10話
翌日、リカちゃんは午後になってからやって来た。私は自分の言い草を思い出し恥ずかしく、緊張で固くなりながら「昨日はごめんね……」と謝った。リカちゃんは少し黙って、うなだれる私を見つめていた。横からコウゾウくんが加勢するように、
「夏も悪気はないんだから、怒んないであげてよ」
と言ってくれた。悪気がないということ。それが一番性質が悪いというのを、他ならぬ私が知っていた。だから、リカちゃんが怒っても無理はないと思った。私はこんな形で彼らを失うかもしれない危機に泣き出しそうだった。
リカちゃんはベッドに腰かけると
「……私、彼と別れると思う」
と呟いた。リカちゃんは昨夜の完璧だった化粧も美しさも魔法がとけたように失っていた。不自然に固まったマスカラや目の下の隈が遊びつかれた様相を呈し、突如歳をとったような疲れが滲み出していた。
「今すぐじゃないけど。でも、きっと別れると思う」
「……私のせい……?」
「ちがうよ。そんなわけないじゃない。いやあね」
リカちゃんは微かに微笑んだ。
「あの人も子供いるんだよね。勿論会ったことないけどさ……」
「……」
「私んちって、両親がすっごく仲良くて今だに恥ずかしいぐらいラブラブなのね。家族がすごく仲良しで、私、子供の頃から親の愛情を疑ったことなんてなかった。それが当たり前だったし、みんなもそうだと思ってた。家族ってそういうもので、ずっとそうやって続くんだと思ってた。それなのに、私が人んちの家庭を壊す可能性を持ってるなんて、それは私の家族に対してもひどいことだと思う」
私とコウゾウくんは黙っているしかなかった。リカちゃんは今にも泣きそうな顔をしていた。
「あの人のことは好きだけど……」
私の胸はずきずきと疼いた。血が噴き出るような錯覚を覚え、無意識に私は左手で胸のあたりを押さえた。父のことを思わずにはおけなかった。
「私は人のものをとっていいなんて、親から教わってない。誰かを傷つけてまで自分の幸せを追求しろなんて、教わってないもの」
「リカちゃん……」
「どうして、そんな単純な、当たり前のことを忘れてたんだろう……。夏に会わなかったら、私、ずっと思い出せなかったかもしれない。好きだからって、すべてが許されるわけじゃないもんね。恋愛って、流されちゃう部分もあるんだよね……。それも自分の弱さなんだけど」
父も弱い人だったのだろうか。家庭を顧みなかったことも、壊してしまったことも心弱さ故だったのだろうか。リカちゃんの微笑がひどく痛ましく、私はもうそれ以上見ていることはできなかった。
いつか大人になった時、私は父に尋ねることができるだろうか。母に確かめることができるだろうか。私達が辿った道について。そして彼らを許す日がくるのだろうか。それならば私は今すぐに大人になりたい。リカちゃんは小さな声で「ごめんね」と呟いた。私は無言で首を振った。何も言えるはずがなかった。
それから私達は揃ってハットリのところへ出かけた。けれど、ハットリは留守で、にも関わらず開け放された縁側のガラス戸に私は呆れてしまった。
「このうちには戸締りとか防犯ってものがないの?」
「ないだろうねえ。てゆーか、盗るものなんてなんにもないと思うけど」
「そういう問題じゃないと思う」
勝手知ったる他人の家。私達は縁側からいつものように上がりこみ、リカちゃんのいれてくれたお茶を飲みながらハットリの帰りを待った。ハットリに用があるわけではないのだけれど、なぜか私達はここに自然と集まってしまう。お茶を飲んだり、本を読んだりして過ごす。リカちゃんは絵を描いたり、コウゾウくんはレポートをしたりしている。私はそれを見ている。ここにはいつも穏やかな優しい時間だけが流れている。でも、私は時々だけれどその中に潜む暗く淀んだものを感じることがあった。
