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空がこんなに青いとは  作者: 三村真喜子
12/13

12話

家へ帰ると、母がテーブルに座ってお茶を飲んでいた。


「あれっ? お母さん、今日は夜勤って言わなかった?」

「……夏、ちょっと座りなさい」


 母は固い声で言うと、テレビのリモコンをとりあげぷっつりと電源を切った。瞬時に私はすべてを悟った。黙って母の正面に座ったけれど、母の顔を見ることはできなかった。母の押し殺したような声は、感情をねじ伏せようとするあまり微かに震えていた。強烈な緊張感がせまい2DKを埋め尽くしていた。私は自分が制服を着ていることが我ながら滑稽だと思った。とんだ茶番だと。


「今日、先生から電話があったの」

「……」

「夏、あんた、学校に行ってないってどういうことなの」

「……」

「学校行かないで、毎日どこに行ってるの」

「……」

「黙ってないで、ちゃんと言いなさい」


 私は俯いてテーブルの一点をじっと見つめた。母の顔を見るのが怖かった。母が怒るのは当然だし、こうなることだって予測できた。でも、いざそうなってみると震えがくるほど怖くなった。叱られることが怖かったのではない。断じて、そうではないのだ。


 そっとしておいて欲しい。私のことは放っておいてほしい。そんなことは言えないけれど。それでもこの追求からどうやって逃れたらいいのか、頭の中がフル回転し始める。玉島さん達のことも、ハットリやリカちゃんやコウゾウくんのことも話すことはできない。誰にも理解できないだろうから。それに、本当のことを知ったら母はどうするだろう。なんと思うのだろう。離婚について、後悔するだろうか。罪悪感を感じるだろうか。そして、その後にどういう行動をとるのだろう。想像もつかない。学校や玉島さん達の親に苦情を申し入れにいくだろうか。それとも、私を再び転校させるだろうか。もう学校に行かなくてもいいとか言うだろうか。……父に、相談したりするだろうか……。あれこれと逡巡していると、いきなり母がテーブルをばしっ!と叩いた。


「なんとか言いなさい!」

 私はびくっと首をすくめた。

「学校サボって、どこでなにをしてるの!」

「……なにもしてない……」


 私はぼそっと呟いた。すると、途端に涙が溢れだし私は母の前でぐずぐずと泣き始めてしまった。胸がいっぱいで苦しくて、息ができなくて、嗚咽を漏らしながら泣いた。


 教室の出来事が強烈すぎて、とても言葉にできず、問い詰められることも恐ろしく、口にすればみじめで、母に到底理解できることとも思えなくて、怒りのあまり鼻息の荒い母と二人の2DKにいながら私は宇宙にたった一人で放り出されたような気持ちだった。だいたい何から言えばいいのだろう。なにを説明すればいいのだろう。学校で起きることというのは密室での殺人事件みたいなもので、秘密は完璧に守られ、アリバイは精巧で、証人は一人もいないのだ。私は無実の罪に手厳しい尋問を受けているようだった。


「泣いてないで、ちゃんと言いなさい」


 それでも母は追及の手を緩めなかった。私は母がなにか言う度に大きく嗚咽した。こうやって問題が大きくなって、それでも、誰も本当のことなど分かるはずもなく、責められるのが自分一人だと思うとなにもかもがいやで泣けて仕方なかった。


「先生はあんたが学校に馴染めてないようだって言ってたけど、そうなの?」

「……」

「友達、できたんでしょう?」

「……」

「いったいどんな子達なの? 一緒にサボってるの? そういう子達なの?」

「…」

「夏」


 私は母の言葉にいちいち首を振った。小さな子供がいやいやするように、しゃくりあげながら。母がイラだってきているのが分かった。


 私は手を伸ばしてティッシュを一枚引き抜くと洟をかんだ。


「学校、行きたくない……」

「どうして」

「合わないから……」

「合わないって、なにが合わないの」

「だって、全然ちがうんだもん」

「そりゃあ最初は馴染めないかもしれないけど、だからこそ行かないと友達もできないし、慣れないでしょう。受験もあるのにどういうつもりなの。合わないから行きたくないなんて……」

「お母さんには分かんないよ!」


 私は母の言いように思わず怒鳴った。


「合わないからそう言ってるんじゃない!」

「いい加減にしなさい!」

 母も負けじと怒鳴り返した。

「学校も行かないで遊び歩いて、なにを偉そうに!。合わないから行きたくないなんて、ただのわがままでしょ!。絶対行きなさい。明日から絶対に」

「いや! 絶対行かないからね!」


 私はそう叫ぶと勢いよく立ち上がり、隣室に駆け込んでばしっと音を立てて襖を閉めた。母のため息が突き刺さるようだった。


 私は暗い部屋で蹲って、いつまでもぐずぐずと泣き続けた。母にも、先生にも、誰にも本当のことなど分かりはしない。私のことなど分かりはしない。分かるのは、ハットリだけだ。私は真底そう思い、疑わなかった。ハットリが私を迎え入れた時から。ずっと。そのことが私を支えていた。たった一つの拠り所なのだ。


 私は部屋の電気をつけると、泣きながら引き出しをごそごそと探り始めた。お年玉を貯めた貯金通帳が一冊。お小遣いをいれてある貯金箱が一個。中身を取り出して財布に押し込む。大嫌いな制服を脱ぐと思い切り壁に叩きつけた。ジーンズに穿き替え、黒いリュックを取り出すと中に着替えを詰めた。ベビーGを嵌める。そうしてみて気付いたけれど、私はもうお気に入りのTシャツやこまこまとした雑貨や漫画やCDにまるで執着していない。父がくれた物たちもとうに押し入れに封印してしまって、私はもうなにも惜しいとも欲しいとも思わなくなっていた。以前なら手放すことなど到底できないと思っていた小さなアンモナイトも、ミサ達がくれたカップや写真立ても、思い出に満ちたものさえ何もいらないと思った。全部、捨ててもいい。この全部と引き換えにしても、大事なものがある。


