11話
翌日、私は例によってハットリの家へ行くと寝ていたハットリを揺り起こした。ハットリは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、
「なんだよ……」
とぼやいたけれど、私はおかまいなしに布団をひっぱがした。無精ひげとぼさぼさ頭のハットリは体をかきむしりながらのっそり起き上がると、煙草に火をつけた。まだ寝ぼけていて、私の姿も見えているんだかいないんだか定かではなかった。けれど、私はそれも無視してハットリの布団の前に座り、
「ハットリ、車かバイクある?」
「……ふん」
「行きたいところがあるの」
「……どこ」
「いいから、つきあってよ」
「……」
ハットリは煙草の灰を灰皿に落としながら、眩しそうに庭に目をやった。今日もいい天気。空がひたすら美しい。
「起きて顔洗ってきてよ」
「……」
ハットリは黙って煙草を消すと大きなあくびを一つした。
私は制服を持参してきた私服に着替え、ハットリが仕度をするのを縁側で座って待っていた。その間にハットリのスケッチブックから白い部分を破りとり、リカちゃんとコウゾウくんにあてて置手紙を書いた。手紙には昨日のことを詫び、ハットリと出かけてくる旨を簡単に記した。
「で、どこ行くって?」
振り向くとハットリがジーンズに着替えて立っていた。私はハットリに謝るべきか一瞬迷った。けれど、なんと言っていいのか分からず、代わりといってはなんだけれどにっこりと微笑んでみせた。ハットリは怪訝そうな顔をしたけれど、すぐに大きく伸びをして、
「いい天気だな」
と言った。
車かバイクと言ったのは私だけれど、ハットリがそんなものを本当に持っているとは思っていなかった。実際は電車でよかったし、ハットリがいてくれればそれでよかったのだ。が、ハットリが私を連れて行ったのは、駅前の商店街を通り抜けずっと南におりたところ。狭い路地に長屋作りの民家が並ぶ通りだった。
「車でいいんだろ」
ハットリは歩きながら言った。
「ハットリ、車あるの?」
「なんだよ、お前、知ってるから車って言ったんじゃないの?」
「知ってるって、なにを?」
「親父んとこに車あるから」
言われてみて、あ、そうかと思った。リカちゃんがハットリの実家のことを話していたのを思い出した。ハットリは下町の狭い路地をすたすたと歩き、途中で一度立ち止ると、通りの向こうを指差した。
「あっち行くとリカんち」
「……」
「で、こっちが俺んち」
「ハットリのお父さんってなにしてる人?」
「大工」
「……」
ハットリはまた歩き始めた。私は黙ってその後をついて行った。
小さなお好み焼き屋さんの前まで来ると、ハットリはちょっと待ってろと言い残し、その隣りの家の扉をがらがらと音を立てて開けた。私は思わず表札を見上げた。服部。そこがハットリの実家だった。戸締りをしないのが服部家の風習らしい。ハットリは吸い込まれるように家の奥へと消えた。私はお好み焼き屋の暖簾を眺め、きっとハットリやリカちゃんはここでお好み焼きを食べていたのだろうと思った。ハットリの弟も。
五分ほどでハットリは家から出てきた。
「行こう。……って、どこに行くんだっけ?」
ちゃりちゃりと車のキーを指にぶらさげて、今更のようにハットリは私を見下ろした。見上げるハットリの後頭部に太陽があって、眩しくて、私は思わず目を閉じた。もう夏なのだ。
「K市」
「……」
それは私が以前住んでいた街だった。ハットリは黙って私を連れて近くの駐車場に行き、横っ腹に擦り傷のついた白い軽自動車のロックをはずした。私はすんなりと助手席に乗り込みつつも、ほんの一瞬ハットリの家を振り返らずにはおけなかった。
ハットリはエンジンをかけ案外慣れた手つきでハンドルを操作しK市に向かう国道に出た。ラジオからヒットチャートが流れている。考えてみれば私とハットリがあの家から連れ立って出かけるのは初めてだったし、私服を着て車でなんてまるでデートのようだと思った。私はなにを話していいのか分からなくて、黙って車窓から流れる景色を見ていた。三十分も車を走らせるとハットリは、
