5話
母は仕事から帰って私を見ると驚愕し、手にしていたスーパーの袋をどっさりと取り落とした。動転し上ずった声で「どうしたの、その顔!」と叫んだ。私はわざとテレビから目を離さないで、さも何事もなかったかのようにさらりと「階段から落ちたの」と答えた。
「階段ってどこの? 学校の?」
「うん」
「……他に怪我はないの?」
「うん」
「階段から落ちたって……そんな、あんた……」
母が動揺しながらも買ってきたものを拾い上げ、冷蔵庫にしまう間、私はぼんやりとテレビを眺めていた。
問題は、母の前ですべてがオッケーだという顔をすることじゃない。明日も明後日も学校に行かなくてはいけないということだ。考えるだけで、胸が暗く塞がれる。私の身に降りかかった災厄を、私は誰に話せばいいのだろう。ミサやカナにメールや電話で言ったところで、彼女達に何ができるだろう。もう彼女たちは私のクラスメイトじゃないのだ。所詮、私達は目の前にいるものとしか繋がれないし、目の前のものだけがすべてなのだ。私は忘れ去られていくだろう。ミサからも、カナからも。父からも。過去とはそうしたものなのだ。きっと。
その夜、お風呂に入る時傷にお湯がしみて飛び上がりそうになった。腕や肩や胸にも痣が出来ていて、今日の出来事の凄惨さを物語っていた。母は私の言葉を信じたのか、どうなのか。もう何も追及しなかった。風呂上りに顔の痣を冷やすように言い、冷たいタオルを絞ってくれた。
あの男の人はどんな絵を描いているのだろう。あの家に一人で住んでいるのだろうか。ちょっと見には強面だったけれど、優しい人だったな……。なにも言わなかったけれど、ボコにされたのを悟ったんだろう。それで手当てしてくれたんだろう。一瞬。ほんの一瞬だけ、悲しそうな目をしたのを見逃さなかった。憐れまれるのはみじめだけれど、不思議といやな気持ちにはならなかった。むしろ、この時私は心の隅でまたあの人に会って、日に焼けた縁側に座ってみたいと思っていた。
翌日、登校すると誰もが私を見て驚いた顔をしたけれど、どうしたの? とか大丈夫? とは一切声をかけられなかった。それどころか、朝っぱらからご苦労なことに私の机はチョークの粉まみれになっていて、机の中からは紙くずやらゴミがごそごそと出てきた。私は自分で雑巾を取ってきて机を拭き、ゴミを捨てた。そして椅子に腰掛けると持参してきた文庫本を開いた。自分が「無視」されているという事実から目をそむける為に本に集中し、誰とも口をきいてもらえないのではなく「きかない」のだという自分への慰めに、中傷や意地悪だけで埋め尽くされた時間をやり過ごす為に、鞄が重くなるのを我慢して小説を携えてきたけれど、本が心の拠り所となるのは初めてだった。本は楽しみの為に読むもので、現実逃避のための手段ではない。なのに、今はひたすら活字を目で追った。いっそ耳栓でもしたいぐらいに集中して。こんな風にして読まれているなんて、小説家だって考えもしないだろう。
山田くんは登校してきて私を見るなり、ぎょっとした顔をした。私は背中を丸めて小さくなり、俯いて本に熱中しているふりをした。全身から「何も言ってくれるな」という空気を放つ。この一分一秒も、監視されているのだ。傷の上にさらに傷を作りたくない。それが分かったのか、教室中の空気を読み取ったのか、山田くんは鞄を置くと男の子達の群れの方へ行った。私は安堵のため息をつかずにはおけなかった。