 食事に呼ばれても私は答えず、部屋でじっと黙って座って過ごし、深夜近くなって母がお風呂に入った隙に私はそうっと家を抜け出した。目指すところはただ一つ。私は夜の町を走った。夜の海はひたすら黒く、波の音がやけに大きく聞こえる。遠くに見える光の粒が幻のようで不安になる。そのぐらい暗く、足をとられそうな怖さがあった。路地を駆け抜けながら、昼間よりも潮の匂いが濃いような気がしていた。私は真っ暗な庭に入り、ガラス戸の閉じた縁側にそろそろと近寄った。室内に電気は点いており、手をかけるとするするとガラス戸は開いた。


「……ハットリー……」


 私はハットリを呼びながら縁側に手をついて身を乗り出し、中の様子を窺った。が、返事はなく、部屋は静かで卓袱台にハットリが飲んだと思われるお酒の瓶が置きっ放しにされていた。


 部屋にあがり、風呂場や台所、寝室も覗いたけれどハットリはいなかった。勿論、リカちゃんもコウゾウくんも。私は携帯電話を持って出なかったことを一瞬後悔した。けれど、すぐに打ち消し、リュックを茶の間に置くとレコードをかけた。そして、すっかりお馴染みになったクリス・コナーを聴きながらハットリの飲み残したお酒を飲んだ。


 一体どこに行ったのだろう。私はぼんやりと卓袱台に頬杖をつきちびちびとお酒を飲んだ。今頃、家では母が私の不在に気付き探しているだろう。探しているかもしれない、なんてことは思わない。探しているに決まっている。でも、一体どこを探すのだろう。祖父母のところに電話をかけたりしているかもしれない。一度口走ったから名簿を探って玉島さんに電話をするかもしれない。もしかしたら、ミサやカナに電話をかけるかもしれない。でも、そのどこにも私はいない。いい気味だとは思わない。そのかわり、母に悪いとも思わない。ただ、今は胸が痛くて鉛を飲んだように重い。どこにも持っていけない、誰にも言えない。この気持ちは産業廃棄物のようだ。本当のことを言えば簡単に解決するのかもしれない。私がいじめにあっていて、リンチされたことを言えば母も絶対学校に行けとは言わないだろう。しかし、そんなことできるはずもない。そりゃあ学校には行きたくないけれど、母には知られたくない。理由はない。言いたくないと思うことに理由などないのだ。それを分かってもらうには私はそれこそ子供で、ボキャブラリーが足りない。いや、ちがう、大人になってもこの気持ちを表す言葉などないだろう。口にする端から涙に変わるような言葉を。


 一時間もハットリを待っていただろうか。だんだん頭がぼんやりし始め、そのくせ足元がふわふわと浮いたように軽くなってきた。私は立ち上がり、財布をポケットにねじこむとクリス・コナーを歌いながら庭へ出た。私は酔っていた。表通りへ出ると、いきなりタクシーを捕まえ勢いよく乗り込み、若い運転手に行き先を告げた。バックミラー越しに運転手がこちらを見たけれど、なにも言わずに扉を閉め深夜の街めがけてアクセルを踏んだ。行き先はハッピィハウスだった。平日の夜はバー営業なので、入り口で時々行われる年齢のチェックなどはなくすんなり入れることはとっくに知っていたし、入ってしまえばとりあえずテンガロがいるのも分かっていたので行けばなんとでもなると思った。我ながら大胆だと思ったけれど、お酒のせいで気分が高揚し、妙に気が大きくなっていてなにも気にならなかった。タクシーを降りると、私は颯爽と階段を降り店内へさも当然のような顔で入って行った。


 思ったよりも店内はお客さんが入っており、テーブルやカウンターもそこそこ埋まっていた。煙草の匂いとお酒の匂いが充満しているフロアを背筋を伸ばして横切ると、私はカウンターに腰掛けた。


「あれ? 夏、一人?」

「うん」

 テンガロが驚いて言った。


「待ち合わせ?」

「ううん」

「ふーん、一人で来るとは思わなかったな」

「ふふふ」


 不敵な笑みを浮かべる私をテンガロは胡散臭そうに見たけれど、すぐに職業的に気を取り直し、ウォッカをグレープフルーツジュースで割ってくれた。


 私はカウンターに肘をつき、すでに充分酔った頭をもたげながらグラスを傾けた。音楽はコウゾウくんの好きなABBAだった。私は軽くリズムをとりながら、甘苦いカクテルを飲み、周囲の人々を観察した。ここにはくだらないいじめはない。リンチもない。だって、傷害事件になるから。どうして校内だと事件にならないんだろう。誰か死なないと、誰も騒いでくれないなんてそれじゃあ遅いのに。学校とはそういう場所なのだ。少数派は黙殺される、偽せの民主主義。体裁だけでできたハリボテみたいなものだ。本当のことなんて意味を成さない。私は父のようにこれまでの暮らしをリセットしてしまいたいと思い、母のように見たくないものに蓋をしてなかったことにしてしまいたいと思った。


