたどり着いた。私は日の当たる縁側に崩れ落ちるように座ると、体をひねり、その名を呼んだ。


「ハットリ」


 返事はなかった。居間には誰もおらず、しんとした空気が漂っていた。卓袱台には湯呑みや土瓶が置かれ、壁の時計の秒針の音が妙に大きく聞こえた。


 この静けさは学校のものとはまるで違う。校内の静寂は私をひどく怯えさせるけれど、この家から溢れているのは冷たく乾いていて、心地よい眠りを誘発するようなものだ。何者をも受け入れるような、広く豊かな静けさ。私は靴を沓脱ぎ石の上にぽとりと落とし、縁側を中へ中へと這いながらもう一度ハットリを呼んだ。板敷きの部屋を覗き込むと、ハットリはそこにいてちょうどこちらに背を向ける格好でイーゼルに向かい、丸い小さな木製の椅子に座っていた。その背中を認めると、私は立ち上がり、自分でも信じられないような勇気と図々しさで部屋の中へ足を踏み入れた。


 ハットリは無言で手を動かしていた。イーゼルには大きなクロッキー帳が開かれており、木炭を使って、台の上に置いたコップと水差しと、しおれた紫陽花を描いているらしかった。ハットリの背中を見つめながら私は黙って立っていた。けれど、私はちっとも不安ではなかったし怖くもなかった。ハットリはこちらを見向きもしなかったけれど、無視されているとは思わなかった。むしろ、自分が確かにここに受け入れられているように感じていた。根拠は、ない。でも、私はそう信じて疑わなかった。部屋を見回すと、壁際にキャンバスが立てかけて置かれ、本や雑誌が乱雑に積まれていた。その中に私は誇りをかぶったレコードプレイヤーを発見した。近寄って見ると、ターンテーブルにはレコードが乗っており文字はクリス・コナーと読めた。


「ハットリ、レコードかけてもいい?」

「……ふん」


 ハットリは鼻先で返事をすると、くるりと私を振り向いた。私はじいっと見つめられながら、次の言葉を待った。ハットリの目は、凪の日の海のように静かで、そのくせ眉間には苦悶したような皺がある。憮然とした表情が威圧的だけれど、不機嫌とか怒っているのではなく、もともとそういう顔なのだろうと思った。なぜならハットリは私が「どうして」ここにいるのかなど尋ねもしなかったし、それどころか、当たり前のような顔をしていた。


「お前、ジャズ好きなの?」

「これ、ジャズなの?」

「……」


 私がプレーヤーを動かすと、ハットリは呆れたように首を振った。微かに笑いさえした。私も釣られてちょっと笑った。


 ぐっと甘くて低音の渋い女の人の歌声が流れ出すと、私はそれを聴きながら部屋の中をゆっくりと見物しはじめた。乱雑に本が突っ込まれている本棚には漫画も小説もごちゃごちゃになっていて、床に置かれたキャンバスには真っ赤な渦巻きが一面に描かれた意味不明なものや、静物画、裸の女の人などがあった。裸の女の人の髪型がスパイラルなので、モデルはリカさんかなと思った。粘土でできた怪獣、角材から掘りおこしたような彫刻、模型の飛行機。この部屋はおもちゃ箱のようだ。なんでもある。でも、必要なものは何もない。けれど、大事なものばかり。


「これ、全部ハットリが描いたり作ったりしたの?」

「いや、大学のヤツとか、いろいろ」

「ふうん。ハットリ、今日は大学ないの?」

「ないよ」

「ふうん」


 学校のことを言ったのはまずかったかなと思った。自分はどうなのか問われたら困るから。でもハットリはそんなことは聞かず呑気にクリス・コナーに合わせて鼻歌を歌っていた。