チャイムが鳴り、先生が来ても私は顔を隠すように座り、そむけ、尋ねられれば母に言ったのと同じように「階段から落ちた」と答えた。教室で囁かれる声とか、玉島さん達の勝ち誇ったような笑いだけがすべてを物語り、また、すべてをみんなに知らせていた。昼休みまでにはほとんど全クラスの生徒に「玉島が転校生をボコにした」という情報は知れ渡っていた。それは勿論山田くんの耳にも入ったはずで、だからなのか、山田くんも私に話し掛けてはこなかった。私はそのことに傷ついたりはしなかったけれど、ぜひとも聞いてみたいと思った。「玉島さんは私とあなたが仲良くなるのに嫉妬して、私をボコにしたのよ。あなたはそれをどう思う? そして、そんな玉島さんをどう思う? 彼女、あなたを好きなのよ」と。玉島さん達もどういうつもりなんだろう。一体どこの男の子がライバルをリンチするような女の子を好きになるだろう。私にはまるで理解できなかった。
一日中することがない私は図らずも真面目な生徒となり、授業は熱心に聞きノートも丹念にとった。そうしていなければ心が沈むばかりでやりきれなかった。授業内容が前の学校と重複しているので、そんなに真剣に聞くこともないのだけれど、なにかに心を傾けていたくて私は教壇の先生の一挙手一投足に注意を払った。その姿勢が「いい子ぶってる」という中傷の種になるとも知らずに。
放課後、私は後ろを何度も振り返りながら歩くという、一歩間違えたら自意識過剰というか、精神に異常をきたしていると思われそうな不審な態度で学校を出た。昨日海に行き損ねたことと、昨日の男の人のことが頭をよぎった。なにか持っていってお礼を言うべきだろうか。でも、行けば事情を話さなくてはいけないだろうか。いや、それよりもこれ以上関わって本当に大丈夫なんだろうか。知らない男の人のところをわざわざ尋ねるなんて。さまざまなことを考えあぐねているうちに、足は自然と海に続く細い道へ向かっていた。いないかもしれない。平日だし。昨日はたまたまいただけで。だってこんな時間に家にいるなんて、なにしている人か分かったもんじゃないし。行かない理由ばかりが浮かんではシャボン玉のようにぱちんと弾ける。それは好奇心というものでもあり、なにか惹きつけられる目に見えない力のようでもあった。
私は途中の和菓子屋で大福を買い、いなかったら玄関に置いてこようと思い、意を決して昨日の古い民家を訪ねることにした。折りしも風はやみ、空はみずみずしく澄んでいた。玄関は昨日と同じように暗く静かだった。呼び鈴を三度押しても、人が出てくる気配はなかった。私はまた庭に通じる通路に向かって「すいませーん」と呼びかけてみた。すると、驚いたことに「はーい」と女の人の声が返ってきた。私は安堵するとともに驚きでその場に固まってしまい、それ以上なんと続けていいか分からなくなって馬鹿みたいに突っ立っていた。
返事の声に続いて室内をぱたぱたと走ってくる気配がし「はいはいはーい」と言いながらガラス戸ががらっと開けられた。現れたのはやはり二十代前半と思われる若い女の人だった。私を見ると「あらっ……」と目をぱちくりさせた。長い睫毛。髪はたっぷりしたスパイラルパーマ。色白で美人だった。
「なにかご用ですか?」
女の人はにっこりと微笑んだ。その優しい笑顔に私はちょっとほっとして、
「あのう……、昨日こちらの方にお世話になりまして……」
「こちらの方?」
「服部さんに……」
考えてみればこの人も服部さんかもしれないのに、なぜか私は昨日の男の人だけが服部さんなのだと思い込んでいた。
「それでお礼に伺ったんですけど……」
私は女の人の顔色を窺いながらおずおずと大福の包みが入った袋を差し出した。すると彼女は、
「ハットリ、今ちょっと散歩に出てるの。どうぞあがって」
とガラス戸をさらに大きく開け放ち私を「さあ」と誘った。これもよせばいいのに、女の人だという安心も手伝って私は一度は遠慮したけれど「どうぞどうぞ」と言われるままに結局は広い三和土で靴を脱いだ。昨日と同じローファーだった。
