表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
13/13

13話


 目が覚めた時には父はもういなくなっていた。母は台所で夕飯の仕度をしており、野菜を煮炊きする匂いが部屋中に満ちていた。優しい、平和な匂い。幸福な家庭の象徴的な匂い。私はあれだけ言いたい放題言ったくせに、父はどうしたのかを尋ねることができなかった。冷蔵庫から麦茶を出して飲むと、母が背中を向けたままで、

「今日はちらし寿司よ」

 と言った。母の作るちらし寿司は私の好物だった。私は包丁を持っている母にそっと、

「お母さん」

 と呼びかけた。


「ごめんね」


 一瞬、母の手が止まった。が、すぐにまた動き出した。


「……夏、自分の好きなように生きることだけが大人になることじゃないし、一人になることが大人になることでもないのよ」

「……」

「お母さんは夏のことを心配してるの」

「うん……」

「そのことは、覚えておいてちょうだい」

「……うん」


 母が泣いているのかと怖くなった。でも、そう言って振り向いた母は泣いてはおらず、かといって怒ってもいなかった。あんまり何も宿さない瞳なので、私はその静けさに母を別人のようだと思った。というよりは、私の母親であるというタイトルを外した一人の女の人だと思った。母が生まれて初めて、私に向き合っている。私という人間を尊重している。そう思うと嬉しいような悲しいような複雑な気分だった。まるで母に見放されたような、そのくせ母から認められたような気持ちだった。


「明日から、学校に行きなさい」

「……」

「とにかく、一度は行って先生と話しなさい」

「……」

「あった事を全部話してきなさい」

「……」

「それから、考えましょう。みんなで」


 母の物言いは優しかったけれど、ああ、結局はやっぱり行かなくちゃいけないんだなと思った。まあ、まさかすんなりひきこもらせてくれるとも思っていなかったけれど。


 一人になることが大人になることではないと言いながら、誰もが一人で生きていかなくてはいけない。だからこそ、誰かにいて欲しいと思う。例え、実際に目の前にいなくても、いると思うことが心を強くしてくれる。私は限りなく一人だ。でも、私の世界に人は溢れている。そう思い続けられたなら、私は一人ではなくなるだろう。


 翌日の朝はさすがに気分が重く、胃が痛んで朝ご飯はとても喉を通らなかった。母は何度も、

「サボらないで必ず行くのよ。教室に行けないなら、まっすぐに職員室に行けばいいわ。先生には電話してあるんだから」

 と念を押した。私が鼻先でふんふんと頷くだけなので、終い目には、

「学校まで送ろうか?」

 と言い出すほどだった。さすがにそれは格好悪いので私は「やめてよ」と言い、とにかく今日はちゃんと学校に行くと約束した。


 制服を着て、鏡に映る自分は見慣れない顔をしている。私は鏡を覗きながら、自分はいつからこんな顔になったのだろうと不思議に思った。私は自分の顔の中に苦悶の後を見出していた。勿論、誰にも分かるはずはないのだけれど、まるでナメクジの這った後のように、その痕跡が私の顔にある。誰かに似ていると思ったら、ハットリだった。


 そういえば、ハットリに連絡をとる間がなかった。といっても、ハットリの電話番号など知らないのだけれど。リカちゃんとコウゾウくんにはメールを入れて、事情を説明したけれど、二人ともハットリのことはなにも言わなかった。そうだ、今日、帰りにハットリのところに寄ろう。リュックも置きっぱなしになっていることだし。ハットリが怒っていなければいいけれど……。


 学校は私一人が欠けたところでどうということはなく、登校してくる大勢の生徒が門の中に飲み込まれていく。規則正しく並ぶ窓と、賑やかな話し声。グラウンドに照り返す太陽。それらがあまりにも変わらないので私はハットリと出会ってから今日までが夢だったような気がした。


 私は職員室ではなく、教室に向かった。校舎の階段を登り、三年の教室の階まで来ると廊下にいた生徒がみんな私を見てひそひそと耳打ちをしあった。

 背筋を伸ばし、心持ち顎先を上に向けるようにしてまっすぐに前を向いて廊下を通り教室へ入った。ここでも、誰もが私の姿を認めて驚き、囁きを交わした。玉島さん達はまだ来ていないようだった。