それぞれが自由に過ごし、仲良く、口を開けば冗談ばかりがついてでて明るい。けれどふとした拍子に彼らは黙り込む。物悲しい空気をにじませながら。そして、どういうわけか本を読んだり、ごろごろしている私を見るのだ。静かに、せつなそうに。最初、私は自分が憐れまれているのかと思った。が、どうやら違うらしいことが次第に分かってきた。彼らは私を見ているようで、見ていないのだ。制服の私に他の誰かを重ねている。そのぐらい遠い目なのだ。私を見ている視線にぶつかると、彼らは一様にちょっと困った顔で笑う。「なに?」と私が問うと「なんでもない」と答える。なんでもないことはない。本当は。でも、彼らがそう言うならそうなのだろう。私は知らん顔で子供の手慰みのように本をめくり、悪戯描きに没頭するふりをした。それを彼らが望んでいるように感じていた。
ハットリはいつまでたっても戻ってこなかった。私はハットリのレコードを聴きながら、今やすっかり覚えてしまったクリス・コナーを歌った。
「ハットリ、遅いね。どこ行ったんだろうね」
リカちゃんはパステルで手を汚しながら、ちょっと思案するような顔で私を振り向いた。
「ハットリ、病院だと思う」
「え? どこが悪いの?」
「じゃなくて、お見舞い」
「誰の?」
「……お母さんの」
私はその言葉にぎくりとした。コウゾウくんが咄嗟に「ちょっと」と口を挟もうとしたけれど、リカちゃんはこちらに向き直りながら静かに、しかしきっぱりと強く言った。
「隠してるのも不自然じゃない?」
「それは、そうだけど」
コウゾウくんの戸惑う視線が部屋を彷徨う。
「ハットリは口止めしたわけじゃないし」
「……」
どうやらそれはひどく真剣で重要なことらしく、そんな大問題に触れていいのかどうか分からず、
「あのう……、私が聞いてまずいことなら、いいから」
私は床にぺたりと座ったままで、コウゾウくんは縁側のガラス障子にもたれた姿勢で、リカちゃんの言葉を見守った。リカちゃんは丸いスツールに腰掛けこちらを向き直り、大きく息を吸い込んだ。
「ハットリのお母さんは心の病気で入院してるの」
「……」
「私達誰も夏に隠してるとかじゃないのよ。それは信じて欲しいの。ちょっと言いにくいことだから、言わなかっただけで。だから、私達が夏を好きじゃないとか思わないで欲しいの。いい?」
私は真剣に頷いて返した。
「……どうしてこの家にハットリが一人で住んでるのかとか、色々疑問はあると思うの」
「……それはハットリが言いたくないみたいだったから……」
「うん。ハットリの口からは言いにくいと思う。だから、私が言うね」
庭を吹き抜けていく風が初夏の空気を運ぶ。爽やかで、甘い。ハットリが植えたという朝顔のつるがいつの間にかずいぶんと伸びている。私は緊張で固くなり、膝に置いた手のひらを握り締めてリカちゃんを見つめた。リカちゃんは瞬きもしないで私を見つめ返し、ゆっくりと話し始めた。
「この家はね、もともとハットリのおじいちゃんの家なの。ハットリの実家は商店街を抜けて、ずっと南に下りたとこにあるの。私とハットリは同じ町内で、前も言ったけど、私とコウゾウとハットリの弟が同じ年だったの」
「……なんで過去形なの」
「……ハットリの弟は、アキミツっていって、おっとりしてて、優しくて、女の子みたいでね。小さい時から絵とか工作が抜群に上手かった。コンクールとかで何回も賞をとったりしたんだよ。ふふふ。ハットリとは兄弟仲良かったけど、性格は正反対だった。アキミツが大人しいのに対して、ハットリは超悪ガキで、町中から要注意人物って言われてた。ずっと。でも、ハットリが悪いヤツだったわけじゃないんだよ。いわゆるガキ大将だっただけ。そういう子ってどこにでもいるでしょ」
