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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
4/13

4話

問題は翌日、月曜に起こった。いつもの朝、いつもの風景。の、はずだったのに、教室に一歩足を踏み入れた途端、私は先週までと教室の空気が違っていることを即座に察知した。私が教室に入った途端、ほんの一瞬、かすかに静電気が走ったような緊張感と静けさがみんなの体から放出された。それは、ともすれば見過ごしてしまいそうなぐらいの気配だったけれど、私には確かに感じられた。教室のあちこちで固まってお喋りに興じる女の子達の投げかける視線。盗み見るような目と、頭を寄せ合って囁かれる言葉たち。聞き取ることはできなくても、なにかとても不穏なことであるのはひしひしと伝わってきた。


 私は足元から急激に冷えていくような感覚に襲われ、なかば崩れるように席についた。いつもなら、玉島さん達がすぐに声をかけてくるのに、肝心の彼女達はいない。そのことも私にはこれから起きようとしている事柄を暗示していた。私は体を硬くして、黙って座っていた。背中に突き刺さる視線の数と、絶えず囁かれるひそひそ話し。みぞおちのあたりがぎゅっと痛くなった。私は誰とも目が合わずおはようの一言も誰からもかけられなかった。押し寄せるようなささくれた空気だけが私を包む。予鈴が鳴ると玉島さん達の一団が走って教室に入ってきて実に慌しく着席したが、こちらを見もしなかった。私はちらと隣りの席の山田くんを見やった。山田くんは眠そうにあくびをしている。


「山田くん、昨日はありがとうね」

「ん? ああ、いや、別に」

「……」

「俺も久しぶりにアイス食ったよ。やっぱ美味かったな」

「冬は五十円のラーメンとかなかった?」

「ああ、あるある。インスタントのヤツな。ヤキソバは八十円だったなあ」

「どこにでもあるんだね」

「みたいだな」


 ……山田くんの態度は変わらない。では、一体なにが起きているのだろう。私の預かり知らぬところで、この教室でなにが起きているのか。


 担任が教室にやってきてホームルームが始まると、私は窓の外に目を向けた。ひどく心もとない気分だった。悪意や敵意が剥き出しになって私に降り注いでいる。しかし、その原因が何かは分からない。それでも10分間の休み時間のごとに私は「不安」を形として捉え始めた。聞こえないように囁き交わしていた言葉が、次第に大きく、はっきりと聞き取れるようになった時、自分が明らかに中傷されていることを理解した。もう誰一人として私のところにお喋りに来なかったし、熱烈歓迎だった玉島さん達は手のひらを返したように私をなじる声の真ん中に位置していた。


 私は身動き一つとれないで、じっと座っているより他なかった。小石を投げるように浴びせ掛けられる言葉。その一つ一つを丹念に拾う自分。耳を塞いで頭を抱え込んでしまいたい衝動に駆られる。一体私がなにをしたというのだろう。気取っているとか、ブスとか、調子に乗っているとか、男ったらしとか、うざいとか、キモイとか、次から次へと繰り出される声。誰に目を向ければいいのか、誰になにを言えばいいのかさっぱり分からない。理由。理由が分かれば。私は何度も玉島さん達の方へ目を向けた。私の世界は狭く小さい。私には他に行き場もないし居場所もない。だから、ここで受け入れられなければ、どうすることもできない。今すぐあの輪の中に飛び込んで何が起きているのか確かめることができたなら。一人一人を捕まえて問い詰めることができたなら。でも、そうするには私はすでに「集団」というものの恐ろしさを知っていた。