「夏、もしかして酔ってる?」

「え、なんで?」

「……目がぶっとんでる」

「さっきまでハットリんとこで飲んでたからなあ。眠くなってきちゃった……」


 テンガロがいつの間にかカウンターに半分崩れ落ちそうな私に心配そうな目を向け、グラスを拭いていた。私はがっくりと脱力しそうな首や頭を必死に支え、かろうじて瞼を持ち上げて意識を保った。本当は頭がぼんやりし、眠くて仕方なかった。


「帰った方がいいんじゃねえの?」

「んー……帰るとこないから……」

「はあ? コウゾウ、呼んでやろうか」

「いいの、コウゾウくんに悪いもん」

「夏、そこで寝てもいいけど、吐くなよ」

「大丈夫」


 私の体は椅子から転落しそうに、揺れていた。気分は悪くはなかった。テンガロが氷水をグラスにたっぷり入れて目の前に置いたけれど、それを飲んでもまるで目が覚めず次第に音楽も周囲のざわめきも潮騒のように遠くに聞こえ始めた。そして、気付いた時にはカウンターに突っ伏して眠っており、肩を揺すられて俄かに覚醒した。


「夏、大丈夫か」


 半ば夢うつつで目を開けると、横に立っていたのはなんとハットリだった。


「あれ……、ハットリ? なにしてんの」


 私は寝ぼけたような、あやしいろれつでハットリに口を開いた。


「お前、俺んちでも飲んでただろ」

「ハットリ、どこ行ってたのー」

「どこって……、実家」

「なんでー?」

「……飲みすぎだろ。帰るぞ」


 ハットリが私の肩と腕を支えながらカウンターの椅子から引っ張り降ろした。私の足はくにゃくにゃとして力が入らず、ハットリが手を離した途端に崩れ落ちそうだった。頭がのぼせたように熱く、頬が火照っているのが分かった。


「今、何時―」


 カウンターから出てきて、ハットリの隣りに立っているテンガロに尋ねると「三時」と答えた。では、私が意識をなくしていたのは一時間ほどだったのか。眠りがあまりに深くて泥のように重いものだったので何時間も寝てしまったような気分だった。体もどこかしら気だるかった。


 ハットリは私を支えながらハッピィハウスを出ようとした。が、私は眠りながらも時々意識にのぼっていた生理現象を思い出し、仕方なく訴えた。


「ハットリ……」

「ん?」

「トイレ行きたい……」

「なんだ、ゲロか?」

「ううん、ちがう……」

「ションベン? 行ってこいよ」

「……だめ、行けない……」


 私は尿意にもじもじしながらも、羞恥でまともにハットリを見れなかった。けれど、ハットリはそんなこと知るよしもなく、

「トイレ、あっちだから行って来いよ」

 と私をトイレへ行く細い通路へ押し出そうとした。壁に手をつき体を支えながら、私は一歩進んでは立ち止まり、二歩進んでは待っているハットリを振り返った。


「なにしてんの。早く行けよ」


 ここのトイレは男女別で、女子トイレの方にはパウダールームとして使える鏡前の簡単なスペースもあり、女の子達がよく鏡に張り付くようにしてマスカラを重ね塗りしたり、口紅を塗ったりしているのを見かけた。このトイレに入ることを、私の魂が拒んでいた。というのも、私は学校の女子トイレで玉島さん達にリンチされたことをきっかけに、「女子トイレ」と聞いただけで吐き気を催し、いても立ってもいられなくなるほど心拍数が上がって手足が震え出すようになっていた。リカちゃんやその友達の女の人なんかがいればいいけれど、一人で女子トイレに入ることは私から恐怖を引き出した。


 あの扉の向こう。あの密室。誰の声も届かないところ。そこには女しかいない。計略にまみれた女しか。勿論、こんなところのトイレに知った顔などあるわけもないのに、怖くて仕方なかった。私は玉島さん達によって、女の子が複数人いるということに著しい恐怖を覚えるようになっていた。しかし、そんなこととは関係なく、尿意は切実で、膀胱が膨れ上がるのが自分でも分かった。私は壁にひっついて地団駄を踏むように足をじたばたさせ、うわ言のように繰り返した。


「外のトイレー……。コンビニでいいからー……」

「なに言ってんの? 行って来いよ」


 ハットリはきょとんとしながら、背後の女性用トイレのマークのついた扉を指差した。


「早く行けって」

「やだ……だめ……」

「なにがヤなんだよ」

「だって……女の人、怖いもん……」


 消え入りそうな声で呟いた。酔った頭でも怖いことには変わりはなく、私は泣き出しそうだった。そんな自分がいやで、その上尿意は限界だった。


 我慢できず膝をくの字に軽く折ると、一瞬押し黙っていたハットリが私の腕をがっちりと掴んでぐいと引き上げた。私はそれに引っ張られ、引きずるようにハットリに女子トイレに連れて行かれた。その乱暴な動作がまたしても私の恐怖を呼び起こし、叫び出しそうになるのをこらえながら、かろうじて抵抗した。


「やだ、なに、やめてよ……」


 壁にとりすがろうとする。でも、ハットリの力は強く、ぐいぐいと私を引っ張って行き、先に立っていきなり女子トイレのドアを開けた。


 トイレには女の人が数人いて、ハットリを見ると驚きと非難の声をあげた。


「なに、ちょっと……」

「ええ~、うそ~」

「女性用だよ」


 しかしハットリはそんな声がまるで耳に入らないかのように、私の腕を掴んだままトイレにずかずか踏み込んだ。化粧していた人、手を洗っていた人、煙草を吸っていた人、用を足して出てきたばかりの人、誰もが一様に驚きのあまりぽっかり口をあけていた。ハットリは私を振り回すように乱暴に個室の方へ押し出すと、