「おはよ」


 私は隣りの席の山田くんに声をかけた。ひどく懐かしいような気がしていた。山田くんは一瞬面食らったけれど、すぐに気を取り直して、

「おはよう」

 と返してくれた。


 私の机には彫刻刀で死ねだのブスだのと刻まれていたし、机の中には紙くずやゴミが詰めてあったけれど、不思議なことにそれらはもう私を傷つけなかった。あれほど苦痛だった教室が今は遠い。そこかしこに聞かれる囁きも、掲示板に張り出してあるテストの日程も、落書きも、黒板も、全部が自分には無関係のような気がする。私の心はひたすら静かで、なにも感じない。少なくとも痛みはしない。そのことに幾分ほっとしつつ、自分の中でなにが起きているのだろうかと我ながら不思議な気持ちになった。


 机の中のゴミをがさがさと引き出し、ゴミ箱に捨てると山田くんが私を見つめながら実に感じ入ったように言った。


「渡辺さん、急に大人っぽくなったみたい」

「そう?」

「なんか、落ち着いてるよね」

「そんなことないよ」

「そうそう、コンクールの練習、今日もあるけど大丈夫?」

「あ、あれ、やっぱり私がやるんだ?」

「代わりなんていないよ」


 期末試験も近付いてきている。試験が終わったらコンクールだったっけ。そんなことはすっかり忘れていた。ピアノの伴奏なんて誰がやっても同じだし、代わりなんていくらでもいる。けれど、山田くんがそんなことを言っているのではないのは分かっていた。私の代わりはいないのだ。それは私が世界に一人だからだ。それはどれだけ貴重で大切なことだろう。そのことをこの教室で他に誰が知っているだろうか。


 机に刻まれた文字を指でなぞる。ざらざらした感触。


「死ねって言われても、そう簡単には死ねないわ……」

「……渡辺さん、俺を卑怯者だと思ってる?」

「……どうして?」

「いや……」

「山田くんは全然卑怯じゃないよ」


 私は呟いた。私はもう知っていた。私一人、死んだところで世界はなにも変わらないということを。それが証拠にハットリの弟が自殺しても、やっぱりいじめはなくならないではないか。


 もし、私が死んだら。誰が私を覚えているだろう。誰が反省するだろう。否。私の死はその時は取り沙汰されても、すぐに忘れ去られるだろう。わざとらしい悲しみが漂った後に、また他の誰かが標的にされるだけだ。死は私を今の苦痛からは解放するかもしれないけれど、後にはなにも残さない。玉島さん達にしても、反省も後悔もなく大人になるだけだ。それどころか、自分達のしていることがいかに卑劣な行動かを認識することすらないかもしれない。笑いながら人を傷つけるのだから。罪の意識も植え付けられないで、私が死んでなんになるというのか。


 かといって、私は彼女達を許すことなどできはしない。今だって、胸の中でじりじりと復讐の気持ちが焼け焦げている。でも、それは彼女達を貶める類いの復讐ではない。私が生きて、幸せになることだけが彼女達への復讐なのだ。誰よりも幸福になることだけが、勝つことになる。


 山田くんがなにか言いかけて、やめた。視線を辿ると玉島さん達が登校してきたところだった。私は彼女達を見ると、またしても不思議なほど冷静になり、あれっ、この子達ってこんなに子供っぽい顔してたっけ? と思わずまじまじと見つめてしまった。玉島さんは自分の席に鞄を置くと、吉田さんや東田さんと耳打ちしあった。


「なんかさ~、くさいよね~」

「誰かさんが来ると教室が匂うよね~」


 彼女達は号令のようにみんなに向けて大きな声を出した。


 またしても教室中が独裁の行方を見守っている。私が受け入れられるのも、拒絶されるのも彼女達次第なのだ。でも、それももはや私にはどうでもいい。私は席についたまま、彼女達を見ていた。すると、吉田さん達の後ろで腕組みをしていた玉島さんが、

「なにしに来たの? ねえ?」

 威圧するように言葉を投げてきた。


 ……なにしに来たかというと、私はケリをつけに来たのだ。この馬鹿みたいな教室に。どんな言葉で返してやろうか。私は束の間思案した。


「あんたがいると教室が臭いんだよ。迷惑だから帰ってよ」

「……あんたが帰れば?」


 一瞬、教室に動揺が走った。


「集団で一人の人間を攻撃してなにが面白いわけ? あんた達のやってること、最低だわ。あんた達は人間のクズよ」


 玉島さんがあっけにとられたように私を見詰めていた。信じられないといった様子で。あまりのはっきりとした言いように誰もどう反応していいのか分からないようだった。教室中が固唾を飲んで成り行きを見守っていた。