「この曲、聴いたことある……。なんだっけ? なんかのCMでかかってたよね」

「バードランドの子守唄」

「……ハットリ、一人暮らしなの?」

「そうだよ」

「一人って、淋しい? 楽しい?」

「……」


 私は床に座り込み、大きくて重たいマチスの画集を開いた。

「一人暮らしだけど、一人とは限らないから」

「……どういう意味?」

「そういう意味」


 ハットリはデッサンをする手を止めず、鼻歌を歌い続けそれ以上は説明してくれなかった。一人で暮らしてるのに、一人じゃないってどういうことだろう。友達がいるってこと? 大学の人たちがアトリエとしてよく使うって言ってたから、そういうことなのだろうか。きっと友達がたくさんいるんだろう。私とちがって。


 しばらくそうして黙って私は画集を眺め、ハットリは手を動かしていると、庭から男の人が入ってきた。


「ハットリ、リカ来てる?」


 そう言いながら現れたのは、がっちりした体格の男の人で、髪をスポーツ刈りにしていて手にはカーボンファイバーの書類ケースを持っていた。床に座っている私を見ると「こんにちは」と自然な挨拶をした。私は慌てて「こんにちは」と返した。


 男の人は自分の家のように部屋に上がってまっすぐに台所に行き、冷蔵庫からジンジャーエールを持って出てくると、


「ねー、ハットリ、リカは?」

「知らねえよ」

「どこ行ったんだろ。まったく」


 そう言いながら太い喉をのけぞらせ、ごくごくとジンジャーエールを飲んだ。見た目に比べて、ずいぶんとなよなよしい喋り方をするんだな……。腕も太いし胸板も厚いのに、言葉尻は優しい。私が見上げているのに気付いたのか、その人はジンジャーエールを差し出すと、

「飲む?」

 と尋ねた。私は手を伸ばしてそれを受けとった。


「もしかして、夏?」

「あ、はい。そうです」

「リカがかわいい子が来たって言ってたからさあ」

「……」


 ジンジャーエールはよく冷えていて、私がいつも飲むような甘ったるいものではなく、舌に確かな生姜の辛味を感じた。


 男の人は縁側に腰掛けると体をガラス障子にもたせかけ、自己紹介をしてくれた。


「斎藤コウゾウです。よろしくね」

「渡辺夏です……」

「リカとは小学校からの同級生でねえ」

「あ、そうなんですか」

「そうなの。その制服、二中でしょ? アタシもリカも二中よ」


 ……アタシ? 目の前にいる人から飛び出すあまりにも似つかわしくない言葉。私はそれを代名詞ではなく、何か食べ物の名前のように感じた。


「私、引っ越してきたばっかりだから…」

「あ、そうなの? へえー。どこに引っ越してきたの?」

「えーと、大橋町の……斎藤医院ってところの近くです」

「あ、じゃあ近所なんだ」

「え?」

「斎藤医院って、うちだよ」


 まだ私は一度もお世話になったことはないけれど、斎藤医院の古風な前庭と入り口の扉は趣きがあって好きだった。一昔前の「診療所」ってイメージ。私がそう言うと、コウゾウくんは笑って、

「でも、もうジジイだからヤブだよ?」

 と言った。聞くと、斎藤医院の「先生」は今も現役を通すコウゾウくんのおじいちゃんだとのことだった。


「医者のくせに、本人が今にも死にそうなんだけどねえ」

「じゃあ、もしかして跡を継いだりするんですか?」

「んー? まあ、一応そうなるかなあ」

「へえ……」


 いつの間にかレコードは終わり、ハットリは大きく伸びをした。肩をぱきぱきと鳴らして、立ち上がった。


「斎藤医院は将来肛門科になるのか」

「やだ、ひっどーい!」


 コウゾウくんが女子高生みたいな声をあげた。笑うところなのか……? 私はちょっと困って「なんのことだか分かりません」という顔でジンジャーエールを一口飲んだ。緑色の細い瓶にはウィルキンソンと書いてある。ハットリはそのまま笑いながら台所に行くと、霜のついたガラスの瓶と氷の入ったグラスを持って戻ってきた。歩いてくる裸足の爪が大きく、私は思わずそれに見入った。