「……」
「アキミツは本当に絵が好きで、中学で美術部に入ったの。夏が今行ってる二中ね。アキミツはその頃になるともう天才なんじゃないかってぐらい上達して、大きなコンクールで入賞するようになってた。ハットリとえらい違いだってみんな言ってたわ」
「ハットリは絵を描かなかったの?」
「うん。ハットリはその頃高校生で、剣道部だった。絵なんて描くタイプじゃなかったの」
「じゃあ、どうして……」
「アキミツは本当に大人しい子で、顔も女の子みたいだった。絵ばっかり描いて、クラスでも目立たないような無口な子だった。だからっていうのも変だけど、だんだんアキミツはいじめられるようになってね」
いじめ。その言葉に私はどきっとした。心臓がぎゅっと締め付けられ、冷たい汗が滲んだ。リカちゃんはせつなそうに眉をひそめ、先を続けた。
「最初は悪ふざけみたいだったのが、だんだんひどくなって……。本当に、ひどくなって……。中三の時に、アキミツは自殺しちゃったの」
見開かれていたリカちゃんの目に涙が膨れ上がり、今にも零れ落ちそうだった。コウゾウくんは頭を抱えるようにし、膝の間に顔を埋めていた。たくましい肩が小刻みに震えていた。
「ごめんね。隠してたわけじゃないのよ。ただ、言えなくて」
「……」
「……ハットリのうちでは、いじめのことなんて知らなかったのね。アキミツは優しい子だったから、心配させたくなくて言えなかったんだと思う。ショックでハットリのお母さんは心の病気になってしまって、それからずっと病院を出たり入ったりしてるの」
リカちゃんは汚れた手で涙を拭った。コウゾウくんの漏らす微かな嗚咽がクリス・コナーのレコードにかぶさる。
「ハットリもすごいショック受けてね……」
「それで高校辞めたの……? 出席日数が足りなくてって言ってたけど」
「……そう。ハットリ、ひきこもりになってダブっちゃって。結局二度と学校には行かずに中退したの」
私は衝撃のあまり呆然と二人の涙を見ていた。弟がいじめを苦に自殺……? それではハットリは一体私をどんな目で見ているのだろう。ハットリだけじゃない。リカちゃんも、コウゾウくんも私をどんな目で見ているというのか。
「お母さんが入院して、家がめちゃくちゃになって。見かねたおじいちゃんがハットリをここに連れて来たの。ハットリが絵を描くようになったのは、それから。なんでかは分かんない。アキミツの代わりのつもりなのか、なんなのか……。しばらくひきこもって絵ばっかり描いて、一年かけて大検とって、今の大学に入ったの」
「おじいちゃんとかお父さんは…?」
「お父さんは実家にいるよ。おじいちゃんは、去年亡くなったの」
この古びた家にはその人達の面影はない。故意にそうしているのか、私が気付いていないだけなのか。分からない。少なくとも、ハットリの弟に関するようなものはない。あるとしたら、あの夥しい数の絵。あの中にあるのだろうか。ハットリはその思い出をなぞるように、絵を描き、彫刻をし、工作をしているのだろうか。弟を救えなかった罪悪感にまみれて。それでは私はなんなのだろう。彼らにとって、私を庇護することは懺悔のようなものなのだろうか。
コウゾウくんが涙を拭き、真っ赤な目をして言った。
「夏がここに来たのも、なにかの運命かもしれないよ。言ったでしょ? アキミツと夏、似てるって」
無理に微笑もうとする姿が痛々しかった。二人の気持ちが分からないわけではなかった。罪悪感も、痛みも、後悔も。それは私がかつて誰も助けなかったのと同じだ。私が今受けているいじめがその報いであるかのように思うのと同じこと。にも関わらず、私は言わずにおけなかった。
「これが運命ならひどすぎるよ……」
「夏……」