通されてみると案の定家の中は古びていて、しかし愛着を持って使い込まれていた。廊下はみしみしと音を立て、通された居間のガラス障子の木枠も黒ずんでいたけれどいやな感じはしなかった。居間は昨日縁側から見たよりも広く、奥は台所になっていて流しは古風なタイル張りになっていた。女の人はそこでお湯を沸かすとお茶を入れてくれた。私は卓袱台の前に座り、そうっと部屋中に視線を走らせていた。同じく庭に面した隣りの部屋に通じる障子は開け放ってあり、壁にびっしりと並んだ本や床に置かれた彫刻、木屑と埃と丸めた紙くずで雑然としたそこからは絵の具の匂いがしており、芸術家のアトリエ然としていた。
私の視線に気付いた女の人はお茶を私の前に置き、
「汚い部屋でしょ」
と笑った。
「いえ、そんな……」
「学校の連中とかも使ってるからね、めちゃくちゃなのよ」
「学校?」
「私達、美大の学生なのよ」
「学生……」
「見えない?」
「いえ、そんな……」
「いいのよ。だって、ハットリ、浪人してるし」
「……」
目の前の女の人は言われてみるとなるほど学生っぽい若さと明るさを持っているけれど、昨日の男の人は学生というには年をとっているような、明るさや朗らかさよりも苦悩と深刻なものが渦巻いていた。
「同じ大学の仲間が作業場として使ったりしてるから、いつも家の中は荒れ放題よ」
「あの……」
「なあに?」
「あの庭の物置に貼ってある張り紙は一体……?」
私が庭の物置を指し示すと女の人は「ああ、あれ」とお茶を啜りながら説明してくた。
「あれは暗室。ハットリの友達が写真をやるから、物置を改造して暗室にしたのよ。だからいきなり開けるなって書いてあるでしょ。現像中にいきなり開けられたら感光しちゃうからね」
彼女はそう言うと私が下げてきた大福の包みを卓袱台の上に置き、
「ハットリ、まだかな。早くこれ食べたいなー」
と屈託なく、小さい子のように唇を尖らせて頬杖をついた。
ずいぶん、違うんだな。私はそう思って彼女を見つめていた。前の学校は大学までのエスカレータ式で、特に苦労もせずに持ち上がって行く生徒達は大学に入ると途端に髪を茶色く染め、爪を長く伸ばして細かな細工を施し、雑誌の提唱する「モテ服」に身を包んで読者モデルデビューを果たすのに熱心になる。大学生とはそうしたものだと思っていた。巻き髪とツインニットと、ブランドネーム入りバッグに象徴されるようなものだと。しかし、私にとりとめもないお喋りをする女の人は初対面とは思えないほど和やかで、私を落ち着かせてくれる。カーゴパンツにはペンキが飛び散っていたけれど、それがファッションではないのは明白だった。無駄のない二の腕がTシャツの袖から伸びていて、指は細く長かったけれど骨ばっていて使い込まれていた。働く人の手のようだと思った。
突然現れた中学生を迎え入れて、旧知の仲のように振舞うこと。それは転校初日の玉島さんと同じ行動でありながら、まるで違っていた。たっぷりしたスパイラルパーマの前髪をぐいっと潔く上げておでこを出している。形のいいおでこ。私はそれにほとんど見惚れていたと言っても過言じゃない。
「ねえ、名前聞いてなかったね。私、リカ。リカちゃん人形のリカだよ」
「あ、渡辺夏です」
「どんな字書くの?」
「季節の、夏です。夏に生まれたから、夏」
「いい名前! 私、一年で夏が一番好きよ」
彼女がなんだか嬉しそうにはしゃいだ声を出すと、ぬっと庭先から昨日の男の人が戻ってきた。
「ハットリ、遅かったねー」
その人は私を見ると驚いたような、怪訝なような顔をして、
「……また靴が飛び込んだのか?」
と言った。
「あの……昨日のお礼に伺ったんです……」
私がおどおどと小声で言うと、
「大福貰ったよ。ハットリ、早く食べようよー」
と助け舟を出すように女の人が割り込んだ。
男の人は縁側に腰を降ろすと「リカ、俺にもお茶くれよ」と言ってポケットを探り、煙草を取り出して火を点けた。浅黒く焼けた顔には無精髭が目立ち、髪は肩まであったけれどブラシなどいれたこともないといった感じのぼさぼさ加減だった。煙草を咥えてぼんやり庭を見ているので、私は怖くなって、