 縁側は日当たりが良く、生垣の山茶花の木漏れ日がやんわりとした光を庭に投げている。海から吹いてくる風は心なしか潮の匂いがするような気がした。ここはもしかしたら天国かもしれない。不意にそんな気がした。そのぐらい、この家と庭は静かで落ち着く。学校や母との暮らしが悪い冗談のように平和だ。ハットリが持ってきた霜だらけの凍った瓶はウォッカで、それをコップに注いで、ちびちびと飲み始めた。コウゾウくんはジーンズの足を投げ出すようにして、たった今気付いたかのように言った。


「夏は、ここで何してんの?」

 私はぎくりとして思わずハットリの顔を見た。

「別になにも……」

「……そうなの? 絵を描くとか写真撮るとかしないの?」

「え?」

「リカもそうだけど、ハットリの大学が美大でしょ? だから、ここに来る子ってみーんな絵とか彫刻とか、工作とかしてんのよね。アタシだけよ、医学部とかって」

「私、不器用だから……そういうの全然だめなんです」


 答えながらハットリの顔色を窺うように上目遣いでちらちらと見ていると、ハットリは煙草を取り出し火をつけた。それも、ライターではなくマッチで。マッチを擦った時の独特の匂いが漂った。


 私にも何かできればいいのに。そうしたら、ちょっとはましな気分になれるのに。何も持たないで、何もできないでいるよりは何かできた方がいいに決まっている。それが何かは分からないけれど。絵も工作も上手くもないし、取り立てて好きだったこともない。そりゃあ、そんな趣味があればいいけれど今からでは遅いような気がした。


 私はまだたったの十五歳なのに、もう人生が終わりに向かってカウントされているような気がしている。世界が終わりに向かって突き進んでいるような、ある種の絶望。何もかもが衰えていき、滅びていくことへの厭世的な気持ち。趣味を持ったところでいずれはそれも失わなければいけないような気がしている。実際、私はピアノだって失ってしまった。あのピアノを父はどうしただろう。黄ばんだ鍵盤と傷のついたピアノ。離婚して父が他の女の人と暮らすことは母から聞かされたけれど、どこで暮らすのかは聞かなかったし、私達が引っ越した後にあの家がどうなるかも知らなかった。勿論、ピアノの行く末など知る由もなかった。


 もし父が今もあの家に他の誰かと住んでいたとしても、ピアノだけは……。あのピアノだけは私の物であってほしい。両親も祖父母も、とってつけたように「例え離れて暮らしても親子であることには変わりないし、お父さんはずっと夏のお父さんだ」なんて言うけれど、そんなのは実に馬鹿げた子供だましだ。父はもう私の「お父さん」ではない。それはそれで仕方ない。でも、私がいなくてもピアノは私のピアノだ。私が信じたいのはそれだけだった。


 私とコウゾウくんのやりとりを聞いていたハットリは終始無言でウォッカを飲んでいる。まだ日の高いうちからお酒なんて……と思ったけれど、芸術家とはそうしたものなのだろう。ハットリはいかにも美味しそうにグラスを傾けている。その手が黒く汚れている。私は立ち上がりもう一度レコードをかけた。今度は縁側で聴くために音量をあげて。


 またハットリが鼻歌を歌い始めると、庭にリカさんが入ってきた。


「あら、みんなお揃いでどうしたの」

「ちょっとリカー、あんたなんで電話に出ないのよ」

「そーれが、ケータイ昨日忘れてきたみたいなの」

「どこに?」

「ハッピィハウスに」


 リカさんは今日もいさぎよくおでこを出し、長い睫毛を力強くカールさせていて破れたジーンズを履いていた。縁側に腰掛けると、ハットリのグラスに手を伸ばし水でも飲むようにぐいと中身を飲み干した。