 そう、それは革命だった。独裁を振るってきた玉島さん達への反逆。私はさらに続けた。教室中に実は密かに存在する同志へ語りかけるように。いや、むしろ、なんの意思も持たない生徒の良心への訴えだったかもしれない。


「あんた達みたいな最低の人間、初めて見たわ。人を傷つけることがそんなに楽しいの? それって恥ずかしくないの?」


 緊張の中で、最初に口火を切ったのは吉田さんだった。まるで悪い冗談を聞いたとでもいうように半笑いで、

「あんた、そんなこと言ってどうなるか分かってんの?」

 と、小馬鹿にするように言った。


「吉田さん。あなたも、いい加減やめたらどうなの? どうせ、一人じゃなんにもできないんでしょ。それとも、一生そうやって玉島さんの後をくっついていくの?」


 吉田さんは私の視線にあっけにとられているようだった。


「あんた達のこと好きな子って、本当にこのクラスにいるの? 自分達にそんなに自信があるの? この先もずっと? いつかきっと後悔すると思うよ。何年かして、あんた達はみんなからきっと卑劣で最低の人間として記憶されると思うわ。そして、あんた達は世界で最も最低の大人になると思う。かわいそうよね。同情するわ」


 開け放した窓から風が吹いている。新しい風だ。

「私に死んでほしい? 私がいなくなればいいと思ってる?」

「……」

「私もあんた達が死ねばいいと思ったわ。でも、長生きしてよ。ずっと。それがあんた達にとってどれだけ苦痛になるか、私には想像できるから」


 その言葉を聞くと、呆然としていた玉島さんは右手を振り上げ、そのまま私の頬へと振り下ろした。ばちんという派手な音がして、教室が凍りついた。目から火花が飛びそうな衝撃だったけれど、私はひるまなかった。それどころか、痛む頬を押えもせず、まっすぐに彼女の目を見据えた。あまつさえ、唇には微笑を浮かべて。


 私は負けない。負けるわけにはいかないのだ。


「もういいの? 一発でいいの? それとも、またトイレでボコにする?」


 ボコにされたって、いい。私にはハットリがいる。私には、友達がいる。ゼロじゃないのだ。


 傾城は明らかに彼女達に不利だった。教室の雰囲気も、風向きと共に変わっていくのを誰もが感じていた。


「タマ、行こ」


 吉田さんがひっこみのつかない玉島さんの腕をひいた。無言で私を睨みながら、身を翻して教室を出て行くのと同時に始業のチャイムが鳴った。それが玉島さんの栄華の終焉を告げる音だと、その場の誰もが思っていた。


 玉島さん達の一団が教室を走り出ると、俄かに教室は安堵のため息が一塊となって漏れた。まるで申し合わせたように、一斉にため息をついたのでみんなちょっと笑った。私の敵は教室中の全員だと思っていたけれど、違ったのだな。なんの主張も持たない愚鈍な羊の群れであることには変わりはないかもしれないけれど、羊は力ない生き物なだけで罪はない。そういうことなのだろう。教室に先生が来て、私の姿を認めると微かに目を潤ませた。


 結局、私は職員室で先生にこれまでのあらましを話し、玉島さん達のことも洗いざらい細かく話すはめになった。玉島さん達は教室には戻ってこなかった。そして、特筆すべきは教室の誰も玉島さんに同情的ではないということだった。


 先生は私の口から聞かされる陰惨な出来事にただ驚くばかりで、とても信じられないといった様子だった。先生にとっては玉島さんのような子供じみたわがままの方が理解しやすかったのかもしれない。単純なものは理解するに容易い。私は最後にこう付け加えた。


「昔、この学校でいじめを苦に自殺した生徒がいたって聞きました。その人はいじめのことを誰にも相談できなかったそうです。当時のことは知らないけど、たぶん、みんな、どうして言ってくれなかったのかとか、どうして気付かなかったのかとか、悔やんだと思います。でも、言えるわけないんです。学校ってそういうところなんです。それに、言えるわけがないわ。私達は子供だけど、子供には子供の世界があって、ルールがある。それに、自尊心もあるし、たぶん大人が思う以上に周りに対する配慮がある。自分の言葉が世界を壊すことを知ってる……」