「なんか話せよ」
と言った。
「……車、トラックかと思った。大工って言うから」
「あほか!」
ハットリはげらげらと声をあげて笑い出した。さも、おかしそうに。……本当にそう思ったんだけど……。冗談じゃなくて。でも、ハットリがあんまり笑うので、私も一緒に笑っておいた。
「それに、ハットリが車の運転できるとは思わなかった」
「じゃあ、なんで車とか言ったんだよ」
「……なんとなく」
「お前さあ、俺がなんにもできないと思ってるだろ」
「うん」
「馬鹿にすんなよ。俺は大抵のことはなんでもできるんだからな」
「例えば?」
「……料理も洗濯も一通りできるし、成績も悪くなかったぞ。剣道も初段だし」
「ふーん。他には? 他になにができるの?」
「……なにして欲しいんだよ」
ハットリはまっすぐに前を向いていたけれど、一瞬だけちらりとこちらを見た。私がハットリにして欲しいこと。それは一体なんだろうか。ハットリが私をかくまってくれ、ここにいさせてくれる。それ以上になにもないような気がしている。そう言うべきだろうか迷ってから、ぷいと窓の外を向いた。言えばまるで告白のようで気恥ずかしく、また、本当の気持ちを伝えるのは困難で、言葉を駆使するほど遠ざかってしまいそうで言えなかった。
K市へは三時間ほどで到着した。市内に入るともう懐かしくて、私はハットリに、
「ここらへんによく買い物とか来たんだよ」
とか、
「あ、あそこね、大きな公園になってて中にバラ園があるの」
と俄かにはしゃいだ気持ちで指差して言った。ハットリはそれらにいちいち相槌をうち、言われるままにハンドルを切った。どこに行こうとしているのかは問わなかった。しかし、以前通った学校のそばを通る時はちょっとせつない気持ちになった。
「ここね、前の学校。女子校だったの。私、今の学校で男の子がクラスに半分もいるのってすごいいいなーって思ったけど、でも、本当はそうでもないよね」
「……まあ確かに男と女がいるから問題も起きるけどな、その逆もあるんだよ」
「逆って?」
「誰かを好きになったりするだろ。世の中には男と女しかいないんだから」
「でもコウゾウくんは……」
「そういう特殊な例を持ち出すなよ」
「だって……」
「スタンダードな話をしてるんだよ」
トラブルを引き起こしたり、憎みあったりするその逆もそりゃああるだろうけれど、それだって永遠じゃないんだよ。私はそう言いたかった。男と女しかいないけれど、その全部のケースがスタンダードじゃないんだから。子供だましなこと言いやがって。ハットリは私をみくびっているのだろうか。そうでなければ、私を気遣ってくれているのだろうか。どちらも対等じゃないような気がして私はなんとはなしに悔しい気持ちになった。
向き合いたいのだ。一度でいいから。向き合ってみたいのだ。それは父や母にも言える。ハットリの指摘は当たっている。私は子供だからという理由で重要事項の過程から遠ざけられ、結果だけを押し付けられるのにうんざりしている。子供だからという理由で無視されるのにもげんなりしている。子供であることには間違いないけれど、それが私をないがしろにする理由になるなんて、大人は勝手だ。子供だから。子供のくせに。そうやって使い分けているなんて卑怯だ。なぜ大人は自分達もかつて子供だったということを忘れてしまうんだろう。
陽射しに明るい色を映えさせるレンガ塀の向こうの様子は今も鮮明に思い出せる。校庭の砂の感触も、中庭の橘の木も、食堂の自販機も確かな手ごたえで蘇らせることができる。けれど、今は遠い。果てしなく。
「制服ね、紺色のワンピースでパッチポケットがついててお嬢さんっぽかったのね。最近みんなスカート短いでしょ? でもワンピでミニにしちゃうとすごい変だからここではスカート短くなんてしてなかったよ」
「そういえば、リカも短いスカートだったな……」
「へえ?」
「あいつ、高校の時なんてどこの風俗嬢だよってぐらいケバい化粧でパンツが見えてしょうがないぐらいの短いスカートだった。まあ、所謂、ギャルってやつだな」
「意外~」
「あの頃のリカは史上最悪にブスだった」