「夏、学校もう終わったの?」

「……」

「その制服懐かしいなー。私も二中だったんだよ」

「それ、アタシもさっき言ったとこ。でも、夏って最近転校してきたんだって」

「あ、そうなの?」


 いつの間にかコウゾウくんまでハットリからグラスを取り上げてウォッカを飲んでいた。三人は一つのグラスをぐるぐる回して飲んでいるので、手から手へ絶えずグラスが移動する。氷がグラスの中で音を立て、時々光に煌いて光彩を放つ。私はその透明な液体が光を集めて作られているように思った。とても純度の高い、透明な水。


「じゃあ、まだあんまりこの辺のこと知らないんだね」

「うん」

「ま、小さな町だから特になにがあるってわけでもないんだけどね」

「でも、植物園の辺とか散歩しに行くよ。あの辺は静かで好き」

「あはは、夏、年寄りみたい!」


 リカさんが笑う。分厚い唇。真っ赤な口紅でも塗ったらさぞ似合うだろう。コウゾウくんがグラスにウォッカを注ぎ足しながら「そうだ!」と名案が浮かんだかのような弾んだ声で提案した。


「案内してあげるよー。どこでも、連れてってあげる。ねえ?リカ?」

「あ、そうそう。そうだよね。あたし達、ロコだから。なんでも聞いてよ。まずね、浜沿いのカフェあるでしょ?。あそこの冷たいココアは最高に美味しいんだよー。それから、権現さんの縁結びね。あれ、究極に効くの。とかね、お好み焼き屋ね、すーごい美味しいとこあるんだよ。ねえ、ハットリ?」

「スジ入りのネギ焼きな」

「あー、なんか食べたくなってきた!」

 リカさんが足をばたばたさせる。

「とにかく、案内してあげるから!」


 ……子供みたい。って、子供に言われたくないだろうけれど、リカさんのはしゃぐ様子は小さな子みたいに可愛らしかった。こういう朗らかさを、みんなどこに置いてくるんだろう。前の学校の上級生や先輩たちはみんなつんと取り澄ました顔で、にこりともしなかった。それが「大人の女」だと言わんばかりに。でも、目の前で絶えずにこにこしている人は眩しいぐらい感情を自由にさせている。


 コウゾウくんが携帯電話を取り出すと、私に向かって、

「夏、携番教えて。メアドも」

「あ、うん」

 私はコウゾウくんに自分の携帯電話の番号とメールアドレスを口伝えた。すぐにコウゾウくんは自分の携帯電話から私の携帯電話を鳴らし、メールも送ってくれた。私がそれをアドレス帳に登録すると、

「そのプリクラ、友達?」

 と、携帯電話を指差した。

「うん。前の学校の友達」

「ふーん。でも、夏が一番かわいー」

「そんなこと……」

 私が照れて笑うと、突然ハットリが、

「なあ、プリクラ、撮りに行こうぜ」

 と言った。それには私だけではなく、リカさんもコウゾウくんも仰天して一斉に頓狂な声をあげた。

「はあ?!」

 リカさんは目を丸くさせ、

「ハットリ、プリクラなんて撮ったことあんの?」

「ねえよ」

「てか、プリクラとか知ってるんだ?」

「当たり前だろ、馬鹿にすんな」

 コウゾウくんもげらげら笑って、

「ハットリ、どう考えてもプリクラってキャラじゃないじゃん」

「ただの写真だろ。キャラは関係ねえよ」

「でも、変! 絶対、変! みんなが聞いたら爆笑だよ」

 リカさんとコウゾウくんは「ねえ」と顔を見合わせた。


 一体、なぜハットリがそう言ったのかは分からなかった。興味を持ったのだろうか。あんまりリカさん達が笑うので、ハットリは「じゃー、もういいよ」とぶちぶち言いながらまたウォッカを飲みだした。けれど、内心私はハットリとプリクラを撮って、……というか、プリクラじゃなくてもいいんだけど……、ここにいるのが夢じゃない証拠でも残したいような気がした。確かに私がここにいて、確かに彼らが笑っていて、なんの苦しいこともないような瞬間を永遠のように切り取ってしまえたら。そうしたら、私はその中に住みたい。