「……」

「壊れたものが二度と戻らないことも、知ってるんです」

「……」

「だから、私は大丈夫です。死なない」

「渡辺さんにとって、学校も教師も、もう信用できないものなんだね」

「……そう思いますか?」

「……」

「信頼とか信用って、初めからあるものじゃなくて、作っていくものだと思います」

「これから作ることは、できる?」

「もしも先生が信頼されたいと思ってくれたら」

「……それは君の友達が教えてくれたこと?」

「……」


 私はちょっとだけ笑って見せただけで、それ以上は黙った。私達はなんて狭い世界に生きているんだろう。教師が完璧でもなければ、学校そのものが完成された世界でもないのだと、なぜ誰も疑わなかったのか。疑いのないところに、反省も向上もありえない。


 先生は玉島さん達にも事実関係を確認し、今後のことをよく話し合おうと言った。私は適当に相槌を打ち、キリのいいところで話をやめて学校を後にした。いくら話し合ったところで、今ではもう遅い。私はもう変わってしまった。


 海沿いの道に海の家が姿を現し始めていた。浜に沿ってずらずらと海の家が組み立てられ始めている。風が温く、陽射しは強い。日照時間は長く、なかなか日の暮れる様子はない。私は立ち止まって空を見上げた。


 ハットリの家に行くと、軒先に風鈴がぶら下げてあった。私は縁側から部屋にあがりながら、つと背伸びして風鈴につけられた短冊を読んだ。短冊には流麗な毛筆で「風立ちぬ。いざ、生きめやも」と書かれていた。堀辰雄の「風立ちぬ」だった。一体誰が書いたのだろう。まさかハットリじゃないだろうな。文字は女の人の手積のように見えた。そっと揺らすと透き通った美しい音が庭に響いた。麦茶を飲んで、ハットリの帰りを待っているとリカちゃんとコウゾウくんがやって来た。


「あれ? 夏、もう学校終わったの?」

「うん」

「なんだあ。もっと遅くなるかと思った」

「なんで?」

「だって、色々ややこしいかと思ってさ」


 リカちゃんは汗を拭きながら扇風機の風を「強」にして、大きく息をつきながら座り込んだ。


「ハットリは?」

「んー? どこ行ったんだろうねえ。今朝、実家に戻ってたみたいだけど」

「ハットリ、忙しいのよ」


 コウゾウくんが氷のたくさん入ったグラスにジンジャーエールを注ぎながら、リカちゃん同様に扇風機の前に座った。


「忙しいって? 学校が?」

「んー」

「…なに? なにかあるの?」


 私は風に髪をなびかせる二人ににじりよった。


「まだ何か隠してるの?」

「……隠してたとかじゃないよ」

「ねえ?」


 二人は気まずい顔で頷きあった。


「教えてよ。秘密にする意味ないよ。いずれ知ることなんだから」

「……」


 そう言うと、コウゾウくんが渋りながらも教えてくれた。


「ハットリ、大学は春から休学してるんだよね」

「休学って……。じゃあ、行ってないの?」

「うん」


 リカちゃんもこちらに向かって座りなおした。


「ハットリね、休学して旅に出るつもりなのよ」

「旅?」

「実は去年から準備しててね。世界を回って絵を描いて歩きたいって言ってて……」

「そんなお金あるの?」

「去年、おじいちゃんが亡くなったって言ったでしょう」

「……まさか、遺産……?」

「っていうほどのものでもないんだけど……」


 実に言いにくそうなリカちゃんの後をまたコウゾウくんが引き取った。


「去年、ハットリは結構頑張ってバイトとかしててね。お金、貯めてたんだよ」

「なんなの、旅って? どうして旅に出て絵を描きたいの? なにを描こうとしてるの?」

「いろんなものって本人は言ってるけど……」


 そこまで話したところで、珍しく玄関が開く音がした。私達は互いの顔を見合わせ、何事かと部屋をいざって横切り廊下に顔を突き出して玄関を窺った。どうやらハットリが戻ったらしく、玄関先でなにかごそごそやっていた。