「待ってるから」

 と言い放った。半ば投げ込まれるように個室に入った私は扉を閉め、鍵をかけ慌ててジッパーをおろし便器に座った。座った途端、我慢していたのが一気に放出された。恥ずかしかったけれど、私はほっとため息をついた。個室の扉一枚向こうでは、女の人たちがハットリを非難するように喋っているのが聞こえた。


「外で待てばいいじゃない」

「そうよ、なんでわざわざ……」

「なに考えてんのー」


 ハットリが言い返す気配はなかった。それどころか、私の入った隣りの個室に入り、じょぼじょぼと景気のいい水音を立て始めた。


「ちょっと! ドアぐらい閉めなさいよ!」


 半分は笑いの混じった声が非難した。ハットリはどうやら、トイレのドアを開けたまま立っておしっこしているらしかった。それも、私のために。


 私は水を流すとよろめきながら個室から出て、洗面台で手を洗った。鏡の中に女の人達の胡散臭い視線を一心に集めているハットリが映っていた。私は手を洗うついでに、酔った頭を冷やしたくてざばりと顔も洗った。ハンカチやシャツの肩で顔を拭くと、ハットリは壁にもたれて腕組みをし鏡越しに私を見つめていた。ハットリにもあるんだろうか。ひどいトラウマの残る場所が。もし、あるなら、誰がハットリをそこへ連れて行くんだろう。


「あんまりトイレを我慢すると、病気になるぞ」

「……うん……」

「行こう」


 ハットリはそんなことを言って、私を連れてトイレを、ハッピィハウスを出た。


 夜の街はすっかり静まり返り、週末あれほど店の前にたむろしていた人たちが今は一人もいなかった。


 ハットリは私の片腕を軽く支えるようにしながら、

「一人でなにやってんだよ」

 と少し叱るような調子で言った。


「……ハットリ、どこ行ってたの?」

 私は同じ質問を、今度は幾分酔いの醒めた頭で尋ねた。

「だから、実家だってば。親父とメシ食ってたんだよ」

「なに食べたの」

「お好み焼き」

「家の隣りのお好み焼き屋さん?」

「……よく覚えてるな」


 私はふふふと笑って、ハットリの体に自分の体をどしんとぶつけた。ハットリは勢いに軽く押されたけれど、まっすぐに歩きながら私を捕まえる手を強めた。


 夜が果てしなく長いような気がした。幾分トーンダウンした街灯り。小さく光る星。今こうしてハットリと二人で歩いていることが私を安心させた。こうしていればなにもかも忘れられる。


「あのねえ、ハットリ」

「なに」

「私ねえ、ハットリんとこに住みたい」

「なんで?」

「なんでって……」


 随分素朴な言葉で問うんだな…と私は拍子抜けした。

「住みたいから。だめ?」

「……それは、なにか? 俺のことが好きで、一緒に暮らしたいってことか?」

「ちがーう!」

「速攻かよ……」

「ちがうの! って……いや、ちがわないかも」

「どっちだよ」


 ハットリが笑った。笑うとハットリはその瞬間だけぐんと若返って見える。ひきこもっていたといういかにも暗い生活の頃に本来持っていたはずの若さを、その時だけハットリは取り戻すようだった。私はハットリの笑った顔が好きだった。それは確かだった。


 私が言いかけるより早く、ハットリが静かに言葉を継いだ。


「俺を好きで、一緒に暮らしたいなら考えるけどな。それは男と女の暮らしで、同棲ってことだぞ。意味分かってるか」

「……」

「そうじゃなくて、もし、お前が俺のところへ逃げるために来るなら条件がある」

「条件……?」


 私は恐る恐るハットリを見上げた。酔いはまた少し醒めようとしていた。


「お前が俺のところに来たいなら、来ればいい。止めないし、拒まない。どんな理由でもな。でも、本気で来るなら身辺は整理してこい」

「……」

「親も学校も、きっちりケリつけてからでないと、お前は一生なにもかもから逃げなきゃいけなくなる。犯罪者みたいにな。誰ともまっすぐ向き合えないし、誰ともまともにつきあえない。そんな人間になるな」

「……」

「俺が言うんだから間違いない。経験者の俺が言ってるんだから」

「……」


 ハットリはちょっと立ち止まってポケットから煙草を取り出した。マッチを擦ると、その火を少し眺めてから煙草に点火した。私は黙ってそれを見ていた。ハットリの吐き出す紫煙がゆらゆらとたなびいて、流れていく。決していい匂いじゃないのに私はこの匂いを好きだと思った。マッチの匂い、煙草の煙、一連の動作。それらはただ私の胸を痛ませる。ハットリが煙草を吸う仕草は、父に似ている。


「リカはお前にアキミツのことを話しただろ」

「うん」

「でも、肝心なところは言ってない」

「……なにを?」

「アキミツを殺したのは、本当は俺だ」


 その言葉に私は心臓が口から飛び出そうになった。ハットリの口元が微かに歪んだ。微笑とも苦痛ともとれるような微かさで、判別することはできなかった。


「言っただろ、俺はお調子者で馬鹿ばっかりやってたって。馬鹿だから、面白がって、俺は高校の時クラスの大人しいやつをからかって遊んでた。……いや、有体にいうと、いじめてた」


 ハットリの手から私の腕がほどけた。私は信じられないような気持ちでハットリを見つめていた。


「冗談のつもりだった。でも、相手にしてみれば洒落にもならなかったんだろうな。だんだん学校来なくなってさ……」

「それと弟となんの関係があるの……? その時、弟さんは中学生だったんでしょう……?」

「そうだよ。俺はあいつがいじめにあってるなんて知らなかった。それこそ、からかわれてるんだろうぐらいのもんで、そんなに深刻だとは思わなかった。だから死ぬなんて思わなかったし、びっくりした」