「離婚さえしなかったら、転校せずにすんだし、そしたらこんな目にあうこともなかった。友達とも別れなくてよかったし、ピアノもやめなくてよかったのに。運命なんて、そんなの勝手だよ。運命じゃない。だって、全部、人の手によるものじゃない。それでもこれが運命だっていうんなら、私はこんな運命いらない」
突如、玉島さん達に受けた屈辱的な暴行の数々が思い出され吐きそうになった。離婚さえしなければ、転校さえしなければ、こんな目にあうことはなかった。それはまぎれもない事実だ。
「じゃあ、そう言えよ」
泣き出す寸前のところで背中で声がして振り返ると、庭にいつの間にかハットリが立っていた。
「そう思うなら、母親にそう言えばいい。親父にもそう言えばいい」
ハットリは険しい表情でまっすぐに私を見ていた。私はハットリが怒っているのかとたちまち怖くなって拳を硬く握り締めた。ハットリは私達の話をどこから聞いていたんだろうか。リカちゃんもコウゾウくんも泣き濡れた目を慌ててこすった。
日が傾き始め、西日が庭をオレンジに染め上げている。ハットリの影が長く伸び、物干しの影と交錯する。風が凪いでいる。ハットリは固い声で、
「嘘つかないで、思ったことを言えばいいんだよ。離婚が許せなかったことも、転校したくなかったことも、ピアノのことも。今の学校のことも。全部」
「……だって、そんなの言えるわけないじゃない」
「なんで言えないんだよ。言わないと分かんないだろ」
「じゃあ、言えばなんとかなるの?」
「……なんとか、って、なんだよ」
私はだんだん感情的になり、まるでハットリに歯向かうように身を乗り出した。
「言えば離婚しなかったの? 言えば転校しないですんだの? 言えばいじめにあわなくて、言えば助けてくれるの?!」
「言わなきゃ助けられねえだろうが!」
ハットリがいきなり大きな声で怒鳴った。私はびくっと体をすくめた。コウゾウくんが私達の間を牽制するように割って入り、
「ハットリ、怒鳴らなくてもいいでしょ」
となだめようとした。リカちゃんも私のそばで、
「落ち着いてよ、二人とも」
と肩を抱いた。
私とハットリが喧嘩する理由なんてないのに、この時なぜか私達は激しい火花を散らしあっていた。まるで互いの心にある痛みや苦しみをぶつけあうように、心と心を擦り合わせるように睨みあった。しかし腹立たしさや憎しみはなかった。むしろ、私達は互いのことが分かりすぎるほど分かって、こんな形で心を重ね合わせようとしていた。
リカちゃん達はおろおろしながら私達の睨み合いを止めようとした。私はハットリに飛び掛っていきたいと思い、同時にハットリになら叩かれてもいいと思った。力ではなく、心で。ハットリは大股に庭を突っ切り、靴を脱ぎ捨てて部屋に上がるとずかずかと居間の奥へ消えてしまった。
「ハットリ! ちょっと!」
コウゾウくんが後を追って中へ入って行く。リカちゃんは、
「気にしなくていいよ。夏は悪くないから。ハットリが子供なんだよ。まったく。なに考えてるんだろうね」
と忌々しげに言ってのけた。レコードは終わり、すっかり静かになった庭に夕闇がせまっている。影は一層濃さを増し、ハットリが乱暴に脱いでいったスニーカーをぽつんと浮かび上がらせていた。あの時、私のローファーもこんな風に転がっていた。彼女達が靴をこの庭に投げ込まなければ、出会うこともなかった。
「……リカちゃん。運命って、なに?」
「……」
「私が引っ越してきて、いじめに合うのも運命なの?」
「夏……」
「それで、リカちゃんやコウゾウくんや、ハットリに出会ったのも、同じ運命なの?」
「……」
「それじゃあ、ハットリの弟が自殺したことも、運命だっていうの?」
ハットリは奥でコウゾウくんと言い合っている様子だった。が、私は何も言うことはなく、立ち上がると、
「帰る」