「めずらしー。なんで玄関から戻ってきたんだろ」

 コウゾウくんが立ち上がった。そして「ハットリー」と呼びかけながら自分も玄関へ出て行った。


 世界を回って……。ハットリが……。廊下を覗いたままの姿勢で動かない私に、リカちゃんがそっと声をかけた。


「旅って言っても、帰ってこないわけじゃないから」

「……うん」


 ハットリの生活や性格を全部表していたようなこの家。これがハットリの世界だと思っていた。閉じられた世界だと。勝手な想像だけれど、精神に深手を負ったハットリはこの居心地の良い空間から出ることなどないと思っていたのだ。私はハットリの言っていたことが初めて理解できた。


 玄関ではまだ男数人がわいわいやっている。なにか荷物を「せーの」と持ち上げる時の掛け声。どしんという重たい音。リカちゃんも怪訝そうな顔をした。次いで、板張りの廊下をごろごろとキャスターの滑る音がしたかと思うと、ハットリと大学の男の子三人とコウゾウくんがピアノを押して入ってきた。


「えええ? ハットリ、これどうしたの?」


 リカちゃんが頓狂な声をあげた。上げながらも笑って、ピアノの通り道を荷物や卓袱台を除けた。ピアノは廊下を抜け、居間の畳を滑り、縁側にまたぐ形で置かれたところで止まった。私は驚きのあまり声も出なかった。


「ハットリ、これ誰のピアノ?」


 リカちゃんがさっそくピアノの蓋を開けながら尋ねた。男の子達は汗を拭き拭き、大きく息をついて座り込んだ。ハットリもガラス障子にもたれるようにして、腰を下ろした。


「夏の、ピアノ」

「え?!」


 蓋を開けて鍵盤に触ろうとしていたリカちゃんが今度は面食らって私を振り返った。コウゾウくんが冷たい麦茶をいれ、男の子に配った。ハットリもコップを受け取りながら、もう一度繰り返した。


「夏のピアノだよ」


 それは確かに紛れもなく、私のピアノだった。一目見て分かった。古いアップライトピアノ。塗装の禿げたペダル。脚に傷がつけてあり、そこにはイニシャルが二つ並べて彫ってある。私は無言でピアノの傍へ行き、イニシャルを確かめた。それは父と母のイニシャルだった。二人が幸福だった頃の証。私達がかつて幸福だったことを、このピアノだけが知っている。


 ハットリはポケットから煙草を取り出した。


「手紙、預かってるから」


 そう言うと、ポケットから一通の封筒を取り出し、私へ無造作に手渡した。昨夜のことが思い出され、ハットリの顔を見るのが恥ずかしかった。白い素っ気無い封筒で、表書きには「夏へ」と記されており、ハットリのポケットに入っていただけあって生ぬるく、汗で湿っているような気さえした。


 私は封筒を開いてみた。父からの手紙だった。父が手紙なんて書くということに驚き、震える指で丁寧に畳まれた便箋を広げた。懐かしくさえある父の文字。これはきっといつも愛用していた万年筆で書いたのだろう。父はいつもスーツの内ポケットに洒落た万年筆を持っていた。手紙の内容は以下の通りだった。


「夏へ。

 引っ越してからあまりメールも電話もできなくて悪かったと思っています。仕事が忙しかったというのもあるけれど、それ以上にお父さんは夏になにを言っていいのか分からなくて、そのせいで辛い思いをさせてしまいました。お父さん達の勝手な理由で夏を傷つけてしまい、本当に悪かった。お父さん達は離婚のことを夏に説明するのが怖くて、上手く言えなかった。争うところも見せたくなかったし、言葉にすれば互いの悪口になってしまうので本当のことを言うことができなかったのです。でも、それは夏を騙したのではなく、ただ傷つけたくなかったからです。そのことは分かってほしい。けれどお父さん達は間違っていました。夏を傷つけたくないからこそ、いつも本当のことを言うべきだったのです。なぜなら、お父さんのことも、お母さんのことも、夏のことも、それぞれにしか分からないからです。夏、これからお父さんと友達になろう。お父さんと夏はもう一緒に暮らすことはできないけれど、絶交したわけじゃない。話したいことが沢山ある。今は後悔の気持ちでいっぱいです。夏も、本当のことを話してほしい。人間は言葉でしかコミュニケーションがとれない生き物です。言わなければ分からない。お父さんは今も夏を大事に思っているし、理解したいと思っているよ。お母さんも同じ気持ちです。お母さんとも沢山話しをしてください。