「……いじめが原因で自殺したんでしょう……?」

「俺がいじめてたヤツにも弟がいたんだ」

「……」

「アキミツと同じクラスだった」


 私はその時なぜか反射的に自分の耳を両手でがばっと押さえた。聞きたくないと言わんばかりに。けれど、それを察知したハットリは両手で私の手首をつかみ耳を塞いでいた手をひきはがした。


「分かるか? 俺がいじめたヤツの弟が、俺の弟に復讐してたんだよ。それも、兄貴の指示で。じゃあ、アキミツが死ぬ原因を作ったのは、もとは全部俺なんだ。俺が、アキミツを殺したんだ」

「やめて!」


 私は喘ぐように叫んだ。しかし、ハットリは静かな目で私を見つめはっきりと、

「気が狂うかと思ったよ。俺はアキミツを自殺に追い込んだヤツら一人残らず殺そうとも思った。でも、そいつらだって、俺に対してそう思ってんだよ。俺を殺したいほど憎んでて……結局、俺がしたことは、そういうことなんだ。そうやって憎しみだけがぐるぐるまわってると思うと、なにもかもがいやになって、誰とも関わりたくなくなって……。ひきこもって誰にも会わないで、口もきかないで、その間に母親はおかしくなって……。なんであんなことしちまったんだろう。なんで俺は人を傷つけて笑ったりできたんだろう。おかしいんだよ……俺は人間としてどっかおかしいんだ。アキミツを殺しただけじゃなく、家中をめちゃめちゃにしちまって。そのくせ何もか投げ出して逃げて」

「……」

「俺は自分のしたことや、アキミツが死んだことからも逃げるべきじゃなかったんだ。とりかえしのつかないことってあるんだよ」


 とりかえしのつかないこと。それは私がコウゾウくんに言ったのと同じことだった。私達家族はもう二度とやりなおせない。それぞれがてんでに逃げてしまったから。私はハットリがなぜ私にかまってくれるのか、その理由をはっきりと掴んだような気がした。


 ハットリが私の中に死んだ弟を重ねているのかと思ったけれど、本当はかつての自分を見出しているのだ。理由は違えど、逃げ場を求めて彷徨う姿の中に、ひきこもって罪の意識からも、自分の気持ちからも、周囲の悲しみからも逃げてしまった自分と私は同質であると。


「俺みたいになるなよ、夏。思うように生きればいい。でも、逃げることが正解じゃないんだよ」

「ハットリは私に逃げ場を作ってくれてるんだと思ってた」

「誰だってつらい時や苦しい時に行き場は欲しいだろうよ。それがお前にとって俺のとこだってんなら、そうなんだろ。でも、それじゃあ行き止まりだ。俺んちからはどこへも行けないからな。お前まだ若いし、っつーか、子供だし、俺んちが行き止まりなんてもったいないだろ。俺んちは、通過点なんだよ。来てもいいけど、勿論、いてもいいけど、そこだけに留まるなよ」

「……ハットリはどうなのよ?」


 私はハットリがこんなにも真摯に話してくれているのに、子供じみた気持ちになり、まるで体よく追い払われているような気分で上目遣いにハットリを睨んだ。口を尖らせて、できるだけ皮肉に響けばいいと意地悪い口調で言った。


「ハットリだって、あの家に逃げてきたんでしょう。だから、あそこにずっといるんでしょう」

「……初めはな。でも、今はちがうから」

「……」


 嘘。ずっと家にいて、今だってひきこもりみたいな暮らししてるくせに。私は目に涙がいっぱい溜まってきた。ハットリはそれを察知して、私の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。


「家まで送ってやるよ」

「やだ……」

「一緒に謝ってやるから」

「謝ることなんてないもん」

「俺は誰も助けられなかったけど、お前ぐらいはなんとかしてやるから。とにかく帰ろう」


 めそめそとぐずりだした私をハットリはちょっと笑って、小さな子供にするように腰をかがめて大きな手で私の涙を拭ってくれた。


 その時だった。突然道路に車が止まったかと思うと、勢いよく男の人の影が私達のそばにせまった。見ると路肩に止まったのは一台のパトカーで、降りてきたのは警察官だった。


「あー、君達、こんな時間になにしてるんだ」

「……帰るとこです」


 ハットリが訝しげに答えた。警察官は涙を拭う私をじろじろと見ながら、

「もしかして、君、渡辺夏ちゃん?」

「えっ……?」

 私は驚いて目の前の背の高い警察官を見上げた。その反応に確信を得た警察官はさっとパトカーを振り返り、合図を送った。すると、パトカーの運転席からもう一人警察官が降りてきた。


 一体なにが起こったのかさっぱり分からず、涙は完全にひっこんでしまい、ハットリも呆然としていた。そんな私達に警察官は実に事務的な口調ですらすらと、

「お母さんから捜査願いが出てる。みんな心配して探してるよ」

 と言った。そう言われても咄嗟にはなんのことだか飲み込めなかった。


「君は……?」


 警察官がハットリの顔を窺うように尋ねた。背後ではパトカーの無線で「渡辺夏、本人確保しました」と連絡する声が聞こえてきた。


「友達です」


 ハットリはきっぱりと言った。私はその手をしっかり握った。友達です。私はハットリの言葉に泣きそうになった。そうだ、友達なんだ。私達は。性別も年齢も、互いの環境も身分も越えて私達は出会い、確かに心を許しあった。私とハットリの関係を言葉にするなんてできないと思ったけれど、そうだ、単純なことなんだ。私達は、友達なのだ。