 前の学校でもいじめがなかったわけじゃない。いじめがないところなんてないんじゃないだろうか。前の学校では藤井という女の子が教室のイニシアチブを握り、独裁を揮っていた。あまり品行は良くなく、髪を染めたり、制服を崩して着たりしてしょっちゅう指導室に送り込まれる反抗的な女の子。教師にたてつき、授業を妨害し、それも全部面白半分でなんの思想信条もなく気分の赴くままに教室に波を立てる。全員を巻き込む。そうして暇つぶしのように、教室でひっそりと本ばかり読んでいるような子や、地味な女の子、無口な子を順番にいじめてまわっていた。あくまでその時の気分で、遊び半分のようにして教科書を窓から投げ捨て、ノートを引き裂き、貼り出された絵に靴跡をつけ、冗談のように小突き回して泣かせていた。その一つ一つを、みんなが目撃しているにも関わらず誰も止めなかった。止めるどころか、藤井さんがある日突然「あいつ、最近ムカつくよね」と言い出したが最後、どういう催眠術なのか我も我もと賛同の声が上がる。それが自己保身によるものなのか、はたまた洗脳なのか、もともと本気でそう思っているのか分からない。でも、いじめは個人が行うよりも集団の中で行われるからこそ強大で恐ろしいのだ。かくいう私も暴走する藤井さんを止めたことはなかった。いじめに直接荷担したことはなかったけれど、見ないふりをするなら同じことだ。私は自分が標的にされることを恐れていたので、愚鈍な羊の群れのようになるしかなかった。でも、そんな言い訳をいじめにあっていた女の子達が聞いたら許すだろうか。否。今なら分かる。私だって許しはしないだろう。


 集団の中にあって大多数を占める無関心な、そのくせ煽動されやすい自分を持たない子達こそが一番罪深い。玉島さんが問題じゃないのだ。彼女をとりまく女の子達こそが敵なのだ。しかし、たった一人で彼女達に対抗し、自分の真実を叫んでも、それこそ集団の力で黙殺されるだろう。私は全身の力がぬけて、思わず額に手を当ててがっくりとうなだれた。話しを聞いてもらうことも、謝罪も、涙も意味を持たない。それさえも経験的に知っており、今は実際に我が身に起きている事に対して、ただこの世の終わりを感じるだけだった。


 どのようにして伝令が行き渡ったのか知らないけれど「転校生、無視」というのは見事なまでに浸透し、放課後まで私は完全にシカトされた。一日の身を削るような緊張感で私はぐったりと疲れ、とぼとぼと家路を辿った。鞄が必要以上に重く感じられた。私はこのまままっすぐ帰るには気が滅入りすぎて、ふと思いついて足を海へと向けた。この町で唯一気に入っている場所。きっと今頃の時間は凪だ。静かな波が砂浜に打ち寄せているだろう。てくてくと海沿いの細い道を通り、古い民家を横目に時々立ち止まっては生垣に巻きついたクレマチスを眺めたりした。


 その時、背中で私を呼ぶ声がした。どきりとして振り向くと、向こうから玉島さん達の一団がやって来るところだった。私は貧血のように指先がすうっと冷えていくのを感じた。心臓が握りつぶされるように小さく縮こまり、呼吸は浅くなった。人気のない通りはただ静かで、不安を誘い出す。


 玉島さん達はすぐに追いついてくると、私の前にずらりと雁首を並べた。こうやって正面に立ってみると、玉島さんはずいぶん背が高く、吉田さんはブレザーのボタンが弾けそうに太っていた。最初に口を開いたのはその吉田さんだった。


「ちょっと話しがあるんだけど」

「……」


 それはどこか威嚇的な調子で、私はもう聞く前から「話し」というのが穏便なものではないのを悟った。玉島さんは無言で私を睨みつけている。


「昨日、山田と会ってなかった?」

「えっ」


 私は驚いて思わず頓狂な声をあげた。


「会ったっていっても、約束して会ったわけじゃないけど」

「あんた、どういう神経してんの?」

 今度はそう言ったのは東田さんだった。

「タマが山田のこと好きなの知ってて、なんで日曜に山田と会ったりしてんのよ」

「いや、だから……。偶然会っただけで、別に何も会おうと思って会ったわけじゃないよ」


 私の弁明は焦りにまみれ、切実な反面、彼女達の唐突な怒りに戸惑うあまり奇妙な半笑いが混ざっていた。困惑とお追従笑いの入り混じった顔。それを吉田さんが見逃すわけもなかった。


「なに笑ってんの? バカにしてんの?」

「そんな……」

「なんかさあ、あんた、男にばっかいい顔してない?」

「そんな……」

「そういうのって、マジ、ムカつく」

「……」


 あ、もう止まらないな。私はそう思って黙った。感情を制御できないのだ。こういった場合、女の子は大抵そうだ。タガがはずれたように、感情的な言葉が飛び出してくる。思いつくままに。