 学校のこと、服部くんに聞きました。お父さんは、もし、夏がどうしても学校に行けないならそれでいいと思っています。高校受験なんて、塾や家庭教師をつければいいことで、夏の幸せが一番大事だと思う。お母さんは反対のようですが、この事についてはまたみんなで話し合おう。

 夏のピアノを服部くんのところに預けます。お父さんはこのピアノを夏がお嫁に行く時にでも持たせてあげるつもりでした。それまで預かっておくつもりだった。でも、服部くんのところに置かせてくれるそうなので、そこで弾かせてもらって下さい。お父さんも夏のピアノが好きだったよ。

 もうすぐ誕生日だね。また欲しいものを知らせて下さい。お父さんは死ぬまでずっと夏の誕生日を祝うと決めています。どんな仕事よりも、それがお父さんにとって一番大事な仕事だと思っています。連絡を待っています。

 父より」


 読み終わると私は運ばれてきたピアノの前に立った。ぽんと鍵盤を人差し指で叩いてみる。


「ハットリ、お父さんになんて言ったの」

「……その手紙、なんて書いてあった?」

「……」


 私は鍵盤から目を離さずに、再びぽんぽんと鍵盤を押さえた。


「……夏にはピアノが必要だって。今の家に置けないなら、うちに置くから渡して欲しいって言ったんだよ」

「……」


 みんなが心配そうに、俯く私を見守っているのが分かった。私は無言で鞄から楽譜を取り出し、ハットリに投げてよこした。そしてピアノと一緒に運ばれてきた小型の長椅子に腰掛けた。ピアノは縁側と居間の敷居をまたいで斜めに置かれ、座ってみるとまるで庭に半分せり出しているような気がした。朝顔がもう私の身長を超えてツルを伸ばしている。健やかに、空に向かって伸びている。その姿を私は心から美しいと思った。


 リカちゃん達がハットリの手にした楽譜を覗き込むと、

「ああ~、懐かしい~」

「これって、あれだ? 合唱コンクール?」

 と口々に言った。


「え? 夏、伴奏やるの?」

「……そう。はい、みんな、歌って」


 私はそう言うと「空がこんなに青いとは」の伴奏を弾き始めた。涙が零れないように、固く唇を結んで。


 ハットリが立ち上がると、リカちゃんもコウゾウくんも、ハットリの大学の友達もみんな私の背後にずらずらと並んだ。


 知らなかったよ。空がこんなに青いとは。

 手を繋いで歩いて行って、みんなであおいだ空。

 ほんとに青い空。

 空は教えてくれた。

 大きい心を持つように。友達の手を離さぬように。


 私のピアノの調べにのって、彼らの歌声は高く、大きく夏空へ吸い込まれていく。弾き終わるとみんなが自画自賛で拍手をした。リカちゃんが嬉しそうに、

「いい音ねえ! 夏、上手だわあ」

 といつまでも手を叩いた。コウゾウくんも、

「他にもなんか弾いてよ」

 とせがんだ。


「私ん時はねー、『気球に乗ってどこまでも』だったよ」

「ああ、そんなんもあったなあ」

「パッヘルベルのカノンとかもあったよね」

「あれ、難しいんだよね」

「コウゾウのクラスって何歌ったんだっけ?」

「……怪獣のバラード……」

「ぎゃはははは!!」

「なによ! アタシが選んだわけじゃないんだから!」

「ハマりすぎだよ、それ~~」


 リカちゃんやハットリの大学の友達の爆笑が炸裂した。私もちょっと笑ってしまった。


 するとコウゾウくんは笑っているハットリに、

「ハットリの時ってなに歌った? 合唱コンクール。覚えてる?」

 と尋ねた。


「翼をください」

「あら、定番~」


 ……翼をください……。私はハットリを振り向いた。


「ハットリ、旅に出るんだって?」


 私は自分の声が固くなっているのを感じた。それはひどく思いつめたような、切実な響きだったと思う。笑いさざめいていたリカちゃんやコウゾウくん達がしんと黙った。


「……うん」

「いつから?」

「来月」

「どこ行くの?」

「まずはヨーロッパの予定だけど……」

「なんで? なにしに行くの?」

「……絵を描きに行くんだよ」

「わざわざ海外に? どうして? それがハットリの夢なの?」


 だめだ。どうしたって冷静ではいられない。声が震えて、鼻の奥が痛い。ピアノを取り戻したと思ったら、ハットリを失わなければいけないなんてそんなことには耐えられない。それなら私はピアノなんてなくたっていい。ハットリがいれば、他にはなにもいらない。空がどんなに青いかも知ったことではないし、翼だって欲しくない。気球に乗ってどこまでも行かなくていいし、怪獣なんて滅んでしまえばいい。涙のカノンの複雑なアンサンブルもくそくらえだ。ショパンもモーツァルトも、シューベルトもバッハもいらない。