 私とハットリはパトカーの後部座席に乗せられ、警察署まで連行された。私はその間ずっとハットリの手を握っていた。ハットリは終始無言で、警察官の質問にいくつか答えるだけでそれ以外はじっと暗闇を行くフロントガラス越しに前を見据えていた。警察署に着くと、入り口を入ってすぐの待合室のようなところに母と担任と、驚くべきことに父がいて、私を見ると一斉にベンチから立ち上がった。私は口もきけないほどびっくりして、足は硬直し、その場に固まってしまった。


 最初に口を開いたのは母だった。母は憔悴しきった様子で、私を見るなり強張っていた顔をぐしゃりとゆがめ、声をあげ、顔を覆って泣き出してしまった。


 久しぶりに見る父はスーツ姿で、いつもきっちりと結ばれていたネクタイを緩め、警察や担任にお礼を言いながら頭を下げた。一体なにがどうなっているのか、さっぱり分からなかった。まるで対岸の火事を見るように彼らを見ていた私の背を、ハットリが軽く押した。


「夏、どこ行ってたのっ……。心配したじゃないのっ……」

 母が嗚咽まじりに私をなじった。


 私はなんと言っていいのか分からず、泣きじゃくる母を見ているより他なかった。父は母にハンカチを差し出してから、やはり同じことを尋ねた。


「みんながお前を探してたんだぞ。どこに行っていたのか言いなさい」

「……」


 私の横にはまだハットリが立っていて、父も母も、担任もハットリを胡散臭そうに見ているのがありありと分かった。ハットリはそれらを少し困惑したような顔で受け止めていたけれど、決してこの場を去ろうとしなかった。逃げるように、そそくさと立ち去ることは。決して。母が涙にまみれヒステリックに叫んだ。


「あなた、一体なんなの? こんな時間まで中学生を連れまわして。どういうつもりなの!」

「君は一体夏とどういう関係なんだ」


 父までがハットリに詰め寄った時、私は彼らとハットリの間に踊り出て、

「友達だよ」

 と言い放った。


 私の言葉に全員が鸚鵡返しのように「友達?」と眉をひそめた。ハットリがどんな顔をしているのか、振り向くのが怖かった。こんなことにハットリを巻き込んでいる自分がいやで仕方なく、一刻も早くハットリを帰さなければと思った。


「ハットリは関係ないの。ハットリは迎えに来てくれただけだから」

「夏、この人誰なの? どこで知り合ったの?」

「どこって……」


 母の激昂はなみなみならず、収まる気配はまるでなかった。こちらが恐れおののいてしまうほど感情的に母は怒鳴った。


「どこの馬の骨とも分からない男に付いていくなんて、どういうつもりなの! 夏、なに考えてるの? なにかあったらどうするのよ」

「なにかってなによ……」


 私は母を睨んだ。父が母を制するように両肩に手を置いて、

「落ち着きなさい」

 と言った。


 すると、それまで馬鹿みたいに突っ立っていた担任が急に口を開いた。


「渡辺さん、お父さんもお母さんも心配してたんだから、謝りなさい」

「……」


 その言葉に私は担任のことも思い切り睨みつけた。もう我慢ならなかった。


「先生には関係ないでしょ」

「夏!」


 母が怒鳴った。私達のおかげで静かだった警察署内が俄かに騒然としていた。私はそんなことはおかまいなしに、眼鏡の奥の目を見開いている担任に食ってかかった。


「あんたなんかに教わることはなんにもないよ。私に学校は必要ない。少なくとも、あの教室に用はない。なによ、今さら! 知らないなんて言わせないわよ! 教室でなにが起きてるか、知らないはずないでしょう?! それとも誰かが死ぬまで無視するつもりなの?」

「夏、やめなさい」


 父が私を制した。私は父にも我慢ならなくて喚いた。


「なんでお父さんがここにいるのよ。新しい女と暮らしてるんでしょう? もう私達は他人なのに。何事もなかったような顔しないでよ!」


 興奮のあまり手足が震え、声は上ずっていた。私の叫ぶ声は、母のヒステリックな声は似ている。もう止められない。唖然とする大人達に囲まれ、暴れ出さないように半ば押さえられながら喉の奥から声を振り絞った。


「学校なんか行きたくないし、家にもいたくない。お父さんともお母さんとも暮らしたくない。みんなが勝手なことするなら、私だって好きに生きるよ。私にかまわないで!」


 そこまで言うと、父の横でわなわなと震えていた母がいきなり私の頬を平手で打った。


「やめなさいっ。落ち着きなさい」


 父が母を押さえ込んだ。私はじんと痛む頬を押さえながら母を鋭く睨んだ。すぐに涙が視界を霞ませ、なにも見えなくしてしまったけど、母を怒りに燃える目で睨みつづけた。


「それであんたはこんな見ず知らずの男と暮らそうっていうの? 冗談じゃないわよ! なにされるか分かってるの? あんたは世間を知らないのよ。騙されてるのよ」

「お母さんになにが分かるのよ、なんにも知らないくせに!」

「絶対に許しませんからね。来なさい、帰るわよ!」


 母は泣き喚きながら私の腕をぐいと引っ張った。けれど、私はがっちりと踏ん張ってその手を振り解こうともがき、また母に怒鳴った。


「やだ! 帰らない。帰るぐらいならっ…学校行くぐらいなら、死んだほうがまし!!」


 私がそう叫んだ次の瞬間だった。私達親子の攻防を見ていたハットリが、弾かれたようにがばっと私を背後から抱きしめた。まるで私を加勢するように、私を守るように。母は驚きのあまり口をぽかんと開け私を引っ張る手を解いた。が、すぐに我を忘れ激昂し、ハットリをびしびしと殴りつけた。


