3話
この町の好きなところは海が近いことだった。ちょっと歩けばすぐに海に出ることができ、小さな漁港もあった。浜沿いに小さなカフェがあり、その佇まいが可愛らしい。天気のいい日はウィンドサーフィンをする男の子がちらほらと姿を現し、砂浜には敷物を敷いて気の早い日焼けに勤しむ人もいた。母の話しではこの浜は人口で、昔はもっと小さかったそうだが、今は海開きになると芋洗いの如く込み合う海水浴場となるらしかった。
小さい頃の私は海を怖がって泣いたそうだけれど、十五歳の私が海を怖がるなんてことはなく、私は日曜になると町を探検がてら海まで散歩するようになっていた。繁華な駅前の商店街。大きな本屋。レンタルビデオ屋。暖簾のかかったお好み焼き屋。玉島さん達が推奨するケーキ屋。国道沿いの古いお寺は同じクラスの男の子の家だとか、なんとか。それから、教会。小さな教会の脇には紫陽花があり、その花びらの濃い紫がいつも鮮やかだった。
私は慣れていかなくてはいけないのと同時に、この町で上手く自分を馴染ませ、居場所を見つけなくてはいけなかった。なににも馴染みのない風景は心細く、そのくせまるで旅行でもしているように身軽い。坂の上の住宅街の洋館や、広大な庭を持つ邸宅も新鮮だったし、植物園も目新しく格好の寄り道の場所だった。高台から見下ろす町はこぢんまりとしていて、よそ者の私にはなんだかおもちゃの町のように見えた。現実味がないので模型のように無機質で冷たい。でも、それはもしかしたら町の方こそよそ者の私を寄せ付けないようにしているのかもしれない。眺め渡す海は灰色と群青をまぜたような色をしていて光に煌く。素直に美しいと思う。けれど、感動するほどに私は強く「独り」を感じ、誰とも分かち合えないことの虚しさを感じていた。
高台からゆるゆると坂を降りて、海へ向かう。実際に間近に見ると海はさして美しくはなく、どちらかというとゴミの浮遊する淀んだ色をしていた。それでも波打ち際に寄せる波だけは透明で、細かい砂が波に梳られていた。
私は途中のコンビニで買ったカルピスの栓を捻り、浜へ降りる石段に腰掛けた。日曜の午後。家族連れやカップルの姿がちらほらと見られ、お弁当を広げたり、昼寝をしたり、それぞれがのどかに過ごしている。
ミサやカナとのメールは依然として続いていた。カナは学校の様子をいつものように、例えば「数学の渋沢が超キテるピンクのスーツ着てきてさー。あのババア、絶対やばいよ」とかいった具合に、知らせてくれる。ミサも「今度の日曜にヒスグラのセールに行く予定。おネエがTシャツ買ってくれるって」みたいな調子でそれは本当に相変わらずだ。まるでまだ私があの町にいて、同じ教室にいて、同じ制服を着ているみたいに変わらない。でも本当は知っている。私はもうあそこにはいないし、彼女達と毎日お喋りしたり、宿題をやったり、カラオケに行ったりはできないことを。そうできない分だけ、遠ざかっていくことを。母は私が前の学校の友達にばかりメールしたり、電話するのを良くは思っていない。それも私の孤独を加速させる。母は新しい学校で早く友達を見つけるように言う。ミサやカナに代わる親友を。その度に母は私に友達まで捨てさせようとしているのだと思った。誰も、誰かの代わりになどならないというのに。私は適当に母に返事をしながら、心の中で呟く。じゃあ、お母さんもお父さんの代わりを早く見つけたら? と。
カルピスの甘さが舌に残る。玉島さん達は日曜にみんなで買い物に行こうと言っていたけれど、私は誘われなかった。そのことに疎外感を持つよりも私はまだそこまで許されているわけじゃないんだなと納得していた。誘ってよと言えるほどの気安さも自分にはなかった。一体、私がこの町に慣れ、母の言うところの親友を持てるようになるにはどのぐらいかかるのだろうか。
もう帰ろうかと思い立ち上がると、折りしも黒いジャージを着て走ってきた男の子が私を見て「あ」と声をあげた。私も思わず「あ」と漏らした。石段の砂をじゃりじゃりいわせて走ってきたのは、山田くんだった。
「なにしてんの?」
山田くんは私のところまで来ると足を止めて言った。
「散歩。山田くんは?」
「最近、運動不足だから走ってんだ」
「ふうん……」
「……散歩って、一人で?」
「うん」
山田くんはちょっと不思議そうな顔をしたけれど、すぐに無関心そうな表情で私の手にしていたカルピスを指で示した。