 案の定、彼女達は口々に私を罵り始めた。私の弁解を聞く耳があれば、ご苦労なことにわざわざ私の後をつけて人気のないところで初めて捕まえるような姑息な真似はしない。彼女達の心はもう決まっていた。


「かわいこぶっちゃって」

「タマに謝んなさいよ」

「……」

「謝れって言ってるでしょ」


 久保さんが私の肩を突き押した。私は軽くよろめいたけれど、すぐに体勢を立て直した。


「どうして謝らなくちゃいけないの」

「だって、裏切りじゃん」


 ここで素直に謝ればよかったのかもしれない。そうすれば、違う未来があったかもしれない。でも、なぜかその時そうできなかった。よせばいいのに、私は、


「裏切りも、なにも、ない。山田くんとは偶然会っただけだし、それに、玉島さんは山田くんと付き合ってるわけじゃないでしょ」


 言い終わったのと同時に目の前で強烈な静電気火花が散った。玉島さんが私にビンタを喰らわしたかと思うと、そのまま「なによ!」と叫びながら髪をひっつかんで物凄い力で引っ張った。あまりの力に私は振り回されるようにして前のめりに倒れた。それを合図に吉田さんや久保さんまで参戦し、私をめちゃくちゃに蹴りはじめた。そうなるともう抵抗などできたものじゃない。狭い路地。誰も来ない静かな夕刻。アスファルトの上で蹲る私を取り囲み、彼女達はお腹といい背中といい顔といい、蹴って蹴って、蹴りまくった。


 痛いというよりは、その一々の衝撃が骨に響き、気付くと私は鼻血を出していた。暴行がどのぐらいの時間行われていたのかというと、恐らくはものの五分かそこいらじゃないだろうか。しかし私には一時間にも感じられた。東田さんがいつの間にか脱げてしまっていた私の靴を拾うと、笑いながら民家の庭先に投げ込んだ。靴は彼女達のような運動靴ではなく、前の学校で履いていたハルタのローファーだった。身もだえするうちに脱げてしまったのか、引き倒された時に脱げたのかは定かではない。ご丁寧に久保さんが私の鞄を拾い上げると、中身をまるでバケツの水をぶちまけるように盛大にぶちまけた。ノートやペンケースが道いっぱいに広がった。私が完全に動かなくなると、彼女たちはいくぶん息を切らし、興奮でうわずった声で宣言した。


「あんまり調子に乗るんじゃないよ」

「ブス!」

「前の学校に帰れ!」


 彼女達が最後の一蹴りをくれて、去って行くまで私は虫けらのように微動だにしなかった。痛みや屈辱、悲しさを感じるよりもただ呆然とするばかりで、彼女達が行った後にようやくのろのろと起き上がり、手の甲でぬるぬるする鼻や口元を拭った。そしてその鮮血を見たとき、初めて涙がこぼれた。泣きながらハンカチで鼻血を拭き、散らばった鞄の中身を拾った。一つ拾うごとに後から後から涙が零れた。 


 汚れたハンカチで洟をかむ。ぐしゃぐしゃに乱れた髪を潮の匂いのする風がなぶっていく。帰りたい。私は心の底からそう思った。あまりにも馬鹿げている。いくら海が近くて散歩に最適で、こぢんまりしたかわいい町でも私にはまるで地獄だ。でも私にはもう帰るところなどない。それは「場所」のことじゃない。以前住んでいた庭付き一戸建てのことじゃないし、呑気な女子校でもない。私が持っていて、失ったもの。なんの悩みも苦しみもなかった幸福だった頃へ帰りたかった。


 私は途方にくれ、立ち尽くして生垣の山茶花を見つめた。思いの外体はダメージを受けており、全身がずきずきと痛んだ。私はよろよろと生垣を迂回し玄関へまわった。玄関は木枠のガラス戸で、中は暗くしんと静まり返っていた。表札には服部と書かれ、呼び鈴がついていた。このまま帰るわけには行かないので、私はやむなく呼び鈴を押した。が、人の気配はなく二度、三度と押したけれど返事はなかった。