「離れなさい! うちの子に触らないで!」


 その母をみんなが止めようとし、母はそれを払いのけ泣きながらハットリに向かっていき、私はハットリの腕の中で泣き叫んだ。


「もう、やだ。もう、いやなのよ。どうして分かんないの? 戻りたくないの!」

「馬鹿なこと言わないで!」

「戻るぐらいなら、死ぬ!」


 私は再びその言葉を叫んだ。本気でそう思ったのだ。もう、元には戻れない。何事もなかったかのように暮らすには、私はもう色んなことを知ってしまった。


 すると無言で母に拳を振るわれていたハットリが、

「死ぬなんて言うな!」

 と怒鳴った。私をとらえていた両腕に力がこめられ、痛いぐらいだった。見るとハットリは泣いていた。


「そんなこと、簡単に言うな! 絶対に言うな! 死ぬなんて……死ぬなんて……」


 しまった。私は自分がとんでもないことを言ってしまったことに気付いた。私の言葉はただ感情的で、脅しのようでさえあったけれど、言ってはいけないものだった。少なくとも、ハットリにとっては最大の禁句だった。


「お前はなんにも分かってない。死ぬってことがどういうことか、分かってない。死ねばすべてが解決するとでも思ってんのか?」


 ハットリは大きな体に似つかわしくない、大粒の涙を後から後から零し、耐えられないといった風に時々しゃくりあげた。大人達はその様子を呆然と見ていた。


 母は拍子抜けしたように立ちすくみ、振り上げた拳を力なく降ろした。ハットリは涙をシャツの袖で拭くと、落ち着きを取り戻そうとするように何度も深く息を吸い込んだ。そして私からそっと離れると、


「こいつがなにを思ってるのか、なにを考えてるのか、聞いてやってください。本当のことを聞いて、本当のことを教えてやってください」

「……」

「怒るのはそれからでいいでしょう。だって、死ぬよりマシでしょう」

「ハットリ……」

「死なせたくないでしょう」


 私はひどい裏切りを目の前にしているような、とてつもない献身を味わっているような、なんとも複雑な気持ちでハットリを見つめた。


「君は本当に、一体、夏とどういう関係なんだ……?」


 父が依然として怪訝な顔で尋ねた。


「友達です」


 ハットリが、また、そう言った。そしてゆっくりと、深く頭を下げた。


「ご心配おかけして、申しわけありませんでした」


 ハットリの謝罪を見た私は、父と母に激しくすがった。


「ハットリは悪くないから! ハットリが助けてくれたの」

「夏……」

「ハットリを怒らないで。お願い。私にはもうハットリしかいないの。私、もう他になんにも持ってない。これ以上、なにもなくしたくない……!」


 父の手が私の肩に置かれ、私を引き寄せた。それが、この夜の決着だった。私の身柄は両親に引き渡された。


 私は父と母に連れられ、家に、あのロイヤルハイツに帰り、ハットリは無罪放免で帰された。父の車に乗せられる時、私は玄関に立っているハットリを振り返った。ハットリは真剣な目をしていた。私はハットリに深く頷いてみせた。私は死なないから、と。強い気持ちをこめて。それが伝わったかどうかは、分からない。ハットリは片手をあげ、そのままの姿勢で走り去る車を見送っていた。


 私はこれから両親と話さなければならないプレッシャーよりも、ハットリを傷つけたことばかりが気になって、今すぐにでも飛んでいってハットリに詫びたかった。ハットリを失いたくない。それが今の私のたった一つの願いだった。



 うちに帰ると食卓に父と母が並んで座った。私はこの光景を見るのが実はずいぶんと久しぶりなことに気付いた。離婚する前も、二人が揃って並ぶことは滅多になかった。それが、今、二人とも陰鬱とした面持ちで座ってコーヒーを啜っている。正面に私を置いて。


 夜明けの淡い光が窓から差し込んでいる。父は疲れたような顔をし、母は怒ったような顔をしていた。窓の外は美しい空の色。明けてゆき、透明で、濃い闇色からみずみずしい群青へと変わりつつあった。ハットリもこの空を見ているだろうか。それとも、疲れてもう寝てるだろうか。


 私も草臥れていたけれど、興奮していたせいか頭の芯が冴えすぎてまるで眠気を感じなかった。ただ、手足がだるく体が重かった。きっと部屋の空気が重いからだ。沈黙が足元へ落ちては溜まっていくのを感じる。俯いてカップをいじっていた母がため息まじりに、

「夏、ちゃんと説明してちょうだい……」

「……」

「なにがあったのか、教えてちょうだい」

 と、懇願するような調子で言った。


「夏、お父さんもお母さんも夏の味方なんだから。正直に話しなさい」

 と、父までが口を揃えた。


 ケリをつける。私はハットリの言葉を思い出し、大きく息を吸い込んだ。


「……私が本当のことを言ったら、お父さん達も私の質問に答えてくれる?」

 二人はちょっと当惑したように顔を見合わせたけれど、やがて頷いた。


「私、嫌われてるの。学校で」

「そんな、どうして……」


 母が口を挟みかけたのを父が制した。私は先を続けることにした。それがどんな結果を招くとも、やらなければいけないと信じて。


「理由は分からない。理由が本当にあるのかどうかも分からない。でも、そんなこと問題じゃないの。誰も口をきいてくれないし、教科書はびりびりにされるし、椅子がなくなったり、机の中をぶちまけられたり、トイレでリンチされるし、とてもまともな神経じゃいられない。学校はそれを黙殺してるわ。他の生徒もみんな、どんなことがあっても無視してる。これ以上、学校にいるのに耐えられないの。ハットリとは……学校サボってる時に偶然出会ったの。ハットリは美大生で、その友達とかとも仲良くなって、絵を描いたり音楽聴いたり、本読んだりしてた。ハットリたちは学校の子達より少なくとも大人だから、故意に私を傷つけたりしない。だから、私はあの人達といたいの……。ハットリ達は私になにも言わない。ただ、私を受け入れて、そこにいさせてくれる。私が私でいいんだってことを、教えてくれるの」