「あのう……」
と声をかけた。呼びかけると首をこちらに動かし、私の顔をじいっと見つめ「なに?」と目だけで問い返した。
「昨日はありがとうございました……」
「……ああ」
興味なさそうな、返事。
女の人がお茶を入れ替えてお盆に乗せて持って来ると、服部さんは私が買ってきた包みをがさがさと破り「ありがとう」も「いただきます」もなく、その柔らかそうな白く粉を拭いたすべすべした餅を一つ掴んでぱくりと噛み付いた。女の人も横から手を伸ばし、しっとりした餅を食べ始めた。食べながら、
「ねー、ハットリ、彼女の名前ねえ、夏っていうんだって。いい名前だよね」
「ふん」
もぐもぐと口を動かしながら、鼻先で相槌をうつ。やはりまるで興味なさそうに。私はいつ、どのタイミングでこの場を去っていいのか分からなくて、二人が大福を食べるのをじっと見つめていた。
やはり来るべきではなかった。後悔が雨雲のように黒く頭上を埋め尽くす。たかが中学生が一人で知らない人のところに乗り込んでいくとは、いくらお礼を言おうと思ったからとはいえ、礼儀正しいというより無知蒙昧とでもいうべきだったか。一体自分はなにをしようとしているのだろう。自分で説明もつかないのに、もし問われたらなんと答えればいいのだろう。浅はかだ。あまりにも浅はかで馬鹿げてる。私が無言で二人と大福ばかりを見ているので、女の人は不思議そうな顔をして、
「どうかしたの?」
と尋ねた。私は慌てて手をぱたぱたと振り、
「いいえ、なんでもないんです」
と答え、それをきっかけで立ち上がりかけた。
「それじゃあ、私はこれで……」
頭を下げながら「失礼します」と言いかけたところ、大福を飲み下した服部さんが、突如、私の名を呼んだ。
「夏」
私は面食らって、片膝をついた姿勢で固まってしまった。親や親戚以外の大人の男の人に名前を呼ばれるのは初めてだった。しかも「なっちゃん」とかじゃなく「夏」とくっきりした呼び捨てで。まるで季節を指して言うようなぞんざいさで。そのことに驚くと同時に変に胸がどぎまぎした。
服部さんはお茶を啜り、一呼吸おくと私の目を怖いぐらいまっすぐに見た。強い眼差しだった。真剣で、真摯で、なにか訴えるような目。思いつめたような目。太い眉毛と眉間の微かな皺。私は緊張のあまりごくりと唾を飲み込んだ。
「もし、また靴が庭に飛び込んだら俺を呼べ」
「……」
「でかい声で」
「……」
「俺の名前、わかるな?」
「……服部さん……」
「ハットリでいい。いいか、すぐに呼べよ。玄関にまわってこなくてもいい。その通りの向こうからでもいい。俺を呼べ」
「……」
「わかったな」
「……」
「夏、分かったら返事をしろ」
この時、私は正直言って戸惑っていた。この人がなにを言わんとしているのか、その真意を図りかねて。というのも、この人は「知っている」はずだから。私がボコにされていたことは想像に難くないだろうし、見れば分かるようなことだったから。それを知って敢えて「自分を呼べ」というのは私に「助けを求めろ」と言っているも同然だった。いや、それは、そういうことなのだろう。でも、一体なぜ?。知りもしない男を信用するほど世の中は安全じゃない。今、こうしてここにいることだって学校や親に知れたら大問題なのだ。ほとんど命がけといっていいほどに。……それでも、私はここに来た。この人に会うために。それでは今更なにを迷うことがあるだろう? 私は座布団に座りなおした。
「はい」
「よし」
ハットリは頷くと二個目の大福に手を伸ばした。
この時はそうとは思わなかったけれど、これは私がした初めての「選択」だった。私はハットリを選んだ。それは単純なことだけれど、私にとって人生を変えるほど大きなことだった。