 ピアノは父のところへ返そう。私はいっそそう言ってしまおうかと思った。どうしたら引き止められるのかを頭をフル回転させて考えていた。しかし、ハットリは静かに言った。


「最初はアキミツの夢だったけど、今は俺の夢。あいつが行きたがった気持ち、分かる。行って、目にするものや出会った人を絵にしてみたいんだ」

「そんなの逃げじゃないの」

 私はハットリを強く睨んだ。でもハットリはその不貞腐れた視線を優しく見返して、

「初めはそうでも、今は違うよ。世界が本当はもっと優しくて希望に満ちてると信じたかったあいつの気持ちが、今は分かるんだよ」

「……」

「お前に会って、余計に、はっきり分かった。世の中、そう捨てたもんでもないって」

 私はまたハットリに背を向けた。


「ハットリ、空は世界中どこに行っても青いから、世界を回って見る必要はないって詩、知ってる?」

「……知ってるよ。ゲーテだろ。お前、シブい詩読んでんのな」

「世界中どこに行っても空は青いんだよ」

「だろうな」

「じゃあ、別に行かなくてもいいじゃん」

「夏」

「……」


 ハットリが私の隣りに腰掛けた。といっても、椅子の端にかろうじて尻をちょっとのせるぐらいの幅しかないのだけれど。私達はぴったり並んで鍵盤に向かう形になった。私はハットリの顔を見ることができなくて、黄ばんだ白鍵と黒鍵を見つめていた。


「世界中どこに行っても同じ空なら、俺とお前は同じ空を見てるってことだろ」

「……」

「どこにいても、つながってるんだよ」

「……」

「俺達、友達だろ」


 私は世界を旅してまわるというハットリが羨ましかった。そうやって世界に出て行けるハットリが。それに比べて自分はどうだろう。まだここから動くことはできない。まるで呪縛。問題が片付いたわけではない。これから、もっとややこしいことがあるだろう。子供であるがゆえに。私は思わずため息をついた。


「それに、お前言っただろ。俺の中にアキミツは生きてるって。だから、俺はあいつの分まで生きて、あいつの分まで絵を描く」

「……コンクールまではいる? 見にきてくれる……?」

「空がこんなに青いとは、か。いいよ。行くよ」


 空はどこに行っても青い。でも、青だって一種類しかないわけじゃない。たくさんの青を、ハットリは見たいのだろう。私は思わず、ぽろりと言葉を漏らした。


「……もし、行かないでって言ったら、行かない?」

「お前、やっぱ俺にホレてんだろ」

「ちがうよ!」

「また速攻かよ!」


 ハットリは笑いながら私の肩に腕をまわした。そして、一度だけぎゅうと力をいれて引き寄せ、すぐに腕をほどいた。もう、なにも言うことはなかった。


 私は、私のピアノでみんながリクエストするトルコ行進曲やエリーゼのためにを弾き、最後にハットリの為に「翼をください」を弾いた。優しい音が満ちて、日は暮れようとしていた。ハットリは無言でそれに聴き入っていた。


 旅に出るというハットリにも、ここにいる私にも翼はない。あるとしたら、互いの存在だけだ。しかし、私はそれが翼の役割を果たすことを信じてやまなかった。



 結局、あれからそんなにもめることなく学校に行けるようになった。教室の勢力図は変わりつつあるようで、玉島さん達のグループの代わりに今度は別な女の子達がはばをきかせるようになってきた。が、彼女達は私に興味はないようで、攻撃を受けることはなかった。


 しかし、仲のいい友達はできなかった。強いて言うなら、山田くんだけが唯一私に「友達」として接してくれる。勢力図が変わったといっても、なにもかもが急変するわけではないのだなと思った。私と山田くんが付き合っているという噂だけは絶えず流れたけれど、実際には私達の関係に進展はなかった。


 今度は誰がいじめの的になるのか、教室には時々妙な緊張が流れる時がある。それから目を逸らすように、教室は賑やかになり、平和になり、またぎこちなくなる。先生はいじめの嵐が過ぎさったことに胸を撫で下ろしているだろう。でも、生徒達はみんな知っている。それが束の間の休息であることを。