「ちょっとちょーだい」
「いいよ」
私は快く山田くんにカルピスのペットボトルを渡した。
「全部飲んでいいよ」
「マジで。サンキュ」
喉をのけぞらせてカルピスを飲む山田くんを見ながら、真面目なのは学校だけじゃないんだな……と感心していた。運動不足だからわざわざ走っているなんて、健康的というより真面目という感じだ。運動部でもないのに。それに、太っているわけでもないのに。
カルピスを飲み干すと山田くんは、
「日曜も玉島とかと遊んでるのかと思ってた」
と言った。
「別に、そんなことは……」
「まだ転校してきたばっかりだもんな」
「まあね」
「もう慣れた?」
「慣れたっていうか……。迷子にはならないと思うよ」
「ははは。いや、迷子になんかなりようがないって。こんな小さい町なんだからさあ」
「山田くんちってこの近くなの?」
「うん。こっから歩いてすぐ。十分もかかんない」
「海の近くって、いいね」
私達はどちらからともなく、浜沿いの道を並んで歩き始めた。途中のゴミ箱に山田くんはペットボトルを捨てた。並んでみると思ったよりも背が高く、私は山田くんの顔を見るためにいちいち首をそちらに傾けなくてはいけなかった。
「風が強いと洗濯物が妙に磯臭くなったりするし、夏は海水浴客でうるさいし、いいことないよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
山田くんは笑った。そうは言っても本気でいやそうではなかった。
浜を出て国道沿いの道に来ても山田くんはジョギングに戻らなかった。あえて私もそれには触れなかった。退屈しのぎというわけではないけれど、都合よく現れた山田くんのなんてことないお喋りはカルピスなんかよりよほど私を潤した。
山田くんは小学校の前を通ると、そこが自分の行っていた学校だと教えてくれ、だいたいクラスの半分ぐらいがこの小学校の出身だと言った。玉島さん達も小学校からの同級生だということも。小学校の門扉は赤錆色をしていて、覗き込むと校庭には複雑な形をした遊具があった。そのとりどりに塗った色がいかにも小学校らしい風情を与えていた。山田くんはメタセコイアを指差して、あの木は市内でも記録的な大きさの木なのだと話してくれた。
それから、近くの駄菓子屋に案内してくれ、ガラス戸の中をそっと窺いながら、
「カレー煎餅が一枚十円で、たこせんが三十円だったかな。チョコバットとか美味かったなあ」
「今もあるの?」
「あるよ。ほら、あの瓶の中にいれてあるんだよ」
なるほど、小さな店内には広口瓶がいくつも並んでいる。小さな駄菓子が何種類もひしめきあっている。山田くんは思いついたようにポケットを探ると「財布持ってこなかったから……。あ、あった」とぶつぶつ言いながら、五百円玉を一枚取り出した。
「アイス、食おうか」
そう言うと、私の返事も待たず店の前の冷凍庫を開けて物色し始めた。
冷凍庫を覗くと、霜のついた庫内から懐かしいソーダアイスを見つけた。それは胡散臭い水色で、確かにソーダの味はするものの、でも実際のソーダとはまるでかけ離れているような甘いだけの代物で四角いバータイプだった。このアイスの変わっている点は、四角いアイスに棒が二本刺さっていて真ん中から二つに割れるようになっていることだった。
「これ、懐かしいなあ。昔、よく食べたよ」
「コーラ味とかもあったよな」
「あ、そうそう。あったあった」
私は急に嬉しくなって思わず声を弾ませた。私の育った町にもあった、あらかじめ「二人用」みたいになっている安いアイス。それがここにもあって、その思い出を共有できる人がここにいる。私はアイスによって突如山田くんと繋がったような気がした。山田くんはガラス戸を開け、中で店番をしていたおばあさんにお金を払うと早速ソーダアイスを半分に割ってくれた。
「うん、これ。この味」
「懐かしいな。俺もよく弟と食ったわ、半分にして」
「上手く割れないと喧嘩になったりしなかった?」
「なった」
アイスは硬くて、齧る度に歯に凍みるほど冷たかった。舌が痺れるような甘さが私を満たした。
そうしてゆっくり歩いて私の住むロイヤルハイツまで来ると、山田くんは「じゃあ、また」とさっさと背中を向けた。あっけないほど素早く走り去る姿をぼんやり見ながら、やはり真面目な子だなと思った。喉の奥がまだ甘いような気がしていた。