「ひどい……」
「だって、おまえ、あんな下品な女見たら誰だってそう思うぞ。今度写真見せて貰えよ」
「じゃあ、ハットリはどんな高校生だったのよ」
言ってから、しまったと思った。慌ててハットリの顔を見たけれど、ハットリは信号を見つめていて静かな様子だった。悪いことを言った。私は後悔し、話題を変えようと通りに面したパン屋を指差し、
「あのパン屋さんね、ドラえもんパンってあってね、ドラえもんの顔になってるのね。でも、中身はクリームなんだよ。ドラえもんっていったらドラ焼きだから、あんこだと思うじゃない? ふつー。でも、クリームなの。邪道だよね!」
とわざと大きな明るい声を出した。信号が青に変わった。
「どこにでもいると思うけど、クラスに一人はよく喋るお調子者のうるさいヤツいるだろ。笑いとるのに毎日必死みたいなヤツ。それが俺だった」
「……ハットリが?」
「そう。意外?」
「……」
ガキ大将だったハットリ。お調子者だったハットリ。それは今目の前にいるハットリからは確かに想像もできない。私が知っているハットリは無口で、眉間に皺を刻んだ小難しい顔の男の人だから。けれど、リカちゃんやコウゾウくんやあの家に通ってくる人々のことを思えばそれはすぐに合点がいった。ハットリは好かれている。それは初めから感じていた。きっと人気者だったのだろう。私とちがって。
「だから、弟とよく比べられた」
「……」
「弟は頭よくて、絵が上手くて、色白で睫毛が長くて、小さい時はよく女の子と間違われた」
「……うん、リカちゃんもそう言ってた」
私はハットリのなにげないような語り口にひどく緊張し、なにか衝撃的な事実を聞かされるのではと身構えた。ハットリが初めて自分のことを話している。それは私への信頼に思えた。神妙な面持ちで膝の上の手のひらをしっかり握り、次の言葉に耳を傾けた。
ハットリが少しだけ窓を開けた。初夏の軽やかな風が舞い込んできた。甘やかな匂いのしそうな風。対向斜線を行く車のエンジン音と街のざわめきが細く開けた窓から流れ込んでくる。停滞する心の、煮詰まっていくいやな気持ちを溶かしだすように私達を包む。私はその喧騒をなぜか静かだと思った。明らかに街は賑わい、音に溢れているにも関わらず私は車中が急激に静まり返ったような気がした。ラジオからはヒットチャートが流れ続けているのに、それも耳に入らないぐらい二人の心は静かだった。
「母親はまだアキミツが生きてると思ってる」
「……」
「今も信じられないんだな」
「……」
「何度言っても理解できない。でも、あんまり言うと泣いたり暴れたり、自閉したりするから、今はもう言わないけど」
「じゃあ、お母さんの中では生きてるんだね」
「そういうことだな」
「……ハットリの中でも」
「俺?」
「……」
ハットリの中の、死んだ弟。ハットリが憑かれたように絵や彫刻に向かう姿。あれがハットリの弟ではないだろうか。私はそうであって欲しいと思った。失うということ。私はそれを知っている。二度と取り戻せないものを。でも、もし、大人達が言ったことが本当ならば、父は今でも私の父だし、私達が家族だった事実は変えられない。それは欺瞞かもしれないけれど、私がそう思っているなら真実になる。取り戻せる。今なら、素直に、そして真剣に願える。あんなに否定したかったことが、今の私には微かな光を放つ美しい希望のように思えた。死んでしまっても、永遠に失われないものがある。そこにいたということ。なにかを残したということ。私はハットリに手を伸ばした。ハットリの左手は大きく、固かった。
「上手く言えないけど、ハットリの中で弟さんは生きてて、ハットリと一緒に絵を描いたりしてると思うの。だって、ハットリは生きてるから」
ハットリは私の手を握り返しながら、
「……そうだな」
と頷いた。
「そうだよな」
と、何度も。
ハットリが真剣な顔で、唇を一文字に固く結んでいるので、私はハットリが泣くのではないかと妙にどぎまぎしてしまった。けれどハットリは泣くことはなく、うんと小さな声で「ありがとう」と呟いた。