 期末試験が終わると合唱コンクールが行われた。私は予定通り伴奏をし、山田くんは指揮をした。ハットリは約束を守り、父兄にまじってコンクールを見に来た。リカちゃん達も一緒だった。それは異様な光景で、コンクールの後、誰もが「あれは誰の知り合いなんだ」と噂にした。そのぐらい、彼らは浮いていた。山田くんはちょっと私を見たけれど、苦笑いしただけで何も言わなかった。


 母は今もハットリを良くは思っていない。たまに、露骨にいやな顔をする。私はそれに反論するつもりはなく、仕方ないと思っていた。


 ハットリは旅に出る前夜、私に家の鍵をくれた。この家に鍵なんてものがあるのをすっかり忘れていたので、最初はなにがなんだか分からなかった。てっきりハットリは家の鍵をいつものように開け放して行くのだと思っていた。そのぐらい、ハットリは身軽な様子で、いつ帰るとも言わず、「ちょっと、そこまで」と言う雰囲気だったから。しかし、ハットリは大切そうに小箱から二つの鍵を取り出し、一つを私に握らせて言った。


「この家な、俺のじいさんの家だったんだけどな、じいさんは死んだら親父じゃなくて、俺とアキミツに家をくれるってずっと言ってたんだよ。だから、この鍵は一個は俺の」

「……じゃあ、これは弟の分?」

「お前にやるよ」

「……」

「あれ? お前、前に俺と暮らしたいって言わなかったっけ?」

「……」


 ハットリは笑いながら、

「ここも、お前んちだ。お前の場所だよ」

「……ハットリ、私は弟の身代わりじゃないよ」

「当たり前だ。夏は、夏だ。いいか、誰も誰かの代わりになんてなれないんだよ。世界にお前は一人だけなんだからな。だから……死ぬなよ?」

「ハットリもね」


 私は手の中の鍵をぎゅっと握り締めた。泣いてはいけない。泣けば、ハットリの心に影ができる。私は必死で涙をこらえて微笑んだ。


「ハットリ、ありがとう」

「……礼を言うのは、こっちだ」

「私、なんにもしてないよ」

「いや、お前は知らないだろうけど、いろんなものくれたよ」

「……」

「少なくとも、空が青いこととか、思い出した」

「それは……」


 それは私が思ったことだった。ハットリが私の空そのものなのだ。いよいよ涙が溢れそうで、私は唇を噛んだ。


 私も一緒に行きたい。行けたなら。そう言いたかった。でも、私にはまだここでするべきことがある。学校はくだらないけれど、私は何からももう逃げたりはしないと決めたのだから。例えどんなに辛いことがあっても、ハットリもどこかで同じ空を見ているのなら、そう信じられたなら、今はここで、例え一人きりになったとしても強い気持ちで生きていける。そして、その気持ちが私の翼になって自由な空を飛ばせてくれるだろう。青く澄み渡る空を。遠く、高く。どこまでも。

                      

本作品で小説すばる新人賞最終候補作品に選ばれた。以後も他社の公募で他作品が候補に残りはしたものの、どれも未だ受賞には至っていない。惜しい。

 公募にはルールがあり、一度発表したものは投稿してはいけないことになっている。その時々で出来る限りの努力をしたものが日の目を見ないのは、自分の未熟さ故と承知しているが、なまじ千人近い応募者の中から最後の三人まで残るだけに惜しい気持ちは捨てきれるものでもない。要は諦めが悪いのだ。

 評価は真摯に受け止めている。足りないものがまだまだあるのだ。

 けれど。「受賞には至らなかったが、まるっきりダメというわけでもない」というただ一点のみにおいて、どこかにチャンスを探している。チャンスというのは「誰かに届く」かもしれないチャンスだ。

 そこで製本が比較的安価で容易になった今、その機会を設けてみることにした。

 読んでくださった方に、心から感謝します。あなたの心に何か届けられたなら、幸いです。「足らずを補い」「書き続ける」ことを命題に今後も努力を続けていく所存です。いずれどこかでデビュー作品をお目にかけられたらと思います。


追記

主人公「夏」のその後…遠い未来の人生を描いた長編「さよならのかわりに」は小説現代長編新人賞の一次選考に通過しました。

                                    

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