 母は信じられないといった顔で私を見ていた。母の化粧がはげて、ぐっと老けて見える。目の下の隈が浮き上がり、私は「ああ、お母さんこんなに年とっちゃって」と思わずにはおけなかった。


「でもね、夏、相手は大学生でしょ。よく知らない人のところに入り浸るなんて……」

「最初はみんな知らない人だよ。学校の子達だって、そうじゃない。学校が安全で、同い年だからみんなが仲良くなれるなんて思わないで。そんなことはありえないんだから」

「勉強はどうするの。高校受験もあるのよ」

「お母さんは私がボコにされても、それでも学校へ行けっていうの?」

「先生に相談したの?」

「先生がなんかしてくれると本気で思ってるの? だったら、お母さんがしてみればいいわ。私は先生にチクったってまたいじめられるだけだから。それに、学校が知らないとでも思ってるの? 学校は知ってて全部無視してるのよ。どうしてだと思う? 面倒だからよ。学校が民主的な、平等なところだって思ってるの? そんなわけないって、誰だって知ってるわ」


 あんまり単刀直入すぎるだろうか。母は今はもう怒りよりもうろたえているようだった。


「でも、それが本当なら学校に言う必要があるだろう。その上で転校を考えたらどうだ」

「お父さん、それ本気で言ってるの?」

「お前に暴力をふるう子達の親にもはっきり言おう。声を大きくすれば、きっと学校だって無視し続けることはできないはずだ」

「……そうね……。それも、いいかもね。でも、お父さん、そもそもなんでこんなことになったと思う?」


 思えば父が私のことでなにかしようとか、こんなにも私のことを話すのは初めてのような気がした。いつだって不在だった父が今になってここにいて、家族の話し合いに参加している。それは今更のようで滑稽で物悲しい。あまりにもうわっ滑りしていて、情けなく、せつなかった。


「お父さん達が離婚しなければ、私は転校しなくてもすんだし、こんな目にもあわなかった」


 言いながら私はまたしても泣けてきて、視界が涙で歪んだ。涙で父の顔も母の顔も見えなかった。けれど、かえってそれは好都合で、私は洟水を啜りながら淡々と述べた。


「お父さん、いつから他に女の人がいたの。お母さんはいつからそれを知ってたの。私達、幸せだった時もあったのにあれは一体なんだったの? どうしてダメになる前に私に言ってくれなかったの? 私が子供だから? でも、私に関係のない話じゃないんだよ」

「夏……」

「お母さん、どうして写真とか全部捨てちゃったの。お父さんのこと、そんなに嫌いで忘れたいの?。お父さん、どうして私を引き取らなかったの。どうやってそれを決めたの、二人で。どうして私の意見を聞いてくれなかったの?。やっぱり私が子供だから?」

「……」

「私達、一体なんだったの? 私は、お父さんとお母さんにとって、なんなの?」


 涙がいよいよ溢れて、頬を濡らした。しかし、泣きながらも心は静かに澄み渡り、私は二人の方をまっすぐに向いていた。太陽がすでに黄色い光を投げ、スズメがさえずり交わすのが間抜けなほど平和な音楽となって私達に降り注いでいた。父も母も無言で私を見つめていた。


「私が子供だから、分からないこともあるのは、分かってる。お父さん達にしか分からないこともあるのも、分かる。離婚しか道がなかったんなら、そうなんでしょ。お父さん達が自分で決めたことなら、仕方ないと思う。でも、だったら、私にも決めさせてよ。私のことは、私に決めさせてよ。それがわがままとか、屁理屈だって言うなら、私に返して」

「……返すってなにを」

「私の生活を返して。そうしたら、私は学校にもちゃんと行って勉強して、問題なんて起こさない」


 そんなことができるはずないのは分かっている。私は無理難題を、それこそ子供が駄々をこねているのと変わらないようなことを言っているだけだ。それでも父も母も何も言えないであろうことは分かっていた。言えるぐらいなら、こんなところまではこなかったのだから。私達はずいぶん遠くまで来てしまった。もう帰ることなどできないほど、遠くへ。それが身に染みて悲しくてたまらなかった。


「もし仮に私がいじめられることが私のせいだとしても、だからってそれを甘んじて受けることなんてできないよ。私にだって、生きる権利がある」


 私は立ち上がり、隣室へ入ってするりと障子を閉めた。部屋は昨夜出て行った時のままだった。たった一晩のことだったのだ……。そう思うと、私はなんだかおかしくなってきて服を脱ぎながら一人で苦く笑った。


 カーテンをひき、布団に潜り込んで目を閉じたけれどとてもすぐには眠れなかった。父と母のことが気になった。しばらくの間、二人は黙っていたけれど、次第に低い声で言葉を交わすようになり、その頃には私は瞼が重くなり父と母がぼそぼそとやりとりするのをBGMに、泥のように重い眠りにからめとられていった。


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