と呟き、引き止めようとするリカちゃんをよそに庭から出て行った。リカちゃんが通りに飛び出し、振り向きもしないですたすたと歩いていく私の背に一生懸命、
「夏、待ってるから。また明日ね! 絶対来てよ?!」
と叫んでいた。
彼らの優しさと悲しさのピースが全部ぱちりと埋まって一枚のパズルを完成させたような気がしていた。そのピースの一かけに自分も含まれているのだ。今、すべてが符号した。私が彼らを求めたのと同じく、彼らもまた私を求めていたのだ。私のような存在を。即ち、死んでしまった人の代わりを。そう思うと、ぽろりと一滴の涙が頬を伝った。母の待つロイヤルハイツに着く頃には、空はすっかり群青に染まっていた。
「もしもし、山田くん?」
「渡辺さん? どうしたの、なんかあった?」
私はその夜山田くんの携帯電話に電話をかけた。襖を締め切り、ひそひそと小さな声で、
「あの、ちょっと、聞きたいことがあるんだけど……」
「うん?」
電話で話す山田くんは教室の声よりも、低く落ち着いている。
「山田くんのお兄さんとコウゾウくんが同級生って言ったよね」
「うん」
「その、同級生の中で、中三の時に自殺した人がいたって……本当?」
「それ、斎藤さんから聞いたの?」
「…や、うん、まあ…」
私はちょっと言いよどんだ。山田くんは少し黙ってから、静かな調子で、
「いたよ」
と答えた。ああ……と私は額に手を当てうなだれた。リカちゃんが嘘を言ったとは思ってないけれど、私はなぜか確かめたいと思い、尋ねてから、激しく後悔した。聞くべきではなかった。事実に事実を重ねて、重みを増やすことなどする必要はなかった。ずしりと圧し掛かる言葉に押し潰されそうだった。
山田くんは淡々と教えてくれた。
「当時、ニュースになったから。俺もよく覚えてる。いじめが原因だったらしいね。飛び降り。俺は会ったことないけど……」
「……そう」
「なんでそんなこと聞くの?」
「……別に深い意味はないんだけど……」
「渡辺さん、もう学校来ないつもりだったりする?」
私はなんと答えていいか分からなかった。行きたくない。二度と行きたくない。でも、山田くんにそれを言うのが悪いような気がした。なぜなら、山田くんも独裁の犠牲者だと思ったから。
「伴奏はどうすんの」
「私がやらなかったら、音楽の先生が弾いてくれるよ」
「それでいいの?」
「いいのよ」
「……俺、渡辺さんが伴奏してくれるといいと思ってたよ」
「ごめん」
「いや、そうじゃなくて……。楽譜見てたとき、渡辺さん嬉しそうだったから」
「……」
私は図星をさされたようにぎくりとした。
「あのさ、俺になんかできることない?」
「……」
「本当にずっと学校に来ないつもり?」
私が黙っていると、山田くんは小さなため息をついた。
「あのさ、ちょっとだけ、今から会えない?」
「……今から?」
「渡辺さんちの下まで行くよ」
山田くんは私が返事をするより早く、電話をいきなり切ってしまった。あの、おとなしそうな山田くんとは思えない行動だった。
学校に来ないつもりかと山田くんは尋ねたけれど、「来ない」のではなく「行けない」のだ。そんなことは山田くんが一番分かっているはずなのに。
私はそっと玄関を出てロイヤルハイツの階段を下り、申し訳程度の前庭に置かれたベンチに腰掛けた。街灯に蛾が群れているのを見上げ、温い空気で肌が湿り気を帯びるのを感じた。
私はハットリのことを考えていた。私がハットリになにも言わなかったこととハットリが何も言えなかったことは同じ成分でできている。私はハットリの弟など知るわけはないのだけれど、その気持ちがよく分かると思った。恐らくは、他の誰よりも。そして、そのことをハットリは知っているのだろう。ハットリが私から聞きたいのは「私の言葉」ではなく「弟の言葉」の代弁なのかもしれない。