「ごめんください……」


 私は首を伸ばして、庭に通じる狭い通路へ声をかけた。家は古びた木造の平屋で、板塀の感じといい黒ずんだ表札と墨の感じといい時代がかってるなという印象だった。


 もう一度呼び鈴を押すと、ようやく奥から人が出てくる気配があった。家の古さと反応の遅さから考えると、お年寄りだろうか。わけを言えば靴ぐらい拾わせてくれるだろう。まさかボコにされたとは言わないけれど。


 ガラス戸ががたがたと音を立てたかと思うと、がらりと開いた。目の前に現れたのはお年寄りではなく若い、背の高い男の人だった。目つきが鋭く、しっかりした太い眉の下で光っており、私をじろりと睨み降ろすと不審そうな顔をした。


「なに」


 ダンガリーのシャツとジーンズは汚れてはいなかったけれど、体からも、部屋の奥からも絵の具の匂いがしていた。私は小さな声で、

「あのう……く……靴を……」

「靴?」

「お庭に靴が飛び込んでしまって……。拾わせてもらえませんでしょうか……?」

「……庭に靴が勝手に飛び込んだのか?」

「……いえ、あの……」


 私はもごもごと口の中で言い淀んで、黙り込んだ。俯くと、男の人も私の視線を辿った。靴下はすっかり汚れていた。


「……そっちから庭にまわりな」


 男の人は細い通路を指差し、ガラス戸をぴしゃりと閉めた。怒られるのかとびくびくしたけれど、きっと呆れたんだろうな…。私は通路を通って庭へ出た。


 庭は思ったよりも広く、片隅には物置が置いてあった。その物置にはなぜか「いきなり開けるな」と書いた紙が貼ってあり、なんのことだろう……と首を傾げた。靴は庭の真ん中に落ちていた。私がそれを拾って履くと、開け放された縁側からさっきの男の人が姿を現した。


私はぺこりと頭を下げ、

「ありました。ありがとうございました」

 と、すぐにまた通路の方へ踵を返そうとした。けれど、その人は縁側の障子にもたれながら、

「ちょっと待てよ」

 と呼び止めた。


 足を止めて省みると、その人はこっちへ来いと無言で手招きをしている。私はその人が若いということと、粗野な振る舞いと、家の奥の暗さに躊躇して上目遣いに探るように、体は半分玄関口へ逃げるような姿勢をとった。男の人はもう一度「ちょっと待ってろ」と言うとすっと部屋の中に戻り、すぐに木箱を一つ手に下げて戻ってきた。そして縁側に腰を下ろすと、自分のかたわらを叩きながら「こっち来い」とぞんざいな口調で命じた。私が恐る恐る近寄って行くと、男の人は木箱をぱかりと開けた。それを見て、私はその箱が救急箱であることが分かった。


「座れよ」


 男の人はもう消毒薬と思しき液体を脱脂綿に出していた。私がおずおずと縁側に腰かけると、その人はまず私の薄汚れた顔を脱脂綿で拭きだした。アルコールの匂いが鼻をつき、拭かれたところから顔がひんやりとした。


 されるがままに顔を拭かれ、擦りむいた手足を手当てしてもらう間、男の人は終始無言だった。相手が喋らないので、私も黙っていた。大丈夫かとも、どうしたんだとも言われなかったけれど、私の心は不思議と落ち着き始めていた。ちらりと部屋の奥に視線を走らせると、縁側の向こうは居間になっていてケバだった畳に卓袱台が置かれていた。居間の隣り、同じ縁側に面したもう一部屋は洋間で、油引きをした学校の床のように茶色く、使い込まれたような風合いをしていた。絵の具の匂いはそこからするらしかった。


 男の人は丁寧に傷にバンドエイドやガーゼを貼ってくれたけれど、手当てが終わって私が礼を言っても、無言だった。ちょっと私を見ると、軽く頷くように首を動かしただけでさっさと救急箱を片付け部屋の奥へ入って行った。私はもう一度部屋の奥へ声をかけ、また細い通路を通って玄関を出た。髪も無造作で伸び放題だったけれど、無精ひげも生やしていたけれど、優しい人なんだな……。私は改めて表札を見つめた。「服部さん」か……。それが私とハットリの出会いだった。


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