「ねー、それじゃあさあ、今日さっそく遊びに行かない?」

 リカさんが私に向き直った。

「今日? 今から?」

「そう。今からって言っても、今すぐじゃないけど」


 私は学校に鞄を置きっぱなしできているのを思い出した。鞄を取りに戻らなければ、家に帰ることもできない。鞄には家の鍵が入っているのだ。


「リカ、あんたケータイ取りに行くんでしょ」

 コウゾウくんが口を挟む。

「だからあ、夏も連れてってあげようと思って」

「ハッピイに?」

「だめ?」

「だめじゃないけどぉ……」

「教育上良くないとか言うんじゃないでしょうね?」

「そんなことは言ってないよ。でも、ぶっちゃけ、そうでしょ?」

「大丈夫、大丈夫。夏はしっかりしてそーだもん。それに今日、平日だし」


 二人の遣り取りを聞いていると、どうもそれは子供が行くようなところじゃないらしい。子供って様々な制限があって、大変だ。学校にも行かなくてはいけないし。考えただけでうんざりする。それでもリカさんは、


「あのねー、ハッピィハウスってクラブがあるんだけどね。私、そこにケータイ忘れてきたから、今日取りに行くから、一緒に行かない?」

「……いいけど……」

「じゃあさ、着替えてー、七時にコウゾウんちに集合」


 変なことになったな……。私は頷いたものの事の成り行きにちょっと戸惑っていた。いや、それよりも目下の問題は鞄だ。授業が終わって、みんなが帰ってしまわないことには教室には行けない。時計を見るとそれまではまだゆうに一時間はありそうだった。


 リカさんは部屋にあがるとさっきまでハットリがデッサンしていた場所で絵を描き始めた。


「リカ、頼んでたアレさあ」

「うん?」


 コウゾウくんが書類ケースを開けると中から画用紙と引き伸ばした写真を取り出した。


「これでいいかな」


 そう言いながらリカさんに渡すと、二人はなにか絵の大きさがどうだの、素材がどうだの、角度がどうだのと話し始めた。クリス・コナーはまだ終わらない。ハットリは縁側にごろりと寝転ぶと、肘枕をし顎先で二人の方を示してみせ、

「コウゾウが肖像画をリカに頼んでんだよ」

 と教えてくれた。


「誰の?」

「好きなやつの、肖像」

「ふうん……。なんでハットリに頼まないの?」

「リカの方が上手いからだろ」

「ふうん……」


 私はその言葉に首を伸ばしてリカさんの前のイーゼルを垣間見ようとした。


「夏、いつか俺らのプリクラもケータイに貼れよ」

「……」


 振り向くとハットリは目を閉じて完全に昼寝の体勢になっていた。


 ……そうか。この人は私の友達になってくれようとしているんだ……。友達のいない転校生、新しい学校に馴染めないでボコにされて、脱走してきた私の友達に。私はみじめで情けなく、一瞬ひどくハットリを忌々しく思った。けれど、そう思う反面涙が出そうになった。ハットリの言葉がただのいじめにあっている中学生への憐れみや、胡散臭い正義感ではないことをなんとなく感じていたから、私は腹立たしく、恥ずかしくもあったけれど小さく「うん」と頷いた。ハットリの傍らのウォッカは、半分以上なくなっていた。


 ハットリの家を出る時、ハットリはぐうぐう寝ていたので、私はリカさんにそっと尋ねてみた。コウゾウくんは一足先に帰って行った後だった。


「ね、リカさん」

「さんづけで呼ばれるのって、緊張するなあ」

「え、じゃあなんて呼べばいいの?」

「ん? リカちゃん」

「……リカちゃん」

「なに?」

「コウゾウくんって……ゲイ?」

「そうだよ」


 私は「やっぱり」と、リカちゃんがコウゾウくんに頼まれたという描きかけの裸の男の人の肖像を眺めながら深く納得した。もう一つ、リカちゃんがハットリのカノジョなのかどうかはコウゾウくんに聞くことにして、私はいい加減誰もいなくなっているであろう学校へ夕焼けの中を歩いて戻っていった。


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