車は丘の上にある住宅街に差し掛かり、緩い坂道を登り始めた。懐かしい坂道だった。思い出に満ちた私の街。私は絶えずハットリに道順を指示した。そして、丘の中腹あたりにくると、白壁の少女趣味な一軒屋を示し、
「あそこで止めて」
と頼んだ。白壁に赤茶色の屋根。アイアンレースの門扉。その奥に続く庭。丹精したつるバラが二階の窓に届いている。今が盛りと白い花が咲き誇り、その眺めの美しさにハットリさえも嘆声をあげた。ハットリは道路わきに車を止めた。
私は車を降りると、その家を見上げた。ハットリも車を降り、煙草を取り出して火をつけた。静かな住宅街の真昼。道行く人もなく、私達はしばし無言で車にもたれて立っていた。
私はこの街に思い出を持っている。それはまだほんの十数年のものだけれど、それが今の私の持てるすべてだった。本当に、文字通りすべてだった。なのに、それをゼロにして私はどうやって生きたらいいのか分からなかった。
「ここね、私が前住んでた家」
そう言うとハットリは驚いて私を見た。
「私、名前変わって出席番号が一番最後になったけど、今まで常に一番だったんだよ」
「…相沢?」
ハットリが表札を読み上げた。
「そう。相沢夏。渡辺って名字にはまだ慣れてないから、名字で呼ばれてもとっさに返事できないんだよね。なんとなく違和感感じるっていうかさ」
ハットリは煙草を丹念に消してから、車の中の灰皿に捨てた。私はバラの花を見上げながら続けた。
「おばあちゃんのピアノがあってね。すごい古いピアノで鍵盤も黄ばんでたけど、すごくいい音が出るの。柔らかい独特の音なの。今はもうないかもしれないけど」
「ないって?」
「お父さんが捨てたかもしれないでしょ?」
「聞いてみたのか?」
「ううん。だって、お父さん、学校のこととか受験のことしか言わないんだもん。新しい学校はどうだとか、勉強してるかとか。そればっか。それも、たまーに、だしね」
「ふうん……」
「一回聴かせてあげたかったなあ。ハットリにも。あのピアノでクリス・コナーとか弾いたら絶対かっこいいのに」
「……」
私達はまたしばらく黙って家を見上げた。ここが私の家だった。でも、今はもうちがう。ここにはかつて私の父だった人と、新しい女の人が住んでいる。もしかしたら、やがて家族が増えるかもしれない。その子が私の代わりにこの家で暮らすだろう。私の家は完全に失われるだろう。それでも、私がここに暮らしたことに変わりはない。そして私は生きていくのだろう。この先の人生を。見知らぬ街で。新しい記憶を塗り重ねながら。
ふと見上げたハットリとはたと目があった。
「行こうか」
「もういいのか」
「うん。帰ろう」
私が帰る場所。そこにハットリがいてほしい。私は心からそう思った。さようなら。最後にもう一度だけ振り返り、生まれ育った家を目に焼きつけた。
ハットリの家に戻ると、リカちゃんが掃除機をかけていて、私達を見ると、
「おかえり」
と笑った。
「ただいま」
私は狂おしいほどの愛しさを噛みしめながら、縁側に座った。
「ケーキあるよー」
リカちゃんが掃除機を片付けながら言った。私はお茶をいれるべく台所へいき、薬缶を火にかけた。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと」
ハットリが答える。
「な?」
「うん、ちょっとね」
二人で目配せしあうと、リカちゃんは拗ねたように身をよじって、
「なによー、秘密なのー?」
と訴えた。
「秘密だよ」
私は唇の端で少し笑った。
秘密が嬉しかった。ハットリと何かを共感しあったことが、胸にほんのりと灯りをともすようで泣きたくなるほどだった。確かなものなど何もないのだと思っていたけれど、私は今確かにハットリと分かり合っている。それは当然目に見えないし、触れることもできないけれどものすごい存在感を持って二人の間に、またはそれぞれの心にどかんと置かれているようだった。
それから三人でケーキを食べ、夕方までの時間を過ごした。私はまたレコードを聴きながら頭の中でピアノを弾いた。頭の中で鳴るピアノは、いつでも私のピアノの音だった。