十分ほど座っていただろうか、通りの向こうから自転車に乗って山田くんがやってきたのが見えた。私は立ち上がると、なんとなく気まずくて、心もとなくてジーンズの尻ポケットに片手を差し入れる格好で山田くんを待った。こうして二人で会っているのをまた誰かに見られでもしたら、その時こそ私は死ななくてはいけないかもしれない。スリルではなく、純粋な恐怖と絶望で眩暈がする。
「急にごめん」
山田くんは私の目の前で自転車を下りると、まずそう言って詫びた。私はなんと答えていいか分からなくて、曖昧に頷いた。思えば、山田くんだって被害者なのだ。彼にも教室での自由は許されていない。
「一応、授業のプリントとノート、コピってきた」
「ありがとう……」
「渡辺さん、さあ」
「なに?」
私は山田くんの丁寧な字で書かれたノートのコピーをぱらぱらとめくりながら、聞き返した。
「俺のせいで、ごめんな」
「えっ」
私は驚いて顔をあげた。すると、山田くんの真剣な目にぶつかり、逸らせなくなってしまった。山田くんは思いつめた顔で、さらに続けた。
「玉島たちのこと」
「……」
「渡辺さん、学校来なよ」
「……行けると思う?」
「来なきゃ負けだよ」
「負けって、なに? ううん、そもそも勝ちがなんなのか分かんないわ。私は勝ちも負けも望んでなかった。初めから、なにも望んでなかったわ。それなのに、学校は弱者と強者を分けてしまう。勝手に勝ち負けを決めてしまう。もう、うんざりよ」
「ピアノは?」
「だから、私じゃなくてもいいんだってば」
いっそ笑ってしまおうかと思った。こんな議論も深刻な空気も、洒落にしてしまいたかった。勘弁してくれと、もう放っておいてくれと、言えたらどんなに楽だろう。でも、山田くんはそんな弱さを許してはくれなかった。
眼鏡の奥の目を強く光らせながら、私を見下ろす視線できっぱりと言い放った。
「渡辺さんに弾いてほしいんだよ」
「どうしてそこまでこだわるの」
「好きだから」
「えっ」
私の頓狂な声と、山田くんの体が素早く動くのはまったく同時だった。
それは本当に一瞬の出来事で、私にはなにが起きたのか咄嗟には判断できなかった。山田くんは大きな体をさっとかがめて、それと同時に右手で私の肩を捉えて実に的確な動作で、とても本当とは思えないほどの早技で私の唇にキスをした。
唇が触れたかと思った次の瞬間には、山田くんは飛び退るように一歩後退し、肩に置かれた手もまるで錯覚のように彼の体の横にだらりとぶら下がっていた。戸惑うよりもなにが起きたのか把握できなくて、私は呆然と立ち尽くしていた。
「俺が守るから。だから、来なよ」
「……山田くん……」
「……ごめん」
「なんで、ごめん?」
「いや……」
「……」
「とにかく、もし、来る気になったら電話して。迎えに来るから」
「本気なの?」
「冗談だと思ってんの?」
「……そうじゃないけど……」
けど。けど。けど。それ以上は、言わずにおいた。
守るって一体どうやって守るんだろう。もし、彼になにかできるなら、どうして未然に防いではくれなかったんだろう。いや、彼のせいではない。でも、そう思わずにはおけない。聞くんじゃなかった……。不意に苦い気持ちが波のように押し寄せてきて、山田くんが触れた唇が途端に震えるような錯覚を覚えた。
自転車で再び走り去る山田くんを見つめながら、私は、自分も含めて山田くんもなんて力ない子供なんだろうかと悲しくてたまらなくなった。それでも彼の気持ちだけは、その心意気だけは、自分とくらべたら、ずっと大人かもしれない。もしかしたら、コウゾウくんやリカちゃん、それにハットリよりも、ずっと。あのまっすぐさがうつればいいのに。病いのように、私にもうつればいい。